- 1973年名古屋市長選挙
1973年4月22日執行。社会党と共産党の両党、愛知県地方労働組合評議会(愛労評)の支援を受けて立候補。4選を狙う現職の杉戸清は超党派の市民党を名乗る「フレッシュ名古屋市民会議」を母体として選挙に臨んだが、田中角栄首相が遊説に回るなど自民党から強力なバックアップを受けた。加えて、民社党も反共と組織防衛の立場から杉戸を推した。公明党は中央の方針と地元の方針が相容れず、自主投票となった[4]。
接戦が予想される中、南区、港区など公害に苦しむ臨海工業地帯で圧倒的な強さを見せた本山が杉戸をかわし、初当選を果たした。この結果、当時の6大政令指定都市の首長が全て革新系になった。投票率が前回を18%近く上回ったこと、前年12月の総選挙で名古屋市内の自民党衆議院議員(旧愛知1区、旧愛知6区)が全滅したことなども本山の当選の要因として挙げられている[12]。
※当日有権者数:1,374,875人 最終投票率:61.42%(前回比:+17.77pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
本山政雄 | 62 | 無所属 | 新 | 421,266票 | 50.09% | 日本社会党・日本共産党 |
杉戸清 | 71 | 無所属 | 現 | 416,512票 | 49.52% | |
岩田信一 | 37 | レインボー革命市長選団 | 新 | 1,560票 | 0.19% | |
高田がん | 42 | 反共全国遊説隊 | 新 | 894票 | 0.11% | |
宇野忠康 | 32 | 大革新宇宙党 | 新 | 805票 | 0.10% | |
- 1977年名古屋市長選挙
1977年4月24日執行。支持母体は1期と同じ。対抗馬として自民、公明、民社3党は教育長だった日比野暁美[注 1]を擁立。2期目は「何が何でも当選したかった」と後日語っている。
※当日有権者数:1,386,163人 最終投票率:61.81%(前回比:+0.39pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
本山政雄 | 66 | 無所属 | 現 | 460,847票 | 53.98% | 日本社会党・日本共産党 |
日比野暁美 | 59 | 無所属 | 新 | 389,612票 | 45.64% | |
岡本鉄蔵 | 49 | 日の丸党 | 新 | 3,276票 | 0.38% | |
- 1981年名古屋市長選挙
1981年4月26日執行。3期目は一転して、名古屋市会の全会派が推薦する異例の展開となった。とはいえ、実際には自民、社会、公明、民社、社民連で構成するグループと共産党を中心としたグループが別々に推薦している形となり、現在の「共産党を除くオール与党」体制をその後残すことになった。
※当日有権者数:1,410,519人 最終投票率:26.26%(前回比:−35.55pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
本山政雄 | 70 | 無所属 | 現 | 280,826票 | 77.42% | 自由民主党・日本社会党・公明党・民社党・日本共産党・社会民主連合 |
竹内義次 | 32 | 無所属 | 新 | 63,533票 | 17.52% | |
前川逸男 | 49 | 政治をよくする会 | 新 | 8,333票 | 2.30% | |
安藤耕生 | 69 | 無所属 | 新 | 7,190票 | 1.98% | |
内田弘幸 | 26 | 皇道維新連盟 | 新 | 2,842票 | 0.78% | |
- 浦辺史、本山政雄 『主婦の生活設計』医歯薬出版、1959年。
- 本山政雄 『学校 地域 行政』風媒社、1969年。
- 本山政雄 『教育裁判と教育行政の理論』勁草書房、1981年1月。
- 本山政雄 『ゆとりとうるおいを求めて』ゆとりとうるおいを求めて本山政雄まちづくりを語る刊行委員会、1981年。
- 本山政雄 『心かよう緑の町を』風媒社、1999年4月30日。
- ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、238頁。
- ^ a b c 本山政雄 『心かよう緑の町を』風媒社、1999年4月30日、25-32頁。
- ^ a b 本山政雄 『心かよう緑の町を』風媒社、1999年4月30日、33-36頁。
- ^ a b c 『中日新聞』1973年4月23日付朝刊、1面、「名古屋市長に革新・本山氏 太平洋ベルト地帯 大都市から〝保守〟消える」。
- ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第十六章” (PDF). 2007年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月17日閲覧。
- ^ 本山政雄 『心かよう緑の町を』風媒社、1999年4月30日、60-62頁。
- ^ 成瀬昇、宮田鈴枝ほか 『草の根から革新を』愛知書房、1992年。
- ^ 『中日新聞』1977年8月25日付朝刊、1面、「88年五輪を名古屋へ 仲谷愛知県知事が提唱」。
- ^ 『中日新聞』1994年5月19日付朝刊、中部政治面、5面、「衝撃、失望...あれから13年 検証 ナゴヤ五輪の招致失敗 教訓は生かせるのか? 中部の大事業 新空港や愛知万博、ボストン美術館...」。
- ^ 本山政雄 『心かよう緑の町を』風媒社、1999年4月30日、125-126頁。
- ^ “本山政雄 (もとやま まさお)”. コトバンク. 2019年9月22日閲覧。
- ^ 『中日新聞』1973年4月23日付朝刊、1面、「大量動員の勝利 争えぬ〝時の流れ〟も」。
- ^ 坂井克彦「乱戦の断面 ダブル選挙 '80 疑心暗鬼 愛知三区の江崎、海部両氏」 『中日新聞』1980年5月25日付朝刊、11版、22面。