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松永安左エ門 - Wikipedia

松永まつながやすしひだりもん

日本にっぽん実業じつぎょう茶人ちゃじん

松永まつなが やすしひだりもん松永まつなが あん左衛門さえもんきゅう字体じたいまつ󠄁えい あん左衞門さえもん、まつなが やすざえもん、1875ねん明治めいじ8ねん12月1にち - 1971ねん昭和しょうわ46ねん6月16にち)は、明治めいじ末期まっきから昭和しょうわにかけてなが日本にっぽん電力でんりょく業界ぎょうかいにおいて活動かつどうした実業じつぎょうである。

松永まつなが やすしひだりもん
松永まつながやすしひだりもん(1953ねんごろ
生誕せいたん 1875ねん明治めいじ8ねん12月1にち
長崎ながさきけん石田いしだぐん石田いしだむらげん壱岐いき
死没しぼつ (1971-06-16) 1971ねん6月16にち(95さいぼつ
東京とうきょう新宿しんじゅく慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく病院びょういん
墓地ぼち 新座にいざ平林寺へいりんじ
出身しゅっしんこう 慶應義塾けいおうぎじゅく中退ちゅうたい
職業しょくぎょう 実業じつぎょう
おや 松永まつながやすしひだりもん(2だい
栄誉えいよ 勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう
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松永まつなが やすしひだりもん
まつなが やすざえもん
ぜんしょく 実業じつぎょう
所属しょぞく政党せいとう 無所属むしょぞく

選挙せんきょ 福岡ふくおか選挙せんきょ
当選とうせん回数かいすう 1かい
在任ざいにん期間きかん 1917ねん4がつ21にち - 1920ねん2がつ26にち
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長崎ながさきけん壱岐島いきしま出身しゅっしん。「やすひだりもん」のちち襲名しゅうめいした(3代目だいめやすひだりもん)もので、幼名ようみょう亀之助かめのすけ石炭せきたんしょうなどの事業じぎょう手掛てがけたのち明治めいじ末期まっきから九州きゅうしゅう電気でんき事業じぎょう経営けいえいかかわり、1922ねん大正たいしょう11ねん)からは20ねんにわたり大手おおて電力でんりょく会社かいしゃ東邦とうほう電力でんりょく主宰しゅさいした。太平洋戦争たいへいようせんそうしたでは一旦いったん実業じつぎょうかいから退しりぞくも、戦後せんご占領せんりょう電気でんき事業じぎょうさい編成へんせい審議しんぎかい会長かいちょうとして再起さいき電気でんき事業じぎょうさい編成へんせい主導しゅどうしてきゅう電力でんりょく体制たいせいへの再編さいへん推進すいしんし、その強硬きょうこう姿勢しせいから「電力でんりょくおに」の異名いみょうをとった。その電力でんりょく中央ちゅうおう研究所けんきゅうじょ理事りじちょう就任しゅうにん。また私設しせつシンクタンク産業さんぎょう計画けいかく会議かいぎ主宰しゅさいして日本にっぽん産業さんぎょう経済けいざい全体ぜんたいについて政策せいさく提言ていげんおこない、政府せいふ政策せいさくおおきな影響えいきょうあたえた。

大正たいしょう時代じだいに1のみ衆議院しゅうぎいん議員ぎいんつとめた経歴けいれきつ。美術びじゅつひん収集しゅうしゅう茶人ちゃじんとしてもられ、「みみあん」(じあん)のごう近代きんだい小田原おだわらさん茶人ちゃじん一人ひとりでもある。中部電力ちゅうぶでんりょくだい5だい社長しゃちょう松永まつなが亀三郎かめさぶろうおい

生涯しょうがい

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生誕せいたんから社会しゃかいじん人生じんせい開始かいしまで

編集へんしゅう

1875ねん明治めいじ8ねん)、長崎ながさきけん壱岐いき商家しょうかまれた。代目だいめやすひだりもん長男ちょうなんで、幼名ようみょう亀之助かめのすけ[1]故郷こきょう印通寺浦いんどうじうら天然てんねん良港りょうこうをなしていて、やすひだりもんまれたころまでは商業しょうぎょうで、壱岐いき首都しゅとてき存在そんざいだった[2]祖父そふ京阪神けいはんしん地方ちほうとの交易こうえき酒造しゅぞうぎょう呉服ごふく雑貨ざっか穀物こくもつあつかい、水産すいさんぎょうなど手広てびろ事業じぎょういとなんでいた[3]幼名ようみょう亀之助かめのすけ時代じだいおものなかで印象いんしょうのこるのは祖父母そふぼ父母ちちはは親戚しんせき一統いっとうから非常ひじょうにかわいがられてそだったということだった[1]

福澤ふくさわ諭吉ゆきちの『学問がくもんのすすめ』に感奮かんぷん興起こうきし、福澤ふくさわもんすすむことをひとりぎめしていた[4]さとうら親戚しんせきあづけられて、かよっていただいじゅうなな高等こうとう小学校しょうがっこうもあといちねんえるというころ、この希望きぼう非常ひじょうつよくなった[5]

1889ねん明治めいじ22ねん)に東京とうきょう慶應義塾けいおうぎじゅく入学にゅうがく[6]遠縁とおえんたる霊岸島れいがんじま山内やまうちよし三郎さぶろう寄寓きぐうした[5]。16さいのときには真性しんせいコレラにかかり、本所ほんじょ緑町みどりちょう避病院ひびょういんれられることになったがさいわいにたすかった[7]

1893ねん明治めいじ26ねん)、ちち代目だいめやすひだりもん)の帰郷ききょう家督かとく相続そうぞくし、さん代目だいめやすひだりもん襲名しゅうめい[6]。それまでは、おおきな不幸ふこうらず、順調じゅんちょうだっただけに、ちち若死わかじにやすひだりもんにとって腹立はらだたしいほど残念ざんねんだった[7]するめしあわびなどの水産すいさん物資ぶっしをつくって中国ちゅうごく輸出ゆしゅつすることなどをがけた[8]自分じぶんせんにのって壱岐いきから博多はかた長崎ながさき平戸ひらど対馬つしまなどにでかけていた[8]元来がんらい松永まつなが商売しょうばいのほか土地とちもかなりあった[8]土地とち管理かんり漁場ぎょじょう経営けいえいなどには相当そうとうしゅがかかった[8]。そこでやすひだりもん酒造しゅぞうぎょう海産物かいさんぶつあつかい、呉服ごふくぎょうなどはいっさいやめる決心けっしんをした[9]。それらのごう他人たにん譲渡じょうとして、土地とちだけを確実かくじつ継承けいしょうしていくことにした[9]

21さいあきふたた慶應義塾けいおうぎじゅくもどった[9]福澤ふくさわ諭吉ゆきちあさ散歩さんぽにおともをするようになり、諭吉ゆきち謦咳けいがいせっするとともに、福澤ふくさわももかい知遇ちぐう[6]卒業そつぎょうまであといちねんという1898ねん明治めいじ31ねん)、学問がくもん興味きょうみかなくなったことを福澤ふくさわ諭吉ゆきち告白こくはくすると、「卒業そつぎょうなどたいした意義いぎはない。そんな気持きもちなら社会しゃかいはたらくがよかろう[6]」とすすめられて退学たいがくした[6]福澤ふくさわ記念きねんちょうに「わが人生じんせい闘争とうそうなり」としるした[6]

慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく中退ちゅうたい福澤ふくさわももかい紹介しょうかい日本銀行にっぽんぎんこう入行にゅうこうした。当時とうじ山本やまもと達雄たつお総裁そうさいした日銀にちぎん幹部かんぶストライキ事件じけんこり、東大とうだい出身しゅっしん幹部かんぶらが一掃いっそうされ、慶應けいおう出身しゅっしんしゃ用務員ようむいんから一般いっぱん職員しょくいん幹部かんぶ人事じんじまでをめた時期じきにあたるが1ねん辞職じしょく。その福澤ふくさわ共同きょうどう神戸こうべ大阪おおさかとう材木ざいもくしょう石炭せきたんぎょういとなむ。

電力でんりょく業界ぎょうかいへの参画さんかくから実業じつぎょうかい引退いんたい

編集へんしゅう

1909ねん明治めいじ42ねん)、ぶくはく電気でんき軌道きどう設立せつりつかかわり、松永まつなが電力でんりょく事業じぎょうたずさわる第一歩だいいっぽとなった[6]。そのいくつかの電力でんりょく会社かいしゃ合併がっぺいし、九州きゅうしゅう電灯でんとう鉄道てつどうとなり、さらに1922ねん大正たいしょう11ねん関西かんさい電気でんき合併がっぺいして、東邦とうほう電力でんりょく設立せつりつふく社長しゃちょうになった[6]1928ねん昭和しょうわ3ねん)には社長しゃちょう就任しゅうにんし、いちじゅういちけん電力でんりょく供給きょうきゅうするまでになった[6]

 
松永まつながやすしひだりもん(1923ねん以前いぜん)

このあいだ1917ねん大正たいしょう6ねんだい13かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ当選とうせんし、いちつとめている(つぎ選挙せんきょ中野なかのただしつよしやぶれて落選らくせんした)。

東邦とうほう電力でんりょく九州きゅうしゅう近畿きんき中部ちゅうぶおよ勢力せいりょくった。さらに東京とうきょう進出しんしゅつはか設立せつりつされた、同社どうしゃ子会社こがいしゃ東京電力とうきょうでんりょくは、東京とうきょう電燈でんとう覇権はけんあらそった[注釈ちゅうしゃく 1]1927ねん昭和しょうわ2ねん)、東京とうきょう電燈でんとう東京電力とうきょうでんりょく合併がっぺいし、東京とうきょう電燈でんとうかぶ交付こうふけただい株主かぶぬしという立場たちば松永まつなが同社どうしゃ取締役とりしまりやく就任しゅうにんした[注釈ちゅうしゃく 2]。その影響えいきょうりょくはもとより、「電力でんりょく統制とうせい私見しけん」(1928ねん5がつ1にち)を発表はっぴょうし、民間みんかん主導しゅどう電力でんりょく会社かいしゃ再編さいへん主張しゅちょうしたことなどもあって、「電力でんりょくおう」といわれた。

戦争せんそううったえなくとも日本にっぽんきていけるということに成算せいさんがあり、電力でんりょく事業じぎょう国家こっかによる管理かんり反対はんたいした松永まつながはその道筋みちすじつづけた。官僚かんりょうきらいでもあった松永まつながは、講演こうえんかい席上せきじょう軍閥ぐんばつ追随ついずいする官僚かんりょうたちを「人間にんげんのクズ」と発言はつげんした(1937ねん)。これらの言動げんどうは「天皇てんのう勅命ちょくめいをいただいているものへの最大さいだい侮辱ぶじょく」とだい問題もんだいになり、新聞しんぶん謝罪しゃざい広告こうこく掲載けいさいする事態じたいまれる。当時とうじ企画きかくいん総裁そうさいだった鈴木すずき貞一さだいちから「あなたは重大じゅうだいなリストにっているから、かないとあぶない」という忠告ちゅうこくけた。

戦争せんそう激化げきかともない、国家こっか総動員そうどういんほうわせて電気でんき事業じぎょう国家こっか管理かんり政策せいさくられ、特殊とくしゅ法人ほうじん日本にっぽんはつ送電そうでん会社かいしゃ設立せつりつされ、9の会社かいしゃ配電はいでん事業じぎょうおこなうことになった(いち発電はつでんきゅう配電はいでん体制たいせい)。これにともな東邦とうほう電力でんりょく解散かいさん1942ねん)を松永まつなが引退いんたいし、以後いご所沢ところざわ柳瀬やなせそう茶道さどう三昧ざんまいごした。

電力でんりょく業界ぎょうかい産業さんぎょうかい有識者ゆうしきしゃとしての活動かつどう晩年ばんねん

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だい世界せかい大戦たいせん1946ねん昭和しょうわ21ねん)、小田原おだわら板橋いたばしに「松下まつしたてい」(のちに「ろうけやきそう」)をてて埼玉さいたまけん柳瀬やなせげん所沢ところざわ)からうつり、まいとした。柳瀬やなせ所蔵しょぞうしていた美術びじゅつひん柳瀬やなせそう東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん寄贈きぞうした。小田原おだわらでは益田ますだたかしどんおきな)、野崎のさき廣太ひろたまぼろしあん)ののちけて近代きんだい茶道さどうたしなみ、小田原おだわらさん茶人ちゃじんしょうされる。

当時とうじのGHQによる占領せんりょう政策せいさくじょう日本にっぽんはつ送電そうでん会社かいしゃ民営みんえい課題かだいになると、かつてのてき池田いけだ成彬せいひん推薦すいせんにより[10]吉田よしだしげる電気でんき事業じぎょうさい編成へんせい審議しんぎかい会長かいちょう抜擢ばってきされた[10]ともにする川田かわた一隆かずたか池田いけだ勇人はやとらと民営みんえい目指めざ[10][11]日本にっぽんはつ送電そうでんがわ独占どくせん体制たいせいまもろうと画策かくさくしたが、最終さいしゅうてきにはGHQが反対はんたいをねじ[10]ポツダム命令めいれいによる電気でんき事業じぎょうさい編成へんせいれい発令はつれいされ9電力でんりょく会社かいしゃへの事業じぎょう再編さいへんによる分割ぶんかつ民営みんえいきゅう電力でんりょく体制たいせい)が実現じつげんした。さらに電力でんりょく事業じぎょう今後こんご発展はってん予測よそくして電気でんき料金りょうきん値上ねあげを実施じっししたため、消費しょうひしゃからもおおくの非難ひなんびた。こうした強引ごういんさから「電力でんりょくおに」とばれるようになった。

1951ねん昭和しょうわ26ねん)、こうした経緯けいいから電力でんりょく技術ぎじゅつ研究けんきゅう開発かいはつ効率こうりつてきかつ国家こっか介入かいにゅうなど外圧がいあつ影響えいきょうされることなく実施じっしするため、9電力でんりょく会社かいしゃ合同ごうどう出資しゅっしでありながら、完全かんぜん中立ちゅうりつ堅持けんじする公益こうえき法人ほうじんとして、民間みんかんはつシンクタンク電力でんりょく中央ちゅうおう研究所けんきゅうじょ」を設立せつりつし、晩年ばんねんみずか理事りじちょう就任しゅうにんした。

1956ねん昭和しょうわ31ねん)、私設しせつのシンクタンクである「産業さんぎょう計画けいかく会議かいぎ」を発足ほっそくさせて主宰しゅさいし、経済けいざい分野ぶんや国家こっかてき政策せいさく課題かだいについて政策せいさく提言ていげんおこなった。提言ていげん内容ないようれいとして東名高速道路とうめいこうそくどうろ名神めいしん高速こうそく道路どうろ計画けいかくや、国鉄こくてつ民営みんえい日本にっぽん最大さいだい多目的たもくてきダムである沼田ぬまたダム計画けいかく[12]北海道開発ほっかいどうかいはつなどがある。報告ほうこくしょ内閣ないかく衆参しゅうさん両院りょういん中央ちゅうおう官庁かんちょうとどけられ、政府せいふ政策せいさくおおきな影響えいきょうあたえた。

1959ねん昭和しょうわ34ねん)、財団ざいだん法人ほうじん松永まつなが記念きねんかん設立せつりつ自宅じたく敷地しきちない松永まつなが記念きねんかん本館ほんかんて、収集しゅうしゅうした美術びじゅつひん一般いっぱん公開こうかいした[注釈ちゅうしゃく 3]。また、欧米おうべい視察しさつさい知遇ちぐうアーノルド・J・トインビーの『歴史れきし研究けんきゅう』の翻訳ほんやく刊行かんこう尽力じんりょくした。

1962ねん昭和しょうわ37ねん)、松永まつなが米寿べいじゅ記念きねんし、池田いけだ勇人はやと内閣ないかく総理そうり大臣だいじん発起人ほっきにんとなって、財団ざいだん法人ほうじん松永まつなが記念きねん科学かがく振興しんこう財団ざいだん(1962ねん - 1978ねん)、松永まつながしょうどう)が創設そうせつされた。米寿べいじゅいわいは池田いけだだけをび、なにもない電力でんりょく中央ちゅうおう研究所けんきゅうじょ本部ほんぶ屋上おくじょうおこなった。

1968ねん昭和しょうわ43ねん)、慶應義塾けいおうぎじゅく命名めいめいひゃくねん式典しきてんにて、高橋たかはし誠一郎せいいちろうとも名誉めいよ博士はかせ称号しょうごう授与じゅよされた。

1971ねん昭和しょうわ46ねん6月16にちはいきんしょうため東京とうきょう新宿しんじゅく信濃しなのまち慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく病院びょういんにて死去しきょ[13]。95さいぼつ葬儀そうぎ故人こじん遺志いしにより一切いっさいおこなわれず、松永まつなが財界ざいかいじん弔問ちょうもん香典こうでん供花きょうかなども辞退じたいしている。墓所はかしょ埼玉さいたまけん新座にいざ平林寺へいりんじ


電力でんりょく産業さんぎょう松永まつながのかかわりをえがいたものに、大谷おおやけん興亡こうぼう電力でんりょくをめぐる政治せいじ経済けいざい』(吉田よしだ書店しょてん、2021ねん初版しょはん産業さんぎょう能率のうりつ短期大学たんきだいがく出版しゅっぱん、1978ねん再版さいはん白桃はくとう書房しょぼう、1984ねん)がある。

人物じんぶつ

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1929ねん5がつ松永まつながやすしひだりもんみぎ)、ふち勝次かつじひだり)とともに

ピンチをくぐりけるたびに成功せいこうのヒントをつかんだ。あかるい性格せいかく美男びなんだったことから女性じょせい関係かんけい派手はでであったとされる。作家さっか梶山かじやま季之としゆき財界ざいかいじんたちに「小説しょうせつにしたら面白おもしろ人物じんぶつだれか」とたずねたところ、おおくは松永まつながげたという。

産業さんぎょう計画けいかく会議かいぎでの松永まつなが現場げんば視察しさつ大臣だいじん高級こうきゅう官僚かんりょうのものとはちがい、自動車じどうしゃれないような場所ばしょにある粗末そまつ小屋こやまり、ドラム缶どらむかん風呂ふろはいり、だい一線いっせんはたら工事こうじ現場げんばひとたちの苦労くろうみずからのからだあじわうという、徹底てっていした現場げんば主義しゅぎであった。

松永まつながみみあん(じあん)とごうする茶人ちゃじん美術びじゅつ収集しゅうしゅうとしてもられる。松永まつながだい大戦たいせん収集しゅうしゅうひん一部いちぶ東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん寄贈きぞうした。同館どうかん寄贈きぞうした以外いがい美術びじゅつひん小田原おだわらにあった財団ざいだん法人ほうじん松永まつなが記念きねんかん所蔵しょぞうされていたが、どう財団ざいだん解散かいさんによりだい部分ぶぶん福岡ふくおか美術館びじゅつかん一部いちぶ京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかん愛知あいちけん陶磁とうじ資料しりょうかんなどの所蔵しょぞうかえしている。代表だいひょうてき収集しゅうしゅうひんとしては、平安へいあん仏画ぶつが代表だいひょうさくである「釈迦しゃかきんかん出現しゅつげん」(国宝こくほう京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかんぞう)などがある。

長崎ながさきけん壱岐いき石田いしだまち印通寺浦いんどうじうらやすひだりもん生家せいかあとに「松永まつながやすしひだりもん記念きねんかん」がある[6]

栄典えいてん

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1964ねん生存せいぞんしゃ叙勲じょくん制度せいど復活ふっかつしたさい同年どうねん4がつ29にちづけ最初さいしょ叙勲じょくん松永まつなが勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう内定ないていするが、首相しゅしょう池田いけだ勇人はやとから直々じきじき打診だしんされた松永まつながは「人間にんげん値打ねうちを人間にんげんめるとはなにごとか」と激高げっこうし、受章じゅしょう拒否きょひする。

こまった池田いけだ松永まつなが可愛かわいがられていた永野ながの重雄しげお説得せっとくたのみ、小田原おだわら松永まつながていたずねた永野ながのは、松永まつながたいして「あなたが叙勲じょくんけないと、生存せいぞんしゃ叙勲じょくん制度せいど発足ほっそくおくれて、勲章くんしょうをもらいたくてたまらないひとたちに、迷惑めいわくがかかる。それに、あなたはどうせさきみじかい。ねばいやでも勲章くんしょうおくられる。それならきているうちにもらったほう人助ひとだすけにもなりますよ」とせまった。松永まつなが不本意ふほんいながら叙勲じょくんけることは了承りょうしょうしたものの、勲章くんしょう授与じゅよしき欠席けっせきした[14]

その松永まつながは『栄典えいてんるい反吐へどるほどきらいだ』として、死後しごふくすべての栄典えいてんらないことを公言こうげんする。松永まつなが逝去せいきょしたさいにその訃報ふほうけた当時とうじ佐藤さとう栄作えいさく内閣ないかくは、政府せいふによる叙位じょい叙勲じょくん即日そくじつ決定けっていしたものの、遺族いぞく松永まつなが遺志いし尊重そんちょうし、一切いっさい栄誉えいよ栄典えいてんについて辞退じたいした。

親類しんるい縁者えんじゃ

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松永まつなが

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  • 祖父そふやすひだりもん
    • 祖父そふは、九州きゅうしゅういち離島りとう壱岐いき商家しょうか主人しゅじんわったにぎないが、はたらまなぶことををもってまごおしえた[3]やすひだりもんは「松永まつながとしては分家ぶんけでありながら、幕末ばくまつから明治めいじにかけて、ほとんど徒手空拳としゅくうけん、さして本家ほんけ援助えんじょけず、その時代じだいなりのあたらしい事業じぎょうをいろいろこした」とひょうする[3]。“人間にんげん一生いっしょうはたらとおすべきもの”というやすひだりもんかんがえは祖父そふ生活せいかつ態度たいどからおしえられている[3]
  • ちちやすひだりもん
  • ははミス
  • つまカヅ
  • おとうと英太郎えいたろう
  • いもうとクニ熊本くまもと利平りへいす)

むぎ焼酎しょうちゅう松永まつながやすしひだりもんおう

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松永まつなが出身しゅっしんである壱岐いき酒造しゅぞういとな玄海げんかい酒造しゅぞう株式会社かぶしきがいしゃは、自社じしゃ生産せいさんむぎ焼酎しょうちゅう松永まつながえて販売はんばいしている。

役職やくしょく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 当時とうじおな地域ちいき複数ふくすう電力でんりょく会社かいしゃ供給きょうきゅうしていた。鶴見つるみ騒擾そうじょう事件じけんもこの電力でんりょくせん要因よういんである。
  2. ^ この東京電力とうきょうでんりょくは、現在げんざい東京電力とうきょうでんりょくとは直接ちょくせつにはつながっていない。
  3. ^ 現在げんざい収蔵しゅうぞうひんおおくは九州きゅうしゅう福岡ふくおか美術館びじゅつかんうつったものの、敷地しきちおよび建物たてもの小田原おだわら所有しょゆうとなり、小田原おだわら郷土きょうど文化ぶんかかん分館ぶんかん 松永まつなが記念きねんかんとして公開こうかいされている。

出典しゅってん

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  1. ^ a b わたし履歴りれきしょ 経済けいざいじん7』347ぺーじ
  2. ^ わたし履歴りれきしょ 経済けいざいじん7』346ぺーじ
  3. ^ a b c d わたし履歴りれきしょ 経済けいざいじん7』345ぺーじ
  4. ^ わたし履歴りれきしょ 経済けいざいじん7』349ぺーじ
  5. ^ a b わたし履歴りれきしょ 経済けいざいじん7』350ぺーじ
  6. ^ a b c d e f g h i j 電力でんりょくおに松永まつながやすしひだりもん(うえ)三田みた評論ひょうろん
  7. ^ a b わたし履歴りれきしょ 経済けいざいじん7』351ぺーじ
  8. ^ a b c d わたし履歴りれきしょ 経済けいざいじん7』352ぺーじ
  9. ^ a b c わたし履歴りれきしょ 経済けいざいじん7』353ぺーじ
  10. ^ a b c d 山岡やまおかあつし一郎いちろう気骨きこつ: 経営けいえいしゃ 土光どこう敏夫としおたたかい』平凡社へいぼんしゃ、2013ねん、98-100ぺーじISBN 978-4582824667 
  11. ^ 三鬼みき陽之助ようのすけ三鬼みき陽之助ようのすけ評論ひょうろん選集せんしゅう講談社こうだんしゃ、1974ねん、174-175ぺーじ 
  12. ^ まぼろし巨大きょだいダム計画けいかく関東かんとう琵琶湖びわこ」 えき水没すいぼつ予定よていだった”. 朝日新聞あさひしんぶん (2021ねん3がつ20日はつか). 2021ねん3がつ20日はつか閲覧えつらん
  13. ^ 朝日新聞あさひしんぶん 1971ねん6がつ16にち夕刊ゆうかん
  14. ^ 栗原くりはら俊雄としお勲章くんしょう られざる素顔すがお』(岩波いわなみ新書しんしょ、2011ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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先代せんだい
伊丹いたみ弥太郎やたろう
東邦とうほう電力でんりょく社長しゃちょう
だい2だい:1928ねん - 1940ねん
次代じだい
竹岡たけおか陽一よういち
先代せんだい
大西おおにし英一ひでかず
電力でんりょく中央ちゅうおう研究所けんきゅうじょ理事りじちょう
だい2だい:1953ねん - 1971ねん
次代じだい
横山よこやま通夫みちお