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浦賀船渠 - Wikipedia

浦賀うらが船渠せんきょ

神奈川かながわけん横須賀よこすかにあった造船ぞうせんしょ

浦賀うらが船渠せんきょ(うらがせんきょ)は、神奈川かながわけん横須賀よこすか浦賀うらが地区ちくにあった造船ぞうせんしょ通称つうしょう浦賀うらがドック日本にっぽん海軍かいぐん駆逐くちくかん建造けんぞう有名ゆうめいである。太平洋戦争たいへいようせんそう艦艇かんてい建造けんぞうつづけられたが、2003ねん平成へいせい15ねん)に閉鎖へいさされた。

1910ねん浦賀うらが様子ようす
2015ねん様子ようす

2021ねんれい3ねん)3がつに、施設しせつおよ周辺しゅうへん住友重機械工業すみともじゅうきかいこうぎょうから横須賀よこすか無償むしょう寄付きふされた[1]

概要がいよう

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幕府ばくふ浦賀うらが造船ぞうせんしょ

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浦賀うらがでの造船ぞうせん歴史れきし1853ねんよしみひさし6ねん)のペリー来航らいこうまでさかのぼる。このとき江戸えど幕府ばくふは「大船おおふな建造けんぞうきん」をいて浦賀うらが造船ぞうせんしょ設置せっちただちに軍艦ぐんかん建造けんぞうはじめ、7かげつけて国産こくさんはつ洋式ようしき軍艦ぐんかん鳳凰ほうおうまる」を建造けんぞうした。これは浦賀うらが奉行ぶぎょうところ与力よりき中島なかじま三郎助さぶろうすけらに軍艦ぐんかん建造けんぞうめいじたことがはじまりである。また1859ねん安政あんせい6ねん)には日本にっぽんはつドライドック完成かんせいし、アメリカへかう咸臨丸かんりんまる整備せいびおこなわれている。しかし小栗おぐり忠順ただまさらにより、横須賀よこすかこう製鉄せいてつしょ建設けんせつすることを決定けっていし(横須賀造船所よこすかぞうせんじょ横須賀よこすか海軍かいぐん工廠こうしょう)、艦艇かんてい建造けんぞう中心ちゅうしん横須賀よこすかうつり、浦賀うらが造船ぞうせんしょ1876ねん明治めいじ9ねん)に閉鎖へいさされた。

浦賀うらが船渠せんきょ

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中島なかじま三郎助さぶろうすけ意志いしいだ荒井あらいいくこれすけ榎本えのもと武揚ぶよう塚原つかはら周造しゅうぞう中心ちゅうしんとなり、1897ねん明治めいじ30ねん)に浦賀うらが船渠せんきょ設立せつりつ。かつての浦賀うらが造船ぞうせんしょおな場所ばしょ工場こうじょう建設けんせつされた。どう時期じきおな浦賀うらが建設けんせつされた東京とうきょう石川いしかわとう造船ぞうせんしょ(げん:IHI)の浦賀うらがぶん工場こうじょうとのあいだで、艦船かんせん建造けんぞう修理しゅうり受注じゅちゅう合戦かっせんひろげられたという。この競争きょうそうダンピング合戦かっせんみ、両社りょうしゃ経営けいえい悪化あっかさせた。ほどなくして石川いしかわとう浦賀うらがぶん工場こうじょう浦賀うらが船渠せんきょ買収ばいしゅう自社じしゃ工場こうじょうとすることで決着けっちゃくした。

艦艇かんてい建造けんぞう

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石川いしかわとうとの競争きょうそうや、フィリピンへの砲艦ほうかん輸出ゆしゅつ不調ふちょうとなるなど、当初とうしょ経営けいえいおもわしくなく、渋沢しぶさわ栄一えいいち浅野あさの総一郎そういちろうなどが再建さいけんべた。1912ねん明治めいじ45ねん)に就任しゅうにんしただい5だい社長しゃちょうによりようやく経営けいえい安定あんていした。そのだいいち世界せかい大戦たいせんによるこうきょう特需とくじゅ景気けいき)もあり経営けいえいなおった。

艦艇かんてい建造けんぞうは、にち戦争せんそうとき横須賀よこすか工廠こうしょうから艦載かんさい水雷すいらいてい受注じゅちゅうしたことにはじまる。1907ねん明治めいじ40ねん)にはじめて駆逐くちくかん長月ながつき」を建造けんぞうした。そのしょう艦艇かんてい建造けんぞう中心ちゅうしんてき業務ぎょうむとしており、とく駆逐くちくかん建造けんぞう有名ゆうめいで、大阪おおさかにあった藤永ふじなが造船ぞうせんしょとも駆逐くちくかん建造けんぞう名門めいもんであり、「西にし藤永ふじながひがし浦賀うらが」とばれていた(けい巡洋艦じゅんようかん 2せき駆逐くちくかん 44せき海防かいぼうかん 11せき+2せき未完みかん)。

1914ねん大正たいしょう3ねん)には国内こくないはつはがねせいじゅん貨物かもつせん[2]として「だい長久ちょうきゅうまる」が竣工しゅんこう注目ちゅうもくされていたこのふね成績せいせき優良ゆうりょうにつき、同型どうけいせん6せきおよびさらに大型おおがたふね6せき受注じゅちゅうして開業かいぎょう以来いらい盛況せいきょうていした[3]。その1924ねん大正たいしょう13ねん)には国内こくないはつ旅客りょかくけん車両しゃりょう渡船とせん鉄道てつどう連絡れんらくせん)として青函せいかん連絡れんらくせんしょうおおとりまる」と「鸞丸」が竣工しゅんこう両船りょうせん就航しゅうこう成績せいせき良好りょうこうで、そのおおくの青函せいかん連絡れんらくせん浦賀うらが建造けんぞうすることとなった。

太平洋戦争たいへいようせんそうのち海上かいじょう自衛隊じえいたいけに艦艇かんてい建造けんぞうつづけ、べい空母くうぼミッドウェイだい規模きぼ改修かいしゅう日本にっぽんまる建造けんぞうなどもおこなわれた。住友すみとも機械きかい工業こうぎょう合併がっぺいしたさい追浜おっぱま造船ぞうせんしょげん横須賀造船所よこすかぞうせんじょ)を開設かいせつ民間みんかんふね建造けんぞうはこちらにうつった。浦賀うらが地区ちく工場こうじょう集約しゅうやくのため2003ねん平成へいせい15ねん)に閉鎖へいさされた。閉鎖へいさ資材しざい置場おきばとして使用しようされてきた[4]

浦賀うらが船渠せんきょだい1ごうドック(通称つうしょう浦賀うらがドック)は世界せかいに4かしょにしか現存げんそんしていないレンガみドライドックのうちのひとつとなっている。国内こくないでも明治めいじのものは浦賀うらがドックと川間かわまドックあとしかなく、両者りょうしゃとも貴重きちょう文化ぶんか遺産いさんである。

2007ねん平成へいせい19ねん)11月30にち浦賀うらが船渠せんきょだい1ごうドック、ポンプ施設しせつ、ドックサイドクレーンが近代きんだい産業さんぎょう遺産いさん認定にんてい

2021ねんれい3ねん)3がつに、浦賀うらがドックとその周辺しゅうへん住友重機械工業すみともじゅうきかいこうぎょうから横須賀よこすか無償むしょう寄付きふされた[1]

沿革えんかく

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浦賀うらが造船ぞうせんしょ

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浦賀うらが船渠せんきょ

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  • 1895ねん明治めいじ28ねん) 10がつ 株式会社かぶしきがいしゃ東京とうきょう石川いしかわとう造船ぞうせんしょげん株式会社かぶしきがいしゃIHI)が浦賀うらがぶん工場こうじょう建設けんせつ
  • 1898ねん明治めいじ29ねん
    • 5月 陸軍りくぐん要塞ようさい砲兵ほうへい幹部かんぶ練習れんしゅうしょ敷地しきち取得しゅとく
    • 9月28にち 創業そうぎょう総会そうかい
  • 1897ねん明治めいじ30ねん
    • 2がつ ドックの建設けんせつ開始かいし
    • 6月21にち 浦賀うらが船渠せんきょ設立せつりつ登記とうき
  • 1898ねん明治めいじ31ねん) 11月 東京とうきょう石川いしかわとう造船ぞうせんしょ浦賀うらがぶん工場こうじょう操業そうぎょう開始かいし
  • 1899ねん明治めいじ32ねん) 11月 1ごうドック完成かんせい
  • 1900ねん明治めいじ33ねん
    • 1がつ 浦賀うらが船渠せんきょ営業えいぎょう開始かいし
    • 6がつ10日とおか 新造しんぞうだい1せん竣工しゅんこう
  • 1902ねん明治めいじ35ねん) 8がつ 東京とうきょう石川いしかわとう造船ぞうせんしょ浦賀うらがぶん工場こうじょう買収ばいしゅう川間かわまぶん工場こうじょうとする。
  • 1907ねん明治めいじ40ねん浦賀うらがはつ駆逐くちくかん長月ながつき竣工しゅんこう
  • 1914ねん大正たいしょう3ねん国内こくないはつはがねせいじゅん貨物かもつせん[2]だい長久ちょうきゅうまる竣工しゅんこう[ちゅう 1]
  • 1923ねん大正たいしょう12ねん
  • 1924ねん大正たいしょう13ねんはつ青函せいかん連絡れんらくせんしょうおおとりまる竣工しゅんこう
  • 1925ねん大正たいしょう14ねん) 5がつ けい巡洋艦じゅんようかん阿武隈あぶくま竣工しゅんこう
  • 1938ねん昭和しょうわ13ねんだい日本にっぽん兵器へいき設立せつりつ青島ちんたお工廠こうしょう経営けいえい委託いたくされる
  • 1943ねん昭和しょうわ18ねん2がつ25にち Wがた戦時せんじ標準ひょうじゅんせんのモデルせんとしてだいよん青函せいかんまる竣工しゅんこう
  • 1944ねん昭和しょうわ19ねん四日市よっかいち造船ぞうせんしょ開設かいせつ翌年よくねん9がつ閉鎖へいさ
  • 1945ねん昭和しょうわ20ねん9月28にち だいじゅういち青函せいかんまる戦後せんご竣工しゅんこうだい1せんとなる
  • 1948ねん昭和しょうわ23ねん8がつ31にち 戦後せんごはつたび青函せいかん連絡れんらくせんとして「摩周ましゅうまる竣工しゅんこう際立きわだった豪華ごうかさをほこった。子会社こがいしゃとして玉島たましまデイゼル工業こうぎょう[ちゅう 2]岡山おかやまけん設立せつりつ
  • 1953ねん昭和しょうわ28ねん) - 子会社こがいしゃ玉島たましまデイゼル工業こうぎょう株式会社かぶしきがいしゃ浦賀うらが玉島たましまデイゼル工業こうぎょう株式会社かぶしきがいしゃ社名しゃめい変更へんこう
  • 1955ねん昭和しょうわ30ねん敷設ふせつていえりも竣工しゅんこう戦後せんごはつ自衛じえいかん建造けんぞう
  • 1957ねん昭和しょうわ32ねん) - アメリカにニューヨーク事務所じむしょげん・SHI (USA) )開設かいせつ
  • 1961ねん昭和しょうわ36ねん記念きねんかん三笠みかさ修復しゅうふく工事こうじ完了かんりょう
  • 1962ねん昭和しょうわ37ねん子会社こがいしゃ浦賀うらが玉島たましまデイゼル工業こうぎょう合併がっぺいし、浦賀うらが重工業じゅうこうぎょう株式会社かぶしきがいしゃ設立せつりつ

浦賀うらが重工業じゅうこうぎょう

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歴代れきだい社長しゃちょう

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おも製品せいひん

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艦船かんせん

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戦前せんぜん

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その製品せいひん

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関連かんれん会社かいしゃ造船ぞうせんしょ

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  • だい日本にっぽん兵器へいき
1936ねん昭和しょうわ11ねん)にスイスエリコンしゃ航空機こうくうきよう20mm機銃きじゅう技術ぎじゅつ提携ていけい横浜よこはま磯子いそご富岡とみおか兵器へいき製作所せいさくしょ設立せつりつ技術ぎじゅつ指導しどうあおいだ。1938ねん昭和しょうわ13ねん)に分離ぶんり独立どくりつだい日本にっぽん兵器へいき(株)かぶしきがいしゃとなる。戦後せんご日平ひびら産業さんぎょう改称かいしょうし、機械きかいメーカーとなる。のちにトヤマキカイと合併がっぺいし、「日平にっぺいトヤマ」を2008ねん平成へいせい20ねん)10がつより「コマツNTC」ヘ。
  • 青島ちんたお工廠こうしょう
1938ねん昭和しょうわ13ねん)に海軍かいぐんより青島ちんたおきゅう海軍かいぐん工廠こうしょう経営けいえい委託いたくされる。太平洋戦争たいへいようせんそう敗戦はいせんにより中国ちゅうごくぐん接収せっしゅうする。
  • 名古屋なごや造船ぞうせん
1941ねん昭和しょうわ16ねん)6がつ大同だいどう製鋼せいこう共同きょうどう出資しゅっし設立せつりつ1964ねん昭和しょうわ39ねん)に石川島播磨重工業いしかわじまはりまじゅうこうぎょう吸収きゅうしゅう合併がっぺいされる。げんIHI愛知あいち工場こうじょう
  • 四日市よっかいち造船ぞうせんしょ
戦時せんじちゅう船舶せんぱく不足ふそくにより、大型おおがた商船しょうせん建造けんぞうのため産業さんぎょう設備せつび営団えいだん施設しせつ建設けんせつし、民間みんかん経営けいえいする方式ほうしき造船ぞうせんしょ建設けんせつ全国ぜんこくの4箇所かしょ建造けんぞうされ(のこりは三井造船みついぞうせん安芸津あきつ三菱重工業みつびしじゅうこうぎょう広島ひろしま日立造船ひたちぞうせん神奈川かながわ)、四日市よっかいちでは年間ねんかん10まんそうトンを予定よていする。1944ねん昭和しょうわ19ねん)3がつ設備せつび一部いちぶ完成かんせいにより開設かいせつ1945ねん昭和しょうわ20ねん)1がつだい1せん鉄山てつざんまる」を起工きこうするが6がつ空襲くうしゅうによる火災かさい造船ぞうせんしょ焼失しょうしつ、1せき竣工しゅんこうすることなく9月に閉鎖へいさされた。「鉄山てつざんまる」のみ戦後せんご浦賀うらが工事こうじ続行ぞっこうし、1947ねん昭和しょうわ22ねん)に竣工しゅんこうした。

周辺しゅうへん地区ちくさい整備せいび

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施設しせつ周辺しゅうへん地区ちくについて横須賀よこすかでは1991ねんに「浦賀うらが国際こくさい文化ぶんかむら構想こうそう」、2003ねんに「浦賀うらがこう周辺しゅうへん地区ちくさい整備せいび計画けいかく」が策定さくていされたが、いずれも2018ねん廃止はいしになっている[4]施設しせつおよ周辺しゅうへん無償むしょう寄付きふけて、横須賀よこすかはドックを保存ほぞん工場こうじょう跡地あとち部分ぶぶん活用かつよう方法ほうほう検討けんとうするとともに、ガイドきの公開こうかいができるよう準備じゅんびすすめるむね公表こうひょうしている[1]

2021ねんれい3ねん浦賀うらがドックは住友重機械工業すみともじゅうきかいこうぎょう株式会社かぶしきがいしゃから横須賀よこすか寄贈きぞうされ、「浦賀うらがレンガドック」として一般いっぱん公開こうかいされている[7][8]

参考さんこう文献ぶんけん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ そう噸数とんすう2,200tで建造けんぞう当時とうじとしては東京とうきょうわん進水しんすいしたふねなか最大さいだいのものだった[5]
  2. ^ 船舶せんぱくようディーゼルエンジンの製作せいさくおも事業じぎょうとしていた。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 広報こうほうよこすかNo.857(2021ねん5がつごう)『観光かんこうりつよこすか あらたな魅力みりょく創出そうしゅつへ』” (PDF). 横須賀よこすか. p. 2 (2021ねん5がつ). 2021ねん5がつ26にち閲覧えつらん
  2. ^ a b しゅう名鑑めいかん下野げや新聞しんぶん、1931ねん、1127 (平野ひらの義夫よしおこう)ぺーじNDLJP:1226910/587 
  3. ^ 尋常じんじょう高等こうとう浦賀うらが小学校しょうがっこう職員しょくいんこん和会かずえ へん浦賀うらが案内あんない信濃しなの書店しょてん、1915ねん、20ぺーじNDLJP:948261/29 
  4. ^ a b じゅうじゅう浦賀うらがドック」、横須賀よこすか無償むしょう寄付きふ れんがみの遺産いさん"神奈川かながわ新聞しんぶん、2020ねん12月12にち(2020ねん12月12にち閲覧えつらん
  5. ^ 工業こうぎょう雑誌ざっし』41(536)、工業こうぎょう雑誌ざっししゃ、1914ねん7がつ、81ぺーじNDLJP:1561622/31 
  6. ^ 浦賀うらが追浜おっぱまひゃくねん航跡こうせき住友重機械工業すみともじゅうきかいこうぎょう株式会社かぶしきがいしゃ横須賀造船所よこすかぞうせんじょ、1997ねん6がつ21にち-1,-2ぺーじ 
  7. ^ 公式こうしき浦賀うらがレンガドック|ワクワク横須賀よこすか”. www.wakuwaku-yokosuka.jp. 2023ねん6がつ19にち閲覧えつらん
  8. ^ “わがまちの渋沢しぶさわ栄一えいいちだい16かい浦賀うらがドック~神奈川かながわけん横須賀よこすか~”. あおふかし (883): 34-35. (2022.10). https://www.shibusawa.or.jp/outline/seien/883202210.html. 
  9. ^ 住友重機械工業すみともじゅうきかいこうぎょう(かぶ)横須賀造船所よこすかぞうせんじょ浦賀うらが追浜おっぱまひゃくねん航跡こうせき : 1897-1997』(1997.06) | 渋沢しぶさわしゃデータベース”. shashi.shibusawa.or.jp. 2023ねん6がつ19にち閲覧えつらん


関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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