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海軍経理学校 - Wikipedia

海軍かいぐん経理けいり学校がっこう

大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん主計しゅけい要員よういん育成いくせいのためにかれた、ぐん学校がっこうとしての養成ようせい学校がっこう

海軍かいぐん経理けいり学校がっこう(かいぐんけいりがっこう、きゅう字体じたいうみ󠄀ぐん經理けいり學校がっこう󠄁英語えいご: Naval Paymaster's School[1][2], Naval Accounting Schoolとう)とは、大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん庶務しょむ会計かいけい被服ひふく糧食りょうしょく主計しゅけい[3]要員よういん育成いくせいのためにかれたぐん学校がっこうとしての養成ようせい学校がっこうである。主計しゅけい士官しかん基礎きそ教育きょういくおこな初級しょきゅう士官しかん養成ようせいこう機能きのうと、主計しゅけい専門せんもん教育きょういく主計しゅけい士官しかんおよび下士官かしかんへいほどこじゅつ学校がっこうとしての機能きのうね、さらに研究けんきゅう機関きかんでもあった。1907ねん明治めいじ40ねん)に創設そうせつされ、だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつ日本にっぽん海軍かいぐん解体かいたいされるまでつづいた。主要しゅよう校舎こうしゃ所在地しょざいち現在げんざい東京とうきょう中央ちゅうおう築地つきじ海軍兵学校かいぐんへいがっこうおよび海軍かいぐん機関きかん学校がっこうとならぶきゅう海軍かいぐんさんこうひとつである。通称つうしょう略称りゃくしょうとしてうみけいばれる事例じれいもある。

沿革えんかく

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海軍かいぐん経理けいり学校がっこう起源きげんは、1874ねん明治めいじ7ねん開校かいこう海軍かいぐん会計かいけい学舎がくしゃとされている。このときの所在地しょざいち築地つきじではなく、増上寺ぞうじょうじのある芝山しばやまない天神谷てんじんだにだった。その日本にっぽん海軍かいぐん主計しゅけい士官しかん養成ようせい制度せいど頻繁ひんぱん変更へんこうされ、それにともなって教育きょういく機関きかん紆余曲折うよきょくせつをたどった。こうめいは、海軍かいぐん会計かいけい学舎がくしゃ(1874ねん-1876ねん)、海軍かいぐん主計しゅけい学舎がくしゃ(1876ねん-1877ねん, 1882ねん-1886ねん)、海軍かいぐん主計しゅけい学校がっこう1886ねん-1893ねん)、海軍かいぐん主計しゅけいかん練習れんしゅうしょ1899ねん-1907ねん)と廃止はいし期間きかんはさみつつ変遷へんせんした。海軍かいぐん主計しゅけい学校がっこう時代じだい1888ねん明治めいじ21ねん)に校舎こうしゃ築地つきじ移転いてんし、以後いご海軍かいぐん経理けいり学校がっこう中心ちゅうしんとなっている。このあいだ1889ねん明治めいじ22ねん)には、海軍かいぐん内部ないぶ若年じゃくねんしゃ生徒せいとから教育きょういくしてしょう主計しゅけい候補こうほせい士官しかん候補こうほせい一種いっしゅ)を養成ようせいする方式ほうしき廃止はいしされ、ぐんがいからの登用とうよう試験しけんしょう主計しゅけい候補こうほせいにする方式ほうしきのみとなっている。他方たほう下士官かしかんへい対象たいしょう練習れんしゅうせい教育きょういくは、おなじ1889ねんから開始かいしされた[4]

にち戦争せんそうのちになって現行げんこう方式ほうしきでは主計しゅけい士官しかん人材じんざい確保かくほ不十分ふじゅうぶんであるとされ、宇都宮うつのみやかなえ主計しゅけいだいかん主導しゅどう生徒せいと教育きょういくからの主計しゅけい士官しかん養成ようせい再開さいかいまった。1907ねん明治めいじ40ねん)に海軍かいぐん主計しゅけいかん練習れんしゅうしょ海軍かいぐん経理けいり学校がっこう改称かいしょうし、2ねん1909ねん明治めいじ42ねん)にうみけいだい1期生きせい入校にゅうこうした。学生がくせい練習れんしゅうせい教程きょうてい区分くぶんもこのころ確立かくりつされた[4]。なお、生徒せいと教育きょういく再開さいかいも、旧制きゅうせい大学だいがく在学ざいがくちゅう依託いたく学生がくせいとして採用さいようしたうえ卒業そつぎょう主計しゅけい士官しかん任用にんようする制度せいど併存へいそんし、1923ねん大正たいしょう12ねん)までは任用にんようれいがあった[5]

1938ねん昭和しょうわ13ねん)には、軍備ぐんび拡張かくちょうによる主計しゅけい士官しかん需要じゅよう増大ぞうだい対応たいおうするためねん現役げんえき士官しかん短期たんき現役げんえき士官しかんたんげん制度せいど主計しゅけいにも拡大かくだいされ、経理けいり学校がっこうねん現役げんえき士官しかん対象たいしょうとした補修ほしゅう学生がくせい教育きょういく開始かいしされた。在校ざいこうしゃ増加ぞうか対応たいおうするため校舎こうしゃ移転いてん検討けんとうされ、太平洋戦争たいへいようせんそうなか1943ねん昭和しょうわ18ねん)に芝浦しばうらだてまちげんみなと港南こうなんよん丁目ちょうめ)に品川しながわ分校ぶんこうひらき、練習れんしゅうせい、ついで補修ほしゅう学生がくせい逐次ちくじ移転いてん1944ねん昭和しょうわ19ねん)にほん校舎こうしゃ品川しながわ移転いてんして、築地つきじ分校ぶんこう。1944ねんから1945ねん昭和しょうわ20ねん)には疎開そかい関係かんけいもあって浜松はままつ分校ぶんこう練習れんしゅうせい)、垂水たるみ分校ぶんこう生徒せいと)、橿原かしはら分校ぶんこう生徒せいと)の各校かくこうひらかれ、経理けいり学校がっこう本部ほんぶ垂水たるみ高丸たかまるきゅう神戸商科大学こうべしょうかだいがく)にいた状態じょうたい終戦しゅうせんむかえた[4]

戦後せんご品川しながわ校舎こうしゃ跡地あとち農林省のうりんしょう文部省もんぶしょうがれ、水産すいさん講習こうしゅうしょあらた東京水産大学とうきょうすいさんだいがくげん東京とうきょう海洋かいよう大学だいがく品川しながわキャンパス)となった。築地つきじ校舎こうしゃ跡地あとち進駐軍しんちゅうぐんキャンプバーネスを東京とうきょうがれ、築地つきじ市場いちば一部いちぶとなった。

教育きょういく区分くぶん

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生徒せいと教育きょういく

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生徒せいと教育きょういくは、海軍兵学校かいぐんへいがっこう海軍かいぐん機関きかん学校がっこう同様どうように、旧制きゅうせい中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょうしゃ採用さいようして海軍かいぐん生徒せいととして教育きょういくする課程かていである。卒業そつぎょうは、主計しゅけい少尉しょうい候補こうほせい主計しゅけい少尉しょうい任官にんかんされる。採用さいよう生徒せいとすうへい学校がっこう機関きかん学校がっこうくらべてずくなく、ひとつの卒業生そつぎょうせいにちちゅう戦争せんそう開始かいしまで20にん以下いかであった。そのため、日本にっぽんちゅう旧制きゅうせい中学校ちゅうがっこうから俊才しゅんさいあつまった一方いっぽう極端きょくたん英才えいさい教育きょういくエリート意識いしき増長ぞうちょうさせる弊害へいがいもあった[6]うみけい30以降いこうになると生徒せいと採用さいよう人数にんずう次第しだい増加ぞうかし、太平洋戦争たいへいようせんそうちゅううみけい36(1943ねん12月入校にゅうこう)ではやく250にんうみけい37(1944ねん10がつ入校にゅうこう)ではやく500にんとなっている[7]

修業しゅうぎょう期間きかんうみけい1では3年間ねんかんで、大正たいしょう前期ぜんきに3ねん4カ月かげつあいだ延長えんちょう大正たいしょう後期こうきには3年間ねんかんもどされたが、1928ねん昭和しょうわ3ねん)に3ねん8カ月かげつあいだ、1934ねん昭和しょうわ9ねん)に4年間ねんかんさい延長えんちょうされた。その国際こくさい情勢じょうせい緊迫きんぱくから短縮たんしゅくかえされ、最終さいしゅう卒業そつぎょうの35(1945ねん3がつ卒業そつぎょう)は修業しゅうぎょう期間きかん2ねん4カ月かげつだった[4]

補修ほしゅう学生がくせい

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補修ほしゅう学生がくせいは、ねん現役げんえき士官しかん短期たんき現役げんえき士官しかん)とばれる任期にんききの主計しゅけい士官しかん養成ようせいするための速成そくせい課程かてい在校ざいこうしゃである。生徒せいと教育きょういくとはことなり、旧制きゅうせい大学だいがく旧制きゅうせい専門せんもん学校がっこう卒業そつぎょうしゃおよび高等こうとう文官ぶんかん試験しけん合格ごうかくしゃから志願しがんしゃつのり、入校にゅうこう同時どうじ海軍かいぐん主計しゅけい中尉ちゅうい専門せんもん学校がっこう卒業そつぎょうしゃ少尉しょうい候補こうほせい)に任官にんかんさせたうえ、5ヶ月かげつ程度ていど基礎きそ教育きょういくおこなった。1942ねんからは見習みならい尉官いかん身分みぶん教育きょういくけることになった。卒業そつぎょうすれば部隊ぶたい配属はいぞくとなり、入校にゅうこうから起算きさんして2年間ねんかんだけ現役げんえきふくしたのち予備よびやく編入へんにゅうされる建前たてまえとなっている。

採用さいようすう経理けいり学校がっこう生徒せいとくらべておおく、1944ねんまでの7年間ねんかんで3500にん以上いじょうであった。東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくげん東京大学とうきょうだいがく)、東京とうきょう商科しょうか大学だいがくげん一橋大学ひとつばしだいがく)、慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがくひとし有名ゆうめい大学だいがく卒業生そつぎょうせいおおくが志願しがんしゃとして殺到さっとうし、戦後せんごせいざい官界かんかい活躍かつやくする人物じんぶつおお輩出はいしゅつすることとなった(たんげん人脈じんみゃく[注釈ちゅうしゃく 1]

専修せんしゅう学生がくせい

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へいからたたきげの主計しゅけいじゅん士官しかんひとし幅広はばひろ教育きょういくほどこすための専修せんしゅうかれた。受験じゅけん資格しかくゆうするのはじゅん士官しかん進級しんきゅう2ねん以降いこう一等いっとう下士官かしかんとされ、入校にゅうこう試験しけん少数しょうすう採用さいようされた。後述こうじゅつじゅつ高等こうとう練習れんしゅうせい優秀ゆうしゅう成績せいせき卒業そつぎょうしたものおおかった。教育きょういく内容ないよう生徒せいとじゅんじたものとなっている。専修せんしゅう卒業そつぎょう特務とくむ士官しかんへいからたたきげの士官しかん)となると、通常つうじょう特務とくむ士官しかん配置はいちされないしょくにも正規せいき士官しかんじゅんじて配属はいぞくされることになった。せん修学しゅうがくせいは、太平洋戦争たいへいようせんそうちゅうの1943ねん最後さいご採用さいよう中止ちゅうしとなっている[8]

じゅつ学校がっこう

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経理けいり学校がっこう海軍兵学校かいぐんへいがっこうおな初級しょきゅう士官しかん養成ようせいこう機能きのうくわえ、海軍かいぐん水雷すいらい学校がっこうなどに対応たいおうする主計しゅけいじゅつ学校がっこうとしての機能きのうゆうしていた。

主計しゅけい士官しかんたいしては、主計しゅけい少尉しょうい中尉ちゅうい初級しょきゅう主計しゅけい士官しかんとしての教育きょういくほどこ普通ふつうと、主計しゅけい中尉ちゅういから軍艦ぐんかんとう主計しゅけいちょう要員よういん養成ようせいするための高等こうとう高度こうど専門せんもん研究けんきゅう目的もくてきとした選科せんかがあった。選科せんか教育きょういく一般いっぱん大学だいがく校外こうがい派遣はけん学生がくせいとして入学にゅうがくしての委託いたく教育きょういくもあり、とく東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくのち東京とうきょう商科しょうか大学だいがく変更へんこう)への派遣はけんうみけい生徒せいとかく優秀ゆうしゅうしゃすうめいえらばれるエリートコースであった[9]。なお、高等こうとう設置せっち建前たてまえとはことなって、高等こうとうかずに主計しゅけいちょうつとめるれいおおかった[10]

主計しゅけい下士官かしかんへいじゅつ教育きょういくのためには、普通ふつう練習れんしゅうせい高等こうとう練習れんしゅうせい設置せっちされていたが、さらに高度こうど特修とくしゅう練習れんしゅうせい課程かていまでは存在そんざいしなかったが、選抜せんばつされたものが民間みんかん学校がっこう派遣はけんされる制度せいど導入どうにゅうされており、派遣はけんされたものじゅん士官しかん以上いじょう昇進しょうしんしているれいおおい。練習れんしゅうせい専修せんしゅう分野ぶんや経理けいりじゅつ衣糧いりょうじゅつ(1937ねん以前いぜんてのひらくりやじゅつ)の2つにかれており、経理けいりじゅつ専修せんしゅうでは会計かいけいとう事務じむを、衣糧いりょうじゅつ専修せんしゅうでは調理ちょうり栄養えいようがく被服ひふくなどをまなんだ。主計しゅけい下士官かしかんへい採用さいようされるのが原則げんそくであるが、普通ふつう経理けいりじゅつ練習れんしゅうせいだけは兵種へいしゅからも受験じゅけん可能かのうで、毎年まいとし若干じゃっかん入校にゅうこうしゃがあった[11]

年表ねんぴょう

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海軍かいぐん経理けいり学校がっこういしぶみ。(東京とうきょう中央ちゅうおう築地つきじ
  • 1874ねん明治めいじ7ねん)10がつ23にち - 海軍かいぐん会計かいけい学舎がくしゃ設立せつりつしば山内やまうち天神谷てんじんだに)。
  • 1876ねん明治めいじ9ねん)7がつ31にち - 海軍かいぐん主計しゅけい学舎がくしゃ改称かいしょう
  • 1877ねん明治めいじ10ねん)6がつ14にち - 池上本門寺いけがみほんもんじ移転いてん
    • 同年どうねん11がつ16にち - 海軍かいぐん主計しゅけい学舎がくしゃ廃止はいし
  • 1882ねん明治めいじ15ねん)11月8にち - 海軍かいぐん主計しゅけい学舎がくしゃ再興さいこう芝公園しばこうえん三嶋みしまたに)。翌年よくねん生徒せいと教育きょういく再開さいかい
  • 1886ねん明治めいじ19ねん)7がつ2にち - 海軍かいぐん主計しゅけい学校がっこう改称かいしょう
    • 同年どうねん12がつ22にち - 芝公園しばこうえんきゅう本省ほんしょうていない移転いてん
  • 1888ねん明治めいじ21ねん)10がつ23にち - 京橋きょうばし築地つきじ4丁目ちょうめ1番地ばんち移転いてん
  • 1889ねん明治めいじ22ねん)2がつ25にち - 生徒せいと教育きょういく中止ちゅうししょう主計しゅけい候補こうほせいたいする教育きょういく機関きかんに。
    • 同年どうねん8がつ15にち - 下士官かしかんへいたいする練習れんしゅうせい教育きょういく開始かいし
  • 1893ねん明治めいじ26ねん)12月31にち - 海軍かいぐん主計しゅけい学校がっこう廃止はいし
  • 1899ねん明治めいじ32ねん)5がつ15にち - 海軍かいぐん主計しゅけいかん練習れんしゅうしょ設置せっち築地つきじ)。しょう主計しゅけい候補こうほせい練習れんしゅうせい教育きょういく再開さいかい
  • 1907ねん明治めいじ40ねん)4がつ20日はつか - 海軍かいぐん経理けいり学校がっこう改称かいしょう学生がくせい練習れんしゅうせい基本きほんてき教程きょうてい区分くぶん成立せいりつ
  • 1909ねん明治めいじ42ねん)4がつ23にち - 生徒せいと教育きょういく再開さいかい決定けっていうみけいだい1生徒せいと入校にゅうこう(7がつ)。
  • 1923ねん大正たいしょう12ねん)9がつ1にち - 関東大震災かんとうだいしんさいのため校舎こうしゃ全焼ぜんしょう再建さいけんまでのあいだ陸軍りくぐん経理けいり学校がっこう牛込うしごめ河田こうだまち)に間借まがり。
  • 1924ねん大正たいしょう13ねん)3がつ20日はつか - 築地つきじ校舎こうしゃ跡地あとち仮設かせつ校舎こうしゃ復帰ふっき
  • 1932ねん昭和しょうわ7ねん)9がつ30にち - おな築地つきじしん校舎こうしゃ京橋きょうばし小田原おだわらまち3丁目ちょうめ1番地ばんち)へ移転いてん
  • 1938ねん昭和しょうわ13ねん)7がつ - ねん現役げんえき主計しゅけい士官しかん短期たんき現役げんえき主計しゅけい士官しかんせい導入どうにゅうともない、補修ほしゅう学生がくせい1入校にゅうこう
  • 1943ねん昭和しょうわ18ねんはる - しば芝浦しばうらだてまちげん東京とうきょう海洋かいよう大学だいがく品川しながわキャンパス)に品川しながわ分校ぶんこう開校かいこうし、練習れんしゅうせいから順次じゅんじ移転いてん開始かいし
  • 1944ねん昭和しょうわ19ねん)9がつ - 品川しながわ分校ぶんこう本校ほんこう移転いてんし、築地つきじ分校ぶんこう浜松はままつ分校ぶんこう練習れんしゅうせい)が開校かいこう
  • 1945ねん昭和しょうわ20ねん) - 垂水たるみ分校ぶんこう本部ほんぶ生徒せいとたい)、橿原かしはら分校ぶんこう生徒せいと)が開校かいこう
    • 同年どうねん11がつ30にち - 海軍かいぐん経理けいり学校がっこうれい廃止はいし昭和しょうわ20ねん海軍かいぐん省令しょうれいだい35ごう)。

歴代れきだい校長こうちょう

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海軍かいぐん主計しゅけいがく校長こうちょう
  • けん奈良ならこころざし 主計しゅけいだいかん:1886ねん7がつ19にち- 1888ねん2がつ4にち
  • 奈良ならこころざし 主計しゅけいだいかん:1888ねん2がつ4にち - 1889ねん3がつ9にち
  • 肥田ひだゆうねん 主計しゅけいだいかん:1889ねん3がつ9にち - 1890ねん3がつ28にち
  • 土岐ときひろし 主計しゅけいだいかん:1890ねん3がつ28にち - 1891ねん4がつ21にち
  • けん肥田ひだゆうねん 主計しゅけいだいかん:1891ねん4がつ21にち - 6月17にち
  • 原田はらだあきら 主計しゅけいだいかん:1891ねん6がつ17にち - 7がつ22にち
  • 肥田ひだゆうねん 主計しゅけいだいかん:1891ねん7がつ22にち - 1892ねん10がつ4にち
  • 下条しもじょう正雄まさお 主計しゅけいだいかん:1892ねん10がつ4にち - 1893ねん5がつ20日はつか
  • けん原田はらだあきら 主計しゅけいだいかん:1893ねん5がつ20日はつか - 12月31にち
海軍かいぐん主計しゅけいかん練習れんしゅう所長しょちょう
  • けん土井どいじゅんじょ 主計しゅけいだいかん:1899ねん5がつ15にち - 1900ねん12月22にち
  • けん福永ふくなが吉之助よしのすけ 主計しゅけいだいかん:1900ねん12月22にち - 1903ねん7がつ7にち
  • けん志佐しさかち 主計しゅけいだいかん:1903ねん7がつ7にち - 11月10にち
  • けん矢野やのつね太郎たろう 主計しゅけいだいかん:1903ねん11がつ10日とおか - 1904ねん12月26にち
  • 加藤かとう八太はったろう 主計しゅけいだいかん:1905ねん1がつ12にち - 6月25にち
  • けん志佐しさかち 主計しゅけいだいかん:1905ねん6がつ25にち - 12月12にち
  • 志佐しさかち 主計しゅけいだいかん:1905ねん12月12にち - 1907ねん4がつ20日はつか
海軍かいぐん経理けいりがく校長こうちょう
  • 志佐しさかち 主計しゅけいだいかん:1907ねん4がつ20日はつか - 1908ねん8がつ15にち
  • けん宇都宮うつのみやかなえ 主計しゅけいだいかん:1908ねん8がつ15にち - 1909ねん12月1にち
  • 宇都宮うつのみやかなえ 主計かずえだいかん:1909ねん12月1にち - 1911ねん9がつ6にち
  • 藤田ふじたけいこう 主計しゅけいだいかん:1911ねん9がつ6にち - 1913ねん12月1にち
  • さくら孝太郎こうたろう 主計しゅけい総監そうかん:1913ねん12月1にち - 1914ねん8がつ8にち
  • けん清水しみず宇助 主計しゅけいだいかん:1914ねん8がつ8にち - しょう
  • 清水しみず宇助 主計しゅけい総監そうかんしょう - 1915ねん12月13にち
  • 相良さがらきよし 主計しゅけい総監そうかん:1915ねん12月13にち - 1916ねん12月1にち
  • 佐野さの雄治ゆうじ 主計しゅけい総監そうかん:1916ねん12月1にち - 1919ねん12月1にち
  • 深水ふかみ貞吉さだきち 主計しゅけい少将しょうしょう:1919ねん12月1にち - 1932ねん5がつ25にち[12]
  • 心得こころえ加藤かとう亮一りょういち 主計しゅけい大佐たいさ:1932ねん5がつ25にち[12] - 1923ねん12月1にち
  • 加藤かとう亮一りょういち 主計しゅけい少将しょうしょう:1923ねん12月1にち - 1924ねん12月1にち
  • 刑部おさかべひとし 主計しゅけい少将しょうしょう:1927ねん4がつ13にち - 1931ねん12月1にち
  • 入谷いりやきよしちょう 主計しゅけい中将ちゅうじょう:1931ねん12月1にち - 1932ねん12月1にち
  • 村上むらかみ春一しゅんいち 主計しゅけい少将しょうしょう:1932ねん12月1にち - 1933ねん5がつ20日はつか
  • 池辺いけべ安雄やすお 主計しゅけい少将しょうしょう:1933ねん10がつ10日とおか - 1935ねん11月15にち
  • 佐々木ささき重蔵しげぞう 主計しゅけい少将しょうしょう:1935ねん11月15にち - 1937ねん12月1にち
  • 大束おおつか健夫たけお 主計しゅけい少将しょうしょう:1937ねん12月1にち - 1939ねん4がつ12にち
  • 金谷かなや隆一りゅういち 主計しゅけい少将しょうしょう:1939ねん4がつ12にち - 1941ねん4がつ10日とおか
  • 本田ほんだ増蔵ますぞう 主計しゅけい中将ちゅうじょう:1941ねん4がつ10日とおか - 1942ねん3がつ26にち
  • 片岡かたおか覚太郎かくたろう 主計しゅけい少将しょうしょう:1942ねん3がつ26にち - 1943ねん6がつ1にち
  • 紺野こんのいつわたる 主計しゅけい少将しょうしょう:1943ねん6がつ1にち - 1945ねん9がつ30にち

おも出身しゅっしんしゃ

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生徒せいと出身しゅっしんしゃ
基本きほんてき主計しゅけい士官しかん養成ようせい課程かていうみけいというとこのグループをす。
補修ほしゅう学生がくせい出身しゅっしんしゃ
ねん現役げんえき士官しかん短期たんき現役げんえき士官しかん)の速成そくせい課程かていCategory:大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん短期たんき現役げんえき士官しかん参照さんしょう
その
詳細しょうさい調査ちょうさちゅうふくむ。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 主計しゅけい士官しかんになれば最前線さいぜんせん可能かのうせい多少たしょうなりともひくくなるため、兵役へいえきのが意味合いみあいもあった。艦船かんせん勤務きんむであっても、艦橋かんきょう戦闘せんとう記録きろくるため戦死せんしりつがった一方いっぽう艦船かんせん沈没ちんぼつするさいには軍医ぐんいともさき記録きろく書類しょるいかかえてげることが使命しめいとなっており、また、後方こうほう勤務きんむ兵器へいき工場こうじょうなどの監督かんとくになることもおおかったため、総合そうごうてき判断はんだんすればくらべて戦死せんしりつきわめてひくかった。機関きかん将校しょうこう兵科へいか将校しょうこうとの区別くべつ段階だんかいてき撤廃てっぱいされたが(海軍かいぐん機関きかん問題もんだい)、主計しゅけい士官しかん敗戦はいせんいたるまで戦闘せんとう要員よういんの「将校しょうこう」とはされず「将校しょうこう相当そうとうかん」であった。

出典しゅってん

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  1. ^ 英和えいわ陸海りくかい軍兵ぐんびょう辞典じてん明治めいじ43ねん
  2. ^ 英和えいわ海軍かいぐん術語じゅつご辞彙じい明治めいじ44ねん
  3. ^ 伊藤いとうたかし監修かんしゅう)、百瀬ももせたかしちょ) 『事典じてん 昭和しょうわせん前期ぜんき日本にっぽん 制度せいど実態じったい吉川弘文館よしかわこうぶんかん1990ねんISBN 4-642-03619-9、355ページ。
  4. ^ a b c d 海軍かいぐん経理けいり学校がっこう歴史れきし」『だてきょうをわたって
  5. ^ 雨倉あめくら(2007ねん、294ぺーじ
  6. ^ 雨倉あめくら(2007ねん、297ぺーじ
  7. ^ はじめに」『だてきょうをわたって
  8. ^ 雨倉あめくら(2008ねん、187-191ぺーじ
  9. ^ 雨倉あめくら(2007ねん、304-305ぺーじ
  10. ^ 雨倉あめくら(2007ねん、299-300ぺーじ
  11. ^ 雨倉あめくら(2008ねん、116-118ぺーじ
  12. ^ a b 官報かんぽうだい3245ごう大正たいしょう12ねん5がつ26にち
  13. ^ 吉岡よしおか逸夫いつお政治せいじ風格ふうかく高陵こうりょうしゃ書店しょてん、2009ねん、33ぺーじISBN 978-477110973-5 
  14. ^ 中村なかむらほう寿ひさしわが生涯しょうがいのハイライト」『だてきょうをわたって
  15. ^ 秋元あきもと書房しょぼうかん海軍兵学校かいぐんへいがっこう 海軍かいぐん機関きかん学校がっこう 海軍かいぐん経理けいり学校がっこう』、1971ねん、269ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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