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渡来人 - Wikipedia

渡来とらいじん

とく古代こだい中国ちゅうごく朝鮮ちょうせんから日本にっぽん移住いじゅうした人々ひとびと
渡来とらいけいから転送てんそう

渡来とらいじん(とらいじん)とは、古代こだい中国ちゅうごく朝鮮半島ちょうせんはんとうから日本にっぽん渡来とらいした人々ひとびとおよびその子孫しそんのこと[1]縄文じょうもん時代じだいないし弥生やよい時代じだいにすでに日本にっぽん渡来とらいした人々ひとびとがいたことがうかがわれ、また平安へいあん時代じだい以降いこう日本にっぽんわたって人々ひとびとはいたが、歴史れきしじょうとく重要じゅうよう意味いみをもつのは4世紀せいきまつから7世紀せいき後半こうはん移住いじゅうした渡来とらいじんである[1]

人類じんるいがくでは、弥生やよい時代じだい以降いこうユーラシア大陸たいりくから渡来とらいした人々ひとびと渡来とらいけい弥生やよいじんなど)の総称そうしょうとしてもちいられることがおお[2][† 1][3]

渡来とらい一時期いちじき集中しゅうちゅうしてこったわけではなく、いくつかの移入いにゅうなみがあったとかんがえられている。また、そのルーツかんしては、朝鮮半島ちょうせんはんとう中国ちゅうごく大陸たいりくまんしゅうにシベリア大陸たいりく中東ちゅうとう諸国しょこくなどさまざまである。

概説がいせつ

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3世紀せいきすえ - 6世紀せいき古墳こふん時代じだいにはヤマト王権おうけんつかえる技術ぎじゅつしゃ亡命ぼうめいものとして朝鮮半島ちょうせんはんとうから人々ひとびと渡来とらいした。4世紀せいき後半こうはんから5世紀せいきにかけて、ヤマト王権おうけん百済くだら同盟どうめいのために百済くだらうみわたってりょう西経せいけいりゃくをしたときかえ出兵しゅっぺいするなど大陸たいりく侵略しんりゃくしており、このことはそうしょ百済くだらでんにも記録きろくされている。渡来とらいじんなかには大王だいおう中心ちゅうしんとするヤマト王権おうけんにおいて重要じゅうよう位置いちめたもの文化ぶんか発展はってん寄与きよした[† 2] ものがいた。

また飛鳥あすか時代ときよには百済くだらより貴族きぞく日本にっぽんたよって渡来とらいした。なかでも最後さいご百済くだらおう慈王王子おうじぜんひろは、もちすべ天皇てんのうより百済くだらおう(くだらのこにきし)氏姓しせいたまわり、百済くだらけい氏族しぞく代表だいひょうてき存在そんざいとなった。

大和やまと朝廷ちょうていでは優遇ゆうぐうされ、かんじんとして登用とうようされたものすくなくなく、ひろじん6(815)ねん編纂へんさんされた「新撰しんせん姓氏せいしろく」に記載きさいされる1182のうち、326がしょしげるすなわち渡来とらいけい氏族しぞくであり、全体ぜんたいの3わりめている[1]しょしげる出身しゅっしんかんが163、百済くだらが104、高麗こうらい高句麗こうくり)が41、しんが9、にんが9であった[1]

帰化きかじん」と「渡来とらいじん

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帰化きか渡来とらい語義ごぎ

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かえりはもとかえりであり、もといた場所ばしょもど意味いみのほかに、したが服従ふくじゅうすること、よめくなどの帰化きか他国たこく国籍こくせきはいりその臣民しんみんとなること、臣服しんぷくすること(こころざし鄧艾でんはつ使つげ利害りがい歸化きかせい而定也」。あるいは教化きょうかふくしたがうこと(高僧こうそうでんかんとく歸化きかしゃじゅうゆうななはち焉」)。一方いっぽうわたりという用語ようごみずこう)やうみわた意義いぎであり、大陸たいりくあいだでの移動いどううつり(うつしかえること)をもっぱらもちいた。「移住いじゅう」。また「ていきょ定住ていじゅうすること)」。「移民いみん」はひとすくない場所ばしょみんをうつしませること。「遷」は上下じょうげ関係かんけいなかでの移動いどうとくにさす。

古代こだいにおける「帰化きか」の語義ごぎ

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帰化きか」という語句ごく本来ほんらい意味いみは、「君主くんしゅとく教化きょうか感化かんかされて、そのもとにふくしてしたがうこと」(こう漢書かんしょわらわ恢伝)で、歴史れきしがくてき定義ていぎとしては、以下いかのものがある[4]

1.がいけがい国々くにぐにから、そのくにおう徳治とくじしたい、みずか王法おうほう圏内けんないとうじ、王化おうかかえりきふすること
2.そのくにおうも、一定いってい政治せいじてき意思いしにもとづいて、これをれ、衣料いりょう供給きょうきゅうこくぐん安置あんちへんぬき戸籍こせきといううちみん手続てつづきをて、そのくにれいほう秩序ちつじょ帰属きぞくさせる一連いちれん行為こういないし現象げんしょうのこと

史書ししょにおける用法ようほう

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平野ひらの邦雄くにおによれば、『日本書紀にほんしょき』の用法ようほうにおいて、「帰化きか」「らい」「投下とうか」「」はいずれもオノヅカラモウク、マウクとみ、概念がいねんちがいはない[5]。また古事記こじきではさんれいとも「まいり渡来とらい」としるし、マイワタリツ、マウクとくん[5]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 日経にっけいサイエンス8がつごう特集とくしゅうヤポネシア 47都道府県とどうふけんじんのゲノムがかす 日本人にっぽんじん起源きげん ではこの意味いみで「渡来とらいじん」のかたりもちいられている。
  2. ^ 5世紀せいき後半こうはん~6世紀せいき朝鮮半島ちょうせんはんとうから移住いじゅうした技術ぎじゅつをもった人々ひとびとを『日本書紀にほんしょき』では「古渡こわたりざい伎(こわたりのてひと)」にたいして「今来こんらいざい伎(いまきのてひと)」とんでいる。『日本書紀にほんしょき』「雄略ゆうりゃく」によれば今来こんらいざい伎は百済くだらから派遣はけん人々ひとびとである(雄略天皇ゆうりゃくてんのうななねんあつまり聚百済所貢今来才伎於大嶋中」)。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん渡来とらいじん[1]
  2. ^ 横田よこた健一けんいちはくおおとり天平てんぺい芸術げいじゅつ精神せいしん研究けんきゅう序説じょせつ : 群像ぐんぞう形式けいしきゆううつせい表現ひょうげん中心ちゅうしんとして」『関西大学かんさいだいがく東西とうざい学術がくじゅつ研究所けんきゅうじょ紀要きようだい6かん関西大学かんさいだいがく東西とうざい学術がくじゅつ研究所けんきゅうじょ、1973ねん3がつ、41-57ぺーじISSN 02878151NAID 120006494410 
  3. ^ 州浜すはま昌利まさとしはた性格せいかくについて」『法政ほうせい史学しがく= 法政ほうせい史学しがくだい11ごう法政大学ほうせいだいがく学会がっかい、1958ねん11月、103-108ぺーじdoi:10.15002/00011858ISSN 0386-8893NAID 120005626029 
  4. ^ 平野ひらの邦雄くにお帰化きかじん古代こだい国家こっか』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん 2007ねん)pp.1-10
  5. ^ a b 平野ひらの邦雄くにお帰化きかじん古代こだい国家こっか』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん 2007ねん) p.2

関連かんれん項目こうもく

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