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盤外戦 - Wikipedia

ばんがいせん(ばんがいせん)とは、ボードゲームにおいて、盤上ばんじょう勝負しょうぶとはべつに、対局たいきょくまえ対局たいきょくちゅうおこなわれる心理しんりせんのことをす。

概要がいよう

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しゅとして、対局たいきょくちゅう行動こうどうによって相手あいて集中しゅうちゅうりょくさまたげたり、心理しんりてきなプレッシャーをあたえたり、対局たいきょくまえ苦手にがて意識いしき劣等れっとうかんけたりして、勝負しょうぶ優位ゆうい手法しゅほうがある。このような心理しんりせんは、軍事ぐんじ外交がいこう、ビジネスでの交渉こうしょうでみられるものと類似るいじしている。

通常つうじょうボードゲーム頭脳ずのうスポーツであり、対局たいきょくにおける技術ぎじゅつ技能ぎのう優劣ゆうれつ勝負しょうぶおおきく支配しはいする。とく将棋しょうぎ囲碁いごなどの二人零和有限確定完全情報ゲームなどはうん関係かんけいしないため、純粋じゅんすい頭脳ずのうたたかいとなるが、これとはべつ相手あいて思考しこう判断はんだんを、妨害ぼうがいしたり弱体じゃくたいさせることで、結果けっかとして自分じぶん優位ゆういになるようにはかるのがばんがいせん基本きほんである。

れいとしては、ふうきらっている相手あいてふうをさせるため時間じかん直前ちょくぜんばんわたす、冷暖房れいだんぼう極端きょくたんにしたりせき位置いちにクレームをつける、ささやき戦術せんじゅつ戦法せんぽう予告よこくをするなどがあげられる。将棋しょうぎ棋士きしななだん将棋しょうぎライターの河口かわぐち俊彦としひこは「こういうときはなんであれ自分じぶんのいいぶんとおしたほうち」とべている。囲碁いごでは藤沢ふじさわ秀行ひでゆき晩年ばんねんのインタビューで「あのころ藤沢ふじさわ坂田さかた栄男さかおがタイトルせんでしのぎをけずっていたころ)は相手あいておこらせるのも勝負しょうぶうちだった」とかたっており、棋力きりょく拮抗きっこうしたもの同士どうしでの対局たいきょくでは、優位ゆういるための方法ほうほうとして重要じゅうようされている。

その一方いっぽうで、ばんがいせん応酬おうしゅうによって対局たいきょく妨害ぼうがいされるのを防止ぼうしするため、相手あいて集中しゅうちゅう行為こうい対局たいきょくちゅうつぶやく、扇子せんすなどを開閉かいへいするひとし)の禁止きんし明文化めいぶんかしている団体だんたい国際こくさいチェス連盟れんめい)もある。

もっとも、下記かきのとおりばんがいせん対局たいきょくちゅうだけのものではなく、長期間ちょうきかんにわたっておな相手あいてなん対戦たいせんする頭脳ずのう競技きょうぎ世界せかいでは対局たいきょくじょう以外いがい私生活しせいかつまでばんがいせんとなることがある。河口かこう著作ちょさくれたれいでは、「かねこまって対局たいきょくりょう前借まえがりをもうみそのから経理けいり担当たんとう理事りじてなくなった棋士きした」という。

将棋しょうぎ

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公式こうしきせん管轄かんかつする日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめいには、ばんがいせんについて明文化めいぶんかされた罰則ばっそくなどはない。そもそもこれがばんがいせんであると明確めいかくされなければ、罰則ばっそく設定せっていできない。

だい3名人めいじんせんだい1きょく木村きむら義雄よしお神田かんだ辰之助たつのすけいちせんで、神田かんだ有利ゆうりむかえた終盤しゅうばん神田かんだ秒読びょうよみの時間じかんれそうになった。当時とうじはタイトルせんでもそう厳密げんみつではなかったが、木村きむらは12さい年長ねんちょう神田かんだに「きみ時間じかんだよ!」と一喝いっかつ、とっさにしただい悪手あくしゅ神田かんだ逆転ぎゃくてんけとなった。ななばん勝負しょうぶは4-0で木村きむらち。[1]

だい7名人めいじんせん挑戦ちょうせんしゃ決定けっていせんの「高野たかのさん決戦けっせん」では、Aきゅう1だった升田ますだ幸三こうぞう塚田つかだ正夫まさおへの挑戦ちょうせんしゃ当然とうぜんだったが、名人めいじんせん当時とうじ主催しゅさいしていた毎日新聞社まいにちしんぶんしゃは、自社じしゃ嘱託しょくたく棋士きしであったBきゅう1大山おおやま康晴やすはる強引ごういん参画さんかくさせるため、突然とつぜんAきゅう上位じょうい3めいとBきゅう1のプレーオフで名人めいじんせん挑戦ちょうせんしゃめる変則へんそく実施じっしした。朝日新聞社あさひしんぶんしゃ嘱託しょくたく棋士きしであった升田ますだには対局たいきょく日程にってい場所ばしょ事前じぜん通知つうちかった一方いっぽうで、毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ大山おおやまには高野山こうのやまへの豪勢ごうせい送迎そうげいをしていた。しかも、十二指腸じゅうにしちょう具合ぐあいがよくなかった升田ますだ温暖おんだん場所ばしょでの対局たいきょく依頼いらいしていたにもかかわらず、毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ寒冷かんれいこう野山のやまえらんだ[1]

名人めいじんせん主催しゅさいしゃ朝日新聞社あさひしんぶんしゃ移行いこうして以降いこうは、升田ますだ幸三こうぞうてば役員やくいん総出そうでだい宴会えんかいになり、大山おおやま康晴やすはるったらそのまま全員ぜんいんかえった、大山おおやま升田ますだやぶれればカメラマンなん投了とうりょう瞬間しゅんかん再現さいげんするようせまったなどの逸話いつわつたえられている。

ルールとして禁止きんしされているわけではないが、二上ふたかみ達也たつやのように盤上ばんじょうでの勝負しょうぶにこだわり、ばんがいせんおこなわなかった棋士きし存在そんざいする。また戦後せんごまれの棋士きしやネット中継ちゅうけいされる棋戦きせんえるにしたがって、かたりぐさになるような派手はでばんがいせんられなくなっており、佐藤さとうたかしによれば、21世紀せいき将棋しょうぎかいではばんがいせんは「やるべきでない」ものとなっているという[2]

大山おおやま康晴やすはる

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第一人者だいいちにんしゃとなったのち大山おおやま康晴やすはるは、自身じしんがトップにつづけるために、相手あいて屈辱くつじょくかんコンプレックス徹底的てっていてきける、非情ひじょうなまでの勝負しょうぶ至上しじょう主義しゅぎであった[1]

  • 盤上ばんじょう勝勢しょうせいになっても、一気いっきせずに長手ながてすう対局たいきょく相手あいてをいたぶり、じっくり時間じかんをかけて心理しんりてき屈辱くつじょく無力むりょくかんあたえた[1]。たとえば、だい19名人めいじんせんでは、挑戦ちょうせんしゃ加藤かとう一二三ひふみだい1きょくで1しょうしたのちだい2・3・4きょくで3連敗れんぱいしてカド番かどばんむかえたが、だい5きょくにて大山おおやま千日手せんにちてなおしをふくめて一気いっきちをめずになぶりころすようにして、加藤かとう潜在せんざい意識いしき屈辱くつじょく無力むりょくかん徹底的てっていてきんだ。
  • 名人めいじんせん王将おうしょうせんでは1にち終了しゅうりょう自分じぶんきなタイミングでげ、旅館りょかんんでいた大山おおやま一派いっぱ対局たいきょくしゃ徹夜てつや麻雀まーじゃんさそい、自分じぶん途中とちゅう部屋へやかえやすんでいた。
  • 通称つうしょうだか野山のやま決戦けっせんともわれる有名ゆうめいいちきょく升田ますだ幸三こうぞう大山おおやま康晴やすはる名人めいじん挑戦ちょうせんしゃ決定けっていせん。このとし順位じゅんいせん升田ますだはAきゅう順位じゅんいせんを1え、名人めいじんへの挑戦ちょうせんけんにするはずだった。しかし、そのとき異例いれいのルールで急遽きゅうきょAきゅう上位じょうい3にんとBきゅういち合計ごうけい4にんでプレーオフをおこな”ことになる。そのときのBきゅう1大山おおやま。そして、がった升田ますだ大山おおやま挑戦ちょうせんしゃ決定けっていせんさんばん勝負しょうぶたたかうことになる。その当時とうじ十二指腸じゅうにしちょう具合ぐあいくなかった升田ますだはせめてあたたかいところでの対局たいきょく希望きぼうしていた。しかし、升田ますだのもとに対局たいきょく通知つうちとどいたのは対局たいきょく前日ぜんじつ。さらに2がつゆきさむ高地こうち高野山こうのやま”での対局たいきょくとなっていた。高野たかのさん和歌山わかやまけんにあり、升田ますだいそいで大阪おおさかから高野たかのさんかう。事前じぜん通知つうちをもらっていた大山おおやま対局たいきょくにちまえ悠々ゆうゆう現地げんちり。結果けっか升田ますだ終始しゅうし優勢ゆうせいきずくも最後さいごだい逆転ぎゃくてん大山おおやまち。当時とうじ観戦かんせんには「升田ますだ顔色かおいろそとゆきのようにさおだった」とかれている。これは当時とうじ主催しゅさいしゃである毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ大山おおやまとの共謀きょうぼうだったとわれている。
  • 相手あいて長考ちょうこうはいると、相手あいて視線しせんねらってわきはさんだ扇子せんすまわして集中しゅうちゅうりょくさまたげるなどのテクニックもあったほか、もの雑談ざつだんをしはじめるということもおおかった[3]
  • 河口かわぐち俊彦としひこは「別冊べっさつNHK将棋しょうぎ講座こうざ もう一度いちどたい!伝説でんせつめい勝負しょうぶ」に寄稿きこうしたなかで、「大山おおやま催眠さいみんじゅつ使つかっている、というせつがあって、もり雞二田中たなか寅彦とらひこ本気ほんきしんじていたようだった。まさかとおもったが実際じっさい対局たいきょくしてみるともり田中たなか気持きもちがわかった」といている。ただし、河口かこう催眠さいみんじゅつ正体しょうたいについて「いまおもかえすと、催眠さいみんじゅつにかけられたわけではなく大山おおやま威圧いあつかん圧倒あっとうされたのである」といっている[4]。なお、もり田中たなか対局たいきょく直前ちょくぜん剃髪ていはつなどの行動こうどう発言はつげんなど自分じぶんふるいたせたりする言動げんどうなどがばんがいせんとみられてしまうこともしばしばである。
  • 二上ふたかみ達也たつやたいしては、全盛期ぜんせいき大山おおやまじょうがタイトル挑戦ちょうせんしてきたことでじょうをつけた。二上ふたかみ自身じしんばんがいせんまったくやらなかったので、対比たいひとしてもかたられることがおおいエピソードである。
    • タイトルせん前夜祭ぜんやさいで、「たつやたちまち撃滅げきめつの」ではじまるだい東亜とうあ決戦けっせんうたうたった[5]
    • 二上ふたかみ詰将棋つめしょうぎ作家さっかでもあったが、対局たいきょくちゅう記録きろくがかり詰将棋つめしょうぎほんにしていると、大山おおやまは「詰将棋つめしょうぎなんかはなんやくにもたないよ」とののしって、対局たいきょく相手あいてじょう神経しんけいぎゃくでた[3]
    • 日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい会長かいちょうであった大山おおやまは、徹底的てっていてきパワーハラスメント当時とうじ理事りじつとめた二上ふたかみをいたぶった[1]
  • 米長よねなが邦雄くにおたい内藤ないとう國雄くにおのタイトルせんを「あんなのはぐんせんだよ」と大山おおやま康晴やすはるはいいすてたことを、大山おおやまぼつ対談たいだんしゅうかたっている[6]
  • 大山おおやま康晴やすはるは、はな村元むらもとつかさやぶった対局たいきょくに「はなちゃん、あんたは所詮しょせん素人しろうとだもんね」と、真剣しんけんからプロ棋士きし転向てんこうした花村はなむら痛烈つうれつ言葉ことばびせた。
  • 中原なかはらまこと大山おおやまばんがい戦術せんじゅつつうじなかった一人ひとりであった。
    • 河口かわぐち俊彦としひこは「大山おおやま中原なかはら棋界きかい関係かんけいしゃゴルフき、旅館りょかんいたとき、『めしって麻雀まーじゃんをしよう』と大山おおやまがいいだした、大山おおやまうことなのでみんな嫌々いやいやめし準備じゅんびをしていると最後さいごあらわれた中原なかはらが『なんで風呂ふろはいらないんですか?そんなはないですよ』とし、やれうれしやとみな中原なかはらについて風呂ふろへ、大山おおやま一人ひとり宴会えんかいじょうのこされた」という逸話いつわ紹介しょうかいしている[1]
    • 中原なかはらとの王位おういせんで、対局たいきょく見学けんがくしゃのためとして、ばんきをえようと主張しゅちょうしたことがある[3]
    • 中原なかはらまこと名人めいじんうばわれても、「じゅうせい名人めいじん」の称号しょうごうではなく「大山おおやま名人めいじん」とぶように相手あいていた。
  • 小学生しょうがくせい名人めいじんせん羽生はぶ善治よしはる優勝ゆうしょうしたとき、谷川たにがわ浩司こうじが「このまま頑張がんばれば、プロになるのもゆめではない」と羽生はぶたたえてはげましたのにたいして、大山おおやま康晴やすはるは「すうねん谷川たにがわくん目標もくひょうにタイトルをあらそっているでしょう」といいはなち、谷川たにがわ恥辱ちじょくけてかおきつるだけだった[7]。ただし、この7ねんの1988年度ねんどNHKはい羽生はぶ大山おおやま谷川たにがわらをやぶって優勝ゆうしょうしているので、予言よげんとしては大山おおやま発言はつげんたっている。
  • 羽生はぶ善治よしはるがまだし(C1きゅう高校こうこう通学つうがくちゅう)のころに、大山おおやま康晴やすはるとの対戦たいせん(1988ねん5がつだい38王将おうしょうせん予選よせん)の前後ぜんご過密かみつスケジュールを大山おおやまませられ、しかも大山おおやま途中とちゅう対局たいきょく一時いちじ中断ちゅうだんすると羽生はぶ青森あおもりけん百石ひゃっこくまちまでし、そこで対局たいきょく再開さいかいいたうえ後援こうえんかい宴席えんせきまで出席しゅっせき強要きょうようした[ちゅう 1]
  • 大山おおやま康晴やすはるたい羽生はぶ善治よしはる対局たいきょくで、大山おおやま優勢ゆうせい局面きょくめん羽生はぶがあっさり投了とうりょうした。投了とうりょうのタイミングのはやさに対局たいきょく解説かいせつしまあきらおどろくほどだった。長手ながてすうでじっくりいたぶるばんがい戦術せんじゅつをかわされたことで、大山おおやま不機嫌ふきげんになり米長よねなが邦雄くにおすすめても感想かんそうせんおこなわなかった。
  • 1991ねんガン再発さいはつして手術しゅじゅつする直前ちょくぜんした順位じゅんいせんたい有吉ありよし道夫みちおせんでは、弟子でし有吉ありよしたい対局たいきょくまえ雑談ざつだんさいに「ガンが再発さいはつしたので今度こんど手術しゅじゅつする」とげた。もっとも、将棋しょうぎ自体じたい有吉ありよしっているが、その大山おおやまは、本来ほんらいなら入院にゅういんちゅう不戦敗ふせんぱいになるはずのつぎ対局たいきょくを「入院にゅういんまえげてしたい」と将棋しょうぎ連盟れんめいもうれ、その対局たいきょくはきっちりっている[1]

その有名ゆうめい棋士きしたちのばんがい戦術せんじゅつ

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米長よねなが邦雄くにおは、1990ねん(1989年度ねんど)のだい39王将おうしょうせん挑戦ちょうせんしゃとなったとき、「よこれないようなおとこけては先祖せんぞさまもうわけない」と新聞しんぶん紙上しじょうでコメントし、よこ戦法せんぽうをほとんどさなかったみなみ芳一よしかず王将おうしょう当時とうじ)を挑発ちょうはつした。すると、みなみ対局たいきょくよこった。ちなみに、このななばん勝負しょうぶでは2きょくよこりとなり、1しょう1はいであったが、ななばん勝負しょうぶ米長よねながっている。ただし、米長よねながは、後年こうねんばんがい戦術せんじゅつ不利ふりほうがやると相場そうばまっている。そんなものをしかけてしまっては、不利ふりあせりをみとめ、相手あいて自信じしんけさせるだけでかえってそん」とかたっている[8]

加藤かとう一二三ひふみは、しきりと対局たいきょく条件じょうけん注文ちゅうもんをつけることで有名ゆうめいで、ばんこま交換こうかん申出もうしでから冷暖房れいだんぼう調子ちょうしては「(だい28王将おうしょうせん箱根はこね天成てんせいえんでの対局たいきょくで)庭園ていえん人工じんこうたきおとがうるさいからめてほしい」とったことがある。また、さき対局たいきょくじょうにきてなににせず上座かみざすわる、対局たいきょくちゅうにも空咳からせきそらち、相手あいて背後はいごまわって相手あいて視点してんから局面きょくめんる(これにかんしては『相手あいて視点してんからかんがえる』という合理ごうりてき行動こうどうである)[ちゅう 2]、などの奇行きこうおおい。これが意図いとてきばんがいせんなのかたん神経質しんけいしつなだけなのかは不明ふめいだが、これらをんだ棋士きし日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい理事りじかいで「加藤かとう奇行きこうをやめさせろ」と提起ていきしたことがある。なお、加藤かとう本人ほんにんは、「ストーブにしろエアコンにしろばん位置いちにしろ、どっちでもいいじゃないかとおもわれるかもしれない。でも、勝負しょうぶとしてそこでゆずってしまってはいけない。自分じぶん主張しゅちょうとおそうとするのは『絶対ぜったいつんだ』というつよ意識いしきあらわれで、いてしまったら上下じょうげ関係かんけいけっしてしまう。勝負しょうぶたるもの、ばんがいせんととられようと主張しゅちょうすべきところは絶対ぜったい主張しゅちょうすべき」とべている[9]

中原なかはらまことは、大山おおやまほどはばんがいせん使つかわなかったが、終盤しゅうばんちをるとトイレにつという習慣しゅうかんがあった。これには環境かんきょうえてなおしをおこなうことでポカをふせぐという意図いとがあったが、この習慣しゅうかん棋士きしわたるにつれて、中原なかはら終盤しゅうばんでトイレにつだけで戦意せんいなか喪失そうしつする対戦たいせん相手あいてすくなくなかった。また、米長よねなが邦雄くにおとの対局たいきょく本来ほんらいだれにもられてはいけないはずの「ふう」をおこなさいに、あろうことか対局たいきょく相手あいてである米長よねながたいし、「△4ろくかくを△3ななかくなりとするにはどういたらいいか」たずねた[10]

藤井ふじいたけしは、2000年度ねんどだい59順位じゅんいせんBきゅう1くみ郷田ごうだしんたかし三浦みうら弘行ひろゆきとAきゅうへの昇級しょうきゅうわく2つをめぐってあらそっていたが、最終さいしゅうせんまえにして郷田ごうだ三浦みうらてば昇級しょうきゅうとなるのにたいして、藤井ふじい自分じぶんったうえ郷田ごうだ三浦みうらのどちらかがけないと昇級しょうきゅうにならないという状況じょうきょうであった。そんななか最終さいしゅうせん対局たいきょくむかえたが、おりしも将棋しょうぎ会館かいかんでは王座おうざせん予定よていされており、王座おうざせん2きょく特別とくべつ対局たいきょくしつで、順位じゅんいせんBきゅう1くみの5きょく大広間おおひろまおこな予定よていとなっていた。ここで藤井ふじいが「2人ふたりまえではしたくない。特別とくべつ対局たいきょくしつしたい」と主張しゅちょうし、そのとおりに部屋へや変更へんこうされた。対局たいきょく結果けっか藤井ふじい勝利しょうり三浦みうら郷田ごうだはどちらも敗北はいぼくとなり、藤井ふじいはAきゅうりをめた。河口かわぐち俊彦としひこはこれを、「いたいことを、はっきりったものち、へん我慢がまんしたほうける」とひょうしている[11]

1963ねんだい2名人めいじんせん挑戦ちょうせん手合てあいだい6きょくでは、挑戦ちょうせんしゃ坂田さかた栄男さかおふう定刻ていこく間際まぎわ着手ちゃくしゅしたが、ふうきらいな自分じぶんばんわた露骨ろこつ行為こういおこった藤沢ふじさわ秀行ひでゆきそくった。しかし坂田さかたそく着手ちゃくしゅし、藤沢ふじさわふうたせた。この心理しんりせん動揺どうようした藤沢ふじさわはこのふう悪手あくしゅってしまい、このとした。つぎだい7きょくでは、藤沢ふじさわ定刻ていこくすうびょうまえって坂田さかたふうをさせることに成功せいこうしたが、結局けっきょくこのにもやぶれ、名人めいじんうしな結果けっかとなった。

国際こくさいチェス連盟れんめい管轄かんかつする公式こうしき大会たいかいでは、中立ちゅうりつてき立場たちばのアービター[ちゅう 3]いたるが、対局たいきょくちゅうばんがいせんについて監視かんしおこなっている。

かつては頻繁ひんぱんけの申請しんせいをするなど、相手あいて思考しこう妨害ぼうがいする行為こうい野放のばなしであったため、現在げんざいでは「どのような方法ほうほうであっても、対局たいきょくしゃ動揺どうようさせる行為こうい禁止きんし」と規則きそく明文化めいぶんかされており、間違まちがった時間切じかんぎれの指摘してきけのもう以外いがい相手あいてはなしかけることも禁止きんししている。けのもうについても、自分じぶん不利ふり局面きょくめんなんもうるなど、アービターが妨害ぼうがい行為こうい判断はんだんすれば、反則はんそくけとなる。

2006ねんにはウラジーミル・クラムニク対局たいきょくちゅう頻繁ひんぱんにトイレにつため、相手あいて陣営じんえいから不正ふせい行為こうい(ソフトによるカンニング)のうたがいがあるとしてクレームをけるなど、近年きんねんでは対局たいきょくちゅう挙動きょどう[ちゅう 4]服装ふくそう[12]についてもきびしくなっている。

麻雀まーじゃん

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競技きょうぎ麻雀まーじゃん主要しゅよう団体だんたい競技きょうぎ規則きそくではばんがいせんについて明文化めいぶんかされた罰則ばっそくなどはない。このため、長考ちょうこうしょう手返てがえし、強打きょうだのようにフリーすずめそうではマナー違反いはんとされる行為こうい放置ほうちされていることもあるが、必要ひつよう私語しご禁止きんしのように暗黙あんもく了解りょうかいとなっている事項じこうもある。

Mリーグでは過度かどなためいきやぼやきなど、相手あいてまどわす可能かのうせいがある行為こういがルールで規定きていされ、違反いはんしゃにはペナルティがあたえられる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただし、これにかんしては、羽生はぶ将来しょうらいのタイトルホルダーと見込みこんだ大山おおやまが、地方ちほう対局たいきょくおおいタイトルせん雰囲気ふんいき羽生はぶ体感たいかんさせるためにったとする見方みかたもある。(椎名しいな龍一りゅういち羽生はぶ善治よしはる ゆめと、自信じしんと。』)なお、日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい発行はっこうの「大山おおやま康晴やすはるめいきょくしゅう」(P410~、2012ねん)に収録しゅうろくされているこの対局たいきょく戦記せんきでは、大山おおやま対局たいきょくじょう移動いどうれていない。
  2. ^ のちニコニコ生放送なまほうそうにおいて「ひふみんアイ」と名付なづけられる。ちなみに石田いしだ和雄かずお同様どうよう行為こういしきりにおこな傾向けいこうがあった。
  3. ^ もうての仲裁ちゅうさいなどをおこな資格しかくった審判しんぱんいん
  4. ^ 自分じぶんばんでは、こま移動いどうするまで着席ちゃくせきしている必要ひつようがあり、相手あいてばんでもせきはずさいはアービターに許可きょか必要ひつようがある。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g 河口かわぐち俊彦としひこ大山おおやま康晴やすはる晩節ばんせつ』(新潮しんちょう文庫ぶんこISBN 978-4101265131
  2. ^ 佐藤さとうたかし理想りそう現実げんじつにするちから朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん、2017ねん、66ぺーじISBN 978-4-02-273714-4 
  3. ^ a b c 現代げんだいきる大山おおやま飛車ひしゃ藤井ふじいたけし鈴木すずき宏彦ひろひこ日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい、2006ねん12月、ISBN 978-4-819-70232-4
  4. ^ 別冊べっさつNHK将棋しょうぎ講座こうざ もう一度いちどたい!伝説でんせつめい勝負しょうぶ」P137~138、NHK出版しゅっぱん 2011ねん2がつ
  5. ^ ザ・王将おうしょうせん大山おおやま王将おうしょうじょうはちだんばんがい作戦さくせん) | 将棋しょうぎペンクラブログ
  6. ^ 勝負しょうぶ』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃISBN 978-4022598578
  7. ^ 1982ねん小学生しょうがくせい名人めいじん解説かいせつかい
  8. ^ 原田はらだ泰夫やすお (監修かんしゅう)、荒木あらき一郎いちろう (プロデュース)、森内もりうち俊之としゆきら(へん)、2004、『日本にっぽん将棋しょうぎ用語ようご事典じてん』、東京とうきょうどう出版しゅっぱん ISBN 4-490-10660-2 pp. pp.124-127
  9. ^ 加藤かとう一二三ひふみ将棋しょうぎ名人めいじんふうろく角川書店かどかわしょてん、2012ねん、P116
  10. ^ 日本にっぽん将棋しょうぎ用語ようご事典じてん』p.124 斜体しゃたいはここからの引用いんよう。なお、日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい 2004ねん米長よねなが邦雄くにおほん』でもこの逸話いつわ紹介しょうかいされているとのことである。
  11. ^ 藤井ふじいたけし竜王りゅうおう当時とうじ)「特別とくべつ対局たいきょくしつしたい」 将棋しょうぎペンクラブログ、2017ねん1がつ16にち(2017ねん7がつ5にち閲覧えつらん)。
  12. ^ https://www.mid-day.com/sports/2012/mar/100312-European-Chess-Union-introduces-no-cleavage-dress-code.htm” (英語えいご). Mid-day. 2024ねん5がつ5にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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