1968年、フィリピン人軍属とのハーフである城間俊雄・正男・勉の三兄弟が結成したロックバンド「ピーナッツ」を前身とする。金武町のクラブに出演し、ドアーズ、ヴァニラ・ファッジなどの曲をカバーした。当時の沖縄はアメリカの施政下にあり、嘉手納飛行場やキャンプ・ハンセンなどは、ベトナム戦争へ動員前、あるいは休暇中の米軍兵士があふれ、米軍基地周辺では彼らを客とする歓楽街が賑わっていた。米兵向けのクラブにはアメリカのロック、ソウルを生演奏するため、アマチュアまたはセミプロのバンドが数多く出演していた。
1969年、日系二世の父と沖縄人の母の間に生まれたジョージ紫こと比嘉常冶は高校卒業後、基地内の大学に入学・渡米した。UCLAにて数学を専攻(副専攻はパイプオルガン科、作曲理論)していたが中退し沖縄へ戻り「ピーナッツ」に加入。バンドは「ジョージ紫グループ」にバンド名を改めた。ジョージ紫はディープ・パープルに深い影響を受けており、彼の加入がその後のバンドの音楽性を左右する存在となる。
1970年、下地行男が加入し、城間勉が脱退した。この時にバンド名を「紫」とした。オリジナルメンバーはジョージ紫、城間俊雄、城間正男、下地の4人で、それ以外は様々なメンバーチェンジがあり、サイドギター、サックス、パーカッションなどが入ることもある流動的な編成だった。
1971年、「万座ビーチ・ロック・コンサート」に出演した。このコンサートで興奮したファンの一人がピストルを振りかざし、さらに黒人刺殺事件にまで発展する惨事が発生した。
1972年、コザのセンター通りにあったクラブ「チャンピオン」にて演奏活動を行う。
1973年1月、宮永英一が加入するが、1年後の1974年1月に脱退し、国吉重敏が加入する。また、クラブ「タイガー」の共同経営者となり、以降はここを拠点にライヴ活動を行う。タイガーは1977年に閉店し、それ以降はライブハウス「紫」をバンド解散まで経営することになる。
1975年4月、宮永が再加入して7月に国吉が脱退するまで宮永と国吉のツインドラムになった。国吉が脱退した同月に比嘉清正が加入し、ジョージ紫(key)、宮永(dr,vo)、城間正男(vo)、城間俊雄(b)、比嘉(g)、下地(g)の6人編成が誕生。1978年まで続くことになる。8月8日、大阪「8・8ロックデー」にゲストとして登場し、本土での初演奏を果たす。後にリリースされたオムニバスアルバム「'75 8・8 ROCK DAY LIVE」にその模様が収録された。
1976年4月1日、ファーストアルバム『MURASAKI』、10月1日には邦楽初の12インチ・シングル『FREE』を3万枚限定で発売した[1]。12月には『IMPACT』を発売し、4万枚の売り上げを記録した。また、翌年にかけて北海道から九州にわたるツアーを実施した。
1977年、「ミュージックライフ」誌77年度の人気投票で国内部門グループ第1位、6人のメンバーも各プレイヤー部門でそれぞれトップランキング入り[2]し、2枚のアルバムも3位と5位を受賞した。また、TBS「ぎんざNOW!」で生演奏を披露する。
1978年、全国ツアーを行い、5月には12インチシングル『STARSHIP ROCK'N ROLLERS』を発売した。年内にアメリカでのレコーディング、ヨーロッパ各国でのレコード発売が予定されていたが、ジョージ紫、宮永、比嘉の3人が突然脱退を発表する。メンバーそれぞれの音楽性の不一致と停滞が理由とされる。同年9月22日に、那覇市民会館でラストコンサートを行った。宮永はその後「コンディション・グリーン」に参加。城間兄弟と下地は残留し、1979年に新しいメンバーを迎えて「紫」を引き継ぎ、新メンバーで活動を継続していたが、1981年に解散した。
解散後、城間正男は「メッツ」というバンドのヴォーカリストとなり、城間俊雄はコザのクラブで演奏を行うが、その後、城間兄弟はAOR系のバンド「ISLAND(アイランド)」を結成し、1983年にライヴハウス「ISLAND」を開いた。アイランドは1989年に『stay with me』を発表した。1993年に発売されたファーストアルバムには、ジョージ紫が曲を提供した。
ジョージ紫はアメリカからメンバーを集め、1979年に5人組のロックバンド「MARINER(マリナー)」を結成。メンバーは、ジョージ紫(Key)、モーガン・ホフラー(B/Vo)、グレン・フォード(g)、ジョン・ブリングル(Ds/Perc)、ジョン・パターソンことjj(Vo/Perc)。2枚のアルバムを発表したが、メンバーのビザの問題があり、翌1980年に解散した。
同年、現代音楽家・上地昇の交響詩「あけもどろ」の上演に参加する。1982年にはテノール歌手・大井学とのジョイントで、作曲家・宮良長包の作品をアレンジしたアルバム「青い風・沖縄」を発表するなど、沖縄県出身ミュージシャンとの共演によるクラシックと琉球音楽の融合を図る。また1981年には「ジョージ紫&オキナワ」を結成した。ジョージ紫&オキナワには、後に宮永がヴォーカルとして加入し、1985年にはギターにターボ(後にディアマンテスに参加)らを加え、メンバーチェンジして紫を再結成するが、間もなく解散した。その後、ジョージ紫は1989年にロックオペラ「シャングリラ・琉球」を発表する。
宮永はコンディショングリーンに再加入し、アメリカ録音のアルバムを発表した。また、1979年に再結成された「キャナビス」に参加、翌1980年にバンド名を「SAN-DIEGO(サンディエゴ)」に改め、CBSソニーよりデビューした。その他、テレビドラマ「猿飛佐助」の主題歌製作や、チャー、アン・ルイスなど東京での数多いセッション活動や、ドラムクリニックなどをこなす。宮永は1983年に沖縄県へ戻り、元コンディショングリーンのギタリスト・シンキと「HEAVY METAL ARMY」、後に「EASTAN ORBIT」として2枚のアルバムを発表し、1988年に「ZODIAC」を結成する。また、自分のルーツである琉球音楽に傾倒し、ケーシー・ランキンとともにユニット「琉球マジック」を結成した。
比嘉は「エナジー」というバンドを結成し、音楽活動をする傍ら、普天間でライブハウス「COCONUT MOON」を経営した。1990年には、恩納村に「BEACH BAR COCONUT MOON」を開店する。
下地は音楽活動から離れ、資格をとり就職した。
紫の解散後、下地以外のメンバーはそれぞれ個別に音楽活動を継続するが、1983年に恩納村グランドパーク跡地で開催された「MURASAKI WHY NOW? Piacefull Love Rock Concert」(第1回ピースフルラブ・ロックフェスティバル)にて一時再結成し、この時のライヴは同名タイトルのCDとなり、ビクターより発売された。また、東京でもライヴが行われた。
その後、解散から10年以上経った1992年、沖縄復帰20周年を記念して東京・BIG EGG CITYで開催された大琉球祭に、下地以外のメンバーが紫を再結成し出演する。また、来沖したイアン・ギランのライブの際に前座を務めた。1994年にはライブハウス「ISLAND」にて、「同窓会」と称して再結成ライブを一夜限りで行う。1997年には、交通事故で死亡した音響の屋嘉部詳の死を悼み、屋嘉部の生前の願いだった紫の再結成をかなえるため、交通遺児チャリティーというコンセプトで9月28日、宜野湾市野外海浜公園で一夜限りの再結成コンサートを行う。この時、音楽活動から離れていた下地がギタリストとして復帰を果たした。その模様はアルバム「BACK TO THE ROOTS」に収録された。また、同年10月27日、テレビ朝日の番組「ニュースステーション」では再結成に関するドキュメンタリー映像を14分弱で放送した。
1998年11月22日、東京・渋谷ON AIR EASTで開催された「THE NIGHT OF OKINAWA HARD ROCK, ROCK'N ROLL WILL NEVER DIE」に出演し、1999年、宮永とジョージ紫を中心に「NEW紫」を結成した。メンバーはジョージ紫の長男のレイ(b)、次男のレオン(dr)、比嘉(g)、宮永(vo)、ジョージ紫(key)。翌2000年に東北出身のギタリスト佐藤圭一が比嘉の代わりにギターをつとめ、正式にメンバーとして加入。以降、メンバーはレイ(b)、レオン(dr)、佐藤(g)、宮永(vo)、ジョージ紫(key)の5人編成となった。
2004年1月23日、大阪で開催されたハードロックサミットに参加。翌日は佐藤がBOW WOWの山本恭司と競演する。
2007年7月8日、沖縄市コザ運動公園野外ステージで開催された「ピースフルラブ・ロックフェスティバル[3]」(25回記念)にジョージ紫、宮永、下地、比嘉の4人で出演。『DOUBLE DEALING WOMAN』、『Smoke On The Water』などを演奏。その後、コザのライブハウス「7th Heaven KOZA」にて定期的にライヴを行う。ピースフルラブ・ロックフェスティバルにも毎年参加している。
2008年5月18日、日比谷野外音楽堂にて開催された「Japan Rock Band Fes. 2008」に、BLUES CREATION・頭脳警察・めんたんぴんと共に参加した。
2009年10月11日、神戸ビエンナーレにて「Murasaki Once Again Peaceful Love Rock Concert in KOBE」にラウドネスの高崎晃、山下昌良、元メンバーであり現8-BALLのRay、Leon、Kazufumiらと共演した[4]。紫のメンバーは、ジョージ紫(key)、JJ(vo)、比嘉(g)、下地(g)、宮永(dr)、Chris(b)だった。同年11月15日には、東京・下北沢(下北沢GARDEN)にて「紫ライヴin東京2009」を行う[5]。メンバーは、ジョージ紫(key)、JJ(vo)、比嘉(g)、下地(g)、宮永(dr)、Chris(b)。
2010年3月28日、未来へのメッセージ-オキナワンロックの軌跡・沖縄国際アジア音楽祭musix2010[6]に、かっちゃん&JACK NASTY'S BAND・オキナワンロックオールスターズと共に出演。同年6月9日に、スタジオ録音としては34年ぶりのニューアルバム「Purplessence」を発売した[7]。メンバーは、ジョージ紫(key)、JJ(vo)、比嘉(g)、下地(g)、宮永(dr)、Chris(b)。9月21日には、Kobe CHICKEN GEORGE[8]においてライヴを行い、9月23日にはShibuya O-EASTにおいてワンマンライヴを行う。
2011年2月20日、初代ベーシスト城間俊雄が白血病による合併症で死去した。6月25日に鳥取県倉吉市のKurayoshi MIRAI-CHUSHIN[9]において、「紫ライヴイン倉吉2011」[10]を行う。
2012年10月、琉球放送およびTOKYO MXにて放送が開始される「琉神マブヤー1972レジェンド」の主題歌を担当する。琉神マブヤーの主題歌をChrisがロック・バージョンにアレンジしてジョージ紫監修のもと、JJが英語バージョンを、宮永が日本語バージョンを歌う。
2015年8月8日、沖縄市ミュージックタウン音市場において「8.8 ROCK DAY OKINAWA(紫40th Anniversary)」[11]を行う。出演:紫(MURASAKI)、ISLAND、HEART BEATS。城間正男がISLANDのヴォーカリストとして出演。紫のメンバーと城間が同じステージに立つのは17年ぶりで、当日は紫のステージにも出演した。