(Translated by https://www.hiragana.jp/)
蜂須賀斉裕 - Wikipedia

蜂須賀はちすかひとしひろし

日本にっぽん江戸えど時代じだい大名だいみょう

蜂須賀はちすか ひとしひろし(はちすか なりひろ)は、江戸えど時代じだい末期まっき大名だいみょう阿波あわこく徳島とくしまはん13だい藩主はんしゅ

 
蜂須賀はちすかひとしひろし
蜂須賀はちすかひとしひろしぞう
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき
生誕せいたん 文政ぶんせい4ねん9月19にち1821ねん10月14にち
死没しぼつ 慶応けいおう4ねん1がつ6にち1868ねん1がつ30にち
改名かいめい まつきく幼名ようみょう)、ひとしひろし
戒名かいみょう 大龍おおたついん殿どのとうくもたいげんだい居士こじ
墓所はかしょ 徳島とくしまけん徳島とくしま佐古山さこやままち万年山はねやま墓所はかしょ
官位かんい せいよんじょう阿波あわもり参議さんぎおくせいさん[1]
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家慶いえよし家定いえさだ家茂いえもち慶喜よしのぶ
はん 阿波あわ徳島とくしまはんあるじ
氏族しぞく 徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ蜂須賀はちすか
父母ちちはは ちち徳川とくがわ家斉いえなりはは皆春みなはるいん
養父ようふ蜂須賀はちすかひとしあきら
兄弟きょうだい せいじんいん徳川とくがわ家慶いえよし徳川とくがわあつしこれすけみねひめ徳川とくがわ斉順なりゆきあさひめ徳川とくがわとらせんだいもとひめ徳川とくがわひとしあきらぶんひめ徳川とくがわ斉荘なりたかもりひめ池田いけだひとししゅ溶姫かずひめ松平まつだいらひとしみんすえひめ喜代きよひめ徳川とくがわ斉温なりはる松平まつだいらひとしりょうえいひめ徳川とくがわ斉彊なりかつ松平まつだいらひとしぜんひとしひろし松平まつだいらひとししょう
松平まつだいらひとしせんたいひめ
つま 正室せいしつ鷹司たかつかさしるべ
側室そくしつ山村やまむら
しげる賀代かよひめ
養女ようじょ倫子ともこ
テンプレートを表示ひょうじ
きょうげんてら墓所はかしょ徳島とくしまけん徳島とくしま下助任しもすけとうまち
万年山はねやま墓所はかしょ墓所はかしょ徳島とくしまけん徳島とくしま眉山びざんまち

11だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家斉いえなりじゅう二男じなんで、12だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家慶いえよし異母弟いぼてい。13だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家定いえさだ家慶いえよし)はおいにあたるが、わずか3さい年下とししたである。ちち家斉いえなりよりへんいみなたまわってひとしひろし名乗なのる。ごうつばさときたちばなどう和歌わか俳句はいく[2]

略歴りゃくれき 編集へんしゅう

将軍しょうぐんから外様とざま藩主はんしゅ 編集へんしゅう

文政ぶんせい4ねん(1821ねん)9がつ19にちまれ。文政ぶんせい10ねん(1827ねんうるう6がつ3にち徳島とくしまはん12だい藩主はんしゅ蜂須賀はちすかひとしあきら養子ようしとなる。ひとしひろしちち家斉いえなりは「膃肭臍おっとせい将軍しょうぐん」と皮肉ひにくられるほどの子沢山こだくさんで、成長せいちょうした男児だんじ嫡男ちゃくなん家慶いえよしのぞいてことごとくはん養子ようしされた。徳川とくがわ将軍家しょうぐんけだけあって養子ようしさきおおくは親藩しんぱん大藩たいはんだったが、やがてそれだけではまかないきれなくなる。最終さいしゅうてきにはしょうはんにも実質じっしつてき持参じさんきん手形てがたき、つまりかさねふう大幅おおはば加増かぞうがあることを内諾ないだくうえ養子ようし有様ありさまとなった[注釈ちゅうしゃく 1]

こうしたなかひとしひろし外様とざま大名だいみょう徳島とくしま藩主はんしゅ蜂須賀はちすかひとしあきら養嗣子ようししされた。徳島とくしまはん阿波あわ淡路あわじ両国りょうこくおさめる大藩たいはんで、表高おもてだか25まん7せんせき石高こくだかとしてもうぶんなかったが、外様とざまであることにわりはない[注釈ちゅうしゃく 2]

藩政はんせい改革かいかく 編集へんしゅう

天保てんぽう14ねん(1843ねん)、家督かとくいで藩主はんしゅとなった。このころ徳島とくしまはんでは財政ざいせい悪化あっかし、きゅうしたぜん藩主はんしゅひとしあきら百姓ひゃくしょう重税じゅうぜいいることで解決かいけつしようとしたが、これに百姓ひゃくしょうもう反発はんぱつして天保てんぽう12ねん12月4にち1842ねん1がつ15にち)、一揆いっきこした。このとき、ひとしあきら一揆いっき首謀しゅぼうしゃ一人ひとり処罰しょばつせずゆるすという態度たいどで、藩主はんしゅにはもはや百姓ひゃくしょうおさえるちからさえも欠如けつじょしかけていた。

そのようななか藩主はんしゅとなったひとしひろしは、藩政はんせい改革かいかくむことにした。まず、藩士はんし知行ちぎょうを3わり削減さくげんし、領内りょうない特産とくさんひんである染料せんりょうあいあつかだい商人しょうにん献金けんきんもとめた。さらにはん軍制ぐんせいイギリスしきあらため、海防かいぼうちからそそいだ[3]

淡路島あわじしま岩屋いわや由良ゆらげん淡路あわじ)に砲台ほうだい建築けんちくするなど、海防かいぼうにおいてはおおくの功績こうせきげている。このため、幕末ばくまつ動乱どうらんに、ひとしひろし幕府ばくふあらたに設置せっちした役職やくしょくである海軍かいぐん総裁そうさい陸軍りくぐん総裁そうさい兼務けんむ任命にんめい文久ぶんきゅう2ねん12月18にち1863ねん2がつ6にち))されている。しかしこのための出費しゅっぴすさまじく、短期間たんきかん海軍かいぐん総裁そうさい陸軍りくぐん総裁そうさい廃止はいしされたが、徳島とくしまはん財政ざいせい破綻はたん寸前すんぜんになった。

幕末ばくまつひとしひろし 編集へんしゅう

ひとしひろし徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ一族いちぞくであったが、幕末ばくまつ幕政ばくせいとはある程度ていど距離きょりいていた[よう出典しゅってん]海軍かいぐん総裁そうさい陸軍りくぐん総裁そうさい任命にんめいされたが短期間たんきかん廃止はいしになったのも、ひとしひろし幕府ばくふとあまりかかわりあいたくなかったからだともわれている[よう出典しゅってん]ひとしひろし幕末ばくまつ公武こうぶ合体がったい目指めざして京都きょうとなどに家臣かしん積極せっきょくてきおくんでいる。

しかし、しま本城ほんじょうだい稲田いなだ蜂須賀はちすか筆頭ひっとう家老がろう)をはじめとする家臣かしんだんおおくから公武こうぶ合体がったいたいして批判ひはんてき意見いけんおお[注釈ちゅうしゃく 3]はんろん統一とういつすることができなかった。幕末ばくまつにおいて徳島とくしまはんのこすことができなかったのも、はんろん統一とういつされなかったためとわれている[4]

重要じゅうよう文化財ぶんかざいかみほん墨書ぼくしょ阿波あわこく板野いたのぐん田上たのえきょう延喜えんぎねん戸籍こせきざんまき[5]は、ひとしひろし時代じだい蜂須賀はちすか京都きょうと入手にゅうしゅした[6]つたわる。

晩年ばんねん慶応けいおう3ねん1867ねん11月には、江戸えど相撲すもう本場所ほんばしょ千羽せんばだけへいみぎもん國見山くにみさんはん五郎ごろうせん勝負しょうぶ結果けっかめぐって、千羽せんばだけ鬼面きめん山谷やまたに五郎ごろうだい13だい横綱よこづな)、小柳こやなぎ常吉つねきちもと関脇せきわけ)などの自身じしんのおかか力士りきしボイコットとさせるというだい事件じけんこした[7]

慶応けいおう4ねん1868ねん1がつ3にち危篤きとくおちいり、1がつ6にち鳥羽とば伏見ふしみたたかなか)、48さい急死きゅうし[注釈ちゅうしゃく 4][4]し、あと次男じなんしげるいだ。

勤皇きんのうにして佐幕さばく」「開国かいこくにして攘夷じょうい論者ろんしゃ[4]立場たちばのあいまいさが、ひとしひろしを「御内おんうちうつ」としるされるような精神せいしん状況じょうきょうみ、英明えいめいであるがゆえ精神せいしんてき鬱積うっせきさけでまぎらわせ、結果けっかてきアルコール中毒ちゅうどくしょうわずらった[8]大名だいみょう臨終りんじゅうこまかく記録きろくされていることはめずらしい[9][8]

徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ出身しゅっしんながら海防かいぼう軍制ぐんせい改革かいかくなど、軍事ぐんじめんにおいては優秀ゆうしゅう功績こうせきのこしており、それなりの実行じっこうりょくった藩主はんしゅであった。そのためひとしひろしくなったとき、幕府ばくふがわおおくの人物じんぶつが、そのしんだとわれている。[よう出典しゅってん]

現在げんざいのこひとしひろし肖像しょうぞうとして、明治めいじ3ねんひとしあきら13回忌かいきひとしひろし3回忌かいき法要ほうようさいして高野たかのさんおさめるべくまもりじゅうぬきぎょえがいた「蜂須賀はちすかひとしあきらひとしひろし画像がぞう」(井伊いい美術館びじゅつかんくら)や、徳島とくしまはんひとしひろし看取みとったせき寛斎かんさい[8]明治めいじ35ねん1902ねん徳島とくしまはな北海道ほっかいどうわたさい中山なかやまかつあきらえがかせた肖像しょうぞう徳島とくしまじょう博物館はくぶつかんくら)がある[10]

系譜けいふ 編集へんしゅう

栄典えいてん 編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく 編集へんしゅう

  1. ^ 家斉いえなりじゅうよんなんひとしひろし同母どうぼけい)のひとしみん美作みさくこく津山つやまはんしゅ松平まつだいら5まんせき養嗣子ようししとしてはいったが、かさねふうにあたって津山つやまはんとくに5まんせき加増かぞうされた。
  2. ^ 家斉いえなりじゅうさんなんひとしひろし同母どうぼけい)のひとししゅう外様とざま鳥取とっとりはん池田いけだ継嗣けいしとして婿養子むこようしされている(早世そうせいしたため藩主はんしゅにはならなかった)。
  3. ^ 稲田いなだはやくから薩長さっちょうりにへいすなどしている。
  4. ^ 死因しいんはアルコール依存いぞんしょうわれる。

出典しゅってん 編集へんしゅう

  1. ^ a b 官報かんぽう號外ごうがい授爵じゅしゃく,叙任じょにん及辞れい」1928ねん11がつ10日とおか. (1928/11). https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957025/5 
  2. ^ 阿波あわ名家めいか墓所はかしょ
  3. ^ 徳島とくしまはん蒸気じょうきせん ―「徳島とくしまはん蒸気じょうきせんもとまる購入こうにゅういちけんいち)」の紹介しょうかい翻刻ほんこく―」徳島とくしま県立けんりつ博物館はくぶつかん研究けんきゅう報告ほうこく 2012ねん
  4. ^ a b c 幕末ばくまつ維新いしんにおける「情報じょうほう記録きろく」の意義いぎ-「他見たけん無用むようちょう」と「ひとしひろし臨終りんじゅう容体ようだいこころさとし」- 阿波あわ学会がっかい研究けんきゅう紀要きよう 郷土きょうど研究けんきゅう発表はっぴょうかい紀要きようだい37ごう 徳島とくしま県立けんりつ図書館としょかん
  5. ^ くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース 徳島とくしまじょう博物館はくぶつかん寄託きたく
  6. ^ 徳島とくしま新聞しんぶん 2017ねん2がつ8にち朝刊ちょうかん文化ぶんかめん京都きょうと神職しんしょく家臣かしんて、慶応けいおう年間ねんかん(1865~68ねん)に徳島とくしま藩主はんしゅ蜂須賀はちすか購入こうにゅう
  7. ^ 慶應けいおう3ねん11月7にちせんだけ(っ棄り)國見山くにみさん相撲すもう評論ひょうろんぺーじ幕末ばくまつ角界かくかい
  8. ^ a b c せき寛斎かんさい 容体ようだいこころさとし 日本にっぽん史学しがく雑誌ざっし だい48ごうだい1ごう(2002ねん刊行かんこう
  9. ^ せき寛斎かんさい医師いしとしての力量りきりょう几帳面きちょうめん性格せいかく記録きろく能力のうりょく優秀ゆうしゅうさがあらわれている。
  10. ^ 小川おがわ裕久ひろひさ「(コラム)蜂須賀はちすか肖像しょうぞう徳島とくしまはん絵師えし徳島とくしま市立しりつ徳島とくしまじょう博物館はくぶつかん編集へんしゅう発行はっこう狩野かのさかえかわいん徳島とくしまはんじんたち』 2013ねん10がつ、p.64。
  11. ^ 履歴りれきしょ」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A15060104800 

関連かんれん書籍しょせき 編集へんしゅう

関連かんれん項目こうもく 編集へんしゅう

  1. ^ アーネスト・サトウ『英国えいこくさくろん』1866ねんhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900382