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黒田職隆 - Wikipedia

黒田くろだしょくたかし

戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだい武将ぶしょう黒田くろだ3だい

黒田くろだ しょくたかし(くろだ もとたか)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだい武将ぶしょう黒田くろだ孝高よしたか[6]などがいる。ごう宗円そうえん

 
黒田くろだ しょくたかし
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん だいひさし4ねん1524ねん
死没しぼつ 天正てんしょう13ねん8がつ22にち1585ねん9月15にち
改名かいめい 小寺こでら満隆みつたか小寺こでらしょくたかし黒田くろだしょくたかし小寺こでらはじめえん
別名べつめい 識隆(のりたか)[1][ちゅう 1]、甚四ろう美濃みのまもる兵庫ひょうごすけ
戒名かいみょう しんこういん殿どのまんほまれ宗圓そうえんだい居士こじ
墓所はかしょ 黒田くろだしょくたかしびょう兵庫ひょうごけん姫路ひめじ飾磨しかまつま鹿しか
だい長寺おさでら福岡ふくおかけん福岡ふくおか中央ちゅうおう
主君しゅくん 小寺こでら政隆まさたか小寺こでらのりしょく小寺こでらまさししょく織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよし
氏族しぞく 小寺こでら黒田くろだ自称じしょう宇多うたはじめ
父母ちちはは ちち黒田くろだ重隆しげたか異説いせつあり[2])、ははつま鹿しか
兄弟きょうだい しょくたかしこうとも井手いでとも松井まつい重孝しげたか
つま 正室せいしつ明石あかし正風まさかぜむすめ小寺こでらまさししょく養女ようじょ[3]
継室けいしつ神吉かんき
側室そくしつ母里もり[4]
孝高よしたかだか利則としのり直之なおゆき香山かやまたえはる三木みき清閑せいかんつま)、秋山あきやまみょうえんあまとら尾上おがみ武則たけのりつま)、しんほまれはるぜい一柳いちりゅうただしまつ、のち伊藤いとうただしあんしつ)、浦上うらかみきよしむねしつ[5]
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姫路ひめじつま鹿しかにある黒田くろだしょくたかしはか
黒田くろだしょくたかし墓所はかしょ全景ぜんけい

生涯しょうがい

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だいひさし4ねん1524ねん)、黒田くろだ重隆しげたかとして備前びぜんこく邑久おくぐん福岡ふくおか現在げんざい岡山おかやまけん瀬戸内せとうち)にてまれたとつたわる[7][8]はつ満隆みつたか(みつたか)[1]つま小寺こでら養女ようじょ明石あかし正風まさかぜむすめ[9]後妻ごさいまたは側室そくしつとしてははさと[4]神吉かんきがいた。

播磨はりまこくちゃくじょうおも小寺こでらまさししょくつかえ、天文てんもん12ねん1543ねん)にはせいしょくてきであった香山かやま重道しげみちった[よう出典しゅってん]。それらの功績こうせきから天文てんもん14ねん1545ねん)、せいしょく養女ようじょめとって家老がろうれっせられるとともに、小寺こでら姓氏せいしへんいみな(「しょく」の1)をあたえられて小寺こでらしょくたかし名乗なの[7]異説いせつあり)、播磨はりま姫路城ひめじじょう城代しろだいになった。しょくたかしひゃくあいだ長屋ながやててまずしいもの下級かきゅう武士ぶし職人しょくにん行商ぎょうしょうじんなどをまわせるなどして、配下はいかれたり情報じょうほう収集しゅうしゅう場所ばしょとしていた[10]

えいろく7ねん1564ねん)には、浦上うらかみまさしむね二男じなん浦上うらかみきよしむね自分じぶんむすめ官兵衛かんべえいもうと[11][5]婚姻こんいん実現じつげんさせた[11]。1月11にち婚礼こんれい当日とうじつちち重隆しげたかのかつてのおもである赤松あかまつ政秀まさひで奇襲きしゅう浦上うらかみ親子ちかこむすめ殺害さつがいされ、しょくたかし政秀まさひで対立たいりつしたといわれている[11]えいろく10ねん1567ねん)、孝高よしたかに、家督かとく小寺こでら家老がろうしょくゆず[11]自身じしん姫路城ひめじじょう南東なんとう位置いちする国府こくぶ山城やましろ(こうやまじょう)[ちゅう 2]隠居いんきょした。

えいろく12ねん1569ねん)、かねてより対立たいりつしていた赤松あかまつ政秀まさひでが、足利あしかが義昭よしあきようする織田おだ信長のぶながぞくした池田いけだ勝正かつまさ別所べっしょ安治やすじ支援しえんけ、3,000のへいひきいて姫路城ひめじじょうんで[11]迎撃げいげきるも実弟じってい井手いでともなどをうしな危機ききおちいっていたこうだか救援きゅうえんのために自身じしん出馬しゅつばして[よう出典しゅってん]勝利しょうり貢献こうけんした(青山あおやま土器どきさんたたか)。

その主君しゅくん小寺こでらまさししょく織田おだくみするが、天正てんしょう6ねん1578ねん)に摂津せっつ有岡ありおかしろおも荒木あらき村重むらしげ謀反むほん呼応こおうするきをせた。こうだか村重むらしげ説得せっとくするために有岡ありおかじょうんだが失敗しっぱいし、捕縛ほばくされろうれられた。こうだか幽閉ゆうへいされ音信いんしん不通ふつうになってしまったこと黒田くろだ当主とうしゅ不在ふざいとなったが、このときこうだか重臣じゅうしん7めい連署れんしょあるじ不在ふざいあいだしょくたかしいのちしたがことちかった書状しょじょうしょくたかしてておくっている[12]。こうした要請ようせいおうじてしょくたかしこうだか救出きゅうしゅつされるまでのあいだ黒田くろだ当主とうしゅ復帰ふっきし、織田おだから離反りはんした小寺こでらにはあずかさず織田おだわらず味方みかたする姿勢しせいしめした。天正てんしょう8ねん1580ねん)、荒木あらき村重むらしげ謀反むほん鎮圧ちんあつともな小寺こでらまさししょく逃亡とうぼうすると、そのしょくひそかにって養育よういくしていたという。その清廉せいれん忠義ちゅうぎ一徹いってつなところを羽柴はしば秀吉ひでよしにも賞賛しょうさんされ、のち姫路城ひめじじょう留守居るすいまかされた。

天正てんしょう13ねん1585ねん)8がつ22にち、62さい死去しきょした[7][1]播磨はりまこく飾東しきとうぐんつま鹿しかむらほうむられる[1]

天明てんめい3ねん1783ねん)10がつだい9だい福岡ふくおか藩主はんしゅ黒田くろだひとしたかし治世ちせいとき墓所はかしょ発見はっけん姫路ひめじしんこうてらそうにゅうほまれ上人しょうにんより福岡ふくおかはん黒田くろだ言上ごんじょうされ[13]あらたに玉垣たまがきめぐらし墓所はかしょ整備せいびされた[14]墓所はかしょ地元じもと人々ひとびとによって代々だいだいまもられ、「ちくぜんさん」の愛称あいしょうばれる[よう出典しゅってん]現在げんざい姫路ひめじ指定してい文化財ぶんかざい史跡しせき黒田くろだしょくたかし廟所びょうしょ』になっている[13]。 また、福岡ふくおか光雲こううん神社じんじゃ摂社せっしゃけんばん神社じんじゃよんかみいちはしらとしてほうじられまつられている。[15]なお筑前ちくぜん福岡ふくおか藩主はんしゅとなった黒田くろだが、最初さいしょに「ひゃくねん法要ほうよう」をおこなった(貞享ていきょう元年がんねんことがわかる人物じんぶつである[よう出典しゅってん]

関連かんれん作品さくひん

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テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 同書どうしょには、「いまていしょくたかしもとたかつくる」と付記ふきされている
  2. ^ 別名べつめいつま鹿しかじょう甲山こうざんじょういさお山城やましろはかまたれじょうともいう。
  3. ^ 小寺こでら政隆まさたかあるいは小寺こでらのりしょく

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d しんてい 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか だいなな』 1965, p. 201.
  2. ^ 播磨はりまあきら』によれば、小寺こでらのりしょくちちであるとし、通説つうせつとはことなる。また、『播磨はりまちゃくぐん』ではのりしょくちち小寺こでら政隆まさたか養子ようしになったとしている。
  3. ^ 播磨はりまちゃくぐん』によると小寺こでら政隆まさたか養女ようじょとする。
  4. ^ a b c ははさと婿養子むこようしとして家督かとくいでいた母里もりしょう兵衛ひょうえ未亡人みぼうじん
  5. ^ a b c 備前びぜん軍記ぐんき』によると黒田くろだ孝高よしたかむすめとされているが、年齢ねんれいてきわず、こうだかではなくせいしょくではないかというせつがある[よう出典しゅってん]。なお黒田くろだ系図けいずるいではその一切いっさいられず、養女ようじょきもある[よう出典しゅってん]
  6. ^ 荘厳寺しょうごんじほん黒田くろだりゃく系図けいず」によると実際じっさい養父ようふにあたるという。ただしどう系図けいず信憑しんぴょうせいについては史料しりょうとの乖離かいりおおきいため、否定ひていする意見いけんもある。
  7. ^ a b c 諏訪すわ 2013, p. 15.
  8. ^ 黒田くろだ』『備前びぜん軍記ぐんき
  9. ^ a b 諏訪すわ 2013, p. 16.
  10. ^ 週刊しゅうかん 日本にっぽんしろ14ごう』(デアゴスティーニ)
  11. ^ a b c d e f 三谷みたに 2014, p. 15.
  12. ^ 黒田くろだ文書ぶんしょ
  13. ^ a b 黒田くろだしょくたかし廟所びょうしょ”. 姫路ひめじ. 2022ねん3がつ13にち閲覧えつらん
  14. ^ No.382 黒田くろだのご先祖せんぞさがし”. 福岡ふくおか博物館はくぶつかん. 2022ねん3がつ14にち閲覧えつらん
  15. ^ 光雲こううん神社じんじゃ公式こうしきホームページ”. 光雲こううん神社じんじゃ. 2022ねん4がつ6にち閲覧えつらん
  16. ^ a b c 諏訪すわ 2013, p. 25.
  17. ^ 橋本はしもと政次まさじ姫路城ひめじじょう』より。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • しんてい  寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか だいななぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、1965ねん1がつ30にち 
  • 諏訪すわ勝則かつのり黒田くろだ官兵衛かんべえ 「天下てんかねらった軍師ぐんし」の実像じつぞう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ2241〉、2013ねん11月25にちISBN 978-4-12-102241-7 
  • 三谷みたにひろしひらめ中津なかつはん現代書館げんだいしょかん〈シリーズはん物語ものがたり〉、2014ねん5がつ20日はつかISBN 978-4-7684-7134-0 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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