黒田 職 隆
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識隆(のりたか)[1][ | |
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![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e5/Grave_of_Kuroda_Mototaka_B.jpg/200px-Grave_of_Kuroda_Mototaka_B.jpg)
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c6/Grave_of_Kuroda_Mototaka_A.jpg/200px-Grave_of_Kuroda_Mototaka_A.jpg)
生涯
その
没後
系譜
正室 :明石 氏 (天文 元年 (1532年 ) -永 禄 2年 11月28日 (1560年 1月 5日 )) -明石 正風 の娘 、小寺 氏 [注 3]の養女 [9]継室 :神吉 氏 (生年 不 詳 -天正 10年 2月 9日 (1582年 3月13日 ))三男 :黒田 利則
側室 :母里 氏 [4](生 没年 不 詳 )- その
他 室津 城主 浦上 氏 に嫁 いだ娘 がいたという説 もある[11][5]。- 『
備前 軍記 』によると、永 禄 7年 (1564年 )黒田 氏 の娘 が室津 城主 ・浦上 政 宗 の嫡男 ・清 宗 に嫁 いだが、婚礼 の夜 に赤松 晴 政 が奇襲 をかけ、政 宗 ・清 宗 は討死 したとされる。新婦 は清 宗 の弟 である誠 宗 に再嫁 して久松 丸 を生 んだといい、久松 丸 は晴 政 に預 けられたという。 - 『
播磨 鑑 』でも類似 の話 があるが、室津 城主 を浦上 村宗 、新郎 を浦上 宗景 、攻 め手 を赤松 政秀 としており、新婦 は死亡 し、宗景 は備前 に遁走 したとしている。室津 城主 を村宗 とするなど明 らかに事実 と違 う内容 である。なお新婦 の出自 についての記載 はない。 - 『
備前 軍記 』の説 をベースとして、久松 丸 が赤松 晴 政 の元 にいた事 を勘案 し、浦上 氏 を政 宗 ・清 宗 、攻 め手 を赤松 政秀 と考 える向 きもある[17]。
- 『
関連 作品
- テレビドラマ
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d 『
新 訂 寛政 重 修 諸家 譜 第 七 』 1965, p. 201. - ^ 『
播磨 鑑 』によれば、小寺 則 職 が父 であるとし、通説 とは異 なる。また、『播磨 御 着 郡 誌 』では則 職 の父 ・小寺 政隆 の養子 になったとしている。 - ^ 『
播磨 御 着 郡 誌 』によると小寺 政隆 の養女 とする。 - ^ a b c
母 里 氏 の婿養子 として家督 を継 いでいた母里 小 兵衛 の未亡人 。 - ^ a b c 『
備前 軍記 』によると黒田 孝高 の娘 とされているが、年齢 的 に合 わず、孝 高 ではなく政 職 の子 ではないかという説 がある[要 出典 ]。なお黒田 氏 の系図 類 ではその名 は一切 見 られず、養女 と見 る向 きもある[要 出典 ]。 - ^ 「
荘厳寺 本 黒田 家 略 系図 」によると実際 は養父 にあたるという。ただし同 系図 の信憑 性 については他 史料 との乖離 が大 きいため、否定 する意見 もある。 - ^ a b c
諏訪 2013, p. 15. - ^ 『
黒田 家 譜 』『備前 軍記 』 - ^ a b
諏訪 2013, p. 16. - ^ 『
週刊 日本 の城 14号 』(デアゴスティーニ) - ^ a b c d e f
三谷 2014, p. 15. - ^ 『
黒田 家 文書 』 - ^ a b “
黒田 職 隆 廟所 ”.姫路 市 . 2022年 3月 13日 閲覧 。 - ^ “No.382
黒田 家 のご先祖 さがし”.福岡 市 博物館 . 2022年 3月 14日 閲覧 。 - ^ “
光雲 神社 公式 ホームページ”.光雲 神社 . 2022年 4月 6日 閲覧 。 - ^ a b c
諏訪 2013, p. 25. - ^
橋本 政次 『姫路城 史 』より。
参考 文献
- 『
新 訂 寛政 重 修 諸家 譜 第 七 』続 群 書 類従 完成 会 、1965年 1月 30日 。 諏訪 勝則 『黒田 官兵衛 「天下 を狙 った軍師 」の実像 』中央公論 新 社 〈中公新書 2241〉、2013年 11月25日 。ISBN 978-4-12-102241-7。三谷 紘 平 『中津 藩 』現代書館 〈シリーズ藩 物語 〉、2014年 5月 20日 。ISBN 978-4-7684-7134-0。