出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
|
|
15行目: |
15行目: |
|
使用目的は諸説あり、[[藤森栄一]]・[[武藤雄六]]ら縄文中期が農耕社会であったとする[[縄文農耕]]論の立場から[[貯蔵]]目的のために使用したとする説が考えられ、藤森は[[栽培]]のため[[種子]]の貯蔵に使用したとする説([[藤森栄一]]・武藤雄六「中期縄文土器の貯蔵形態」『考古学手帖』)を提唱。武藤は縄文農耕説の立場に立ちつつも、現在有力視されている酒造具説を提唱した(武藤雄六「有孔鍔付土器の再検討」『信濃』)。一方、貯蔵容器であったことを否定する説として[[山内清男]]の土製太鼓説がある(山内清男「縄文時の製作と用途」『日本原始美術縄文式土器』)。有孔鍔付土器の[[ヘビ]]や[[カエル]]などの動物文様や人体文様が施されていることや、世界各地の民俗事例にみられる土製太鼓との類似から、小孔に詮をして反膜を止め[[太鼓]]として用いていたと推測している([[山内清男]]による)。 |
|
使用目的は諸説あり、[[藤森栄一]]・[[武藤雄六]]ら縄文中期が農耕社会であったとする[[縄文農耕]]論の立場から[[貯蔵]]目的のために使用したとする説が考えられ、藤森は[[栽培]]のため[[種子]]の貯蔵に使用したとする説([[藤森栄一]]・武藤雄六「中期縄文土器の貯蔵形態」『考古学手帖』)を提唱。武藤は縄文農耕説の立場に立ちつつも、現在有力視されている酒造具説を提唱した(武藤雄六「有孔鍔付土器の再検討」『信濃』)。一方、貯蔵容器であったことを否定する説として[[山内清男]]の土製太鼓説がある(山内清男「縄文時の製作と用途」『日本原始美術縄文式土器』)。有孔鍔付土器の[[ヘビ]]や[[カエル]]などの動物文様や人体文様が施されていることや、世界各地の民俗事例にみられる土製太鼓との類似から、小孔に詮をして反膜を止め[[太鼓]]として用いていたと推測している([[山内清男]]による)。 |
|
|
|
|
|
その後、[[山梨県立考古博物館]][[学芸員]]の長沢宏昌により体系的な研究が行われ、土器の変遷や出土状況から酒造具説が妥当であると示した(「有孔鍔付土器の研究」『長野県考古学会誌』)。有孔鍔付土器は、注口土器へ至っていることから内部には[[液体]]が入れられていたと推定し、縄文時代の集落は河川や沢の周辺など[[水]]を確保できる環境に立地することから貯水目的であったとは考えられず、内容物は[[酒]]であると推定する。また、小孔部に破損例が少なく[[摩擦]]跡も見られず、[[紐]]などを通す緊縛孔であったとは考えられないこと。上部には蓋をして密閉する一方で外気と接する小孔を設けていることや、特定住居址の住居内[[ピット]]から埋蔵状態で出土することから一定の[[保温]]が必要な作業に用いられ、内部に黒色変化があること。さらに内部から[[ヤマブドウ]]の種子と思われる炭化物が発見された例があることから、内容物は[[酒]]([[液果酒]])で酒造具として用いられ、小孔は[[醗酵]]過程で生じたガスの排出口であると推定している。 |
|
その後、[[山梨県立考古博物館]][[学芸員]]の長沢宏昌により体系的な研究が行われ、土器の変遷や出土状況から酒造具説が妥当であると示した(「有孔鍔付土器の研究」『長野県考古学会誌』)。有孔鍔付土器は、注口土器へ至っていることから内部には[[液体]]が入れられていたと推定し、縄文時代の集落は河川や沢の周辺など[[水]]を確保できる環境に立地することから貯水目的であったとは考えられず、内容物は[[酒]]であると推定する。また、小孔部に破損例が少なく[[摩擦]]跡も見られず、[[紐]]などを通す緊縛孔であったとは考えられないこと。上部には蓋をして密閉する一方で外気と接する小孔を設けていることや、特定住居址の住居内[[ピット (考古学)|ピット]]から埋蔵状態で出土することから一定の[[保温]]が必要な作業に用いられ、内部に黒色変化があること。さらに内部から[[ヤマブドウ]]の種子と思われる炭化物が発見された例があることから、内容物は[[酒]]([[液果酒]])で酒造具として用いられ、小孔は[[醗酵]]過程で生じたガスの排出口であると推定している。 |
|
|
|
|
|
一方で[[打楽器]]奏者の土取利行や[[小林達雄]]らは長沢の変遷観を否定し、土製太鼓説を根強く支持する立場もある。また、貯蔵具であるとする立場からは江坂輝彌の澱粉質食料貯蔵に使用したとする説があり、底部に焼跡の痕跡がある出土例があることから、同じく緊縛して煮炊に使用したとする懸垂煮沸用具説(草間俊一・吉田義昭)もあるが、いずれも小孔の破損例の無いことや完全密閉容器ではないことから疑問視されている。 |
|
一方で[[打楽器]]奏者の土取利行や[[小林達雄]]らは長沢の変遷観を否定し、土製太鼓説を根強く支持する立場もある。また、貯蔵具であるとする立場からは江坂輝彌の澱粉質食料貯蔵に使用したとする説があり、底部に焼跡の痕跡がある出土例があることから、同じく緊縛して煮炊に使用したとする懸垂煮沸用具説(草間俊一・吉田義昭)もあるが、いずれも小孔の破損例の無いことや完全密閉容器ではないことから疑問視されている。 |
2007年8月26日 (日) 07:17時点における版
有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)は、縄文時代の土器形式のひとつ。
口縁部に内壁を貫通する直径5mm程度の小孔が列状に数個から20個程度空き(有孔)、胴体中央部に鍔状隆帯がある(鍔付)。一般的な深鉢型土器と異なり樽型や壺型のものが多い。口部上面は平坦で、蓋をすることができたと考えられている。これらの特徴から鍔付有孔土器、蓋付樽型土器などの呼称も用いられて入たが、武藤雄六により「有孔鍔付土器」の呼称に統一された。
特徴と変遷
胴体には動物意匠文をはじめさまざまな装飾文様が施され、両肩部には把手が設けられている。出土数は極端に少なく、胎土も精選されており出土状況も特異であり、口縁部に把手の付いた釣手土器とともに祭祀に関わる土器であると考えられている。小孔が空けられる理由については土器の使用目的と関係して諸説あるが(後述)。鍔状隆帯は、焼成や使用の際に自重のかかる胴体中央部の補強目的であると考えられている。
現在の長野県から山梨県の中部地方の高地において縄文時代前期末期から中期終末にかけて特徴的に見られ、中期に盛行し関東地方を中心に分布する。縄文中期終末には消滅し、注口土器に代わる。
縄文時代前期末期の諸磯式期には有孔鍔付土器の祖形である口縁部に小孔の空いた浅釜型の有孔土器が出現する。小孔は無文上か二条の浮線上に空けられており、鍔部の原型になる膨らみも見られる。安定性は悪く、地面に窪みを設けて安置していたと考えられている。成立期には中間型がみられ、やがて直立口縁や鍔状隆帯が完成し、小孔数も減り胴体上方の屈曲部に一定数穿たれる。中期初頭には橋状把手が設けられ、器種も樽型や壺型など多様化し、大型化する。中期中葉には胴体に赤色顔料が施され、製作技術の進歩から小孔や鍔状隆帯が形式化しはじめる。中部高地から北陸、関東はじめ東日本各地に拡散する。西日本では有孔土器はみられるものの、有孔鍔付土器は福井県と岐阜県での中期後葉段階の出土例を西限に見られない。例外として長崎県深堀貝塚での中期後葉段階の出土例があり、これは胎土が九州西部のものであることから何らかの形で製作技術が伝来したと推測されている。
中期後葉には小孔が鍔部へ設けられるようになり、装飾文様が焼失し縄文や渦巻文が一般的となる。中部高地では小孔や鍔状隆帯が完全に消失し、両肩に把手の付けられた広口壺形の両耳壺に統一されるが、関東地方では形式的な小孔が保持された。中期終期には有孔鍔付であるが注口部のあるものや、深鉢で胴体がひょうたん形に縊れたものが見られ、注口土器に至る。
研究史
使用目的は諸説あり、藤森栄一・武藤雄六ら縄文中期が農耕社会であったとする縄文農耕論の立場から貯蔵目的のために使用したとする説が考えられ、藤森は栽培のため種子の貯蔵に使用したとする説(藤森栄一・武藤雄六「中期縄文土器の貯蔵形態」『考古学手帖』)を提唱。武藤は縄文農耕説の立場に立ちつつも、現在有力視されている酒造具説を提唱した(武藤雄六「有孔鍔付土器の再検討」『信濃』)。一方、貯蔵容器であったことを否定する説として山内清男の土製太鼓説がある(山内清男「縄文時の製作と用途」『日本原始美術縄文式土器』)。有孔鍔付土器のヘビやカエルなどの動物文様や人体文様が施されていることや、世界各地の民俗事例にみられる土製太鼓との類似から、小孔に詮をして反膜を止め太鼓として用いていたと推測している(山内清男による)。
その後、山梨県立考古博物館学芸員の長沢宏昌により体系的な研究が行われ、土器の変遷や出土状況から酒造具説が妥当であると示した(「有孔鍔付土器の研究」『長野県考古学会誌』)。有孔鍔付土器は、注口土器へ至っていることから内部には液体が入れられていたと推定し、縄文時代の集落は河川や沢の周辺など水を確保できる環境に立地することから貯水目的であったとは考えられず、内容物は酒であると推定する。また、小孔部に破損例が少なく摩擦跡も見られず、紐などを通す緊縛孔であったとは考えられないこと。上部には蓋をして密閉する一方で外気と接する小孔を設けていることや、特定住居址の住居内ピットから埋蔵状態で出土することから一定の保温が必要な作業に用いられ、内部に黒色変化があること。さらに内部からヤマブドウの種子と思われる炭化物が発見された例があることから、内容物は酒(液果酒)で酒造具として用いられ、小孔は醗酵過程で生じたガスの排出口であると推定している。
一方で打楽器奏者の土取利行や小林達雄らは長沢の変遷観を否定し、土製太鼓説を根強く支持する立場もある。また、貯蔵具であるとする立場からは江坂輝彌の澱粉質食料貯蔵に使用したとする説があり、底部に焼跡の痕跡がある出土例があることから、同じく緊縛して煮炊に使用したとする懸垂煮沸用具説(草間俊一・吉田義昭)もあるが、いずれも小孔の破損例の無いことや完全密閉容器ではないことから疑問視されている。
縄文時代の酒造
酒造具であるとする結論から有孔鍔付土器は縄文時代のマツリに関わる位置付けられ、西日本などに出土例が無い理由は伝統的な酒造方法が確立されていたために受容されなかったと説明されている。また、酒造実験も行われ縄文時代の酒造についても考察もされている。液果酒は主にヤマブドウやサルナシの実などを使用し、土器内ですり潰し野生酵母によって醗酵させ、1週間程度で酒が得られ、現代のワイン醸造用ブドウを使用したワインと比べれば糖度やアルコール度も低い。
関連項目
参考文献
- 井口直司「有孔鍔付土器」『縄文時代研究辞典』
- 長沢宏昌・中山誠二『縄文時代の酒造具 有孔鍔付土器展』(山梨県立考古博物館、1984)
- 末木健・長沢宏昌「祈りの世界」『山梨県史通史編1原始・古代』第二章第三節第三節