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'''日置家'''(ひおきけ)は、[[薩摩国]]の[[守護大名]]、[[島津氏]]の分家。 |
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'''日置家'''(ひおきけ)は、[[薩摩国]]の[[守護大名]]、[[島津氏]]の分家。 |
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==概要== |
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== 概要 == |
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島津宗家15代当主[[島津貴久]]の三男[[島津歳久]]を祖とする系統。本来は薩摩の祁答院(現・[[鹿児島県]][[さつま町]]宮之城)を本拠としていたが、歳久の娘婿である[[島津忠隣]]が[[根白坂の戦い]]で戦死して歳久に先立ち、その歳久も[[梅北一揆]]の首謀者との嫌疑で[[豊臣秀吉]]より自害を被ると、歳久夫人と忠隣夫人は処分を不服として忠隣の嫡男[[島津常久|常久]]を擁して[[虎居城]]に立て籠もった。約一ヶ月の籠城の末、歳久夫人らは開城、常久成人の暁には旧領へ戻す約束をして[[入来院重時]]与りとなり[[清敷城]]に住んだ。その後、常久には[[文禄]]元年([[1592年]])に塔之原(現・鹿児島県[[薩摩川内市]]樋脇町)300石、更に文禄4年([[1595年]])に日置(現・鹿児島県[[日置市]]日吉町日置)3,600石が下賜されたのであるが、常久は日置へ移住、以後より'''日置島津家'''を称するようになった(その後、旧領の一部である船木に加え、黒木や藺牟田なども賜る)。 |
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島津宗家15代当主[[島津貴久]]の三男[[島津歳久]]を祖とする系統。本来は薩摩の祁答院(現・[[鹿児島県]][[さつま町]]宮之城)を本拠としていたが、歳久の娘婿である[[島津忠隣]]が[[根白坂の戦い]]で戦死して歳久に先立ち、その歳久も[[梅北一揆]]の首謀者との嫌疑で[[豊臣秀吉]]より自害を被ると、歳久夫人と忠隣夫人は処分を不服として忠隣の嫡男[[島津常久|常久]]を擁して[[虎居城]]に立て籠もった。約1か月の籠城の末、歳久夫人らは開城、常久成人の暁には旧領へ戻す約束をして[[入来院重時]]与かりとなり[[清敷城]]に住んだ。その後、常久には[[文禄]]元年([[1592年]])に塔之原(現・鹿児島県[[薩摩川内市]]樋脇町)300石、さらに文禄4年([[1595年]])に日置(現・鹿児島県[[日置市]]日吉町日置)3600石が下賜されたのであるが、常久は日置へ移住、以後より'''日置島津家'''を称するようになった(その後、旧領の一部である船木に加え、黒木や藺牟田なども賜る)。 |
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4代[[島津久慶|久慶]]が死去した折に、その養子であった[[島津久憲|久予]](後の久憲)の讒言により、久慶は系図より一時名前を削られ、日置家の所領も東郷(現・鹿児島県[[薩摩川内市]]東郷)のみとされる。しかし、[[寛文]]元年([[1661年]])に5代[[島津忠朝 (日置家)|忠朝]]へ日置500石が加増され、[[延宝]]8年([[1680年]])、6代[[島津忠竹|忠竹]]の頃に日置へ再び移住し復帰が成った。 |
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4代[[島津久慶|久慶]]が死去した折に、その養子であった[[島津久憲|久予]](後の久憲)の讒言により、久慶は系図より一時名前を削られ、日置家の所領も東郷(現・鹿児島県[[薩摩川内市]]東郷)のみとされる。しかし、[[寛文]]元年([[1661年]])に5代[[島津忠朝 (日置家)|忠朝]]へ日置500石が加増され、[[延宝]]8年([[1680年]])、6代[[島津忠竹|忠竹]]の頃に日置へ再び移住し、復帰が成った。 |
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[[江戸時代]]、5代藩主(宗家22代)[[島津継豊]]の頃に家格整備が行われると、日置家の宗家は[[薩摩藩]]に於いて[[一所持]]、忠竹の弟の[[島津久近|久近]]を祖とする'''清太夫家'''、および忠竹の子の[[山岡久英|久英]]が興した'''山岡氏'''が[[寄合衆]]の[[家格]]とされた。江戸時代の庶家には先述の山岡氏の他に'''赤山氏'''がある。[[偏諱]]は次男までは「久」の字、また清太夫家と赤山氏・山岡氏も嫡男のみが「久」の字、それ以外は「歳」の字とされたが、山岡氏のみは嫡男以外は「英」の字とされた。 |
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[[江戸時代]]、5代藩主(宗家22代)[[島津継豊]]の頃に家格整備が行われると、日置家の宗家は[[薩摩藩]]に於いて[[一所持]]、忠竹の弟の[[島津久近|久近]]を祖とする'''清太夫家'''、および忠竹の子の[[山岡久英|久英]]が興した'''山岡家'''が[[寄合衆]]の[[家格]]とされた。江戸時代の庶家には先述の山岡家の他に'''赤山家'''がある。[[偏諱]]は次男までは「久」の字、また清太夫家と赤山家・山岡家も嫡男のみが「久」の字、それ以外は「歳」の字とされたが、山岡家のみは嫡男以外は「英」の字とされた。 |
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==歴代当主== |
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== 歴代当主 == |
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#[[島津歳久]](宗家15代[[島津貴久]]の三男) |
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#[[島津歳久]](宗家15代[[島津貴久]]の三男) |
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#[[島津忠隣]]([[薩州家]]・[[島津義虎]]の三男、歳久の娘婿) |
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#[[島津忠隣]]([[薩州家]]・[[島津義虎]]の三男、歳久の娘婿) |
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#[[島津常久]] |
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#[[島津常久]] |
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#[[島津久慶]](死後、養子[[島津久憲|久予]]の讒言により、一時日置家の系図より削られる) |
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#[[島津久慶]](死後、養子[[島津久憲|久予]]の讒言により、一時日置家の系図より削られる) |
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#[[島津忠朝 (日置家)|島津忠朝]](忠心とも。初代[[薩摩藩]]主(宗家18代)[[島津忠恒|家久]]の12男。[[桂氏#島津流桂氏|桂氏]]を継いでいたが日置当主に) |
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#[[島津忠朝 (日置家)|島津忠朝]](忠心とも。初代[[薩摩藩]]主(宗家18代)[[島津忠恒|家久]]の十二男。[[桂氏#島津流桂氏|桂氏]]を継いでいたが日置当主に) |
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#[[島津忠竹]](忠興・久竹とも) |
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#[[島津忠竹]](忠興・久竹とも) |
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#[[島津久健 (日置家)|島津久健]] |
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#[[島津久健 (日置家)|島津久健]] |
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#[[島津晴久 (日置家)|島津晴久]] |
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#[[島津晴久 (日置家)|島津晴久]] |
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==略系図== |
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== 略系図 == |
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;太字は当主。実線は実子、点線は養子。[ ]は、その氏の祖を意味する。 |
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;太字は当主。実線は実子、点線は養子。[ ]は、その家の祖を意味する。 |
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日置家(ひおきけ)は、薩摩国の守護大名、島津氏の分家。
概要
島津宗家15代当主島津貴久の三男島津歳久を祖とする系統。本来は薩摩の祁答院(現・鹿児島県さつま町宮之城)を本拠としていたが、歳久の娘婿である島津忠隣が根白坂の戦いで戦死して歳久に先立ち、その歳久も梅北一揆の首謀者との嫌疑で豊臣秀吉より自害を被ると、歳久夫人と忠隣夫人は処分を不服として忠隣の嫡男常久を擁して虎居城に立て籠もった。約1か月の籠城の末、歳久夫人らは開城、常久成人の暁には旧領へ戻す約束をして入来院重時与かりとなり清敷城に住んだ。その後、常久には文禄元年(1592年)に塔之原(現・鹿児島県薩摩川内市樋脇町)300石、さらに文禄4年(1595年)に日置(現・鹿児島県日置市日吉町日置)3600石が下賜されたのであるが、常久は日置へ移住、以後より日置島津家を称するようになった(その後、旧領の一部である船木に加え、黒木や藺牟田なども賜る)。
4代久慶が死去した折に、その養子であった久予(後の久憲)の讒言により、久慶は系図より一時名前を削られ、日置家の所領も東郷(現・鹿児島県薩摩川内市東郷)のみとされる。しかし、寛文元年(1661年)に5代忠朝へ日置500石が加増され、延宝8年(1680年)、6代忠竹の頃に日置へ再び移住し、復帰が成った。
江戸時代、5代藩主(宗家22代)島津継豊の頃に家格整備が行われると、日置家の宗家は薩摩藩に於いて一所持、忠竹の弟の久近を祖とする清太夫家、および忠竹の子の久英が興した山岡家が寄合衆の家格とされた。江戸時代の庶家には先述の山岡家の他に赤山家がある。偏諱は次男までは「久」の字、また清太夫家と赤山家・山岡家も嫡男のみが「久」の字、それ以外は「歳」の字とされたが、山岡家のみは嫡男以外は「英」の字とされた。
歴代当主
- 島津歳久(宗家15代島津貴久の三男)
- 島津忠隣(薩州家・島津義虎の三男、歳久の娘婿)
- 島津常久
- 島津久慶(死後、養子久予の讒言により、一時日置家の系図より削られる)
- 島津忠朝(忠心とも。初代薩摩藩主(宗家18代)家久の十二男。桂氏を継いでいたが日置当主に)
- 島津忠竹(忠興・久竹とも)
- 島津久健
- 島津久林
- 島津久甫
- 島津久暢
- 島津久知(久尹とも。兄の久典(後の島津貴品)が垂水家を継いだため家督)
- 島津久風
- 島津久徴
- 島津久明
- 島津繁麿(久明の弟歳寛の嫡男)
- 島津久欣
- 島津晴久
略系図
- 太字は当主。実線は実子、点線は養子。[ ]は、その家の祖を意味する。
参考文献