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「薛万とおる」のはんあいだ差分さぶん

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'''薛 まんてっ'''(せつ ばんてつ、生年せいねんしょう - [[653ねん]])は、[[中国ちゅうごく]]の[[とう]]の[[軍人ぐんじん]]。ほんぬき[[雍州]]咸陽現在げんざいの[[陝西せんせいしょう]][[咸陽]]
'''薛 まんてっ'''(せつ ばんてつ、生年せいねんしょう - [[653ねん]])は、[[中国ちゅうごく]]の[[とう]]の[[軍人ぐんじん]]。[[雍州]][[渭城|咸陽けん]]出身しゅっしん[[ほんぬき]][[河東かとうぐん (中国ちゅうごく)|河東かとうぐん]][[汾陰けん]]。


==経歴けいれき==
== 経歴けいれき ==
[[薛世ゆう]]のとしてまれた。[[ずい]]の[[大業おおわざ]]まつねんに薛世ゆうが涿郡太守たいしゅとなると、薛まんてっあにの[[薛万ひとし]]はちちしたがってかそけしゅうにあり、武人ぶじんとして[[げい]]と親交しんこうむすんだ。げいとともにとう帰順きじゅんし、[[くるま将軍しょうぐん]]ににんぜられ、武安たけやすけんこうふうぜられた。[[竇建徳けんとく]]のにわたるかそけしゅう進攻しんこうげいした撃退げきたいした。
[[薛世ゆう]]のとしてまれた。[[ずい]]の[[大業おおわざ]]まつねんに薛世ゆう[[涿郡]]太守たいしゅとなると、薛まんてっあにの[[薛万ひとし]]はちちしたがって[[かそけしゅう]]にあり、武人ぶじんとして[[げい]]と親交しんこうむすんだ。げいとともにとう帰順きじゅんし、[[くるま将軍しょうぐん]]ににんぜられ、武安たけやすけんこうふうぜられた。[[竇建徳けんとく]]のにわたるかそけしゅう進攻しんこうげいした撃退げきたいした。


その、[[皇太子こうたいし]][[たてしげる]]につかえた。[[626ねん]]、けんなりころされると、薛まんてっ東宮とうぐうへいひきいて玄武げんぶもんたたかい、はたおうせまった。[[ふとしそう (とう)|みん]]のぐんけんなりくびしめされると、退去たいきょしてすうじゅう南山なんざんのがれた。みんがたびたび使者ししゃしてさとしたので、薛まんてっやまった。みんはその忠誠ちゅうせいよみしてつみわなかった。[[しば紹]]が[[はりもろ]]をったとき、あにの薛万ひとし副将ふくしょうとし、薛まんてっもまた従軍じゅうぐんした。ついたちかたからすうじゅうさとのところで、[[突厥]]のへいあつまってくると、とうぐん本隊ほんたい後退こうたいし、薛まんてっ兄弟きょうだいべつ部隊ぶたいで突厥ぐんよこげきくわえて、これを撃破げきはした。突厥ぐん逃亡とうぼうすると、とうぐんはりもろ包囲ほういし、くだした。
その、[[皇太子こうたいし]][[たてしげる]]につかえた。[[626ねん]]、けんなりころされると、薛まんてっ東宮とうぐうへいひきいて玄武げんぶもんたたかい、はたおうせまった。[[ふとしそう (とう)|みん]]のぐんけんなりくびしめされると、退去たいきょしてすうじゅう南山なんざんのがれた。みんがたびたび使者ししゃしてさとしたので、薛まんてっやまった。みんはその忠誠ちゅうせいよみしてつみわなかった。[[しば紹]]が[[はりもろ]]をったとき、あにの薛万ひとし副将ふくしょうとし、薛まんてっもまた従軍じゅうぐんした。[[ついたちかたぐん|さくかた]]からすうじゅうさとのところで、[[突厥]]のへいあつまってくると、とうぐん本隊ほんたい後退こうたいし、薛まんてっ兄弟きょうだいべつ部隊ぶたいで突厥ぐんよこげきくわえて、これを撃破げきはした。突厥ぐん逃亡とうぼうすると、とうぐんはりもろ包囲ほういし、くだした。


[[630ねん]]、[[やすし]]のしたで[[突厥]]の[[頡利あせ]]をち、功績こうせきによりみつるぐんにんぜられ、爵位しゃくいぐんこうすすめた。やすしが[[吐谷渾]]をつと、これに同行どうこうし、あにの薛万ひとしとともにおのおのひゃくひきいて先行せんこうした。兄弟きょうだいで吐谷渾を追撃ついげきしてせき石山いしやまにいたり、あか水源すいげんてんばしらおうぐんやぶり、かわげんりん磧をめぐって帰還きかんし、やすしと[[青海あおみ]]で合流ごうりゅうした。
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あに死後しごまもなく、薛まんてっはは服喪ふくものためにしょくしたが、みぎまもる将軍しょうぐんとして再起さいきし、かばのしゅう[[刺史しし]]に出向しゅっこうした。[[勣]]の副将ふくしょうとして[[薛延陀]]を攻撃こうげきし、すうひゃくひきいて先鋒せんぽうをつとめ、斬首ざんしゅさんせんきゅう鹵獲ろかくしたうまいちまんせんという大勝たいしょうげた。[[644ねん]]、ひだりまもる将軍しょうぐんすすみ、丹陽たんよう公主こうしゅつまとし、駙馬じょうくわえられた。まもなくみぎまもる大将軍だいしょうぐん・[[杭州こうしゅう|杭州こうしゅう]]刺史ししてんじ、さらに[[だいしゅう]]みやこただしみぎたけまもる大将軍だいしょうぐんとなった。ふとしむねみんは「現今げんこん名将めいしょうというのは、ただ勣・江夏えなつおうどうむね・薛まんてっがいるだけだ。勣とみちむね大勝たいしょうできなくても、まだ大敗たいはいしたことはない。薛まんてっは、大勝たいしょうでなければ大敗たいはいだ」とひょうした。
あに死後しごまもなく、薛まんてっはは服喪ふくものためにしょくしたが、みぎまもる将軍しょうぐんとして再起さいきし、[[かばのしゅう (山西さんせいしょう)|かばのしゅう]][[刺史しし]]に出向しゅっこうした。[[勣]]の副将ふくしょうとして[[薛延陀]]を攻撃こうげきし、すうひゃくひきいて先鋒せんぽうをつとめ、斬首ざんしゅさんせんきゅう鹵獲ろかくしたうまいちまんせんという大勝たいしょうげた。[[644ねん]]、ひだりまもる将軍しょうぐんすすみ、丹陽たんよう公主こうしゅつまとし、駙馬じょうくわえられた。まもなくみぎまもる大将軍だいしょうぐん・[[杭州こうしゅう]]刺史ししてんじ、さらに[[だいしゅう]]みやこただしみぎたけまもる大将軍だいしょうぐんとなった。ふとしそうみんは「現今げんこん名将めいしょうというのは、ただ勣・江夏えなつおう[[みちむね]]・薛まんてっがいるだけだ。勣とみちむね大勝たいしょうできなくても、まだ大敗たいはいしたことはない。薛まんてっは、大勝たいしょうでなければ大敗たいはいだ」とひょうした。


[[648ねん]]、あおたかし道行みちゆきぐんそうかんとしてぐんさんまんひきいてしゅうから海路かいろをとって[[高句麗こうくり]]に侵攻しんこうし、[[かもみどりこう]]にはいった。高句麗こうくりしょぐんしろてて潰走かいそうするなかとまり汋城ぬしところおっとまごだけが抵抗ていこうしたが、薛まんてっはこれをり、とまり汋城をかこんだ。高句麗こうくり援軍えんぐんさんまん撃破げきはし、とまり汋城をとした。のちにぐんちゅう物資ぶっし私物しぶつしていることを告発こくはつされたが、ふとしむねは薛まんてっ功績こうせきしんで、譴責けんせきくわえたのみで、告発こくはつ上書うわがきいてしまった。また副将ふくしょうの裴行方ゆくえが薛まんてっ怨言えんげん告発こくはつすると、勣がふとむねを諫め、薛まんてっ庶民しょみんとして辺境へんきょうながさせた。のちに[[恩赦おんしゃ|大赦たいしゃ]]にあって、帰還きかんした。
[[648ねん]]、あおたかし道行みちゆきぐんそうかんとしてぐんさんまんひきいて[[萊しゅう]]から海路かいろをとって[[高句麗こうくり]]に侵攻しんこうし、[[かもみどりこう]]にはいった。高句麗こうくりしょぐんしろてて潰走かいそうするなか[[やす|とまり汋城]]おもところおっとまごだけが抵抗ていこうしたが、薛まんてっはこれをり、とまり汋城をかこんだ。高句麗こうくり援軍えんぐんさんまん撃破げきはし、とまり汋城をとした。のちにぐんちゅう物資ぶっし私物しぶつしていることを告発こくはつされたが、ふとしむねは薛まんてっ功績こうせきしんで、譴責けんせきくわえたのみで、告発こくはつ上書うわがきいてしまった。また副将ふくしょうの裴行方ゆくえが薛まんてっ怨言えんげん告発こくはつすると、勣がふとむねを諫め、薛まんてっ庶民しょみんとして辺境へんきょうながさせた。のちに[[恩赦おんしゃ|大赦たいしゃ]]にあって、帰還きかんした。


[[651ねん]]、やすししゅう刺史ししにんぜられた。入朝にゅうちょうすると、[[ぼう遺愛いあい]]と昵懇じっこんになり、荊王[[もとけい]]の擁立ようりつはかった。しかし[[653ねん]]、計画けいかくれてごくくだされ、処刑しょけいされた。けいのぞんで、「まんてっだい健児けんじなり。国家こっかのためにんでも、ぼう遺愛いあいなどとともにこれをころすのか」と大言たいげんした。処刑しょけいじんってもれず、薛まんてっは「どうしてちかられないのか」と処刑しょけいじんしかった。さんたびってようやくいきえた。
[[651ねん]]、[[やすししゅう (甘粛かんせいしょう)|やすししゅう]]刺史ししにんぜられた。入朝にゅうちょうすると、[[ぼう遺愛いあい]]と昵懇じっこんになり、荊王[[もとけい]]の擁立ようりつはかった。しかし[[653ねん]]、計画けいかくれてごくくだされ、処刑しょけいされた。けいのぞんで、「まんてっだい健児けんじなり。国家こっかのためにんでも、ぼう遺愛いあいなどとともにこれをころすのか」と大言たいげんした。処刑しょけいじんってもれず、薛まんてっは「どうしてちかられないのか」と処刑しょけいじんしかった。さんたびってようやくいきえた。


==伝記でんき資料しりょう==
== 伝記でんき資料しりょう ==
*『[[きゅうとうしょ]]』まきろくじゅうきゅう 列伝れつでんだいじゅうきゅう「薛まんてっでん
* 『[[きゅうとうしょ]]』まき69 列伝れつでんだい19「薛まんてっでん
*『[[しんとうしょ]]』まききゅうじゅうよん 列伝れつでんだいじゅうきゅう「薛まんてっでん
* 『[[しんとうしょ]]』まき94 列伝れつでんだい19「薛まんてっでん


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2021ねん11月25にち (木)もく 08:08時点じてんにおけるはん

まんてっ(せつ ばんてつ、生年せいねんしょう - 653ねん)は、中国ちゅうごくとう軍人ぐんじん雍州咸陽けん出身しゅっしんほんぬき河東かとうぐん汾陰けん

経歴けいれき

薛世ゆうとしてまれた。ずい大業おおわざすえねんに薛世ゆう涿郡太守たいしゅとなると、薛まんてっあに薛万ひとしちちしたがってかそけしゅうにあり、武人ぶじんとしてげい親交しんこうむすんだ。げいとともにとう帰順きじゅんし、くるま将軍しょうぐんにんぜられ、武安たけやすけんこうふうぜられた。建徳けんとくにわたるかそけしゅう進攻しんこうげいした撃退げきたいした。

その皇太子こうたいしたてしげるつかえた。626ねんけんなりころされると、薛まんてっ東宮とうぐうへいひきいて玄武げんぶもんたたかい、はたおうせまった。みんぐんけんなりくびしめされると、退去たいきょしてすうじゅう南山なんざんのがれた。みんがたびたび使者ししゃしてさとしたので、薛まんてっやまった。みんはその忠誠ちゅうせいよみしてつみわなかった。しばはりもろったとき、あにの薛万ひとし副将ふくしょうとし、薛まんてっもまた従軍じゅうぐんした。ついたちかたからすうじゅうさとのところで、突厥へいあつまってくると、とうぐん本隊ほんたい後退こうたいし、薛まんてっ兄弟きょうだいべつ部隊ぶたいで突厥ぐんよこげきくわえて、これを撃破げきはした。突厥ぐん逃亡とうぼうすると、とうぐんはりもろ包囲ほういし、くだした。

630ねんやすしした突厥頡利あせち、功績こうせきによりみつるぐんにんぜられ、爵位しゃくいぐんこうすすめた。やすし吐谷渾つと、これに同行どうこうし、あにの薛万ひとしとともにおのおのひゃくひきいて先行せんこうした。兄弟きょうだいで吐谷渾を追撃ついげきしてせき石山いしやまにいたり、あか水源すいげんてんばしらおうぐんやぶり、かわげんりん磧をめぐって帰還きかんし、やすし青海あおみ合流ごうりゅうした。

あに死後しごまもなく、薛まんてっはは服喪ふくものためにしょくしたが、みぎまもる将軍しょうぐんとして再起さいきし、かばのしゅう刺史しし出向しゅっこうした。副将ふくしょうとして薛延陀攻撃こうげきし、すうひゃくひきいて先鋒せんぽうをつとめ、斬首ざんしゅさんせんきゅう鹵獲ろかくしたうまいちまんせんという大勝たいしょうげた。644ねんひだりまもる将軍しょうぐんすすみ、丹陽たんよう公主こうしゅつまとし、駙馬じょうくわえられた。まもなくみぎまもる大将軍だいしょうぐん杭州こうしゅう刺史ししてんじ、さらにだいしゅうみやこただしみぎたけまもる大将軍だいしょうぐんとなった。ふとしそうみんは「現今げんこん名将めいしょうというのは、ただ勣・江夏えなつおうみちむね・薛まんてっがいるだけだ。勣とみちむね大勝たいしょうできなくても、まだ大敗たいはいしたことはない。薛まんてっは、大勝たいしょうでなければ大敗たいはいだ」とひょうした。

648ねんあおたかし道行みちゆきぐんそうかんとしてぐんさんまんひきいて萊州から海路かいろをとって高句麗こうくり侵攻しんこうし、かもみどりこうはいった。高句麗こうくりしょぐんしろてて潰走かいそうするなかとまり汋城おもところおっとまごだけが抵抗ていこうしたが、薛まんてっはこれをり、とまり汋城をかこんだ。高句麗こうくり援軍えんぐんさんまん撃破げきはし、とまり汋城をとした。のちにぐんちゅう物資ぶっし私物しぶつしていることを告発こくはつされたが、ふとしむねは薛まんてっ功績こうせきしんで、譴責けんせきくわえたのみで、告発こくはつ上書うわがきいてしまった。また副将ふくしょうの裴行方ゆくえが薛まんてっ怨言えんげん告発こくはつすると、勣がふとむねを諫め、薛まんてっ庶民しょみんとして辺境へんきょうながさせた。のちに大赦たいしゃにあって、帰還きかんした。

651ねんやすししゅう刺史ししにんぜられた。入朝にゅうちょうすると、ぼう遺愛いあい昵懇じっこんになり、荊王もとけい擁立ようりつはかった。しかし653ねん計画けいかくれてごくくだされ、処刑しょけいされた。けいのぞんで、「まんてっだい健児けんじなり。国家こっかのためにんでも、ぼう遺愛いあいなどとともにこれをころすのか」と大言たいげんした。処刑しょけいじんってもれず、薛まんてっは「どうしてちかられないのか」と処刑しょけいじんしかった。さんたびってようやくいきえた。

伝記でんき資料しりょう