みちむね

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みちむね(り どうそう、603ねん - 656ねん[1])は、中国ちゅうごくとう宗室そうしつとう高祖こうそふかし従兄弟いとこ東平とうへいおう韶(とらよんなんの畢王あきら)のうけたまわはんふとしむね従弟じゅうていで、ふとしむね時代じだいひがし突厥吐谷渾高句麗こうくり薛延陀たいする戦役せんえき部隊ぶたい指揮しきした。こうはじめ時代じだいみちむねこうむね母方ははかた伯父おじちょうまご感情かんじょうがいし、ちょうまご反逆はんぎゃくしたぼう遺愛いあい協力きょうりょくしたとして告訴こくそぞうしゅう追放ついほうした。みちむね亡命ぼうめい途上とじょう死去しきょした。

高祖こうそ時代じだい[編集へんしゅう]

みちむねずいじん寿ことぶき3ねん(603ねん)にまれる。祖父そふあきらきたあまね廷臣ていしんであり楊堅が摂政せっしょう即位そくいすることになっていた時期じききたしゅうちょうおう宇文うぶん招と楊堅を殺害さつがいすることをたくらんできたしゅうのち処刑しょけいされた。あきら息子むすこは、ころされなかったが、その一人ひとり韶がみちむねちちであった。

大業おおわざ13ねん617ねん)、ふかし煬帝たいして反乱はんらんこし、翌年よくねんまでに高祖こうそとしてとう建国けんこくしていた。親族しんぞくおおくを貴族きぞくじょし、みちむねりゃくこうじょされた。武徳ぶとく2ねん619ねん)、てい楊可あせりゅう武周ぶしゅう山西さんせいにあるとう領土りょうどほとんどを攻撃こうげき確保かくほ河東かわとうせまった。みちむね高祖こうそ息子むすこりゅう武周ぶしゅう抵抗ていこうするしんこくおおやけみんつかえ、りゅう武周ぶしゅう食糧しょくりょう供給きょうきゅう弱体じゃくたいさせる選択せんたくをしみんりゅう武周ぶしゅうやぶ自分じぶん提案ていあんみんただちにりゅう武周ぶしゅう交戦こうせんはしなかった。さらにこの戦役せんえきみちしゅう宇文うぶんりゅう武周ぶしゅう将軍しょうぐんじょうおそけいとく説得せっとくして降伏ごうぶくさせることができ、じょうおそけいとくのちみんした重要じゅうよう将軍しょうぐんになった。

みちむね当時とうじれいしゅうそうかんであった。はり皇帝こうていはりもろ従弟じゅうていはりらくじんひがし突厥援助えんじょけて攻撃こうげきすると、みちむねはらうことができ、さらはらからひがし突厥の将軍しょうぐんおもねいくしゃ追放ついほうした。高祖こうそたかしにんじょうおおやけ曹彰功績こうせきみちむね功績こうせきなぞらえてみちむねにんじょうおおやけじょした。

ふとしむね時代じだい[編集へんしゅう]

武徳ぶとく9ねん626ねん)、当時とうじ皇太子こうたいしたてしげるはげしい緊張きんちょう関係かんけいけんなり自分じぶんころすつもりであるとおそれていたみん玄武げんぶもんへんけんなりべつ兄弟きょうだいけんなり支援しえんしたひとしおう元吉もとよし殺害さつがいした。そのさい事実じじつじょう高祖こうそ自分じぶん皇太子こうたいしじょさせ(ふとしむねとして)譲位じょういさせた。おおとり臚卿・だいきょうとしてつとめた最初さいしょであるみちむねもどした。のちふとしむねひがし突厥を攻撃こうげきすることを計画けいかくすると、さだかん4ねん630ねん)、やすしひがし突厥への攻撃こうげき開始かいしすると、みちむねはそのしたはたらき、結局けっきょく実際じっさいれたみちむね補佐ほさかんちょうたからしょうひがし突厥の頡利あせらえるのに参加さんかした。もどると、ふとしむねみちむね領地りょうち家中いえじゅうもの600にん加増かぞうし、刑部おさかべ尚書しょうしょ任命にんめいした。

さだかん8ねん634ねん)、みちむねふたたやすししたはたらき、今度こんど吐谷渾薩鉢あせふくまことたいする作戦さくせん従事じゅうじした。とうぐん当初とうしょ勝利しょうりしたが、吐谷渾軍はそのさいとう軍馬ぐんばへの食糧しょくりょう供給きょうきゅうため牧草ぼくそういた。とうほとんどの将軍しょうぐん撤退てったいしたがったが、みちむね有利ゆうり状況じょうきょうつづけることを主張しゅちょうし、やすし合意ごういし、結局けっきょく完全かんぜん勝利しょうりし、ふくまこと部下ぶかころされたので、とう支援しえんした息子むすこ慕容じゅんあせになることをみとめた[2]

さだかん11ねん637ねん)、永続えいぞくてき領土りょうどとして親族しんぞく偉大いだい将軍しょうぐん廷臣ていしんしょけんさづけるふとしむね計画けいかく一環いっかんとしてみちむね肩書かたがきが変更へんこうされ、継承けいしょうしゃにより相続そうぞくされるおおむ江夏えなつぐんおうあたえられた。しかしみちむね肩書かたがきに変更へんこうはなかったがしばらくしてちょうまご頂点ちょうてんとして制度せいどたいするおおくの異議いぎけてふとしむね計画けいかく撤回てっかいした。ある時点じてんみちむね汚職おしょく告発こくはつされ、ふとしむねいかりで解任かいにん領地りょうちらしたが、王子おうじとして屋敷やしきもどることをゆるした。結局けっきょく式典しきてん大臣だいじんとなった。さだかん14ねん640ねん)、とうこうあきら併合へいごうしたさい遠征えんせいぐんひきいたほうくんしゅうふとしむね予期よきしたほどにはむくいずこうあきら宝物ほうもつぬすんだとして調査ちょうさしたことでんだ。ほうくんしゅうんでいることをってみちむねほうくんしゅう反逆はんぎゃくするかもれないとたいむね警告けいこくしたが(ふとしむねしんじなかった)、のちほうくんしゅう皇太子こうたいしうけたまわいぬい陰謀いんぼう連座れんざ処刑しょけいされると、みちむねおもこし感謝かんしゃした。

さだかん15ねん641ねん)、とう吐蕃平和へいわ条約じょうやく一環いっかんとしてみちむねふとしむね認可にんかされ文成ふみなり公主こうしゅ肩書かたがきをあたえられた自分じぶんむすめ吐蕃おうソンツェン・ガンポ結婚けっこんするためにチベットにおくった。みちむねギャリン英語えいごばんちかくで黄河こうが水源すいげんにあたる場所ばしょでチベットがわいとい、長安ながやすもどった。

さだかん19ねん645ねん)、みちむね高句麗こうくり攻撃こうげきふとしむね同行どうこうし、前線ぜんせん司令しれいかんたいする補佐ほさかんとして従軍じゅうぐんした。同年どうねんなつぶた牟城確保かくほし、遼東りゃおとん高句麗こうくりぐんやぶり、そこでふとしむね遼東りゃおとんれた。しかし高句麗こうくりやす市城いちしろ部隊ぶたいたいしても勝利しょうりすると、ふとしむねやす市城いちしろ包囲ほういせんまることになり、そのわりにみちむねやす市城いちしろ直接ちょくせつ高句麗こうくり首都しゅと平壌ぴょんやん攻撃こうげきすることを提案ていあんした。ふとしむねはじめは合意ごういしたが、やすじょうをまず確保かくほしなければやす市城いちしろ防衛ぼうえいしゃ本名ほんみょうなのかは不明ふめいだが朝鮮ちょうせん国民こくみんてき伝説でんせつまんはるとしてられる有能ゆうのう将軍しょうぐん)が後方こうほうから攻撃こうげきするとかんがえる勣とちょうまご反対はんたいした。したがってふとしむねやす市城いちしろとのたたかいを継続けいぞくした。やす市城いちしろ包囲ほういせんやす市城いちしろ城壁じょうへき一部いちぶ崩壊ほうかいとうぐん入城にゅうじょうする機会きかいがあったが、そのときみちそう配下はいか廷臣ていしんでんふくあい注意ちゅういはらっておらず、わりに高句麗こうくりぐんからって防御ぼうぎょため使つかみちむね担当たんとうする攻撃こうげき用土ようどるい一部いちぶ確保かくほした。この攻撃こうげきによりふとしむねでんふくあい処刑しょけい後悔こうかいねんしめみちむね寛恕かんじょもとめるとたいむねしかったが司令しれいかん地位ちいめた。のちやす市城いちしろ防衛ぼうえい膠着こうちゃくするととも勣とみちむね殿しんがりにしてふとしむね撤退てったいした。長安ながやすもどると、みちむね病気びょうき理由りゆう辞任じにんもうて、ふとしむねはそれほど責任せきにんおもくない地位ちい王族おうぞく業務ぎょうむ担当たんとうする長官ちょうかんにした。

こうむね時代じだい[編集へんしゅう]

さだかん23ねん649ねん)、ふとしむね死去しきょ番目ばんめ皇太子こうたいしこうはじめ即位そくいした。こうむね母方ははかた伯父おじちょうまご褚遂りょう筆頭ひっとう大臣だいじんつとめた。えい3ねん652ねん)、ふとしむねおとうともとけい皇帝こうていえようと画策かくさくしたとされるふとしむねむすめ合浦がつぽ公主こうしゅおっとぼう遺愛いあい中心ちゅうしんとした陰謀いんぼう発覚はっかくした。ちょうまご捜査そうさ範囲はんいひろえい徽4ねん653ねんはる共謀きょうぼうしゃころされた。しかしちょうまごと褚遂りょうともみちしゅう対立たいりつしていたので大臣だいじん宇文うぶんぶし英語えいごばんしつおもえりょく同様どうようぞうしゅうみちむね追放ついほうした。みちむねおそらくえい徽7ねん(656ねん)に53さい追放ついほう途上とじょう死去しきょした[1]のちに(こうはじめつま武則たけのりてんとその仲間なかまで)ちょうまごと褚遂りょう自身じしん失脚しっきゃくするとみちむね地位ちい死後しご回復かいふくされた。

晩年ばんねんみちむね学問がくもんはげ謙虚けんきょであるとわれた。『しんとうしょ』はみちしゅう従兄弟いとこたかしきょうから時代じだい初期しょきもっと有能ゆうのう宗室そうしつ賞賛しょうさんした。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 歴史れきしじょう記述きじゅつではみちむねは53さい死去しきょし、亡命ぼうめいさき到達とうたつすることなく653ねん追放ついほう亡命ぼうめいさきへのたび途中とちゅう死去しきょしたことをほのめかしている。このことは653ねん死去しきょしたことの証拠しょうこであるようであるが、確実かくじつではない。『きゅうとうしょまき60きゅうとうしょ 列傳れつでんだいいちいたりじゅう”. 2007ねん10がつ11にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2007ねん3がつ30にち閲覧えつらん参照さんしょうされたい。一方いっぽうで『しんとうしょ』は619ねんに16さいで、したがってこの日付ひづけはここで使つかわれている。
  2. ^ しかし『しんとうしょみちそうつたえふくまれるさらほうくんしゅうさらなる進軍しんぐん反対はんたいしたとべるこの記述きじゅつは、ほうさらなる進軍しんぐん支持しじする一人ひとりであるとべるほうくんしゅう伝記でんき矛盾むじゅんする。『しんとうしょまき78とまき94しんとうしょ 列傳れつでんだいじゅういちいたりじゅう”. 2008ねん2がつ10日とおか時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2007ねん12月18にち閲覧えつらん比較ひかくされたい。『どおりかん』はほうさらなる進軍しんぐん支持しじした一人ひとりであるとする記述きじゅつ容認ようにんした。『どおりかんまき194参照さんしょうされたい。