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島田しまだ謹二きんじ」のはんあいだ差分さぶん

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1901ねん、[[東京とうきょう|東京とうきょう]]まれ。[[東北大学とうほくだいがく|東北とうほく帝国ていこく大学だいがく]]英文えいぶん卒業そつぎょうわか英国えいこく専門せんもんとしたが、のヨーロッパの国々くにぐに日本にっぽん詩歌しか関心かんしんふかめていった。戦前せんぜんは[[台北たいぺい帝国ていこく大学だいがく]]教授きょうじゅとして赴任ふにんおな職場しょくば英文えいぶん学者がくしゃ[[矢野やのみねじん]]がおり、終生しゅうせい交流こうりゅうした。
1901ねん、[[東京とうきょう|東京とうきょう]]まれ。[[東北大学とうほくだいがく|東北とうほく帝国ていこく大学だいがく]]英文えいぶん卒業そつぎょうわか英国えいこく専門せんもんとしたが、のヨーロッパの国々くにぐに日本にっぽん詩歌しか関心かんしんふかめていった。戦前せんぜんは[[台北たいぺい帝国ていこく大学だいがく]]教授きょうじゅとして赴任ふにんおな職場しょくば英文えいぶん学者がくしゃ[[矢野やのみねじん]]がおり、終生しゅうせい交流こうりゅうした。


戦後せんごは、新制しんせい発足ほっそくあいだもない[[東京大学とうきょうだいがく]]教養きょうよう学部がくぶ教授きょうじゅいた。新設しんせつされた大学院だいがくいん比較ひかく文学ぶんがく比較ひかく文化ぶんか専修せんしゅう課程かてい初代しょだい主任しゅにん教官きょうかんとなり、[[平川ひらかわゆうひろし]]、[[芳賀はがとおる]]、[[小堀こぼり桂一郎けいいちろう]]、[[亀井かめい俊介しゅんすけ]]ら、多方面たほうめん活躍かつやくする人材じんざいおおそだてた。[[1961ねん]]([[昭和しょうわ]]36ねん)の定年ていねん退官たいかんは、[[実践女子大学じっせんじょしだいがく]]教授きょうじゅ、[[東洋大学とうようだいがく]]教授きょうじゅつとめ、同時どうじ複数ふくすう大学だいがく講師こうしとして教鞭きょうべんをとった。1974ねん、「日本にっぽんにおける西洋せいよう文学ぶんがく考究こうきゅう -比較ひかく文学ぶんがく研究けんきゅう-」を[[東京大学とうきょうだいがく]]に提出ていしゅつして文学ぶんがく博士はかせごう取得しゅとく
戦後せんごは、新制しんせい発足ほっそくあいだもない[[東京大学とうきょうだいがく]]教養きょうよう学部がくぶ教授きょうじゅいた。新設しんせつされた大学院だいがくいん比較ひかく文学ぶんがく比較ひかく文化ぶんか専修せんしゅう課程かてい初代しょだい主任しゅにん教官きょうかんとなり、[[平川ひらかわゆうひろし]]、[[芳賀はがとおる]]、[[小堀こぼり桂一郎けいいちろう]]、[[亀井かめい俊介しゅんすけ]]ら、多方面たほうめん活躍かつやくする人材じんざいおおそだてた。[[1961ねん]]([[昭和しょうわ]]36ねん)の定年ていねん退官たいかんは、[[実践女子大学じっせんじょしだいがく]]教授きょうじゅ、[[東洋大学とうようだいがく]]教授きょうじゅつとめ、同時どうじ複数ふくすう大学だいがく講師こうしとして教鞭きょうべんをとった。1974ねん、「日本にっぽんにおける西洋せいよう文学ぶんがく考究こうきゅう -比較ひかく文学ぶんがく研究けんきゅう-」を[[東京大学とうきょうだいがく]]に提出ていしゅつして[[文学ぶんがく博士はかせ]]ごう取得しゅとく


==経歴けいれき==
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2023ねん2がつ21にち (火) 12:08時点じてんにおけるはん

島田しまだ 謹二きんじ
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1901-03-20) 1901ねん3がつ20日はつか
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう
死没しぼつ 1993ねん4がつ20日はつか(1993-04-20)(92さいぼつ
出身しゅっしんこう 東北とうほく帝国ていこく大学だいがく
子供こども 齊藤さいとう信子のぶこ(作家さっか)
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 文学ぶんがく(比較ひかく文学ぶんがくえいべい文学ぶんがく
研究けんきゅう機関きかん 台北たいぺい帝国ていこく大学だいがく東京大学とうきょうだいがく
学位がくい 博士はかせ(文学ぶんがく)
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島田しまだ 謹二きんじ(しまだ きんじ、1901ねん明治めいじ34ねん3がつ20日はつか - 1993ねん平成へいせい5ねん4がつ20日はつか)は、日本にっぽん比較ひかく文学ぶんがくものえいべい文学ぶんがくしゃ文化ぶんか功労こうろうしゃ日本学士院にほんがくしいんしょう受賞じゅしょう

来歴らいれき

1901ねん東京とうきょうまれ。東北とうほく帝国ていこく大学だいがく英文えいぶん卒業そつぎょうわか英国えいこく専門せんもんとしたが、のヨーロッパの国々くにぐに日本にっぽん詩歌しか関心かんしんふかめていった。戦前せんぜん台北たいぺい帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅとして赴任ふにんおな職場しょくば英文えいぶん学者がくしゃ矢野やのみねじんがおり、終生しゅうせい交流こうりゅうした。

戦後せんごは、新制しんせい発足ほっそくあいだもない東京大学とうきょうだいがく教養きょうよう学部がくぶ教授きょうじゅいた。新設しんせつされた大学院だいがくいん比較ひかく文学ぶんがく比較ひかく文化ぶんか専修せんしゅう課程かてい初代しょだい主任しゅにん教官きょうかんとなり、平川ひらかわゆうひろし芳賀はがとおる小堀こぼり桂一郎けいいちろう亀井かめい俊介しゅんすけら、多方面たほうめん活躍かつやくする人材じんざいおおそだてた。1961ねん昭和しょうわ36ねん)の定年ていねん退官たいかんは、実践女子大学じっせんじょしだいがく教授きょうじゅ東洋大学とうようだいがく教授きょうじゅつとめ、同時どうじ複数ふくすう大学だいがく講師こうしとして教鞭きょうべんをとった。1974ねん、「日本にっぽんにおける西洋せいよう文学ぶんがく考究こうきゅう -比較ひかく文学ぶんがく研究けんきゅう-」を東京大学とうきょうだいがく提出ていしゅつして文学ぶんがく博士はかせごう取得しゅとく

経歴けいれき

研究けんきゅう内容ないよう業績ぎょうせき

東大とうだい定年ていねんあらわした海軍かいぐん軍人ぐんじん大作たいさく評伝ひょうでん『ロシヤにおける広瀬ひろせ武夫たけお』、『アメリカにおける秋山あきやま真之まさゆき』(1970ねん日本にっぽんエッセイストクラブしょう)、『ロシヤ戦争せんそう前夜ぜんや秋山あきやま真之まさゆき』(1991ねん菊池きくちひろししょう)などで著名ちょめいである。司馬しばりょう太郎たろうとも、広瀬ひろせ秋山あきやまを『さかうえくも』でえがいたえんしたしかった[1]島田しまだ文春ぶんしゅん文庫ぶんこぜん8かん)の解説かいせつ最終巻さいしゅうかん)も担当たんとうした。

人物じんぶつ

  • 3にんのうち、男児だんじ2にんわかくして事故じこおよび自殺じさつくし、戦後せんご愛人あいじんんでいたことは、一人娘ひとりむすめ齊藤さいとう信子のぶこの『いかだかづらのいえ ちち島田しまだ謹二きんじおも』(近代きんだい出版しゅっぱんしゃ、2005ねん)にくわしく記載きさいされている。また平川ひらかわゆうひろの「島田しまだ謹二きんじ先生せんせい」(『新潮しんちょう』1993ねん7がつごう)にかくがいたといてあるが、実際じっさい先妻せんさい子供こどもであり、かくはいない。齊藤さいとう信子のぶこ男児だんじ2にん後妻ごさい子供こどもである。
  • 北原きたはら白秋はくしゅう佐藤さとう春夫はるおらの詩人しじんにも師事しじし、作品さくひんしゅう編纂へんさんもした。戦前せんぜん台湾たいわん活躍かつやくした女性じょせい詩人しじんの「花浦はなうらみさを」の発掘はっくつおこなった。さい晩年ばんねん1992ねん平成へいせい4ねん)11月に、文化ぶんか功労こうろうしゃ没後ぼつご島田しまだ謹二きんじ記念きねん学藝がくげいしょうもうけられ、東大とうだい比較ひかく文学ぶんがく研究けんきゅう出身しゅっしんわか学者がくしゃ授与じゅよされている。
  • 90ちかくになってからも、2あいだにわたってエネルギッシュにかたつづけ、「みなさん、ふたげんには、きゅうじゅうちかい、きゅうじゅうちかいとおっしゃるが、きゅうじゅうになったらいちゃいけないんですか。わたしは、まだ、きたいです!」とさけぶほど元気げんきで、女性じょせい関係かんけいについても派手はでであった[2]

著書ちょしょ

たんちょ

共編きょうへんちょ

翻訳ほんやく

文献ぶんけん情報じょうほう

  • 橋本はしもと恭子きょうこ 『「華麗かれいとう文学ぶんがくこころざし」とその時代じだい 比較ひかく文学ぶんがくしゃ島田しまだ謹二きんじ台湾たいわん体験たいけん』(さんげんしゃ 2012.2)
    • もとはんざいたい日本人にっぽんじん郷土きょうど主義しゅぎ(レジョナリズム)- 島田しまだ謹二きんじ西川にしかわみつる目指めざしたもの』(橋本はしもと恭子きょうこ日本にっぽん台湾たいわん学会がっかいほう」2007.5)[1]
  • 小林こばやし信行のぶゆき島田しまだ謹二きんじでん 日本人にっぽんじん文学ぶんがくの「横綱よこづな」』(ミネルみねるァ書房ぁしょぼうひと文化ぶんか探究たんきゅう〉 2017.7)。弟子でしによる評伝ひょうでん
  • 小林こばやし信行のぶゆき島田しまだ謹二きんじ このアポリヤを解決かいけつするみちはないか』[3]ミネルみねるァ書房ぁしょぼうミネルヴァ日本にっぽん評伝ひょうでんせん〉 2021.8)ISBN 9784623092383

脚注きゃくちゅう

  1. ^ さかうえくも渡米とべい」のこう島田しまだ謹二きんじ「ロシアにおける広瀬ひろせ武夫たけお」への言及げんきゅうあり。
  2. ^ 東大とうだい駒場こまんば学派がくは物語ものがたり小谷野こやのあつしちょ(新書しんしょかん)書評しょひょう「もてない学者がくしゃ津田つだただし紀伊国屋きのくにや書店しょてん書評しょひょう空間くうかん」、2009ねん05がつ11にち
  3. ^ 巻末かんまつ詳細しょうさい書誌しょし収録しゅうろく