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嬉野うれしの温泉おんせん

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嬉野うれしの温泉おんせん
温泉おんせん情報じょうほう
所在地しょざいち 佐賀さがけん嬉野うれしの嬉野うれしのまち
交通こうつう 鉄道てつどう : 佐世保線させぼせん武雄温泉たけおおんせんえきよりJR九州きゅうしゅうバスやく30ふん
西にし九州きゅうしゅう新幹線しんかんせん嬉野うれしの温泉おんせんえき
のアクセス方法ほうほうは、したアクセス参照さんしょうのこと
いずみただし 塩化えんかぶついずみ
pH 7.8
外部がいぶリンク 嬉野うれしの温泉おんせん観光かんこう協会きょうかい
テンプレートを表示ひょうじ

嬉野うれしの温泉おんせん(うれしのおんせん)は佐賀さがけん嬉野うれしの嬉野うれしのまちきゅうくに肥前ひぜんこく)にある温泉おんせん武雄温泉たけおおんせんならけん代表だいひょうする温泉おんせんである。

日本にっぽんさんだい美肌びはだ嬉野うれしの温泉おんせん」、「佐賀さが嬉野うれしの温泉おんせん」の名称めいしょう嬉野うれしのにより商標しょうひょう登録とうろくされている。

いずみただし[編集へんしゅう]

  • ナトリウム - 炭酸たんさん水素すいそしお塩化えんかぶついずみ

美肌びはだ効果こうかがある重曹じゅうそういずみで、入浴にゅうよくしたのちにつるつるかんがある。そのいずみしつ藤田ふじたさとしによって「日本にっぽんさんだい美肌びはだ」にえらばれている(のこり2つは斐乃じょう温泉おんせん喜連川きつれがわ温泉おんせん)。

温泉おんせんがい[編集へんしゅう]

シーボルトの

まち中心ちゅうしん温泉おんせんで、九州きゅうしゅうでも有数ゆうすうだい温泉おんせんがいである。塩田川しおたがわ嬉野うれしのがわ)をはさんで大小だいしょう50けんちかくの旅館りょかんのきならべ、そのなかには、1987ねん昭和しょうわ62ねん)に佐賀さがけんおこなわれただい38かい全国ぜんこく植樹しょくじゅさいさい昭和しょうわ天皇てんのう宿泊しゅくはくした多屋たや別荘べっそうひとしがある。また、嬉野うれしのなかもっとふる旅館りょかん1830ねん天保てんぽう元年がんねん)に創業そうぎょうした旅館りょかん大村おおむらといわれる。

商店しょうてんがい中心ちゅうしん足湯あしゆ広場ひろばには、「シーボルト足湯あしゆ」があり、無料むりょう利用りようできる。ちかくには1924ねん大正たいしょう13ねん)にドイツじん設計せっけいつくられた木造もくぞう2かいて(一部いちぶ3かい)・地下ちかかい公衆こうしゅう浴場よくじょう古湯ふるゆ温泉おんせん」があり、2001ねん前後ぜんこう時点じてんでは、内部ないぶ配管はいかん老朽ろうきゅうがあったものの建物たてもの外観がいかんはほぼ良好りょうこう保存ほぞん状態じょうたいだった[1]。しかし、2005ねん平成へいせい17ねん)3がつ20日はつか発生はっせいした福岡ふくおかけん西方にしほうおき地震じしん影響えいきょうこわされた。その地元じもと要望ようぼうけて2010ねん平成へいせい22ねん)4がつ1にちに、大正たいしょう時代じだい姿すがた再現さいげんされ[2]しん名称めいしょう「シーボルトの」として再開さいかいされた。

美肌びはだとも呼称こしょうされる嬉野うれしの温泉おんせんは、飲用いんようにもてきしており、なかでも温泉おんせん使つかっていているという温泉おんせん湯豆腐ゆどうふ嬉野うれしの代表だいひょうする名物めいぶつである。また嬉野うれしのにおいては「どうふ」と表記ひょうきされており、「嬉野うれしの温泉おんせんどうふ」の名称めいしょう嬉野うれしのにより商標しょうひょう登録とうろくされている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

温泉おんせんがい

嬉野うれしの温泉おんせんは、奈良なら時代じだい編纂へんさんされた『肥前ひぜんこく風土記ふどき』に「まんにんやまいなお温泉おんせん」との記述きじゅつ初出しょしゅつであるが、温泉おんせん名称めいしょうしるされていない[3]

伝説でんせつによると神功じんぐう皇后こうごうさんかん征伐せいばつ帰途きと温泉おんせん発見はっけんし、兵士へいしつかれをいやしたさい「あな、うれしや」と感歎かんたんしたことが「嬉野うれしの」の地名ちめいになったとするが、それ以外いがいにも高祖こうそ太子たいし(『だいていてら旧記きゅうき』)や老婆ろうば(『豊玉とよたまひめ神社じんじゃしゃでん』)が「うれし」と発言はつげんした伝説でんせつがあり、これらは地名ちめい「うれしの」が「嬉野うれしの」の文字もじになったのち類推るいすいされたもので、地名ちめい「うれしの」と「うれし」発言はつげん直接的ちょくせつてき関係かんけいいとされる。なお、「うれしの」との文言もんごんはじめて史料しりょう確認かくにんされるのは鎌倉かまくら時代じだいで、当時とうじは「宇礼志野しの」とかれていた[4]地名ちめい由来ゆらいは、塩田川しおたがわ上流じょうりゅうにあるであるため先端せんたん意味いみするすえ(うれ)から「まつ」とばれ、のち漢字かんじてた地名ちめいとされる[5]

そのしばらく、温泉おんせんかんする史料しりょうがないが、戦国せんごく時代じだい末期まっき(1570年代ねんだい)になると、龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶ嬉野うれしのでの湯治とうじをすすめた記録きろくあらわれる[6]

江戸えど時代じだいには長崎ながさき街道かいどう宿場しゅくばまち嬉野うれしの宿やどとしてさかえた。あかりれき2(1656)ねん蓮池はすいけはん初代しょだい藩主はんしゅ鍋島なべしまただしきよしとき豊玉とよたまひめ神社じんじゃ管理かんりだった泉源せんげん管理かんり蓮池はすいけはんうつり、露天風呂ろてんぶろから屋根やねがかけられはん営浴じょうとなった[6]宿場しゅくばにはおおくの往来おうらいがあり、なかでも『和漢わかんさんさい図会ずえ』や『江戸えど紀行きこう』などに嬉野うれしの温泉おんせん様子ようすしるされ、このころから歓楽かんらく温泉おんせんとしてもられていたようである。

戦後せんご西にし別府べっぷといわれるほど歓楽かんらく温泉おんせんとしてせた。だが、かく温泉おんせん旅館りょかん風格ふうかく調ととのっており、それぞれがおもむきった風呂ふろっている。また、イベントもおお実施じっしされているが、温泉おんせん比較ひかくすると、あらたな施設しせつ投入とうにゅうすくないほうである。

嬉野うれしのきゅう嬉野うれしのまちでは、ふるくからちゃ栽培さいばいされている。そのため、嬉野うれしの観光かんこう協会きょうかいでは、「おちゃといでの」温泉おんせんであることを積極せっきょくてき宣伝せんでんしており、両者りょうしゃむすびつけた様々さまざま取組とりくみもおこなっている。

アクセス[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだいからの名物めいぶつ
温泉おんせん湯豆腐ゆどうふ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 佐賀さがけん近代きんだい遺産いさん-佐賀さがけん近代きんだい遺産いさん建造けんぞうぶつとう総合そうごう調査ちょうさ報告ほうこくしょ-』佐賀さがけん教育きょういく委員いいんかい佐賀さがけん文化財ぶんかざい調査ちょうさ報告ほうこくしょだい153しゅう〉、2002ねん、182ぺーじ 
  2. ^ 重点じゅうてん報道ほうどう嬉野うれしの>わがまち今昔こんじゃく シーボルトの | まちの話題わだい | 佐賀さが新聞しんぶんニュース”. 佐賀さが新聞しんぶん (2024ねん4がつ9にち). 2024ねん4がつ9にち閲覧えつらん
  3. ^ 嬉野うれしのまちへんさん執筆しっぴつ委員いいんかい嬉野うれしのまち 上巻じょうかん』1980ねん、272ぺーじ
  4. ^ 嬉野うれしのまちへんさん執筆しっぴつ委員いいんかい嬉野うれしのまち 上巻じょうかん』1980ねん、351~353ぺーじ
  5. ^ 佐賀さが地名ちめいうんちく事典じてん佐賀新聞社さがしんぶんしゃ、2005ねん、93ぺーじ 
  6. ^ a b 嬉野うれしのまちへんさん執筆しっぴつ委員いいんかい嬉野うれしのまち 上巻じょうかん』1980ねん、710ぺーじ

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 池田いけだ政道まさみち嬉野うれしの温泉おんせん』1898ねんNDLJP:766546 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]