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シェイク・サイード (フランス語 ふらんすご :Cheikh Saïd、Cheik-Saïd[ 注釈 ちゅうしゃく 1] , Shaykh Sa'īd)は、イエメン の南西 なんせい 部 ぶ の半島 はんとう であり、対岸 たいがん にはペリム島 とう がある。シェイク・サイードはバブ・エル・マンデブ海峡 かいきょう に面 めん している。
フランスの定期 ていき 刊行 かんこう 物 ぶつ であるラデペシュコロニアル(1919年 ねん 5月 がつ 23日 にち 号 ごう )の地理 ちり 的 てき サービスによって作成 さくせい されたシェイク・サイードの地図 ちず 。
1920年 ねん に、シェイク・サイードは「重要 じゅうよう な電信 でんしん 局 きょく のある上陸 じょうりく 場所 ばしょ として優 すぐ れた場所 ばしょ 」と評 ひょう された[ 1] 。遅 おそ くとも1970年 ねん には『プチ・ラルース 』は「1868年 ねん から1936年 ねん までのフランスの植民 しょくみん 地 ち 」であると説明 せつめい していたが、フランスはそれについて正式 せいしき な管轄 かんかつ 権 けん や主権 しゅけん を主張 しゅちょう したことはない。
1868年 ねん に地元 じもと のシェイク から国 くに を購入 こうにゅう したマルセイユ のラボー・バザン社 しゃ は1870年 ねん に貿易 ぼうえき 拠点 きょてん を設立 せつりつ しようとしたが、当時 とうじ 、イエメン を支配 しはい していたオスマン帝国 ていこく の反感 はんかん を買 か い、1871年 ねん 末 まつ に土地 とち への権利 けんり を維持 いじ しながらも、この地 ち から撤退 てったい した。その後 ご のフランス ではシェイク・サイードが歴史 れきし や地理 ちり の地図 ちず 帳 ちょう 、教科書 きょうかしょ 、さらには辞書 じしょ にフランスの植民 しょくみん 地 ち であるか、フランスの植民 しょくみん 地 ち であったと記述 きじゅつ されていたが、実際 じっさい には、併合 へいごう したり占領 せんりょう したりすることはなく、この地 ち を領土 りょうど として主張 しゅちょう することさえなかった。しかし、ブルーノ・フリニー (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) が著書 ちょしょ のTour du monde des terres françaises oubliées で言及 げんきゅう しているように、ラボー・バザン社 しゃ がフランスへ権利 けんり を譲渡 じょうと したことは特筆 とくひつ に値 あたい する。
地名 ちめい
シェイク・サイードという地名 ちめい は半島 はんとう の岬 みさき に位置 いち する、過去 かこ に崇拝 すうはい されていたシェイク の、質素 しっそ な墓 はか [ 注釈 ちゅうしゃく 2] に由来 ゆらい する。1870年 ねん 、ラボー・バザン社 しゃ がこの岬 みさき の近 ちか くに貿易 ぼうえき 拠点 きょてん を設立 せつりつ しようと試 こころ みた時 とき 、以前 いぜん は一般 いっぱん 的 てき にバブ・エル・マンデブ半島 はんとう と呼 よ ばれていた半島 はんとう に、シェイク・サイード半島 はんとう と名付 なづ けた。現代 げんだい のイエメンの地図 ちず にはこの半島 はんとう がラス・メンヘリと書 か かれているが、他 た の2つの呼称 こしょう も引続 ひきつづ き使用 しよう されている。
地理 ちり 的 てき な特性 とくせい
シェイク・サイードの高台 たかだい より望 のぞ むペリム島 とう 。
シェイク・サイード半島 はんとう の先端 せんたん には火山 かざん 性 せい の6つの丘 おか が存在 そんざい し、その中 なか で最 もっと も高 たか いジェベル・メンヘリ(Jebel Menheli)は海抜 かいばつ 264メートルである。 これらの丘 おか は不毛 ふもう で地味 じみ な砂 すな とサンゴ を起源 きげん とする石灰 せっかい 質 しつ の堆積 たいせき 物 ぶつ が固 かた まったもので形成 けいせい されている。海岸 かいがん から離 はな れると二 ふた つの山地 さんち があり、一 ひと つは19世紀 せいき の旅行 りょこう 者 しゃ により説明 せつめい されている。「険 けわ しい山々 やまやま の頂点 ちょうてん は鋭 するど く、裂 さ けている、又 また はギザギザで、ほっそりとした針 はり のようなものもある。こうした針 はり のような山々 やまやま は、ときとして様々 さまざま なサイズの岩 いわ が点在 てんざい する深 ふか い谷 たに で隔 へだ てられている」[ 2] 。こうした概観 がいかん はシェイク・サイードの風景 ふうけい に月面 げつめん のような印象 いんしょう を与 あた える。シェイク・サイード半島 はんとう は、さまざまな距離 きょり の岬 みさき や岩 いわ に覆 おお われた支脈 しみゃく で海 うみ へ突 つ き出 で ている。シェイク・サイードの海岸 かいがん はこうした突出 とっしゅつ により小 ちい さく浅 あさ い湾 わん が形成 けいせい されている。
歴史 れきし
古代 こだい
『エリュトゥラー海 うみ 案内 あんない 記 き 』やその他 た の資料 しりょう で言及 げんきゅう されているオクリス(Océlis)という名 な の港 みなと は現在 げんざい のバブ・エル・マンダブ海峡 かいきょう に位置 いち していたとみられ、おそらく現在 げんざい のシェイク・サイードのコール・ゴレララグーン付近 ふきん の村 むら がオクリスであったと思 おも われる。古代 こだい 南 みなみ アラビア語 ご で綴 つづ られた碑文 ひぶん に言及 げんきゅう されているマバダン(Maddabân)という地名 ちめい も、この地域 ちいき であると思 おも われる。マバダンは貿易 ぼうえき 拠点 きょてん というより、単 たん なる停泊 ていはく 地 ち や補給 ほきゅう 基地 きち といったものであった。バブ・エル・マンダブ近海 きんかい の貿易 ぼうえき は、主 おも にシェイク・サイードから近 ちか い、現在 げんざい ではモカ と呼 よ ばれているムーサ港 みなと で独占 どくせん 的 てき に行 おこな われていた。1835年 ねん にこの地 ち を訪 おとず れた測量 そくりょう 士 し で探検 たんけん 家 か のジェームス・レイモンド・ウェルステッド (英語 えいご 版 ばん ) は、この地域 ちいき が古代 こだい から居住 きょじゅう されてきたという証拠 しょうこ を見 み つけられなかった[ 3] 。
近代 きんだい
フランスの植民 しょくみん 地 ち 建設 けんせつ への試 こころ み
1840年 ねん から1860年 ねん の間 あいだ 、フランスは紅海 こうかい のアフリカ側 がわ 、マッサワ 以南 いなん のアンフィラ湾 わん (英語 えいご 版 ばん ) やイディ 、ズラ を現地 げんち 部族 ぶぞく から購入 こうにゅう し、植民 しょくみん 地 ち を作 つく ることを試 こころ みてきたが、これらの購入 こうにゅう は無意味 むいみ だった[ 4] 。1860年 ねん には半 はん 公式 こうしき の任務 にんむ 中 ちゅう であったスタニスラス・ラッセル (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) がティグレ のラス (英語 えいご 版 ばん ) と、アドゥリス湾 わん とデッシ島 とう の購入 こうにゅう に関 かん する条約 じょうやく を締結 ていけつ したが、これも最終 さいしゅう 的 てき にフランスは批准 ひじゅん しなかった。
1883年 ねん のアルフレ・ラボー。
フランスは植民 しょくみん 地 ち の建設 けんせつ を紅海 こうかい のアフリカ側 がわ にき上 ずきあ げることを計画 けいかく し続 つづ けてきたが、1868年 ねん 3月 がつ にアデン とバブ・エル・マンデブ海峡 かいきょう の間 あいだ に居住 きょじゅう する部族 ぶぞく のシェイク であったアブドゥッラー・ビン・ムルシンが、フランスが地域 ちいき を保護 ほご する見返 みかえ りにアブドゥッラーの領地 りょうち の中 なか に位置 いち するコール・アムラン港 こう などにイギリス がアデン に設立 せつりつ した拠点 きょてん と同様 どうよう の物 もの を設置 せっち することを、アデン のフランス領事 りょうじ に提案 ていあん する手紙 てがみ を送 おく った。 港 みなと を確認 かくにん することを担当 たんとう することとなったフリゲ ふりげ ート艦 とかん 、ミネルヴァ の指揮 しき 官 かん であったシャイレは、この地 ち の港 みなと は中規模 ちゅうきぼ の船舶 せんぱく でさえも接近 せっきん が危険 きけん であり、さらにイギリス の影響 えいきょう 下 か に置 お かれているアデン に隣接 りんせつ するこの地 ち への保護 ほご 領 りょう の設立 せつりつ は無数 むすう の争 あらそ いの源 みなもと となるにもかかわらず、なんの利益 りえき もないということを強調 きょうちょう して報告 ほうこく した。そのため、フランスがこの提案 ていあん を受 う けることはなかった[ 5] [ 6] 。数 すう 年 ねん 後 ご 、オスマン帝国 ていこく の宗主 そうしゅ 下 か から独立 どくりつ を勝 か ち取 と ったアケミス族 ぞく のシェイク 、アリー・タバト・ドーレインはアデン に滞在 たいざい するボナバンチュール・マスという、ザンジバル のマルセイユ企業 きぎょう ヴィダル・フレールの代理人 だいりにん に貿易 ぼうえき 拠点 きょてん の建設 けんせつ のためにシェイク・サイード半島 はんとう を購入 こうにゅう することを持 も ちかけた。 当時 とうじ はスエズ運河 うんが の開通 かいつう が近 ちか づいてきており、紅海 こうかい の入 い り口 くち に位置 いち するバブ・エル・マンデブ海峡 かいきょう のシェイク・サイード半島 はんとう を購入 こうにゅう することはマスにとって非常 ひじょう に魅力 みりょく 的 てき だった。 資金 しきん が不足 ふそく していたマスは、スエズ運河 うんが 会社 かいしゃ の元 もと 社員 しゃいん で、マルセイユの別 べつ の商社 しょうしゃ であるアデン・デュ・ラボー・フレール社 しゃ のテオドール・ポイライと協力 きょうりょく し、1868年 ねん 10月 がつ 1日 にち 、「バブ・エル・マンデブ海峡 かいきょう からすべての方向 ほうこう に6時 じ 間 あいだ 歩 ある いた、シェイク・サイードと呼 よ ばれる領域 りょういき 」を租借 そしゃく し、6ヶ月 かげつ 間 あいだ の契約 けいやく 期間 きかん の満了 まんりょう 時 じ に80000ターラー (約 やく 425000フラン )を支払 しはら う契約 けいやく を締結 ていけつ した。売買 ばいばい 契約 けいやく は隣接 りんせつ する地域 ちいき に居住 きょじゅう する部族 ぶぞく の主要 しゅよう な7人 にん のシェイク の出席 しゅっせき の下 した に作 つく られ、その時 とき のアデンのフランス領事 りょうじ であったバロン・デュ・クレチーに公認 こうにん された。 マスからの出資 しゅっし 金 きん をシェイクサイードから回収 かいしゅう するために、ポイライはフランスに戻 もど り、ラボー社 しゃ の代表 だいひょう として、フレデリック・ヴァン・デン・ブロークと共 とも にナポレオン3世 せい の側近 そっきん から援助 えんじょ を受 う けた。その後 ご ポイライはアルフレ・ラボーに事業 じぎょう を提案 ていあん した[ 注釈 ちゅうしゃく 3] 。彼 かれ の兄弟 きょうだい であったエドュアールは、マックス・バザンとオーギュスト・バザンの兄弟 きょうだい と力 ちから を合 あ わせて、探検 たんけん に出 で ることを決定 けってい した[ 7] 。
バブ・エル・マンデブ海峡 かいきょう とシェイク・サイードの地図 ちず 。
1868年 ねん 11月6日 にち 、バザンとラボーの両 りょう 兄弟 きょうだい 、フレデリック・ヴァン・デン・ブロークは、資本 しほん 金 きん 100000フラン をかき集 あつ め、「バブ・エル・マンデブ地域 ちいき 研究 けんきゅう 会 かい 」を結成 けっせい した。研究 けんきゅう 会 かい は10月1日 にち に手 て に入 い れたシェイク・サイードの権利 けんり を利用 りよう することを担当 たんとう した。新 しん 会社 かいしゃ の設立 せつりつ 趣意 しゅい 書 しょ に付随 ふずい する地図 ちず 上 じょう では、契約 けいやく の「すべての方向 ほうこう に6時 じ 間 あいだ 歩 ある いた、シェイク・サイードと呼 よ ばれる領域 りょういき 」という定義 ていぎ は、165000ヘクタールを取 と り囲 かこ む半径 はんけい 42kmの領域 りょういき 」と変更 へんこう された。貿易 ぼうえき の拠点 きょてん となる商館 しょうかん に加 くわ えて[ 8] 、シェイク・サイード半島 はんとう 内陸 ないりく に切 き り込 こ んだラグーンの港湾 こうわん は冬季 とうき モンスーン の四 よん ヶ月 かげつ 間 あいだ を耐 た えきれないため、シェイク・サイードを利用 りよう する計画 けいかく の為 ため には堤防 ていぼう の建設 けんせつ が必要 ひつよう となった。
シェイク・サイードのコール・ゴレララグーン。
発起人 ほっきにん たちはシェイク・サイードが最 もっと も素晴 すば らしい商業 しょうぎょう 港 こう となり、地域 ちいき の主 しゅ 要港 ようこう としての地位 ちい で、アデンに取 と って代 か わる「新 あら たなマルセイユ」となれると考 かんが えて、シェイク・サイードについて様々 さまざま なことを述 の べた。 「淡水 たんすい は十分 じゅうぶん 豊富 ほうふ で、木材 もくざい や食料 しょくりょう は簡単 かんたん に手 て に入 い れることができる。シェイク・サイードには農業 のうぎょう 植民 しょくみん 地 ち が繁栄 はんえい するだろう。蒸気 じょうき 機関 きかん で使用 しよう できる石炭 せきたん は地面 じめん から露出 ろしゅつ している」[ 9] [ 10] 。実際 じっさい のシェイク・サイードは火山 かざん 性 せい の岩 いわ に覆 おお われた起伏 きふく の激 はげ しい半島 はんとう で、農業 のうぎょう には適 てき さない。 アンリ・ド・モンフレイ が1914年 ねん の一 いち 月 がつ にこの地 ち を訪 おとず れた際 さい には、暗 くら い描写 びょうしゃ がなされている。「海岸 かいがん から4キロ以上 いじょう の地 ち には塩 しお やマグネシウムを含 ふく んだ物 もの 以外 いがい の水 みず は見 み つからない。付近 ふきん には木 き も草 くさ も生 は えておらず、牛 うし もいない。人口 じんこう は250人 にん ほどの漁民 ぎょみん に減少 げんしょう しており、半島 はんとう の内陸 ないりく に切 き り込 こ んだラグーンの海岸 かいがん 付近 ふきん のあばら屋 や に居住 きょじゅう している。魚 さかな はとても豊富 ほうふ である」。
脚注 きゃくちゅう
注釈 ちゅうしゃく
^ 20世紀 せいき 後半 こうはん に最 もっと もよく使 つか われた綴 つづ りである。
^ 1914年 ねん にこの地 ち を立 た ち寄 よ ったアンリ・ド・モンフレイ は、航海 こうかい 日誌 にっし で「内部 ないぶ にムハンマドの旗 はた が掛 か けられた、藁 わら でできたあばら屋 や 」と説明 せつめい している。
^ アルフレはザンジバル と東 ひがし アフリカの沿岸 えんがん に滞在 たいざい したことがあり、アデン とバブ・エル・マンデブ海峡 かいきょう についてもよく知 し っていた。アルフレはマスとポイライに購入 こうにゅう を促 うなが した可能 かのう 性 せい がある。1885年 ねん に死 し ぬまでの間 あいだ 、アルフレはシェイクサイード関連 かんれん の事業 じぎょう の主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ り続 つづ けた。アルフレの心 しん はシェイクサイードに握 にぎ られており、非 ひ 商業 しょうぎょう 的 てき で愛国 あいこく 的 てき な判断 はんだん が表 あらわ れていた。
出典 しゅってん
^ Prothero, G.W. (1920). Arabia . London: H.M. Stationery Office. p. 75. http://www.wdl.org/en/item/11767/view/1/75/
^ Jules Carrey, « La France et la mer Rouge », Revue scientifique , no 25, 1er semestre, 21 juin 1884, p. 771.
^ [[{{{1}}}]] - [[ノート:{{{1}}}|ノート]]
^ Simon Imbert-Vier, Frontières et limites à Djibouti durant la période coloniale (1884-1977), Université de Provence - Aix-Marseille I, 2008, p. 48-49.
^ Georges Douin, Histoire du règne du Khédive Ismaël , tome III, 2e partie, 1938, Le Caire, page 210.
^ Gérard Arboit, Aux sources de la politique arabe de la France. Le Second Empire au Machreck , Paris, L’Harmattan, 2000, p. 275.
^ Douin, p. 211.
^ (vieilli) Agence ou comptoir d'un établissement commercial à l'étranger (surtout aux colonies). Le Nouveau Petit Robert (1993).
^ Paul Armand, « Les intérêts français et italiens dans la mer Rouge », Bulletin de la Société de géographie de Marseille , 1878, vol. 2, p. 367.
^ Marcel Emerit, « Le premier projet d'établissement français sur la Côte des Somalis », Revue française d’histoire d’outre-mer , 1963, volume 50, no 179, p. 195-196.
関連 かんれん 項目 こうもく