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北条 貞宣(ほうじょう さだのぶ)は、鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門。父は大仏流北条宣時とされるが、北条政忠(まさただ)[注釈 1]とする系図もある。
元服時に得宗家当主・北条貞時より偏諱(「貞」の1字)を受けて貞宣と名乗る[2][3][注釈 2]。もう一方の「宣」の字は宣時に由来すると考えられる。
正宗寺本「北条系図」、佐野本「北条系図」、前田育徳会所収の「平氏系図」による記述[3]と「公衡公記」における正和4年(1315年)の鎌倉大火の記事で「丹波守貞宣の屋敷が類焼した」と書かれていることから、官途は丹波守であったと推定される。子には時英、高貞、貞芙、女子がいたと伝わる。
政治的な活動としては、正和2年(1313年)、甥の北条維貞と交替で引付頭人に就任、死去する元応2年(1320年)5月まで務めたとされる。
「続千戴和歌集」「続後拾遺和歌集」に、それぞれ一首歌が採録されている。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 北条氏研究会 編『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社、2001年、177頁。