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ここにいずみあり

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ここにいずみあり
監督かんとく 今井いまいただし
脚本きゃくほん 水木みずき洋子ようこ
製作せいさく 岩崎いわさきあきら
市川いちかわ喜一きいち
出演しゅつえんしゃ きし恵子けいこ
岡田おかだ英次えいじ
小林こばやし桂樹けいじゅ
東大とうだいかい
山田やまだ耕筰こうさく
音楽おんがく だん伊玖磨いくま
撮影さつえい 中尾なかお駿しゅん一郎いちろう
編集へんしゅう 河野こうの秋和あきわ
製作せいさく会社かいしゃ 中央ちゅうおう映画えいが
配給はいきゅう 独立どくりつ映画えいが
松竹しょうちく
公開こうかい 日本の旗 1955ねん2がつ12にち
上映じょうえい時間じかん 177ふん現存げんそん150ふん
製作せいさくこく 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
テンプレートを表示ひょうじ

ここにいずみあり』(ここにいずみあり)は、1955ねん昭和しょうわ30ねん2がつ12にち公開こうかい日本にっぽん映画えいが中央ちゅうおう映画えいが製作せいさく独立どくりつ映画えいが配給はいきゅう監督かんとく今井いまいただし主演しゅえんきし恵子けいこモノクロスタンダード、150ふん

高崎たかさき市民しみんオーケストラが、群馬ぐんま交響こうきょう楽団がくだん以下いかぐんひびきしるす)へと成長せいちょうする草創そうそう実話じつわ舞台ぶたいとしたヒューマンドラマ。作曲さっきょく山田やまだ耕筰こうさく、ピアニストの室井むろい摩耶まやがそれぞれ本人ほんにんやく特別とくべつ出演しゅつえんしている。だい29かいキネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テンだい5。1989ねんだいアンケートによる日本にっぽん映画えいがベスト150」(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう発表はっぴょうだい150

ストーリー[編集へんしゅう]

終戦しゅうせん直後ちょくご結成けっせいされた市民しみんオーケストラははたらひとどもたちにうつくしい音楽おんがくあたえようと努力どりょくするが、ひとがいいマネージャー井田いだ奮闘ふんとうにもかかわらず、楽団がくだんいん生活せいかつくるしかった。唯一ゆいいつ女性じょせい楽団がくだんいん佐川さがわかのは、音楽おんがく学校がっこうたばかりだが、田舎いなかにくすぶっていてはピアノのうでちるとなやんでいた。あたらしく参加さんかしたヴァイオリンの速水はやみ彼女かのじょはげますものの、自身じしんくるしかった。解散かいさんむなしといつめられ、最後さいごおもって利根りこん源流げんりゅう山奥やまおく小学校しょうがっこうくと、おもいがけずのだい歓迎かんげいけ、みんなで「あかとんぼ」を合唱がっしょうして感動かんどうする。草津くさつにあるハンセン病はんせんびょう療養りょうようでは入所にゅうしょしゃたちが不自由ふじゆうで「おとのない拍手はくしゅ」をする。速水はやみとかの結婚けっこんするが生活せいかつくるしく、将来しょうらいへの不安ふあんおおきくなるばかりだ。軍楽隊ぐんがくたいのぼりの工藤くどう丸屋まるや楽器がっきしつれたり、チンドンになったりして頑張がんばっていた。井田いだ東京とうきょうから山田やまだ耕筰こうさく指揮しき交響こうきょう楽団がくだんとピアニスト室井むろい摩耶まやまねいて合同ごうどうコンサートをひらくことにしたが、あまりにおおきな技術ぎじゅつ一同いちどう落胆らくたん。2ねん耕筰こうさくたび途中とちゅうかれらの練習れんしゅうしょ立寄たちよる。生活せいかつたたかいながら立派りっぱ楽団がくだん成長せいちょうしたことに安堵あんどする。かのあかぼうに、人々ひとびとしんうつくしい音楽おんがくつたえるためあるつづけるのだった。

スタッフ[編集へんしゅう]

キャスト[編集へんしゅう]

きし恵子けいこ岡田おかだ英次えいじ

以下いかはノンクレジット

作品さくひん解説かいせつ[編集へんしゅう]

ほんさくでは、現代げんだい大都市だいとしにおいても運営うんえいむずかしい交響こうきょう楽団がくだんを、終戦しゅうせん直後ちょくご衣食住いしょくじゅうにもこま時代じだい地方ちほう都市としげ、活動かつどうすることから当然とうぜんのようにせる困難こんなん事態じたいに、事務じむかた楽団がくだんいんくるしみながらも、山村さんそんどもにも演奏えんそうとどけていくことなどで、市民しみんともあゆ社会しゃかい運動うんどう変貌へんぼうしていく姿すがたえがかれている。

ぐんひびき初期しょきのマネージャーだった丸山まるやま勝広かつひろとは友人ゆうじんであり、ぐんひびき市民しみん情熱じょうねつてき活動かつどう感銘かんめいけた地元じもと出身しゅっしん市川いちかわ喜一きいちもと大映だいえい俳優はいゆう黒田くろだじゅんのち映画えいが製作せいさくしゃとして高名こうみょうになる)が、1952ねん昭和しょうわ27ねん)に映画えいが企画きかくしたのが発端ほったんである[1][2]企画きかくから4ねん脚本きゃくほんだつ稿こうまでに1ねん撮影さつえいは6ヶ月かげつもかかり[1]大変たいへんきびしい状況じょうきょう製作せいさくされていたが、群馬ぐんま市民しみん積極せっきょくてき協力きょうりょくにより完成かんせいした。全国ぜんこくでの上映じょうえいにより300まんにんえるだいヒットとなり、日本にっぽんちゅうに、感動かんどうともぐんひびき音楽おんがくまち高崎たかさき認知にんちひろげた。

全編ぜんぺん演奏えんそうおん当初とうしょ群馬ぐんま交響こうきょう楽団がくだんによる演奏えんそうとなる予定よていだったが、監督かんとく東京とうきょう交響こうきょう楽団がくだん変更へんこうめ、群馬ぐんま交響こうきょう楽団がくだん使つかわれなかった、その当時とうじことかえって『プロジェクトX〜挑戦ちょうせんしゃたち〜』で楽団がくだんいん屈辱くつじょくであったとかたっている。また映画えいが完成かんせいにスタッフから「おまえ楽団がくだん解散かいさんするまえ映画えいがになってよかったな」と皮肉ひにくわれたことかたっている。

おも演奏えんそう楽曲がっきょく[編集へんしゅう]

おも受賞じゅしょう[編集へんしゅう]

備考びこう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 今井いまいただし映画えいが読本とくほん』、ろんそうしゃ、2012ねん、p.210
  2. ^ 久保田くぼた圭二けいじ名作めいさく映画えいが構造こうぞう』(シナリオ作家さっか協会きょうかい)P.82

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

増刊ぞうかん 名作めいさくシナリオしゅう」、『キネマ旬報きねまじゅんぽう』№105、キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、1954ねん11月
水木みずき洋子ようこあつまり 日本にっぽんシナリオ文学ぶんがく全集ぜんしゅう9』、理論りろんしゃ、1957ねん

資料しりょう映像えいぞう[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]