アメデーオ6世 せい
サヴォイア伯 はく の紋章 もんしょう
アメデーオ6世 せい ・ディ・サヴォイア (イタリア語 ご :Amedeo VI di Savoia, 1334年 ねん 1月 がつ 4日 にち - 1383年 ねん 3月1日 にち )は、サヴォイア伯 はく (在位 ざいい :1343年 ねん - 1383年 ねん )。緑 みどり 伯 はく (Il Conte Verde )とよばれた。サヴォイア伯 はく アイモーネ とヴィオランテ・ディ・モンフェッラートの長男 ちょうなん 。最初 さいしょ は摂政 せっしょう のもとでの統治 とうち であったが、強力 きょうりょく な指導 しどう 者 しゃ であることを示 しめ し、政治 せいじ 的 てき および軍事 ぐんじ 的 てき にヨーロッパの大国 たいこく としてのサヴォイアの台頭 たいとう を続 つづ けた。 また、ヨーロッパに移動 いどう していたトルコ人 じん に対 たい する十字軍 じゅうじぐん に参加 さんか した。
1343年 ねん に父 ちち アイモーネが死去 しきょ し、アメデーオ6世 せい がサヴォイア伯 はく 位 い を継承 けいしょう した。しかしアメデーオ6世 せい はわずか9歳 さい であったため、父 ちち の遺言 ゆいごん により2人 ふたり の従兄弟 いとこ ジュネーヴ伯 はく アメデ3世 せい およびヴォー領主 りょうしゅ ルイージ2世 せい が摂政 せっしょう とされた。2人 ふたり は摂政 せっしょう としての権力 けんりょく を制限 せいげん する文書 ぶんしょ に同意 どうい した。どちらも他方 たほう の同意 どうい なくしては重要 じゅうよう な決定 けってい を下 くだ すことができず、両者 りょうしゃ の決定 けってい は伯 はく 領内 りょうない のすべてのバイイを代表 だいひょう する貴族 きぞく の評議 ひょうぎ 会 かい により審査 しんさ されることとなった。
アメデーオ6世 せい が伯 はく 位 い を継承 けいしょう してまもなく、従姉妹 いとこ ジョヴァンナ・ディ・サヴォイア が再 ふたた びサヴォイア伯 はく 領 りょう の継承 けいしょう 権 けん を主張 しゅちょう した。ジョヴァンナはアメデーオ6世 せい の伯父 おじ エドアルド の一人娘 ひとりむすめ であったが、サヴォイアがサリカ法 ほう に準 じゅん じていたため、すでに継承 けいしょう 権 けん を否定 ひてい されていた。ジョヴァンナは翌年 よくねん に死去 しきょ したが、アメデーオ6世 せい を困 こま らせるため遺言 ゆいごん によりサヴォイア伯 はく 領 りょう をオルレアン公 こう フィリップ に遺 のこ した。1345年 ねん 、アメデーオ6世 せい はかつて父 ちち アイモーネとジョヴァンナとの間 あいだ の合意 ごうい に近 ちか い形 かたち で交渉 こうしょう を行 おこな い、年 とし 5,000リーブルでフィリップの主張 しゅちょう を取 と り下 さ げさせた。
アメデーオは身体 しんたい 的 てき にも精神 せいしん 的 てき にも教育 きょういく を施 ほどこ され、戦闘 せんとう や乗馬 じょうば の訓練 くんれん を楽 たの しんだ。また、『軍事 ぐんじ 論 ろん 』などの古典 こてん や『君主 くんしゅ の統治 とうち について』など比較的 ひかくてき 新 あたら しい書物 しょもつ についても教育 きょういく を受 う けた。アメデーオはまた宗教 しゅうきょう 的 てき 献身 けんしん を示 しめ し、携帯 けいたい 用 よう の祭壇 さいだん と、彼 かれ がどこにいても毎朝 まいあさ 彼 かれ のためにミサを行 おこな う牧師 ぼくし の権利 けんり を要求 ようきゅう した。アメデーオは自分 じぶん にとって自身 じしん の健康 けんこう よりも頻繁 ひんぱん に断食 だんじき することを誓 ちか い、その後 ご ローマ教皇 きょうこう クレメンス6世 せい にこれらの誓 ちか いから解放 かいほう するよう求 もと めた。教皇 きょうこう はこれに同意 どうい し、代 か わりに毎週 まいしゅう 12人 にん の貧者 ひんじゃ を養 やしな うよう求 もと めた。
アンジュー家 か の若 わか きナポリ女王 じょおう ジョヴァンナ1世 せい が王位 おうい についたとき、北 きた イタリアの君主 くんしゅ たちは、彼女 かのじょ の経験 けいけん 不足 ふそく を利用 りよう してナポリの領地 りょうち を手 て に入 い れようとした。モンフェッラート侯 こう ジョヴァンニ2世 せい が最初 さいしょ の攻撃 こうげき を主導 しゅどう し、一方 いっぽう でアメデーオの又従兄弟 またいとこ で家臣 かしん のピエモンテ 領主 りょうしゅ ジャコモ が女王 じょおう を支援 しえん した。1345年 ねん に最初 さいしょ の軍 ぐん が撃退 げきたい された後 のち 、ジャコモの領地 りょうち が攻撃 こうげき された。1347年 ねん 、ジャコモはアメデーオに支援 しえん を求 もと め、アメデーオは軍 ぐん を派遣 はけん した。その軍隊 ぐんたい その年 とし の7月 がつ に攻撃 こうげき 者 しゃ を一掃 いっそう し、アマデウスは最後 さいご の数 すう 週間 しゅうかん 、戦闘 せんとう に参加 さんか した。ジャコモはその後 ご 、かつてサヴォイア家 か の敵 てき であったヴィエノワのドーファン ・アンベール2世 せい とサルッツォ侯 こう トンマーゾ2世 せい の助 たす けを借 か りた。ジャコモらはともにアンジュー家 か の領地 りょうち を獲得 かくとく した。教皇 きょうこう クレメンス6世 せい は1348年 ねん に戦 たたか いを終 お わらせるため休戦 きゅうせん の交渉 こうしょう を行 おこな ったが、これには戦 たたか いに参加 さんか した誰 だれ もが満足 まんぞく しなかった。
1348年 ねん から1351年 ねん にかけて、黒死病 こくしびょう によりサヴォイア領 りょう が荒廃 こうはい し、いくつかの村 むら で人口 じんこう が半減 はんげん した。1348年 ねん 、農民 のうみん の多 おお くはユダヤ人 じん が井戸 いど や泉 いずみ に毒 どく を入 い れたことが原因 げんいん と考 かんが えた。何人 なんにん かの城主 じょうしゅ はユダヤ人 じん を保護 ほご しようとしたが、かなりのユダヤ人 じん が殺害 さつがい された。シャンベリ では、ユダヤ人 じん は保護 ほご のため城 しろ に閉 と じ込 こ められていたが、暴徒 ぼうと が侵入 しんにゅう し何 なん 人 にん かが殺 ころ された。その後 ご 廷臣 ていしん らは、残 のこ りの1人 ひとり を毒 どく を持 も ったかどで有罪 ゆうざい にするよう圧力 あつりょく をかけられ、11人 にん を処刑 しょけい し、残 のこ りの1人 ひとり にその後 ご 6年間 ねんかん 1ヶ月 かげつ あたり160フローリンの罰金 ばっきん を科 か した。
1349年 ねん 、アメデーオはジュネーヴ伯 はく アメデ3世 せい 、ピエモンテ領主 りょうしゅ ジャコモ、ヴィスコンティ家 か およびミラノ の支配 しはい 者 しゃ らとの間 あいだ で、相互 そうご 防衛 ぼうえい と援助 えんじょ のため条約 じょうやく に合意 ごうい した。この条約 じょうやく には、ガレアッツォ2世 せい ・ヴィスコンティ とアメデーオの妹 いもうと ビアンカ・ディ・サヴォイアの結婚 けっこん も含 ふく まれていた。1350年 ねん におこなわれたその結婚 けっこん を記念 きねん して、アメデーオは黒鳥 くろとり 騎士 きし 団 だん (Companie du Cigne Noir )を創設 そうせつ した。
1349年 ねん 、最後 さいご のヴィエノワのドーファン となったアンベール2世 せい ・ド・ラ・トゥール・デュ・パンが、自身 じしん の地位 ちい と領地 りょうち を後 のち にフランス王 おう となるシャルル に譲 ゆず った。この時 とき 、新 あら たにドーファン となったシャルルはフランス王 おう シャルル4世 せい の孫 まご であり、法定 ほうてい 推定 すいてい 相続 そうぞく 人 じん で後 のち にフランス王 おう となったジャン2世 せい の息子 むすこ であった。アンベール2世 せい はドミニコ会 かい 修道院 しゅうどういん に隠棲 いんせい した。
1350年 ねん 、シオン 司教 しきょう でサヴォイアの同盟 どうめい 者 しゃ であるギシャール・タヴェルは、サヴォイアの辺境 へんきょう であるヴァレーの貴族 きぞく らの権利 けんり を奪 うば おうとした。このため1351年 ねん 8月 がつ 、ギシャールらは攻撃 こうげき を受 う けた。教皇 きょうこう クレメンス6世 せい はこの反乱 はんらん 者 しゃ たちを破門 はもん にし、アメデーオは30名 めい の騎士 きし を送 おく った。これに応 おう じて8000人 にん の農民 のうみん が立 た ち上 あ がり、いくつかの城 しろ を占領 せんりょう した。これに対 たい して100人 にん の騎士 きし が送 おく り込 こ まれ、反乱 はんらん 軍 ぐん を押 お し返 かえ した。1352年 ねん 3月 がつ 、アメデーオはジュネーヴ伯 はく アメデ3世 せい およびジョヴァンニ2世 せい ・ディ・モンフェッラートを含 ふく む軍 ぐん を編成 へんせい し、アメデーオは4月 がつ に反乱 はんらん 軍 ぐん を一掃 いっそう した。反乱 はんらん 軍 ぐん はすぐに降伏 ごうぶく し、アメデーオはかつて伯父 おじ エドアルド が失 うしな ったシオンに対 たい する支配 しはい 権 けん を再 ふたた び確立 かくりつ した。
1352年 ねん 夏 なつ 、ジュネーヴ伯 はく アメデ3世 せい の叔父 おじ でドーフィネの貴族 きぞく ユーグ・ド・ジュネーヴは、サヴォイアとの長年 ながねん の対立 たいりつ を再 ふたた び引 ひ き起 お こした。アメデーオは、サヴォイアとドーフィネの間 あいだ で結 むす ばれた条約 じょうやく に関 かん して、ジュネーヴ伯 はく アメデ3世 せい を侮辱 ぶじょく したため、アメデ3世 せい は評議 ひょうぎ 会 かい を去 さ り、ヴォー領主 りょうしゅ ルイージ2世 せい に代 か わり評議 ひょうぎ 員 いん となったギヨーム・ド・ラ・ボームに異議 いぎ を唱 とな えた。1352年 ねん 1月 がつ 6日 にち 、アメデーオは争 あらそ いにおける相互 そうご 援助 えんじょ のためオーストリア公 こう アルブレヒト2世 せい と同盟 どうめい を結 むす んだ。そしてアメデーオはイタリアの領地 りょうち から戦 たたか いのために兵 へい を集 あつ めた。アメデーオの軍 ぐん はアルプス山脈 あるぷすさんみゃく を越 こ えた時 とき 、ヴァレー およびシオンにおいて反乱 はんらん が新 あら たに勃発 ぼっぱつ した。そこでアメデーオは軍 ぐん をヴァレーおよびシオンに戻 もど し、11月3日 にち に反乱 はんらん 軍 ぐん を完全 かんぜん に倒 たお した。4日 にち の朝 あさ 、相談役 そうだんやく のギヨームがアメデーオを騎士 きし とした。その後 ご 、アメデーオはシオンの壁 かべ の一部 いちぶ を取 と り壊 こわ し、軍 ぐん が街 まち を略奪 りゃくだつ した。また、アメデーオは市民 しみん に多額 たがく の罰金 ばっきん を科 か した。
アメデーオは19歳 さい の誕生 たんじょう 日 び を祝 いわ ったときに、兜 かぶと に緑 みどり の羽 はね 飾 かざ り、鎧 よろい に緑 みどり の絹 きぬ の陣羽織 じんばおり をつけ、そして緑 みどり の馬 うま 衣 ころも をつけた馬 うま に乗 の ってトーナメントに出場 しゅつじょう したことから、緑 みどり 伯 はく というあだ名 な で呼 よ ばれた。アメデーオは緑 みどり の服 ふく を着 き た11名 めい の騎士 きし と共 とも に入 はい り、それぞれが緑 みどり のドレスをまとった婦人 ふじん に先導 せんどう され、婦人 ふじん らは緑 みどり の紐 ひも で馬 うま を引 ひ いていた。この時 とき より、緑 みどり はアメデーオの服 ふく や宮廷 きゅうてい で好 この んで用 もち いられるようになった。
1353年 ねん 春 はる 、アメデーオはドーフィネを攻撃 こうげき するため軍 ぐん の準備 じゅんび を行 おこな った。フランス王 おう ジャン2世 せい は百 ひゃく 年 ねん 戦争 せんそう を続 つづ けるにあたり、対 たい イングランド戦 せん においてガスコーニュで両 りょう 軍 ぐん を使 つか うことを望 のぞ んでいたため、7月 がつ に介入 かいにゅう して休戦 きゅうせん となった。しかし、ユーグ・ド・ジュネーヴはすくにこの休戦 きゅうせん を破 やぶ った。そこでアメデーオは10月26日 にち から11月11日 にち までジェクス においてユーグの軍 ぐん を包囲 ほうい し、アメデーオは敵 てき を倒 たお し町 まち を焼 や き払 はら った。教皇 きょうこう インノケンティウス6世 せい やジャコモが休戦 きゅうせん を話 はな し合 あ うため使者 ししゃ を送 おく ったが、アメデーオとユーグは1354年 ねん 4月 がつ まで戦 たたか いを続 つづ け、この戦 たたか いはアメデーオがレ・ザブレ近郊 きんこう でユーグの軍 ぐん を破 やぶ ったことで終結 しゅうけつ した。
1355年 ねん 、パリ条約 じょうやく が締結 ていけつ され、アメデーオはフォーシニーとジェクス伯 はく 領 りょう の主権 しゅけん の承認 しょうにん 、およびジュネーブ伯 はく の封 ふう 主 ぬし となることと引 ひ き換 か えに、ローヌ川 がわ とギエ川 がわ の向 む こうにあるドーフィネの領地 りょうち を放棄 ほうき することに同意 どうい した。これらの称号 しょうごう はすべて、サヴォイア伯 はく とヴィエノワのドーファンとの間 あいだ でこれまで争 あらそ われていたものであった。
アメデーオは、コル・デ・ラルジャンティエール峠 とうげ (フランスとイタリアの国境 こっきょう にある現在 げんざい のマッダレーナ峠 とうげ )の領地 りょうち を計 けい 60,000エキュ で購入 こうにゅう したとされる。コル・デ・ラルジャンティエールはリヨンとイタリアを結 むす ぶ峠 とうげ であり、戦略 せんりゃく 的 てき にも商業 しょうぎょう 的 てき にも非常 ひじょう に重要 じゅうよう であった。
ブルガリア に対 たい するアメデーオ6世 せい の遠征 えんせい (1366年 ねん - 1367年 ねん )
アメデーオは、1366年 ねん にオスマン帝国 ていこく のムラト1世 せい に対 たい し小規模 しょうきぼ な十字軍 じゅうじぐん (15隻 せき の船 ふね と1,700人 にん の兵士 へいし )を開始 かいし し(サヴォイア十字軍 じゅうじぐん )、従兄弟 いとこ でアメデーオの叔母 おば アンナ・ディ・サヴォイア の息子 むすこ の東 ひがし ローマ皇帝 こうてい ヨハネス5世 せい パレオロゴス を支援 しえん した。この遠征 えんせい において、アメデーオはレスボス島 とう 領主 りょうしゅ フランチェスコ1世 せい とハンガリー王 おう ラヨシュ1世 せい と協力 きょうりょく し、トルコ人 じん をガリポリ半島 はんとう から追 お い出 だ した。しかしこの勝利 しょうり は短命 たんめい で終 お わり、数 すう 年 ねん 後 ご にムラト1世 せい にガリポリを奪 うば われた。この時 とき 、ヨハネス5世 せい がブルガリア兵 へい に捕 と らえられ、アメデーオは軍 ぐん とともにブルガリアに向 む かい、メセンブリアおよびソゾポル の黒海 こっかい の港 みなと を占領 せんりょう した。その後 ご 、アメデーオはヴァルナ を包囲 ほうい し、ブルガリア皇帝 こうてい イヴァン・アレクサンダル に、ヨハネス5世 せい を解放 かいほう するかさらなる敗北 はいぼく を喫 きっ するかの最後 さいご 通牒 つうちょう を送 おく った。 イヴァン・アレクサンダルはヨハネス5世 せい を解放 かいほう し、アメデーオは冬 ふゆ を過 す ごすためメセンブリアに向 む かい、クリスマス前 まえ にヨハネス5世 せい とともに到着 とうちゃく した。
1372年 ねん から1373年 ねん にかけて、アメデーオはヴィスコンティ家 か に対 たい する教皇 きょうこう 連合 れんごう 軍 ぐん として、イタリアにおいてクシー領主 りょうしゅ アンゲラン7世 せい と共 とも に戦 たたか った。
1377年 ねん 、アメデーオはこの地域 ちいき で最初 さいしょ の公共 こうきょう の機械 きかい 式 しき 時計 とけい の設置 せっち を命 めい じ、それを維持 いじ するために役人 やくにん を任命 にんめい した。
1381年 ねん にトリノにおいて、アメデーオはジェノヴァ とヴェネツィア との間 あいだ を仲介 ちゅうかい して平和 へいわ 条約 じょうやく を結 むす ばせ、これによりキオッジャ戦争 せんそう とヴェネツィア・ジェノヴァ戦争 せんそう が終結 しゅうけつ した。後 のち にアメデーオは対立 たいりつ 教皇 きょうこう クレメンス7世 せい の説得 せっとく により、ルイ1世 せい ・ダンジュー のナポリ 遠征 えんせい に参加 さんか した。この遠征 えんせい において、1382年 ねん にアメデーオはルイ1世 せい と共 とも にアブルッツォ およびプッリャ の征服 せいふく に成功 せいこう した。しかし、アメデーオは1383年 ねん 3月 がつ 1日 にち に伝染 でんせん 病 びょう により死去 しきょ した
アメデーオが若 わか い頃 ころ 、王室 おうしつ と婚姻 こんいん を結 むす ぶための交渉 こうしょう が何 なん 度 ど か行 おこな われた。1338年 ねん 、アメデーオは神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい カール4世 せい の娘 むすめ で3歳 さい のマルガレーテ と婚約 こんやく した。また、1340年 ねん から1344年 ねん にかけて、フランス王 おう フィリップ6世 せい の姪 めい ジャンヌ・ド・ブルボン と婚約 こんやく した。この結婚 けっこん により、15,000フローリンの持参 じさん 金 きん がもたらされることになっていた。しかし1347年 ねん にアメデーオはこの婚約 こんやく を破棄 はき し、フィリップ・ド・ブルゴーニュ とオーヴェルニュ女 おんな 伯 はく ジャンヌ1世 せい の娘 むすめ ジャンヌと婚約 こんやく した。これにより、アメデーオはジャンヌの弟 おとうと ブルゴーニュ公 こう フィリップ1世 せい の相続 そうぞく 人 じん となったとみられる。3歳 さい のジャンヌはサヴォイアの宮廷 きゅうてい に連 つ れてこられ、サヴォイアで育 そだ てられた。1351年 ねん 夏 なつ 、アメデーオはイングランド王 おう エドワード3世 せい に、エドワード3世 せい の娘 むすめ イザベラとの結婚 けっこん を求 もと めるため手紙 てがみ を送 おく った。しかしこの希望 きぼう に対 たい し、ジュネーヴ伯 はく アメデ3世 せい が抗議 こうぎ した。ジャンヌは1355年 ねん 4月 がつ 18日 にち までサヴォイア宮廷 きゅうてい にとどまったが、その後 ご ポワシーの修道院 しゅうどういん に送 おく られ、そこで生涯 しょうがい を終 お えた。
アメデーオは1355年 ねん にパリ においてフランス王 おう シャルル5世 せい の義妹 ぎまい ボンヌ・ド・ブルボン と結婚 けっこん した。2人 ふたり の間 あいだ には3子 し が生 う まれた。
娘 むすめ (1358年 ねん ) - 生 う まれて数 すう 週間 しゅうかん で死去 しきょ
アメデーオ7世 せい (1360年 ねん 3月 がつ - 1391年 ねん 11月1日 にち ) - サヴォイア伯 はく 。ベリー公 こう ジャン1世 せい の娘 むすめ ボンヌ・ド・ベリー と結婚 けっこん 。
ルドヴィーコ(1364年 ねん 末 まつ 生 せい ) - 生 う まれた年 とし のうちに死去 しきょ
サヴォイア伯 はく (1343年 ねん - 1383年 ねん )