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アメデーオ6せい・ディ・サヴォイア

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アメデーオ6せい・ディ・サヴォイア
Amedeo VI di Savoia
サヴォイアはく
在位ざいい 1343ねん - 1383ねん

出生しゅっしょう (1334-01-04) 1334ねん1がつ4にち
サヴォイアはくりょうシャンベリ
死去しきょ (1383-03-01) 1383ねん3月1にち(49さいぼつ
ナポリ王国の旗 ナポリ王国おうこくカンポバッソ
埋葬まいそう サヴォイアはくりょうオートコンブ修道院しゅうどういん
配偶はいぐうしゃ ボンヌ・ド・ブルボン
子女しじょ むすめ
アメデーオ7せい
ルドヴィーコ
家名かめい サヴォイア
父親ちちおや サヴォイアはくアイモーネ
母親ははおや ヴィオランテ・ディ・モンフェッラート
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アメデーオ6せい
サヴォイアはく紋章もんしょう

アメデーオ6せい・ディ・サヴォイアイタリア:Amedeo VI di Savoia, 1334ねん1がつ4にち[1] - 1383ねん3月1にち[2])は、サヴォイアはく在位ざいい1343ねん - 1383ねん)。みどりはくIl Conte Verde)とよばれた。サヴォイアはくアイモーネとヴィオランテ・ディ・モンフェッラートの長男ちょうなん最初さいしょ摂政せっしょうのもとでの統治とうちであったが、強力きょうりょく指導しどうしゃであることをしめし、政治せいじてきおよび軍事ぐんじてきにヨーロッパの大国たいこくとしてのサヴォイアの台頭たいとうつづけた。 また、ヨーロッパに移動いどうしていたトルコじんたいする十字軍じゅうじぐん参加さんかした。

生涯しょうがい

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1343ねんちちアイモーネが死去しきょし、アメデーオ6せいがサヴォイアはく継承けいしょうした。しかしアメデーオ6せいはわずか9さいであったため、ちち遺言ゆいごんにより2人ふたり従兄弟いとこジュネーヴはくアメデ3せいおよびヴォー領主りょうしゅルイージ2せい摂政せっしょうとされた。2人ふたり摂政せっしょうとしての権力けんりょく制限せいげんする文書ぶんしょ同意どういした。どちらも他方たほう同意どういなくしては重要じゅうよう決定けっていくだすことができず、両者りょうしゃ決定けっていはく領内りょうないのすべてのバイイを代表だいひょうする貴族きぞく評議ひょうぎかいにより審査しんさされることとなった[3]

アメデーオ6せいはく継承けいしょうしてまもなく、従姉妹いとこジョヴァンナ・ディ・サヴォイアふたたびサヴォイアはくりょう継承けいしょうけん主張しゅちょうした。ジョヴァンナはアメデーオ6せい伯父おじエドアルド一人娘ひとりむすめであったが、サヴォイアがサリカほうじゅんじていたため、すでに継承けいしょうけん否定ひていされていた。ジョヴァンナは翌年よくねん死去しきょしたが、アメデーオ6せいこまらせるため遺言ゆいごんによりサヴォイアはくりょうオルレアンこうフィリップのこした。1345ねん、アメデーオ6せいはかつてちちアイモーネとジョヴァンナとのあいだ合意ごういちかかたち交渉こうしょうおこない、とし5,000リーブルでフィリップの主張しゅちょうげさせた[4]

アメデーオは身体しんたいてきにも精神せいしんてきにも教育きょういくほどこされ、戦闘せんとう乗馬じょうば訓練くんれんたのしんだ。また、『軍事ぐんじろん』などの古典こてんや『君主くんしゅ統治とうちについて』など比較的ひかくてきあたらしい書物しょもつについても教育きょういくけた[5]。アメデーオはまた宗教しゅうきょうてき献身けんしんしめし、携帯けいたいよう祭壇さいだんと、かれがどこにいても毎朝まいあさかれのためにミサをおこな牧師ぼくし権利けんり要求ようきゅうした。アメデーオは自分じぶんにとって自身じしん健康けんこうよりも頻繁ひんぱん断食だんじきすることをちかい、そのローマ教皇きょうこうクレメンス6せいにこれらのちかいから解放かいほうするようもとめた。教皇きょうこうはこれに同意どういし、わりに毎週まいしゅう12にん貧者ひんじゃやしなうようもとめた[6]

アンジューわかきナポリ女王じょおうジョヴァンナ1せい王位おういについたとき、きたイタリアの君主くんしゅたちは、彼女かのじょ経験けいけん不足ふそく利用りようしてナポリの領地りょうちれようとした。モンフェッラートこうジョヴァンニ2せい最初さいしょ攻撃こうげき主導しゅどうし、一方いっぽうでアメデーオの又従兄弟またいとこ家臣かしんピエモンテ領主りょうしゅジャコモ女王じょおう支援しえんした。1345ねん最初さいしょぐん撃退げきたいされたのち、ジャコモの領地りょうち攻撃こうげきされた。1347ねん、ジャコモはアメデーオに支援しえんもとめ、アメデーオはぐん派遣はけんした。その軍隊ぐんたいそのとしの7がつ攻撃こうげきしゃ一掃いっそうし、アマデウスは最後さいごすう週間しゅうかん戦闘せんとう参加さんかした。ジャコモはその、かつてサヴォイアてきであったヴィエノワのドーファン・アンベール2せいサルッツォこうトンマーゾ2せいたすけをりた。ジャコモらはともにアンジュー領地りょうち獲得かくとくした。教皇きょうこうクレメンス6せいは1348ねんたたかいをわらせるため休戦きゅうせん交渉こうしょうおこなったが、これにはたたかいに参加さんかしただれもが満足まんぞくしなかった[7]

1348ねんから1351ねんにかけて、黒死病こくしびょうによりサヴォイアりょう荒廃こうはいし、いくつかのむら人口じんこう半減はんげんした。1348ねん農民のうみんおおくはユダヤじん井戸いどいずみどくれたことが原因げんいんかんがえた。何人なんにんかの城主じょうしゅはユダヤじん保護ほごしようとしたが、かなりのユダヤじん殺害さつがいされた。シャンベリでは、ユダヤじん保護ほごのためしろめられていたが、暴徒ぼうと侵入しんにゅうなんにんかがころされた。その廷臣ていしんらは、のこりの1人ひとりどくったかどで有罪ゆうざいにするよう圧力あつりょくをかけられ、11にん処刑しょけいし、のこりの1人ひとりにその6年間ねんかん1ヶ月かげつあたり160フローリンの罰金ばっきんした[8]

1349ねん、アメデーオはジュネーヴはくアメデ3せい、ピエモンテ領主りょうしゅジャコモ、ヴィスコンティおよびミラノ支配しはいしゃらとのあいだで、相互そうご防衛ぼうえい援助えんじょのため条約じょうやく合意ごういした。この条約じょうやくには、ガレアッツォ2せい・ヴィスコンティとアメデーオのいもうとビアンカ・ディ・サヴォイアの結婚けっこんふくまれていた。1350ねんにおこなわれたその結婚けっこん記念きねんして、アメデーオは黒鳥くろとり騎士きしだんCompanie du Cigne Noir)を創設そうせつした[9]

1349ねん最後さいごのヴィエノワのドーファンとなったアンベール2せい・ド・ラ・トゥール・デュ・パンが、自身じしん地位ちい領地りょうちのちフランスおうとなるシャルルゆずった。このときあらたにドーファンとなったシャルルはフランスおうシャルル4せいまごであり、法定ほうてい推定すいてい相続そうぞくじんのちフランスおうとなったジャン2せい息子むすこであった。アンベール2せいドミニコかい修道院しゅうどういん隠棲いんせいした[10]

サヴォイアはくとして

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1350ねんシオン司教しきょうでサヴォイアの同盟どうめいしゃであるギシャール・タヴェルは、サヴォイアの辺境へんきょうであるヴァレーの貴族きぞくらの権利けんりうばおうとした。このため1351ねん8がつ、ギシャールらは攻撃こうげきけた。教皇きょうこうクレメンス6せいはこの反乱はんらんしゃたちを破門はもんにし、アメデーオは30めい騎士きしおくった。これにおうじて8000にん農民のうみんがり、いくつかのしろ占領せんりょうした。これにたいして100にん騎士きしおくまれ、反乱はんらんぐんかえした。1352ねん3がつ、アメデーオはジュネーヴはくアメデ3せいおよびジョヴァンニ2せい・ディ・モンフェッラートをふくぐん編成へんせいし、アメデーオは4がつ反乱はんらんぐん一掃いっそうした。反乱はんらんぐんはすぐに降伏ごうぶくし、アメデーオはかつて伯父おじエドアルドうしなったシオンにたいする支配しはいけんふたた確立かくりつした[11]

1352ねんなつ、ジュネーヴはくアメデ3せい叔父おじでドーフィネの貴族きぞくユーグ・ド・ジュネーヴは、サヴォイアとの長年ながねん対立たいりつふたたこした。アメデーオは、サヴォイアとドーフィネのあいだむすばれた条約じょうやくかんして、ジュネーヴはくアメデ3せい侮辱ぶじょくしたため、アメデ3せい評議ひょうぎかいり、ヴォー領主りょうしゅルイージ2せいわり評議ひょうぎいんとなったギヨーム・ド・ラ・ボームに異議いぎとなえた。1352ねん1がつ6にち、アメデーオはあらそいにおける相互そうご援助えんじょのためオーストリアこうアルブレヒト2せい同盟どうめいむすんだ。そしてアメデーオはイタリアの領地りょうちからたたかいのためにへいあつめた。アメデーオのぐんアルプス山脈あるぷすさんみゃくえたときヴァレーおよびシオンにおいて反乱はんらんあらたに勃発ぼっぱつした。そこでアメデーオはぐんをヴァレーおよびシオンにもどし、11月3にち反乱はんらんぐん完全かんぜんたおした。4にちあさ相談役そうだんやくのギヨームがアメデーオを騎士きしとした。その、アメデーオはシオンのかべ一部いちぶこわし、ぐんまち略奪りゃくだつした。また、アメデーオは市民しみん多額たがく罰金ばっきんした[12]

アメデーオは19さい誕生たんじょういわったときに、かぶとみどりはねかざり、よろいみどりきぬ陣羽織じんばおりをつけ、そしてみどりうまころもをつけたうまってトーナメントに出場しゅつじょうしたことから、みどりはくというあだばれた[13]。アメデーオはみどりふくた11めい騎士きしともはいり、それぞれがみどりのドレスをまとった婦人ふじん先導せんどうされ、婦人ふじんらはみどりひもうまいていた。このときより、みどりはアメデーオのふく宮廷きゅうていこのんでもちいられるようになった[14]

1353ねんはる、アメデーオはドーフィネを攻撃こうげきするためぐん準備じゅんびおこなった。フランスおうジャン2せいひゃくねん戦争せんそうつづけるにあたり、たいイングランドせんにおいてガスコーニュでりょうぐん使つかうことをのぞんでいたため、7がつ介入かいにゅうして休戦きゅうせんとなった。しかし、ユーグ・ド・ジュネーヴはすくにこの休戦きゅうせんやぶった。そこでアメデーオは10月26にちから11月11にちまでジェクスにおいてユーグのぐん包囲ほういし、アメデーオはてきたおまちはらった。教皇きょうこうインノケンティウス6せいやジャコモが休戦きゅうせんはなうため使者ししゃおくったが、アメデーオとユーグは1354ねん4がつまでたたかいをつづけ、このたたかいはアメデーオがレ・ザブレ近郊きんこうでユーグのぐんやぶったことで終結しゅうけつした[15]

1355ねんパリ条約じょうやく締結ていけつされ、アメデーオはフォーシニーとジェクスはくりょう主権しゅけん承認しょうにん、およびジュネーブはくふうぬしとなることとえに、ローヌがわとギエがわこうにあるドーフィネの領地りょうち放棄ほうきすることに同意どういした[16]。これらの称号しょうごうはすべて、サヴォイアはくとヴィエノワのドーファンとのあいだでこれまであらそわれていたものであった。

アメデーオは、コル・デ・ラルジャンティエールとうげ(フランスとイタリアの国境こっきょうにある現在げんざいのマッダレーナとうげ)の領地りょうちけい60,000エキュ購入こうにゅうしたとされる[17]。コル・デ・ラルジャンティエールはリヨンとイタリアをむすとうげであり、戦略せんりゃくてきにも商業しょうぎょうてきにも非常ひじょう重要じゅうようであった。

十字軍じゅうじぐん

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ブルガリアたいするアメデーオ6せい遠征えんせい(1366ねん - 1367ねん

アメデーオは、1366ねんオスマン帝国ていこくムラト1せいたい小規模しょうきぼ十字軍じゅうじぐん(15せきふねと1,700にん兵士へいし)を開始かいしし(サヴォイア十字軍じゅうじぐん)、従兄弟いとこでアメデーオの叔母おばアンナ・ディ・サヴォイア息子むすこひがしローマ皇帝こうていヨハネス5せいパレオロゴス支援しえんした。この遠征えんせいにおいて、アメデーオはレスボスとう領主りょうしゅフランチェスコ1せいハンガリーおうラヨシュ1せい協力きょうりょくし、トルコじんガリポリ半島はんとうからした。しかしこの勝利しょうり短命たんめいわり、すうねんにムラト1せいにガリポリをうばわれた。このとき、ヨハネス5せいがブルガリアへいらえられ、アメデーオはぐんとともにブルガリアにかい、メセンブリアおよびソゾポル黒海こっかいみなと占領せんりょうした。その、アメデーオはヴァルナ包囲ほういし、ブルガリア皇帝こうていイヴァン・アレクサンダルに、ヨハネス5せい解放かいほうするかさらなる敗北はいぼくきっするかの最後さいご通牒つうちょうおくった。 イヴァン・アレクサンダルはヨハネス5せい解放かいほうし、アメデーオはふゆごすためメセンブリアにかい、クリスマスまえにヨハネス5せいとともに到着とうちゃくした[18]

その

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1372ねんから1373ねんにかけて、アメデーオはヴィスコンティたいする教皇きょうこう連合れんごうぐんとして、イタリアにおいてクシー領主りょうしゅアンゲラン7せいともたたかった[19]

1377ねん、アメデーオはこの地域ちいき最初さいしょ公共こうきょう機械きかいしき時計とけい設置せっちめいじ、それを維持いじするために役人やくにん任命にんめいした[20]

1381ねんにトリノにおいて、アメデーオはジェノヴァヴェネツィアとのあいだ仲介ちゅうかいして平和へいわ条約じょうやくむすばせ、これによりキオッジャ戦争せんそうヴェネツィア・ジェノヴァ戦争せんそう終結しゅうけつした[21]のちにアメデーオは対立たいりつ教皇きょうこうクレメンス7せい説得せっとくにより、ルイ1せい・ダンジューナポリ遠征えんせい参加さんかした[22]。この遠征えんせいにおいて、1382ねんにアメデーオはルイ1せいともアブルッツォおよびプッリャ征服せいふく成功せいこうした。しかし、アメデーオは1383ねん3がつ1にち伝染でんせんびょうにより死去しきょした[23]

結婚けっこん子女しじょ

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アメデーオがわかころ王室おうしつ婚姻こんいんむすぶための交渉こうしょうなんおこなわれた。1338ねん、アメデーオは神聖しんせいローマ皇帝こうていカール4せいむすめで3さいマルガレーテ婚約こんやくした。また、1340ねんから1344ねんにかけて、フランスおうフィリップ6せいめいジャンヌ・ド・ブルボン婚約こんやくした。この結婚けっこんにより、15,000フローリンの持参じさんきんがもたらされることになっていた[24]。しかし1347ねんにアメデーオはこの婚約こんやく破棄はきし、フィリップ・ド・ブルゴーニュとオーヴェルニュおんなはくジャンヌ1せいむすめジャンヌと婚約こんやくした。これにより、アメデーオはジャンヌのおとうとブルゴーニュこうフィリップ1せい相続そうぞくじんとなったとみられる[25]。3さいのジャンヌはサヴォイアの宮廷きゅうていれてこられ、サヴォイアでそだてられた。1351ねんなつ、アメデーオはイングランドおうエドワード3せいに、エドワード3せいむすめイザベラとの結婚けっこんもとめるため手紙てがみおくった。しかしこの希望きぼうたいし、ジュネーヴはくアメデ3せい抗議こうぎした。ジャンヌは1355ねん4がつ18にちまでサヴォイア宮廷きゅうていにとどまったが、そのポワシーの修道院しゅうどういんおくられ、そこで生涯しょうがいえた[26]

アメデーオは1355ねんパリにおいてフランスおうシャルル5せい義妹ぎまいボンヌ・ド・ブルボン結婚けっこんした[27]2人ふたりあいだには3まれた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Cox 1967, pp. 11–13.
  2. ^ Cox 1967, pp. 336–337.
  3. ^ Cox 1967, pp. 33–36.
  4. ^ Cox 1967, pp. 53–55.
  5. ^ Cox 1967, p. 51.
  6. ^ Cox 1967, p. 52.
  7. ^ Cox 1967, pp. 63–68, 71.
  8. ^ Cox 1967, pp. 68–70.
  9. ^ Cox 1967, p. 78.
  10. ^ Cox 1967, pp. 74–75.
  11. ^ Cox 1967, pp. 88–92.
  12. ^ Cox 1967, pp. 94–96.
  13. ^ Hulbert 1916, p. 140.
  14. ^ Cox 1967, pp. 97–98.
  15. ^ Cox 1967, pp. 99–101.
  16. ^ Cox 1967, pp. 103–104.
  17. ^ Coolidge 1915, p. 687.
  18. ^ Norwich 1996, pp. 330–331.
  19. ^ タックマン 2013, pp. 438–445.
  20. ^ Cox 1967, p. 49.
  21. ^ Norwich 1997, p. 354.
  22. ^ タックマン 2013, p. 671.
  23. ^ タックマン 2013, p. 673.
  24. ^ Cox 1967, p. 57.
  25. ^ Cox 1967, pp. 60–61.
  26. ^ Cox 1967, pp. 79–80, 105.
  27. ^ Echols & Williams 1992, p. 92.
  28. ^ a b Cox 1967, p. 145.
  29. ^ Cox 1967, p. 187.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Coolidge, W. A. B. (October 1915). “The Passages of the Alps in 1518”. The English Historical Review 30 (120): 681–691. doi:10.1093/ehr/xxx.cxx.681. https://zenodo.org/record/1431740. "Le Col d'Argentière qui est en la terre nove de la conté de Nyce qui souloit estre du païs de Provence. Et fut baillée en gaige pour certaine somme d'argent que l'on dit de lx mille escuzau conte Vert pour lors comte de Savoye." 
  • Cox, Eugene L. (1967). The Green Count of Savoy. Princeton, New Jersey: Princeton University Press. LCCN 67--11030. https://archive.org/details/greencountofsavo0000coxe 
  • Echols, Anne; Williams, Marty (1992). An Annotated Index of Medieval Women. Markus Weiner Publishing Inc 
  • Hulbert, J. R. (Apr 1916). “Syr Gawayn and the Grene Knyzt-(Concluded)”. Modern Philology 13 (12). 
  • Norwich, John Julius (1996). Byzantium: The Decline and Fall. New York: Alfred A. Knopf 
  • Norwich, John Julius (1997). A Short History of Byzantium. Vintage Books. ISBN 978-0-679-77269-9 
  • タックマン, バーバラ ちょ徳永とくながまもる やくとおかがみ災厄さいやくの14世紀せいきヨーロッパ-』朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、2013ねんISBN 978-4-255-00739-7