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アルブレヒト・アルキビアデス

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルブレヒト・アルキビアデス・フォン・ブランデンブルク=クルムバッハ
Albrecht Alcibiades von Brandenburg-Kulmbach
ブランデンブルク=クルムバッハ辺境へんきょうはく
在位ざいい 1527ねん - 1554ねん

出生しゅっしょう (1522-03-28) 1522ねん3月28にち
神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこく
アンスバッハ辺境へんきょうはくりょうアンスバッハ
死去しきょ (1557-01-08) 1557ねん1がつ8にち(34さいぼつ
神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこく
バーデン=ドゥルラハ辺境へんきょうはくりょうプフォルツハイム
埋葬まいそう 神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこく
アンスバッハ辺境へんきょうはくりょうハイルスブロン修道院しゅうどういん
家名かめい ホーエンツォレルン
父親ちちおや ブランデンブルク=クルムバッハ辺境へんきょうはくカジミール
母親ははおや ズザンナ・フォン・バイエルン
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アルブレヒト・アルキビアデス・フォン・ブランデンブルク=クルムバッハAlbrecht Alcibiades von Brandenburg-Kulmbach1522ねん3月28にち - 1557ねん1がつ8にち)は、ブランデンブルク=クルムバッハ辺境へんきょうはくカジミールバイエルンこうアルブレヒト4せいむすめズザンナ息子むすこで、公的こうてきには1527ねんからブランデンブルク=クルムバッハ辺境へんきょうはくくらいにあったが、成人せいじんまえであったため1541ねんまでは叔父おじブランデンブルク=アンスバッハ辺境へんきょうはくゲオルク後見人こうけんにんとして実際じっさい統治とうちおこなった。ははハプスブルクいており、神聖しんせいローマ皇帝こうていカール5せいフェルディナント1せい兄弟きょうだいとは又従兄弟またいとこにあたる。

めいの「アルキビアデス」は、権力けんりょくよくつよ日和見ひよりみ主義しゅぎアテネ政治せいじアルキビアデス紀元前きげんぜん450ねん - 404ねん)になぞらえて、後代こうだい人々ひとびと皮肉ひにくけたもの。存命ぞんめいちゅうは「ベラトール(Bellator)」、すなわち好戦こうせんはくばれていた。

生涯しょうがい

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シュマルカルデン戦争せんそう諸侯しょこう反乱はんらん

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自分じぶん自身じしんプロテスタント信者しんじゃであるにもかかわらず、アルブレヒトはシュマルカルデン戦争せんそうでは、最初さいしょ神聖しんせいローマ皇帝こうていカール5せいがわ傭兵ようへい隊長たいちょう騎兵きへい隊長たいちょうとして参戦さんせんしている。しかし、1551ねんになるとザクセンせんみかどこうモーリッツ謀議ぼうぎ荷担かたんし、フランスおうアンリ2せいとのシャンボール条約じょうやく仲介ちゅうかいおこなっている。アンリ2せい支援しえんけるために、ロレーヌ地方ちほう国境こっきょうトゥールメスヴェルダンかく教区きょうく割譲かつじょうされた。のちにアルブレヒトはふたたびカール5せいがわ寝返ねがえった。

だい辺境へんきょうはく戦争せんそう

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マーデンブルクじょう

だい辺境へんきょうはく戦争せんそうは、ホーエンツォレルンによるフランケンおおやけりょう創設そうせつ目論もくろむアルブレヒトと、おもニュルンベルクおよフランケンライン地方ちほう司教しきょういたるとのあいだ戦闘せんとうおこなわれた。かれ残虐ざんぎゃく行為こういをはたらきながら戦争せんそう遂行すいこうし、フランケン全土ぜんどひろ範囲はんいたとえば帝国ていこく都市としシュヴァインフルトなど)を荒廃こうはいさせた。ニュルンベルク降伏ごうぶくしたのち、アルブレヒトはバンベルクフォルヒハイム占領せんりょうし、ヴュルツブルク司教しきょうとバンベルク司教しきょう法外ほうがい代償だいしょう要求ようきゅうした。また、シュパイアー司教しきょうフィリップ2せいたいしても15まんグルデンめん焼金やきがね要求ようきゅうし、これが拒絶きょぜつされるとマーデンブルクじょうとハムバッハじょう破壊はかいした。この城跡じょうせき1832ねんにドイツの自由じゆう象徴しょうちょうとなった。

敗北はいぼく

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アルブレヒトがパッサウのやくルター容認ようにんするやく)の受諾じゅだく拒否きょひしたため、ザクセンせんみかどこうモーリッツを最高さいこう司令しれいかんとして参集さんしゅうした、bundesständische Heerとばれる諸侯しょこう連合れんごうぐん(そのなかには、カール5せいおとうとのち帝位ていいローマおうフェルディナント1せいふくまれる)は1553ねんジーフェルスハウゼンのたたかでアルブレヒトをくだしたが、モーリッツはこのたたかいで銃撃じゅうげきくなり、ヴォルフェンビュッテルこうハインリヒ2せい2人ふたり息子むすこ戦死せんししている。

アルブレヒトの故郷こきょうであるフランケンは蹂躙じゅうりんされ、バイロイトホーフクルムバッハ1553ねんまでにちされた。フランケンけいホーエンツォレルン居城きょじょう防衛ぼうえい施設しせつでもあったプラッセンブルクじょう1554ねん6がつまで包囲ほういされた。クルムバッハこうりょう首都しゅとのクルムバッハは1553ねん11月26にち徹底的てっていてき破壊はかいされくした。

追放ついほう

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アルブレヒトは1554ねん最後さいごたたかいにやぶれ、国外こくがい追放ついほうとなった。かれバーデン=ドゥルラハ辺境へんきょうはくカール2せいとついだいもうとクニグンデの家族かぞくしたのがれ、プフォルツハイムで最期さいごまでらし、そこでくなった。現在げんざいでは、かれギラン・バレー症候群しょうこうぐん罹患りかんしていたと推測すいそくされている。アルブレヒトの死後しご、クルムバッハは従弟じゅうていゲオルク・フリードリヒ相続そうぞくした。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Johannes Voigt: Markgraf Albrecht Alcibiades von Brandenburg-Kulmbach, 2 Bde., Berlin 1852
  • Otto Kneitz: Albrecht Alcibiades, Markgraf von Kulmbach 1522 - 1557, Kulmbach 1951, 2. Aufl. Kulmbach 1982
  • Otto Kneitz: Albrecht Alcibiades, Markgraf von Brandenburg, o. O. 1949
  • Rudolf Friedrichsdorf: Markgraf Albrecht Alcibiades als Reiterführer, Berlin 1919

これらの文献ぶんけんは、ドイツばん参考さんこう文献ぶんけんとしてげられていたものであり、日本語にほんごばん作成さくせい直接ちょくせつ参照さんしょうしてはおりません

外部がいぶリンク

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(いずれもドイツ

関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
カジミール
ブランデンブルク=
クルムバッハ辺境へんきょうはく
1527ねん - 1554ねん
1541ねんまではブランデンブルク=アンスバッハ辺境へんきょうはくゲオルク後見こうけん
次代じだい
ゲオルク・フリードリヒ