イヴァン・ブロッホ
イヴァン・ブロッホ (ロシア語 ご : Иван Станиславович Блиох, Ivan Stanislavovic Bloch , ポーランド語 ご : ヤン・ブロッホ、Jan Gotlib (Bogumił) Bloch, フランス語 ふらんすご : ジャン・ド・ブロック、Jean de Bloch, ドイツ語 ご : ヨハン・フォン・ブロッホ、Johann von Bloch, 1836年 ねん 7月 がつ 24日 にち ラドム 生 う まれ - 1902年 ねん 1月 がつ 7日 にち ワルシャワ で没 ぼつ )は、ポーランド 出身 しゅっしん のユダヤ系 けい 銀行 ぎんこう 家 か ・鉄道 てつどう 事業 じぎょう 者 しゃ で、ロシア帝国 ていこく において鉄道 てつどう 王 おう となった人物 じんぶつ である。
鉄道 てつどう 経営 けいえい 、財政 ざいせい 学 がく 、地方 ちほう 経営 けいえい などに関 かん する著書 ちょしょ を多数 たすう 書 か いた。また1870年 ねん の普 ひろし 仏 ふつ 戦争 せんそう でのプロイセン王国 おうこく の圧倒的 あっとうてき 勝利 しょうり に影響 えいきょう されて、産業 さんぎょう 革命 かくめい 以後 いご の戦争 せんそう ・総 そう 力戦 りきせん についても研究 けんきゅう を行 おこな い、外交 がいこう 問題 もんだい 解決 かいけつ の手段 しゅだん としての戦争 せんそう がいずれ衰退 すいたい するとする重要 じゅうよう な著作 ちょさく を残 のこ した。彼 かれ の全 ぜん 6巻 かん におよぶ代表 だいひょう 作 さく 『将来 しょうらい の戦争 せんそう 』(La Guerre Future, 別名 べつめい "Is War Now Impossible?"『いま戦争 せんそう は不可能 ふかのう か』)は1898年 ねん にパリ で出版 しゅっぱん されている。
ブロッホはワルシャワの高校 こうこう を卒業 そつぎょう 後 ご 実業 じつぎょう 界 かい に入 はい り、カルヴァン主義 しゅぎ に入信 にゅうしん し、ワルシャワで銀行 ぎんこう を経営 けいえい するようになった。彼 かれ は1860年代 ねんだい よりロシア帝国 ていこく の鉄道 てつどう 会社 かいしゃ への出資 しゅっし に携 たずさ わり、ポーランドとロシアの鉄道 てつどう 会社 かいしゃ 多数 たすう を経営 けいえい した。
外国 がいこく の手法 しゅほう をそのまま取 と り入 い れることの失敗 しっぱい を目 め にした彼 かれ は、収入 しゅうにゅう ・経費 けいひ ・運賃 うんちん などロシアの事情 じじょう に合 あ わせた鉄道 てつどう 経営 けいえい の必要 ひつよう 性 せい を説 と く大著 たいちょ を1875年 ねん に刊行 かんこう し、パリの地理 ちり 展覧 てんらん 会 かい で一等 いっとう 賞 しょう のメダルを獲得 かくとく している。また鉄道 てつどう 会社 かいしゃ の従業 じゅうぎょう 者 しゃ の年金 ねんきん 問題 もんだい 、ロシアの家畜 かちく 政策 せいさく と輸出 ゆしゅつ 問題 もんだい などについても著書 ちょしょ を出 だ し政策 せいさく に影響 えいきょう を与 あた え、ロシアの深刻 しんこく な財政難 ざいせいなん の原因 げんいん を鉄道 てつどう 建設 けんせつ のための債権 さいけん と見 み る世論 せろん に対 たい して鉄道 てつどう 建設 けんせつ の必要 ひつよう 性 せい と経済 けいざい 効果 こうか を説 と いた。
彼 かれ はワルシャワの証券 しょうけん 取引 とりひき 所 しょ の所長 しょちょう を長年 ながねん 務 つと め、統計 とうけい 局 きょく を設立 せつりつ したほかワルシャワ工科 こうか 大学 だいがく 設立 せつりつ など多 おお くの公益 こうえき 事業 じぎょう にも尽力 じんりょく している。
ブロッホは近代 きんだい の戦争 せんそう や、その戦術 せんじゅつ ・戦略 せんりゃく ・政治 せいじ との関係 かんけい について詳細 しょうさい に研究 けんきゅう し、ヨーロッパで広 ひろ く読 よ まれた。ブロッホの論 ろん はこのようであった。
新 あたら しい軍事 ぐんじ 技術 ぎじゅつ (無煙 むえん 火薬 かやく の発明 はつめい 、小銃 しょうじゅう の設計 せっけい の進化 しんか 、ハイラム・マキシム によるマキシム機関 きかん 銃 じゅう の発明 はつめい )は、騎兵 きへい や、銃剣 じゅうけん を持 も った歩兵 ほへい による突撃 とつげき など、開 あ けた地上 ちじょう における作戦 さくせん 行動 こうどう を時代遅 じだいおく れにする。ブロッホは、大 おお きな軍事 ぐんじ 力 りょく 同士 どうし の戦争 せんそう は塹壕 ざんごう 戦 せん となるだろうとし、急襲 きゅうしゅう により決定的 けっていてき 勝利 しょうり を収 おさ めることは過去 かこ のものになるだろうと述 の べた。ブロッホは、塹壕 ざんごう の兵士 へいし は開 あ けた陸上 りくじょう を前進 ぜんしん する歩兵 ほへい に対 たい し4倍 ばい の有利 ゆうり さを持 も つとも計算 けいさん している。
前 まえ の時代 じだい の戦争 せんそう では数 すう 万 まん 人 にん 規模 きぼ の軍隊 ぐんたい がぶつかった事 こと に対 たい し、産業 さんぎょう 社会 しゃかい においては数 すう 百 ひゃく 万 まん 人 にん 規模 きぼ の軍隊 ぐんたい を参加 さんか させることにより、結果 けっか として膠着 こうちゃく (ステイルメイト )に陥 おちい るだろうと述 の べている。戦線 せんせん がいたるところに作 つく られ、この種 たね の戦争 せんそう は迅速 じんそく には解決 かいけつ しないであろうともしている。
戦争 せんそう は産業 さんぎょう 力 りょく 同士 どうし の決闘 けっとう となり、完全 かんぜん に経済 けいざい 的 てき 消耗 しょうもう の様相 ようそう を呈 てい する。経済 けいざい 的 てき ・社会 しゃかい 的 てき 混乱 こんらん により飢餓 きが 、疫病 えきびょう 、全 ぜん 社会 しゃかい 的 てき 組織 そしき の解体 かいたい 、そして革命 かくめい の危機 きき が切迫 せっぱく したものとなる。
1899年 ねん 、軍拡 ぐんかく 競争 きょうそう が財政 ざいせい の重荷 おもに となる中 なか 、ロシア皇帝 こうてい ニコライ2世 せい は万国 ばんこく 平和 へいわ 会議 かいぎ 開催 かいさい を呼 よ びかけオランダ のデン・ハーグ に列強 れっきょう 各国 かっこく 代表 だいひょう が参加 さんか しハーグ陸戦 りくせん 条約 じょうやく などの交戦 こうせん 規定 きてい や国際 こくさい 紛争 ふんそう 平和 へいわ 的 てき 処理 しょり 条約 じょうやく が採択 さいたく された。ブロッホも、おそらくニコライ2世 せい の招待 しょうたい で参加 さんか しており、参加 さんか 26カ国 かこく の外交 がいこう 団 だん の使節 しせつ らに著書 ちょしょ を配 くば ったが、その甲斐 かい は余 あま りなかった。イギリス のジャーナリスト、ウィリアム・トーマス・ステッド もブロッホの説 せつ を広 ひろ めるのに尽力 じんりょく した。しかしブロッホによる理論 りろん 上 じょう の研究 けんきゅう は毎回 まいかい 無視 むし されるか拒否 きょひ された。1901年 ねん 、ブロッホはイギリスの The Contemporary Review に次 つぎ のように寄稿 きこう した。
14年 ねん にわたり戦争 せんそう の諸相 しょそう を研究 けんきゅう することに忙 いそが しくしてきたが、剣 けん を鋤 すき に変 か えてゆく注目 ちゅうもく すべき進化 しんか が厳 きび しく目 め を光 ひか らせている専門 せんもん 家 か にすらほとんど無視 むし されていることに驚 おどろ いている。将来 しょうらい の戦争 せんそう に関 かん しての著作 ちょさく で、私 わたし はこの興味深 きょうみぶか い過程 かてい を図解 ずかい する努力 どりょく を払 はら った。しかし専門 せんもん 家 か に対 たい する著作 ちょさく であるため私 わたし は細部 さいぶ に入 はい らざるを得 え ず、分析 ぶんせき は3,084ページにも及 およ んでしまった。そこに蓄積 ちくせき された事実 じじつ 、そこから流 なが れ出 だ す結論 けつろん は、共同 きょうどう 体 たい のなかの最 もっと も権力 けんりょく ある階級 かいきゅう の既得 きとく 権 けん に対 たい し即座 そくざ の改革 かいかく の具現 ぐげん 化 か を迫 せま り余 あま りにも強 つよ く対立 たいりつ するものである。そして私 わたし は最初 さいしょ からこれを予見 よけん していた。私 わたし が予見 よけん できなかったのは頑固 がんこ さが、行動 こうどう をとることへのためらいとなっただけでなく、事実 じじつ の歪曲 わいきょく まで行 い ったことである。愛国心 あいこくしん はおおいに尊敬 そんけい されるべきものだが、階級 かいきゅう の利益 りえき と一体化 いったいか したときは危険 きけん なものになる。軍事 ぐんじ に係 かか わるカーストがすでに死 し んだものごとの思 おも い出 で にすがりつく不変 ふへん なさまは痛 いた ましくも立派 りっぱ なものである。不幸 ふこう なことに金 かね がかかり危険 きけん なものでもある。それゆえ私 わたし はいま、その死活 しかつ 的 てき 利益 りえき が危機 きき にありその意見 いけん が決定的 けっていてき なものとなる英国 えいこく の大衆 たいしゅう に対 たい し、思 おも い切 き って呼 よ び掛 か けているのだ。
ヨーロッパの愛国 あいこく 主義 しゅぎ 者 しゃ たちは動 うご かなかった。フランスの騎兵 きへい 司令 しれい 官 かん やイギリスの歩兵 ほへい 司令 しれい 官 かん らは、ブロッホのいう途方 とほう もない戦争 せんそう である第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が起 お こってはじめて、ブロッホの議論 ぎろん を塹壕 ざんごう 戦 せん の実地 じっち で学 まな ばされることになった。ロシアやドイツの君主 くんしゅ も、ブロッホが警告 けいこく した革命 かくめい の危機 きき を、ドイツ革命 かくめい やロシア革命 かくめい の形 かたち で身 み をもって体験 たいけん することとなった。
ブロッホの予見 よけん は、砲兵 ほうへい など間接 かんせつ 的 てき な火力 かりょく の戦術 せんじゅつ 的 てき ・戦略 せんりゃく 的 てき 重要 じゅうよう 性 せい を低 ひく く見積 みつ もったこと、飛行機 ひこうき や戦車 せんしゃ の発達 はったつ を予測 よそく できなかったことにより若干 じゃっかん 限定 げんてい されたものとなっている。また線路 せんろ を使 つか わない自動車 じどうしゃ による輸送 ゆそう の可能 かのう 性 せい の予測 よそく にも失敗 しっぱい した。これらの見落 みお としは1930年代 ねんだい 以前 いぜん には彼 かれ の広 ひろ い見解 けんかい を傷 きず つけるほど重要 じゅうよう なものではなかった。
ブロッホの理論 りろん は制度 せいど 的 てき 障壁 しょうへき に関 かん しても調査 ちょうさ する分析 ぶんせき 的 てき 才能 さいのう に裏打 うらう ちされており、この分析 ぶんせき のために軍事 ぐんじ の既成 きせい の権威 けんい が理論 りろん の受 う け入 い れを拒 こば んだにもかかわらず、出版 しゅっぱん 後 ご も長 なが く生 い き続 つづ けた。現代 げんだい の理論 りろん はブロッホを1900年代 ねんだい 初頭 しょとう のクラウゼヴィッツ とも扱 あつか っている。ある論文 ろんぶん は、ブロッホの理論 りろん と当時 とうじ の軍事 ぐんじ 専門 せんもん 家 か の相互 そうご 関係 かんけい について調査 ちょうさ しているが、彼 かれ らはブロッホの計算 けいさん が正 ただ しくともその全体 ぜんたい の結論 けつろん が士気 しき に悪影響 あくえいきょう を与 あた えるとしてブロッホの論 ろん を却下 きゃっか する傾向 けいこう にあったという[1] 。
ブロッホが出資 しゅっし した「国際 こくさい 戦争 せんそう ・平和 へいわ 博物館 はくぶつかん 」(An International Museum of War and Peace)はブロッホの死後 しご の1902年 ねん 、スイス のルツェルン に開設 かいせつ されている[2] 。
^ The Centenary of the British Publication of Jean de Bloch's Is War Now Impossible? (1899-1999), War in History, Vol. 7, No. 3, 273-294 (2000)
^ A Museum of Peace and War; Interesting Collections Donated by M. de Bloch Just opened to the Public. NYT June 29, 1902, Sunday
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