マキシム機関 きかん 銃 じゅう ( -きかんじゅう、Maxim gun)は、1884年 ねん にアメリカ 生 う まれのイギリス 人 ひと 発明 はつめい 家 か [1] ハイラム・マキシム によって開発 かいはつ された、世界 せかい 初 はつ の全 ぜん 自動 じどう 式 しき 機関 きかん 銃 じゅう である。最初 さいしょ 期 き の実用 じつよう 的 てき な機関 きかん 銃 じゅう であり、以後 いご の戦場 せんじょう に革命 かくめい をもたらした。
図 ず 3以降 いこう がマキシム銃 じゅう を示 しめ す
一 いち 丁 ちょう だけで多数 たすう の敵 てき 兵 へい をなぎ倒 たお せる、弾丸 だんがん を連続 れんぞく 発射 はっしゃ できる銃 じゅう の戦場 せんじょう における有用 ゆうよう 性 せい は明白 めいはく であり、多 おお くの発明 はつめい 家 か が設計 せっけい に取 と り組 く み、そのいくつかは実用 じつよう 化 か された。本 ほん 銃 じゅう の登場 とうじょう 以前 いぜん には、手回 てまわ し式 しき のクランクハンドルや多 た 銃身 じゅうしん を使用 しよう したガトリング砲 ほう やガードナー機関 きかん 銃 じゅう があった。しかしマキシム機関 きかん 銃 じゅう は空 そら 薬莢 やっきょう の排出 はいしゅつ と次 つぎ 弾 だん 装填 そうてん に射撃 しゃげき 時 じ の反動 はんどう を利用 りよう する、完全 かんぜん に人力 じんりき を要 よう しない作動 さどう 機構 きこう で作 つく られたはじめての自動 じどう 銃 じゅう で、以前 いぜん のあらゆる連続 れんぞく 発射 はっしゃ 方式 ほうしき を一掃 いっそう した。
現代 げんだい の機関 きかん 銃 じゅう と比較 ひかく すると、マキシム機関 きかん 銃 じゅう は重 おも く、かさばり、扱 あつか いにくい。水冷 すいれい 式 しき で冷却 れいきゃく 水 すい はすぐ蒸発 じょうはつ するため、連続 れんぞく 使用 しよう には新 あたら しい水 みず をコンスタントに補給 ほきゅう する、あるいは発生 はっせい した水蒸気 すいじょうき を別 べつ の容器 ようき に回収 かいしゅう ・凝結 ぎょうけつ させて再 さい 利用 りよう しなければならなかった。数 かず 百 ひゃく 発 はつ ごとに必要 ひつよう となる交換 こうかん 銃身 じゅうしん [2] 、そしてむろん銃弾 じゅうだん の補給 ほきゅう が欠 か かせず、運用 うんよう や移動 いどう に数 すう 名 めい の人員 じんいん が必要 ひつよう だった。そのためこの機関 きかん 銃 じゅう は通常 つうじょう 、数 すう 名 めい からなる機関 きかん 銃 じゅう 分隊 ぶんたい によって運用 うんよう された。しかしマキシム機関 きかん 銃 じゅう は試験 しけん で毎 まい 分 ぶん 600発 はつ を射撃 しゃげき できることを示 しめ し、これは、同 どう 時代 じだい における後 こう 装 そう 式 しき のボルトアクション ライフル約 やく 30挺 てい の火力 かりょく に匹敵 ひってき した。
三脚 さんきゃく 架 か 上 じょう に据 す えたマキシム機関 きかん 銃 じゅう 。初期 しょき 型 がた のため水 みず タンクが無 な い。
マキシムは最初 さいしょ にマキシム銃器 じゅうき 会社 かいしゃ を設立 せつりつ し、主 しゅ として融資 ゆうし は鋼 はがね 工業 こうぎょう の企業 きぎょう 家 か 、エドワード・ヴィッカースの息子 むすこ であるアルバート・ヴィッカースから受 う けた。マキシムの、機関 きかん 銃 じゅう の発明 はつめい と生産 せいさん の拠点 きょてん となった工場 こうじょう の、その上 うえ の青 あお い飾 かざ り板 ばん は、クラーケンウェル通 どお りにある交差点 こうさてん に面 めん したハットン庭園 ていえん からのぞむことができた。
アルバート・ヴィッカースは会社 かいしゃ の会長 かいちょう となった。後年 こうねん 、この会社 かいしゃ はスウェーデンの競争 きょうそう 企業 きぎょう であるノルデンフェルトと業務 ぎょうむ 提携 ていけい し、マキシム・ノルデンフェルト銃器 じゅうき 弾薬 だんやく 会社 かいしゃ となった。1895年 ねん の逓信 ていしん 省 しょう 住所 じゅうしょ 録 ろく 、ロンドンにおける企業 きぎょう の1579ページには、マキシム・ノルデンフェルト銃器 じゅうき 弾薬 だんやく 会社 かいしゃ のオフィスが、ロンドン・SW・ヴィクトリア通 どお り32に所在 しょざい すると記載 きさい されている。最終 さいしゅう 的 てき に同社 どうしゃ は母体 ぼたい であるヴィッカース会社 かいしゃ に合併 がっぺい された。製品 せいひん は最初 さいしょ にマキシム・ヴィッカース機関 きかん 銃 じゅう となり、その後 ご ヴィッカースの再 さい 設計 せっけい によってヴィッカース重 じゅう 機関 きかん 銃 じゅう へと到達 とうたつ した。
開発 かいはつ (1866年 ねん から1884年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
1866年 ねん 、この当時 とうじ はガトリング砲 ほう が開発 かいはつ されたのと同 おな じ時期 じき であった。
当時 とうじ 26歳 さい のマキシムは仕事 しごと でジョージア州 しゅう サバナを訪 おとず れた。その滞在 たいざい 中 ちゅう 、友人 ゆうじん たちに射撃 しゃげき 練習 れんしゅう 場 じょう に誘 さそ われる。マキシムが滅多 めった に触 ふ れることのないスプリングフィールド 銃 じゅう がそこで使 つか われていた。みな腕 うで の立 た つ射撃 しゃげき 手 しゅ だった。マキシムは目 め を見張 みは る。しかし最 もっと も強烈 きょうれつ な印象 いんしょう を受 う けたのは、「射撃 しゃげき 時 じ の反動 はんどう 」であった。
「あの力強 ちからづよ い反動 はんどう は必 かなら ず何 なに かに役立 やくだ つ」と閃 ひらめ いた。
その閃 ひらめ きがある発明 はつめい を生 う む。そして従来 じゅうらい 型 がた とは似 に ても似 に つかぬ銃 じゅう が誕生 たんじょう した。それがマキシム機関 きかん 銃 じゅう である[3] 。
マキシム機関 きかん 銃 じゅう の開発 かいはつ につながる最初 さいしょ の特許 とっきょ は1883年 ねん 6月 がつ および7月 がつ に登録 とうろく された[4] 。最初 さいしょ の試作 しさく 型 がた は、1884年 ねん 10月 がつ に招待客 しょうたいきゃく へ展示 てんじ された[5] 。
植民 しょくみん 地 ち 戦争 せんそう における投入 とうにゅう (1884年 ねん から1914年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
機関 きかん 銃 じゅう と戦 たたか ったンデベレ軍 ぐん の装備 そうび
ヘンリー・モートン・スタンリー の主導 しゅどう により、マキシム機関 きかん 銃 じゅう の試作 しさく 銃 じゅう が「エミン・パシャ救援 きゅうえん 」遠征 えんせい 隊 たい に供与 きょうよ され、1886年 ねん から1890年 ねん にかけて使用 しよう された。槍 やり と盾 たて が主要 しゅよう 装備 そうび のアフリカ諸 しょ 民族 みんぞく に対 たい しては、効果 こうか 絶大 ぜつだい であった。
マキシム機関 きかん 銃 じゅう を配備 はいび した世界 せかい 最初 さいしょ の部隊 ぶたい は、1889年 ねん のシンガポール義勇軍 ぎゆうぐん 部隊 ぶたい だった。これは現在 げんざい 独立 どくりつ しているかつてのイギリス植民 しょくみん 地 ち の、一般人 いっぱんじん からなる義勇 ぎゆう 兵 へい の防衛 ぼうえい 部隊 ぶたい だった。
本 ほん 銃 じゅう の殺傷 さっしょう 力 りょく は、時代遅 じだいおく れの突撃 とつげき 戦術 せんじゅつ に対 たい して破壊 はかい 的 てき な効果 こうか を発揮 はっき し、19世紀 せいき 後半 こうはん におけるアフリカのヨーロッパ植民 しょくみん 地 ち 化 か 戦争 せんそう において重要 じゅうよう な役割 やくわり を演 えん じた。1893年 ねん から1894年 ねん にかけ、マキシム機関 きかん 銃 じゅう はローデシア の第 だい 一 いち 次 じ ンデベレ戦争 せんそう でイギリス植民 しょくみん 地 ち 部隊 ぶたい によって使用 しよう された。シャンガニの戦闘 せんとう で、ヤリと棍棒 こんぼう を武器 ぶき にしたンデベレ族 ぞく の戦士 せんし たちは開 あ けた地形 ちけい での正面 しょうめん 戦闘 せんとう におびき出 だ され、4挺 てい のマキシム機関 きかん 銃 じゅう を装備 そうび した50人 にん のイギリス兵 へい が、突撃 とつげき してくる100倍 ばい にあたる5千 せん 人 にん のンデベレ戦士 せんし を撃退 げきたい した。歴史 れきし 家 か で作家 さっか のヒレア・ベロック は「何 なに が起 お ころうと、我々 われわれ にはマキシム機関 きかん 銃 じゅう がある。そして奴 やつ らは持 も っていない」[6] と要約 ようやく した。一方 いっぽう ンデベレ側 がわ の被害 ひがい は悲惨 ひさん で「どれほどの涙 なみだ を流 なが しても、殺 ころ された戦士 せんし たちを悼 いた むに足 た りない」と記述 きじゅつ される大 だい 被害 ひがい を蒙 こうむ った。
しかしながら植民 しょくみん 地 ち での戦 たたか いにおけるマキシム機関 きかん 銃 じゅう の破壊 はかい 力 りょく は俗説 ぞくせつ によってしばしば過度 かど に強調 きょうちょう された。現代 げんだい の歴史 れきし の報告 ほうこく 書 しょ はそれを暗示 あんじ しており、この兵器 へいき はマタベレ戦争 せんそう や1898年 ねん のオムダーマンの戦 たたか い のような、正面 しょうめん 戦闘 せんとう の状況 じょうきょう では効果 こうか 的 てき だった。その重要 じゅうよう 性 せい は、身体 しんたい への影響 えいきょう と同 おな じく、心理 しんり への影響 えいきょう のせいでもあった。
マキシム機関 きかん 銃 じゅう の大 だい 口径 こうけい 化 か されたものはマキシム・ノルデンフェルトによって製造 せいぞう され、1ポンドの砲弾 ほうだん を発射 はっしゃ した。これは発射 はっしゃ 音 おん からポンポン砲 ほう (QF 1ポンド砲 ほう )として第 だい 二 に 次 じ ボーア戦争 せんそう で知 し られ、両 りょう 軍 ぐん で投入 とうにゅう された。マキシム機関 きかん 銃 じゅう は、1901年 ねん から1902年 ねん に今日 きょう のナイジェリア で勃発 ぼっぱつ したアングロ・アロ戦争 せんそう でも使 つか われた。
ヨーロッパの陸軍 りくぐん と海軍 かいぐん による段階 だんかい 的 てき な採用 さいよう [ 編集 へんしゅう ]
大 だい 口径 こうけい のマキシム機関 きかん 銃 じゅう 。アメリカ海軍 かいぐん の軍船 ぐんせん ヴィクセンに搭載 とうさい されたもの。
まず、マキシムの会社 かいしゃ は、兵器 へいき の有能 ゆうのう さに関 かん してヨーロッパの機関 きかん が確信 かくしん するところのいくつかのトラブルを抱 かか えていた。一般 いっぱん 的 てき に、兵士 へいし には機関 きかん 銃 じゅう に対 たい する大 おお きな不信 ふしん 感 かん があり、これは戦 たたか いの最中 さいちゅう 、肝心 かんじん なときに弾 たま 詰 づ まりを起 お こす機関 きかん 銃 じゅう の傾向 けいこう から来 き たもので、しばしば犠牲 ぎせい 者 しゃ を出 だ す結果 けっか となった。
1906年 ねん の書物 しょもつ である小 しょう 戦争 せんそう [7] では、1900年代 ねんだい の機関 きかん 銃 じゅう の重要 じゅうよう な問題 もんだい において、この時期 じき 、マキシム機関 きかん 銃 じゅう が他 た の機関 きかん 銃 じゅう よりもかなり信頼 しんらい できることに注目 ちゅうもく している。著者 ちょしゃ が注目 ちゅうもく している440ページからは:
「従来 じゅうらい の形式 けいしき は任務 にんむ に適切 てきせつ なものではない……これらの機関 きかん 銃 じゅう はウルンディで弾 たま 詰 づ まりを起 お こした。またドゥガリでも弾 たま 詰 づ まりを起 お こした。またこれらの機関 きかん 銃 じゅう は、アブ・クレアとトフレクでも作動 さどう 不良 ふりょう となった。いくつかの場合 ばあい は不運 ふうん な結果 けっか による。」
マキシム機関 きかん 銃 じゅう は従来 じゅうらい のクランク作動 さどう の兵器 へいき よりは信頼 しんらい 性 せい が高 たか かった。しかし、機関 きかん 銃 じゅう であるがための不信 ふしん は根深 ねぶか かった。また兵器 へいき の信頼 しんらい 性 せい は証明 しょうめい されねばならず、配備 はいび へ移行 いこう する以前 いぜん に完全 かんぜん に試験 しけん されねばならなかった。
さらにもう一 ひと つの実際 じっさい 的 てき な問題 もんだい は、マキシム機関 きかん 銃 じゅう の位置 いち が、連続 れんぞく 射撃 しゃげき から生 しょう じる砲煙 ほうえん によって簡単 かんたん に暴露 ばくろ されたことだった。そこで国家 こっか や軍 ぐん 当局 とうきょく の関係 かんけい 者 しゃ はこの兵器 へいき の採用 さいよう を嫌 きら った。無煙 むえん 火薬 かやく の出現 しゅつげん は、(開発 かいはつ 者 しゃ のなかにはハイラム・マキシムの兄弟 きょうだい であるハドソン・マクシムがいた)この状況 じょうきょう を変 か える助 たす けとなった。
マキシム機関 きかん 銃 じゅう は、ガーネット・ワースリー卿 きょう の紹介 しょうかい と尽力 じんりょく によってイギリス陸軍 りくぐん に採用 さいよう された。彼 かれ は1888年 ねん 、イギリス陸軍 りくぐん の最高 さいこう 司令 しれい 官 かん に任命 にんめい された。同年 どうねん 10月 がつ には、彼 かれ は120挺 てい の、ライフルと同 おな じ口径 こうけい を持 も つマキシム機関 きかん 銃 じゅう の発注 はっちゅう を命令 めいれい した[8] 。これはマルティニ・ヘンリー銃 じゅう と共用 きょうよう の.577/450 弾薬 だんやく を使用 しよう した。
ワースリーは以前 いぜん アフリカ(アングロ・アシャンティ戦争 せんそう と、1884年 ねん から1885年 ねん にかけて戦 たたか われたゴードン救援 きゅうえん 遠征 えんせい 隊 たい )への軍隊 ぐんたい の遠征 えんせい を主導 しゅどう し、軍 ぐん の改革 かいかく と再建 さいけん の強 つよ い支持 しじ 者 しゃ であるという評判 ひょうばん を得 え ていた。彼 かれ がアフリカで実証 じっしょう を行 おこな ったとき、彼 かれ はそこで機関 きかん 銃 じゅう の使用 しよう を他 た と区別 くべつ し、また他 た の型 かた にはまらない戦術 せんじゅつ を調 しら べるため、エジプトキャメル部隊 ぶたい を設立 せつりつ した。
機関 きかん 銃 じゅう のデザインはヨーロッパのほかの国々 くにぐに のいくつかによって購入 こうにゅう され、兵器 へいき の技術 ぎじゅつ 競争 きょうそう が開始 かいし された。マキシム機関 きかん 銃 じゅう が最初 さいしょ に重要 じゅうよう な任務 にんむ に使用 しよう されたのは日 にち 露 ろ 戦争 せんそう のことである。そこでロシア軍 ぐん は大量 たいりょう のマキシム機関 きかん 銃 じゅう を投入 とうにゅう した。[9]
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん (1914年 ねん から1918年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
赤軍 せきぐん 兵士 へいし とマキシム機関 きかん 銃 じゅう 。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん により、大 だい 多数 たすう の軍 ぐん は改良 かいりょう 型 がた の機関 きかん 銃 じゅう へ移行 いこう した。イギリスのヴィッカース重 じゅう 機関 きかん 銃 じゅう は、改良 かいりょう され再 さい 設計 せっけい されたマキシム機関 きかん 銃 じゅう だった。これはイギリス陸軍 りくぐん に1912年 ねん にもたらされ、1968年 ねん まで運用 うんよう された。生産 せいさん 拠点 きょてん はケント州 しゅう のクレイフォードが占 し め、少数 しょうすう の機関 きかん 銃 じゅう は、そこで製作 せいさく された初期 しょき の複葉 ふくよう 機 き にも搭載 とうさい された。ドイツ陸軍 りくぐん のMG08重 じゅう 機関 きかん 銃 じゅう およびロシア陸軍 りくぐん のPM1910重 じゅう 機関 きかん 銃 じゅう もまた、マキシム機関 きかん 銃 じゅう の多少 たしょう の直接的 ちょくせつてき な影響 えいきょう を受 う けている。
マキシム機関 きかん 銃 じゅう はまた、ロシア内戦 ないせん のあいだに投入 とうにゅう され、これは1917年 ねん に起 お こったロシア革命 かくめい へと続 つづ いた。当時 とうじ の絵画 かいが には、後方 こうほう から迫 せま ろうとする白 しろ 軍 ぐん の連隊 れんたい に発砲 はっぽう するタチャンカ (機関 きかん 銃 じゅう と銃 じゅう 手 しゅ を馬車 ばしゃ に乗 の せ、馬 うま で牽引 けんいん したもの)とマキシム機関 きかん 銃 じゅう を描 えが いたものがある。少数 しょうすう のプロパガンダ用 よう の、社会 しゃかい 主義 しゅぎ リアリズムの芸術 げいじゅつ では機関 きかん 銃 じゅう に配置 はいち された人員 じんいん にレーニン さえも主演 しゅえん させている。しかし実際 じっさい に彼 かれ がそうしたかについて、これはきわめて非 ひ 現実 げんじつ 的 てき である。無 む 政府 せいふ 主義 しゅぎ 者 しゃ は、この牽引 けんいん 型 がた 機関 きかん 銃 じゅう をネストル・マフノ の作 さく であるとしている。
スイスのM94機関 きかん 銃 じゅう 。のちにM10・M11へと発展 はってん した。
イギリス
ヴィッカース重 じゅう 機関 きかん 銃 じゅう 。初期 しょき のマキシム機関 きかん 銃 じゅう は初期 しょき のブリティッシュ軍用 ぐんよう 弾 だん を使用 しよう していたが、ヴィッカースは世界中 せかいじゅう で使用 しよう されている異 こと なった口径 こうけい の実包 じっぽう を、輸出 ゆしゅつ のために可能 かのう な限 かぎ り生産 せいさん した。これには口径 こうけい を12.7mmへ大型 おおがた 化 か したイギリス海軍 かいぐん の艦艇 かんてい 用 よう 弾薬 だんやく が含 ふく まれる。
QF 1ポンド砲 ほう
ドイツ帝国 ていこく
中華民国 ちゅうかみんこく 国民 こくみん 革命 かくめい 軍 ぐん
ロシア帝国 ていこく / ソビエト連邦 れんぽう
フィンランド
スイス
日本 にっぽん
マキシム機関 きかん 銃 じゅう はベルト給 きゅう 弾 だん と三脚 さんきゃく 架 か を広 ひろ く行 い き渡 わた らせた。初期 しょき の機関 きかん 銃 じゅう は通常 つうじょう 、砲兵 ほうへい の小隊 しょうたい のように駄 だ 載 の されており、給 きゅう 弾 だん はホッパーで行 おこな った。
一 いち 挺 てい のマキシム機関 きかん 銃 じゅう の派生 はせい とみなせる銃 じゅう がアルゼンチンで開発 かいはつ された。
登場 とうじょう 作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
Anon, Vickers, Sons and Maxim Limited: Their Works and Manufactures. (Reprinted from 'Engineering') London (1898). It gives plates showing the mechanism of the Vickers Maxim gun and numerous plates showing the variety of mounts available at the end of the nineteenth century. It also includes numerous plates of the factories in which they were made.
Callwell, Colonel C.E. : Small Wars, a Tactical Textbook for Imperial Soldiers . 1990 Greenhill Books, London, Lionel Leventhal Ltd. ISBN 1-85367-071-5 . This is a reprint of the 1906 version.
Ferguson, Niall (2004). Empire . Penguin Books. ISBN 0-14-100754-0
Goldsmith, Dolf F. (1989). The Devil's Paintbrush. Sir Hiram Maxim's Gun . Collector Grade Publications, Toronto. ISBN 0-88935-056-6
McCallum, Iain : Blood Brothers. Hiram and Hudson Maxim : Pioneers of Modern Warfare , Chatham Publishing, London, 1999
Ellis, John : The Social History of the Machine Gun , Pimlico, London, 1976