ウスティカ (イタリア語 ご : Ustica ; シチリア語 ご : Ùstica )は、イタリア共和 きょうわ 国 こく シチリア自治 じち 州 しゅう パレルモ県 けん にある、人口 じんこう 約 やく 1,300人 にん の基礎 きそ 自治体 じちたい (コムーネ )。シチリア島 とう 北方 ほっぽう のティレニア海 うみ に位置 いち するウスティカ島 とう をその領域 りょういき とする。
ウスティカ島 とう はシチリア島 とう の中心 ちゅうしん 都市 とし パレルモ の北 きた 約 やく 70kmに位置 いち する離島 りとう で、政治 せいじ 犯 はん の流刑 りゅうけい 地 ち として利用 りよう された歴史 れきし もある。東方 とうほう に位置 いち するエオリア諸島 しょとう と同様 どうよう に火山 かざん 性 せい の島 しま で、周辺 しゅうへん の海域 かいいき はイタリアで最初 さいしょ に指定 してい された海洋 かいよう 自然 しぜん 保護 ほご 区 く の一 ひと つである。海 うみ や洞窟 どうくつ などその自然 しぜん 景観 けいかん は観光 かんこう 資源 しげん となっており、スキューバダイビング の名所 めいしょ としても知 し られる。パレルモとの間 あいだ にはフェリーの定期 ていき 航路 こうろ が結 むす ばれている。
ティレニア海上 かいじょう のウスティカ島 とう の位置 いち
ウスティカ島 とう (イタリア語 ご : Isola di Ustica )は、シチリア島 とう 北方 ほっぽう のティレニア海 うみ 南部 なんぶ に位置 いち する島 しま である。パレルモ の北 きた 北西 ほくせい 68km、アリクーディ島 とう (エオリア諸島 しょとう 北西 ほくせい 端 はし )の西 にし 104kmに所在 しょざい する[4] 。
島 しま の面積 めんせき は約 やく 8km2 。島 しま の長 なが さは3.5km、幅 はば は2.5kmの楕円 だえん 状 じょう の島 しま で、周囲 しゅうい の海岸 かいがん 線 せん 長 ちょう は12kmである。
東方 とうほう にあるエオリア諸島 しょとう と同様 どうよう に火山 かざん 性 せい の島 しま であり、海底 かいてい 火山 かざん の爆発 ばくはつ によって噴出 ふんしゅつ した溶岩 ようがん でできている。島 しま の中央 ちゅうおう 部 ぶ には Punta Maggiore(244 m)、Guardia dei Turchi(238 m)があり、島 しま を北東 ほくとう 側 がわ と南西 なんせい 側 がわ に分 わ けている。
島 しま の海岸 かいがん は岩場 いわば であり、砂浜 すなはま はない。海岸 かいがん に沿 そ って多 おお くの洞窟 どうくつ (海蝕 かいしょく 洞 ほら )や岩礁 がんしょう がある。代表 だいひょう 的 てき な洞窟 どうくつ としては、緑 みどり の洞窟 どうくつ (grotta Verde)、青 あお の洞窟 どうくつ (grotta Azzurra)、grotta della Pastizza、黄金 おうごん の洞窟 どうくつ (grotta dell'Oro)、grotta delle Colonne などが挙 あ げられる。岩礁 がんしょう としては、島 しま の北西 ほくせい 沖 おき にスコーリョ・デル・メディコ(Scoglio del Medico )、北西 ほくせい 海岸 かいがん 近 ちか くに Scoglio Colombara がある。
ウスティカの主要 しゅよう な集落 しゅうらく と港 みなと は、島 しま の東部 とうぶ に位置 いち する。
最初 さいしょ 期 き の住民 じゅうみん は、エオリア諸島 しょとう から渡 わた ってきたと考 かんが えられている。少 すく なくとも紀元前 きげんぜん 1500年 ねん 頃 ころ からは、フェニキア人 じん が暮 く らすようになった。
ファラリオーニ(Faraglioni)地区 ちく で1989年 ねん に始 はじ まった発掘 はっくつ 調査 ちょうさ により、紀元前 きげんぜん 14世紀 せいき から紀元前 きげんぜん 13世紀 せいき にかけての大 おお きな集落 しゅうらく の遺跡 いせき が見 み つかった。家々 いえいえ は石組 いしぐ みで作 つく られ、集落 しゅうらく は防壁 ぼうへき に囲 かこ まれて要塞 ようさい 化 か されていた。
古代 こだい ギリシャ人 ひと は、この島 しま を「納骨 のうこつ 堂 どう 」を意味 いみ する「オステオーデス」(Οστεώδες / Osteodes )という名 な で呼 よ んだ。これは紀元前 きげんぜん 4世紀 せいき 、カルタゴ に対 たい して反乱 はんらん を起 お こし、この島 しま に配流 はいる されて餓死 がし した数 すう 千 せん 人 にん の人々 ひとびと を記念 きねん するものであった。ローマ人 じん たちは、島 しま の黒 くろ い岩 いわ に因 ちな み、ラテン語 らてんご で「焼 や けたもの」を意味 いみ する言葉 ことば (da ustum )をとって、島 しま を「ウスティカ」(Ustica )と呼 よ んだ。
島 しま からは、古代 こだい のキリスト教徒 きりすときょうと の村 むら も発掘 はっくつ されており、海面 かいめん 下 か に没 ぼっ した墓地 ぼち やトンネルの遺構 いこう も見 み つかっている。多 おお くの沈没 ちんぼつ 船 せん が考古学 こうこがく 的 てき 調査 ちょうさ の対象 たいしょう となっており、フェニキア人 じん 、ギリシャ人 じん 、ローマ人 じん 、カルタゴ人 じん など、地中海 ちちゅうかい を行 い きかった様々 さまざま な民族 みんぞく の痕跡 こんせき を見 み ることができる。島 しま はその後 ご 長 なが らく、イスラム教徒 きょうと (サラセン人 じん )の海賊 かいぞく の拠点 きょてん としても用 もち いられた。
6世紀 せいき には、ベネディクト会 かい の修道 しゅうどう 士 し たちがこの島 しま に移住 いじゅう した。しかし、ヨーロッパ世界 せかい とアラブ世界 せかい との間 あいだ の戦乱 せんらん により、ほどなく修道 しゅうどう 士 し たちは島 しま を離 はな れることを余儀 よぎ なくされた。中世 ちゅうせい を通 とお してこの島 しま への植民 しょくみん が試 こころ みられたが、海賊 かいぞく の跋扈 ばっこ など、周辺 しゅうへん 海域 かいいき の緊迫 きんぱく のために定住 ていじゅう は妨 さまた げられた。
近代 きんだい ・現代 げんだい [ 編集 へんしゅう ]
島 しま への入植 にゅうしょく と米国 べいこく への移民 いみん [ 編集 へんしゅう ]
Torre dello Spalmatore
1759年 ねん 、ブルボン家 か のシチリア王 おう フェルディナンド3世 せい (のちの両 りょう シチリア王 おう フェルディナンド1世 せい )は、島 しま への入植 にゅうしょく を進 すす めた。シチリアの沿岸 えんがん 哨戒 しょうかい 網 もう の一環 いっかん となる2つの望楼 ぼうろう (Torre Santa Maria と Torre Spalmatore)を建設 けんせつ したほか、島 しま の東部 とうぶ のカーラ・サンタ・マリア(Cala Santa Maria)に貯水 ちょすい 施設 しせつ や家屋 かおく を建設 けんせつ し、島 しま の中心 ちゅうしん となる集落 しゅうらく を建設 けんせつ した。入植 にゅうしょく 者 しゃ はパレルモ やトラーパニ 、エオリア諸島 しょとう から集 あつ まり、また100人 にん の兵士 へいし も配置 はいち された。とくに、エオリア諸島 しょとう の主 しゅ 島 しま リーパリ島 とう からは約 やく 90名 めい の住民 じゅうみん が移住 いじゅう した。ウスティカの守護 しゅご 聖人 せいじん は聖 せい バルトロメオ であるが、これはリーパリの守護 しゅご 聖人 せいじん が持 も ち込 こ まれたものである。
19世紀 せいき 末 すえ から20世紀 せいき 初頭 しょとう にかけて、島 しま の人口 じんこう はあまりにも多 おお くなったために、数 すう 百 ひゃく の家族 かぞく がアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に移民 いみん した。彼 かれ らの多 おお くが移 うつ り住 す んだのはニューオーリンズ とその周辺 しゅうへん であった。21世紀 せいき 初頭 しょとう の今日 きょう もニューオーリンズを中心 ちゅうしん としてウスティカ移民 いみん の子孫 しそん が数 すう 千 せん 人 にん 暮 く らしており、ウスティカとの強 つよ い絆 きずな を保 たも っている。そのほか、サンノゼ やサンフランシスコ 、ニューヨーク 、マサチューセッツ州 しゅう などに移民 いみん した人々 ひとびと もいる。
離島 りとう であるウスティカ島 とう は、ブルボン家 か (シチリア王国 おうこく 、両 りょう シチリア王国 おうこく )の統治 とうち 下 か にあった時代 じだい から政治 せいじ 犯 はん の流刑 りゅうけい 地 ち とされた。これはイタリア統一 とういつ 後 ご のイタリア王国 おうこく の下 した でも変 か わらず、ファシスト党 とう 政権 せいけん 期 き にはベニート・ムッソリーニ が政治 せいじ 的 てき 反対 はんたい 者 しゃ をウスティカ島 とう に追放 ついほう した。島 しま を流刑 りゅうけい 地 ち として利用 りよう することは、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の1950年代 ねんだい まで続 つづ いた。
ウスティカ島 とう に送 おく られた政治 せいじ 犯 はん の中 なか で最 もっと も著名 ちょめい な人物 じんぶつ は、イタリア共産党 きょうさんとう 指導 しどう 者 しゃ ・マルクス主義 まるくすしゅぎ 思想家 しそうか のアントニオ・グラムシ である(1926年 ねん の逮捕 たいほ 後 ご しばらく島 しま の刑務所 けいむしょ に収容 しゅうよう された)。このほか、アマデーオ・ボルディーガ (英語 えいご 版 ばん ) (イタリア共産党 きょうさんとう 指導 しどう 者 しゃ )、ネッロ・ロッセッリ (英語 えいご 版 ばん ) (社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ )、フェルッチョ・パッリ (英語 えいご 版 ばん ) (パルチザン活動 かつどう 家 か 、のち首相 しゅしょう )もこの島 しま への流刑 りゅうけい を経験 けいけん している。
ファシスト政権 せいけん 下 か では一 いち 度 ど に1500人 にん もの囚人 しゅうじん (多 おお くは同性愛 どうせいあい 者 しゃ であった)が送 おく り込 こ まれたこともある。1940年代 ねんだい 初頭 しょとう にはユーゴスラビアにおける戦争 せんそう 捕虜 ほりょ が島 しま に詰 つ め込 こ まれたが、彼 かれ らの間 あいだ には栄養失調 えいようしっちょう と結核 けっかく が蔓延 まんえん した。1950年代 ねんだい にはシチリア島 とう のマフィア が島 しま の囚人 しゅうじん となった。
島 しま への流刑 りゅうけい は、1961年 ねん に島民 とうみん の抗議 こうぎ を受 う ける形 かたち で廃止 はいし された。島 しま では以後 いご 観光 かんこう 開発 かいはつ が進 すす められることとなった。
20世紀 せいき 後半 こうはん 以後 いご [ 編集 へんしゅう ]
1980年 ねん 6月27日 にち には、島 しま の近海 きんかい でイタビア航空 こうくう 870便 びん 事件 じけん が発生 はっせい した。イタリアの航空 こうくう 会社 かいしゃ の国内 こくない 便 びん 旅客機 りょかくき (ボローニャ 発 はつ パレルモ 行 い き)が、島 しま の北東 ほくとう 25kmで空中 くうちゅう 爆発 ばくはつ し、乗客 じょうきゃく 乗員 じょういん 81名 めい 全員 ぜんいん が落命 らくめい した事件 じけん である。この事故 じこ ではなんらかの爆発 ばくはつ が発生 はっせい したことが判明 はんめい しているが、その具体 ぐたい 的 てき な原因 げんいん については諸説 しょせつ が唱 とな えられており(テロとも、軍 ぐん による空 そら 対空 たいくう ミサイルの誤 あやま 射 う ともされる)、はっきりしない。この事故 じこ は、島 しま を不幸 ふこう な形 かたち で有名 ゆうめい にしてしまった。
1986年 ねん には、島 しま の周囲 しゅうい の海 うみ が海洋 かいよう 自然 しぜん 保護 ほご 区 く に指定 してい された。トリエステ 近郊 きんこう のミラマーレ海洋 かいよう 自然 しぜん 保護 ほご 区 く (it:Riserva naturale marina di Miramare ) とともに、イタリアで最初 さいしょ に指定 してい された海域 かいいき である。
人口 じんこう 推移 すいい 年 とし 人口 じんこう ±% 1861 2,382 — 1871 1,530 −35.8% 1881 1,793 +17.2% 1901 1,916 +6.9% 1911 1,576 −17.7% 1921 1,195 −24.2% 1931 1,050 −12.1% 1936 1,141 +8.7% 1951 1,249 +9.5% 1961 1,262 +1.0% 1971 1,086 −13.9% 1981 1,150 +5.9% 1991 1,188 +3.3% 2001 1,335 +12.4% 2011 1,287 −3.6%
海 うみ から見 み たウスティカの集落 しゅうらく
島 しま には24時 じ 間 あいだ 対応 たいおう の医療 いりょう サービスが提供 ていきょう されている。島 しま には高気圧 こうきあつ 酸素 さんそ 治療 ちりょう のためのチャンバーが備 そな えられており、緊急 きんきゅう 時 じ にはパレルモの病院 びょういん にヘリコプターで送 おく るための用意 ようい がある。
島 しま にはカラビニエリ (国家 こっか 憲兵 けんぺい )、財務 ざいむ 警察 けいさつ (Guardia di Finanza ) 、自治体 じちたい 警察 けいさつ (polizia municipale)、郵便 ゆうびん 局 きょく 、銀行 ぎんこう 、薬局 やっきょく があり、これらの施設 しせつ は港 みなと 周辺 しゅうへん に集中 しゅうちゅう している。
島 しま における水不足 みずぶそく 問題 もんだい に対応 たいおう するために、0.12立方 りっぽう メートルの海水 かいすい 淡水 たんすい 化 か 装置 そうち が設 もう けられている。
島 しま はスキューバダイビング で知 し られており、多 おお くのダイビングスクールが設立 せつりつ されている。火山 かざん 性 せい の地形 ちけい のために、比較的 ひかくてき 深 ふか い海 うみ にまで潜 くぐ ることができるのが魅力 みりょく である。
この島 しま の娯楽 ごらく は、イタリアでは珍 めずら しくサッカー ではなく野球 やきゅう であり、サッカー場 じょう はなく野球 やきゅう 場 じょう が一 ひと つ存在 そんざい している。通常 つうじょう 、野球 やきゅう の試合 しあい は日曜日 にちようび に行 おこな われ、サッカーの試合 しあい が放送 ほうそう 中 ちゅう でも島民 とうみん はテレビを後 のち に野球 やきゅう 場 じょう へ観戦 かんせん しにくる。観客 かんきゃく 数 すう は1試合 しあい あたり200~300人 にん ほどで、平日 へいじつ の夕方 ゆうがた に行 おこな われる練習 れんしゅう の時 とき も大勢 おおぜい の観客 かんきゃく が見 み に来 く る。
自然 しぜん ・環境 かんきょう [ 編集 へんしゅう ]
ウスティカ島 とう には「ウスティカ島 とう 自然 しぜん 保護 ほご 区 く 」 (it:Riserva naturale orientata Isola di Ustica ) が設定 せってい されており、また周辺 しゅうへん の海 うみ は「ウスティカ島 とう 海洋 かいよう 保護 ほご 区 く 」 (it:Area marina protetta Isola di Ustica ) に設定 せってい されている。
この島 しま は水源 すいげん に恵 めぐ まれず、降水 こうすい も少 すく ないために、植生 しょくせい は乏 とぼ しい。人間 にんげん の活動 かつどう や、人間 にんげん が持 も ち込 こ んだ農作物 のうさくもつ により、島本 しまもと 来 らい の植物 しょくぶつ は大 おお きく損 そこ なわれている。島 しま 本来 ほんらい の植物 しょくぶつ 種 しゅ で特記 とっき すべきは、ヨモギ属 ぞく のオキナヨモギ (Artemisia arborea )、マスチックスノキ (英語 えいご 版 ばん ) (Lentisco)、マメ科 か の Calycotome spinosa 、マメの一 いち 類型 るいけい エニシダ節 ぶし (英語 えいご 版 ばん ) (ginestra)である。オリーブ 、アーモンド 、ブドウ などの果樹 かじゅ も分布 ぶんぷ するが少 すく なく、島 しま には地中海 ちちゅうかい 性 せい 草原 そうげん (it:Prateria mediterranea ) が広 ひろ がっている。
ウスティカ島 とう は、セイヨウミツバチ の一種 いっしゅ Apis mellifera sicula の生息 せいそく 地 ち として知 し られている。
海中 かいちゅう の生態 せいたい 系 けい は熱帯 ねったい 性 せい の特徴 とくちょう を持 も っており、ダイバーの人気 にんき を博 はく することにつながっている。たとえば、サンゴなどの花 はな 虫 ちゅう 綱 つな や、色 いろ 鮮 あざ やかな植物 しょくぶつ 類 るい である。動物 どうぶつ 類 るい は、イセエビ科 か の一種 いっしゅ ヨーロッパイセエビ (英語 えいご 版 ばん ) (aragoste)、ハタ科 か の一種 いっしゅ ダスキーグルーパー (英語 えいご 版 ばん ) (cernie)、キダイ の一種 いっしゅ ヨーロッパキダイ (dentici)、カンパチ (ricciole)、タイ科 か のアフリカチヌ属 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) (saraghi)、ヨーロッパヘダイ (orate)、サバ (sgombri)、カマス の一種 いっしゅ Sphyraena viridensis (barracuda)、ブダイ科 か の Sparisoma cretense (pesci pappagallo)、モンガラカワハギ科 か のネズミモンガラ (pesci balestra)、海綿動物 かいめんどうぶつ のモクヨクカイメン (spugne)などが生息 せいそく する。
ウスティカ港 こう
パレルモとの間 あいだ にはフェリー の定期 ていき 航路 こうろ があり、近代 きんだい 的 てき な双 そう 胴 どう 船 せん や水中翼船 すいちゅうよくせん が就航 しゅうこう している。港 みなと にはさまざまなボートを受 う け容 い れる施設 しせつ が整備 せいび されている。
島 しま を一周 いっしゅう する全長 ぜんちょう 9kmの道路 どうろ がある。島内 とうない の公共 こうきょう 交通 こうつう 機関 きかん として、島 しま を一周 いっしゅう するバスが運行 うんこう されている。
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