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ウラジミール・ペーター・ケッペン (Wladimir Peter Köppen 、1846年 ねん 9月25日 にち - 1940年 ねん 7月 がつ 22日 にち )は、ドイツ とロシア の気象 きしょう 学者 がくしゃ ・気候 きこう 学者 がくしゃ 、また植物 しょくぶつ 学者 がくしゃ である。
ドイツ学派 がくは の気候 きこう 学 がく の大成 たいせい 者 しゃ として著名 ちょめい であり、彼 かれ の考案 こうあん したケッペンの気候 きこう 区分 くぶん は、改良 かいりょう を加 くわ えられながら現在 げんざい も広 ひろ く使 つか われている。名前 なまえ のWladimirのドイツ語 ご 発音 はつおん はヴラディーミア またはヴラーディミア に近 ちか い。ロシア語 ご 名 な はヴラジーミル・ペトローヴィチ・キョーペン (Влади́мир Петро́вич Кёппен )。
ロシアの歴史 れきし 研究 けんきゅう 家 か ペーター・フォン・ケッペン (ドイツ語 ご 版 ばん ) (1793年 ねん - 1864年 ねん ) の子 こ として、帝政 ていせい 時代 じだい のロシア ・サンクトペテルブルクに生 う まれた[1] [2] 。両親 りょうしん ともにドイツ人 じん の家系 かけい である。学生 がくせい 生活 せいかつ はクリミア で送 おく り、ここでケッペンは環境 かんきょう 、特 とく に植生 しょくせい と気候 きこう の関係 かんけい に関心 かんしん を示 しめ し、サンクトペテルブルク大学 さんくとぺてるぶるくだいがく で植物 しょくぶつ 学 がく の研究 けんきゅう を始 はじ め、後 のち にドイツ のハイデルベルク大学 だいがく では植物 しょくぶつ 学 がく を学 まな び[2] 、ライプツィヒ大学 だいがく でも学 まな んで1870年 ねん に卒業 そつぎょう した。学位 がくい をとったのはライプツィヒ大学 だいがく で[2] 、卒業 そつぎょう 論文 ろんぶん では気温 きおん が植物 しょくぶつ の成長 せいちょう に及 およ ぼす影響 えいきょう を扱 あつか った。
1872年 ねん から1873年 ねん までロシア気象 きしょう 局 きょく で働 はたら いていたが、ドイツの科学 かがく 者 しゃ で探検 たんけん 家 か でもあったゲオルク・フォン・ノイマイヤー (英語 えいご 版 ばん ) の誘 さそ いで1875年 ねん にドイツに戻 もど り[3] 、帝国 ていこく 成立 せいりつ 後 ご 、あらたに設置 せっち されたハンブルク のドイツ海洋 かいよう 気象台 きしょうだい (Deutsche Seewarte ) 海上 かいじょう 気象 きしょう 部 ぶ (Seewetterdienstes) 長 ちょう になった[2] [注釈 ちゅうしゃく 1] 。ここでは総 そう 観 かん 気象 きしょう 学 がく をドイツに導入 どうにゅう して、ドイツ北西 ほくせい 部 ぶ に隣接 りんせつ する海上 かいじょう の天気 てんき 予報 よほう を担当 たんとう した。4年間 ねんかん 勤 つと めたあと一 いち 番 ばん 興味 きょうみ のあった基礎 きそ 研究 けんきゅう に移 うつ るため、気象 きしょう 調査 ちょうさ 課長 かちょう に移 うつ り、1919年 ねん に退職 たいしょく するまでそこで気象 きしょう や低 てい 気圧 きあつ の研究 けんきゅう を行 おこな った。気象 きしょう 学 がく 、地球 ちきゅう 物理 ぶつり 学 がく 、生物 せいぶつ 学 がく など多 た 領域 りょういき で活躍 かつやく したが、特 とく に気候 きこう 学 がく の業績 ぎょうせき は著名 ちょめい であり、「近代 きんだい 気候 きこう 学 がく の父 ちち 」とも称 しょう される[2] 。
実験 じっけん 物理 ぶつり 学 がく の進歩 しんぽ と電信 でんしん の発明 はつめい は気象 きしょう の同時 どうじ 観測 かんそく を可能 かのう にしており、ケッペンの生 う まれたころには世界 せかい 各地 かくち に気象 きしょう 観測 かんそく 網 もう が構築 こうちく されていた。1870年代 ねんだい ころには、集積 しゅうせき された観測 かんそく データ の活用 かつよう が可能 かのう となっており、気候 きこう 学 がく も天気 てんき 予報 よほう などを目的 もくてき とする気象 きしょう 学 がく から分化 ぶんか し、発達 はったつ する前提 ぜんてい 条件 じょうけん が整 ととの えられつつあったのである。
低 てい 気圧 きあつ の熱 ねつ 構造 こうぞう に関 かん する研究 けんきゅう [ 編集 へんしゅう ]
1882年 ねん にドイツ海洋 かいよう 気象台 きしょうだい にいたケッペンとドイツの数学 すうがく 者 しゃ メラー(Max Möller)は、スウェーデンの気象 きしょう 学者 がくしゃ ヒルデブランドソン (英語 えいご 版 ばん ) が集 あつ めた高層 こうそう 雲 くも の観測 かんそく 結果 けっか を利用 りよう して、「低 てい 気圧 きあつ が持 も つ熱 ねつ 的 てき に非対称 ひたいしょう な温度 おんど 構造 こうぞう が、イギリスの気象 きしょう 観測 かんそく 者 しゃ レイ(Clement Lay)が指摘 してき した地上 ちじょう と高層 こうそう での低 てい 気圧 きあつ 中心 ちゅうしん のずれによって、低 てい 気圧 きあつ 前面 ぜんめん での暖気 だんき の上昇 じょうしょう と後 こう 面 めん での寒気 さむけ の下降 かこう を引 ひ き起 お こしている」と考 かんが えた[3] 。彼 かれ は層 そう 厚 あつ 的 てき な考 かんが えから、低 てい 気圧 きあつ 内 ない での温度 おんど 分布 ぶんぷ と気圧 きあつ 分布 ぶんぷ を初 はじ めて推定 すいてい して、低 てい 気圧 きあつ の熱 ねつ 的 てき 構造 こうぞう を明 あき らかにした[4] 。
気候 きこう 区分 くぶん の研究 けんきゅう [ 編集 へんしゅう ]
海上 かいじょう 気象 きしょう 部 ぶ を去 さ ったケッペンは、気候 きこう について体系 たいけい 的 てき な勉強 べんきょう をはじめ、気球 ききゅう を使 つか って上空 じょうくう の大気 たいき に関 かん する研究 けんきゅう も行 おこな った。1884年 ねん には、気温 きおん の季 き 節 ぶし 変動 へんどう について記 しる した、最初 さいしょ の気候 きこう 区分 くぶん 地図 ちず を発表 はっぴょう した。これは、1900年 ねん 頃 ころ までには、ケッペンが生涯 しょうがい をかけて改良 かいりょう に尽 つ くした気候 きこう 区分 くぶん システムに発展 はってん する。ケッペンの気候 きこう 区分 くぶん システムとしての完全 かんぜん 版 ばん は1918年 ねん に最初 さいしょ に出版 しゅっぱん され、1936年 ねん にはその最終 さいしゅう 版 ばん が出版 しゅっぱん された。
ケッペンの気候 きこう 区分 くぶん の実用 じつよう 的 てき 性格 せいかく としては、植生 しょくせい とくに高等 こうとう 植物 しょくぶつ と気候 きこう を結 むす びつけた点 てん である。高等 こうとう 植物 しょくぶつ は、移動 いどう 性 せい が低 ひく く、強 つよ い集団 しゅうだん 性 せい をもっており、景観 けいかん に与 あた える影響 えいきょう がきわめて甚大 じんだい である。また、植物 しょくぶつ は生態 せいたい 学 がく 的 てき にみて、生物 せいぶつ 界 かい における有機物 ゆうきぶつ の第 だい 一 いち 次 じ 生産 せいさん 者 しゃ であり、これにより、植物 しょくぶつ を食糧 しょくりょう ないし住 す み処 ところ とする動物 どうぶつ 分布 ぶんぷ も規定 きてい される。人類 じんるい もまた、食糧 しょくりょう 生産 せいさん の多 おお くを植物 しょくぶつ に依存 いぞん しており、農耕 のうこう の歴史 れきし とともに諸 もろ 文明 ぶんめい の歴史 れきし がある。さらに植生 しょくせい は、その厚 あつ みや密度 みつど が土壌 どじょう の形成 けいせい や、場合 ばあい によっては微 ほろ 地形 ちけい にさえも大 おお きな影響 えいきょう を与 あた え、微生物 びせいぶつ の生育 せいいく 環境 かんきょう を左右 さゆう する。こうしたことから、農業 のうぎょう をはじめとする諸 もろ 産業 さんぎょう の各 かく 分野 ぶんや 、人口 じんこう 分布 ぶんぷ をはじめとする社会 しゃかい ・経済 けいざい などの分野 ぶんや 、歴史 れきし 学 がく ・考古学 こうこがく ・人類 じんるい 学 がく ・民俗 みんぞく 学 がく など人文 じんぶん 諸 しょ 科学 かがく の分野 ぶんや でも、ケッペンの気候 きこう 区分 くぶん は広範囲 こうはんい の実用 じつよう に供 きょう することができたのである。
ケッペンは気候 きこう 区分 くぶん システムの考案 こうあん とは別 べつ に古 こ 気象 きしょう 学 がく の分野 ぶんや でも功績 こうせき があった。1924年 ねん には義理 ぎり の息子 むすこ にあたるアルフレート・ヴェーゲナー と『地質 ちしつ 時代 じだい の気候 きこう (Die Klimate der Geologischen Vorzeit )』を発表 はっぴょう し[2] 、ミルティン・ミランコビッチ による氷 こおり 期 き の理論 りろん を強 つよ く支持 しじ した[注釈 ちゅうしゃく 2] 。
晩年 ばんねん にはドイツ人 じん 気候 きこう 学者 がくしゃ ルドルフ・ガイガー (英語 えいご 版 ばん ) と協力 きょうりょく し、5巻 かん の「気候 きこう 学 がく ハンドブック (Handbuch der Klimatologie) 」を執筆 しっぴつ した。5巻 かん が完結 かんけつ することは無 な かったが、ケッペンによる3巻 かん が出版 しゅっぱん された。ケッペンは1940年 ねん にドイツ (現在 げんざい はオーストリア 領 りょう )のグラーツ で没 ぼっ した。ケッペンの死後 しご は、ガイガーがケッペンの気候 きこう 区分 くぶん システムの改良 かいりょう を行 おこな った。
^ この間 あいだ 、1873年 ねん の第 だい 1回 かい 国際 こくさい 気象 きしょう 会議 かいぎ に出席 しゅっせき している[2] 。
^ 『地質 ちしつ 時代 じだい の気候 きこう 』は不朽 ふきゅう の古典 こてん 的 てき 述作 じゅっさく として有名 ゆうめい であると同時 どうじ に、ウェーゲナーがのちに唱 とな えた大陸 たいりく 移動 いどう 説 せつ の形成 けいせい にも著大 ちょだい な影響 えいきょう をあたえたとみられている[2] 。
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