エリック・ハイデン

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エリック・ハイデン
エリック・ハイデン
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
誕生たんじょう (1958-06-14) 1958ねん6月14にち(65さい
出身しゅっしん アメリカ合衆国の旗マディソン
獲得かくとくメダル
男子だんしスピードスケート
オリンピック
きむ 1980 レークプラシッド 500m
きむ 1980 レークプラシッド 1000m
きむ 1980 レークプラシッド 1500m
きむ 1980 レークプラシッド 5000m
きむ 1980 レークプラシッド 10000m
世界せかいオールラウンド選手権せんしゅけん
きむ 1977 ヘーレンフェーン 総合そうごう
きむ 1978 ヨーテボリ 総合そうごう
きむ 1979 オスロ 総合そうごう
ぎん 1980 ヘーレンフェーン 総合そうごう
世界せかいスプリント選手権せんしゅけん
きむ 1977 アルクマール 総合そうごう
きむ 1978 レークプラシッド 総合そうごう
きむ 1979 インツェル 総合そうごう
きむ 1980 ウェストアリス 総合そうごう

エリック・ハイデンEric Arthur Heiden1958ねん6月14にち - )は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくスピードスケート選手せんしゅ自転車じてんしゃ競技きょうぎ選手せんしゅ整形せいけい外科げか

プロフィール[編集へんしゅう]

ウィスコンシンしゅうマディソン出身しゅっしん。ドイツけいアメリカじん

1980ねん地元じもとおこなわれたレークプラシッドオリンピックにおいて男子だんしスピードスケートで500m、1000m、1500m、5000m、10000mの5種目しゅもくすべてできんメダルを獲得かくとく、「パーフェクト・ゴールドメダリスト」とばれた。

またいもうとベス・ハイデン女子じょし3000mにてどう大会たいかいどうメダルを獲得かくとくしている。

スケート引退いんたいウィスコンシン大学だいがく医学部いがくぶ卒業そつぎょう現在げんざい整形せいけい外科げか

完全かんぜん制覇せいはまでのみちのり[編集へんしゅう]

挫折ざせつから無敵むてき存在そんざい[編集へんしゅう]

ハイデンは幼少ようしょうから、スポーツマニアのちちにより様々さまざま競技きょうぎをさせられていた。はじめてスケートリンクにったのは3さいのときだったという。スピードスケートを本格ほんかくてきはじめた高校こうこうときにはすぐに全米ぜんべいでもトップクラスの選手せんしゅとなり、世界せかいジュニアスプリントで2はいった。しかし1976ねんはじめて挑戦ちょうせんしたインスブルックオリンピックでは500、1000mとも入賞にゅうしょうすらたせず、当時とうじスケート大国たいこくであったソ連それんオランダいきおいにはとおおよばなかった。

これをにハイデンは、地元じもとのクラブの女性じょせいコーチダイアン・ホルム札幌さっぽろオリンピックスピードスケート1500mかねメダリスト)にたのんで独自どくじちょうハードな練習れんしゅう徹底的てっていてきおこない、驚異きょういてき肉体にくたいにつけた。ふともものふとさは74センチにたっしていたという。それでも本人ほんにんもコーチも未知みちのトレーニング(オイルをったゆかうえですべる練習れんしゅうやゴムチューブをきつけて遠心えんしんりょくえるひとし)であったため、実際じっさい成功せいこうむすびつくか不安ふあんがあった。またコーチもナショナルチームのコーチではなく、たんなる地元じもとのスケート教室きょうしつのトレーナーだったため、旅費りょひ捻出ねんしゅつできずヨーロッパ遠征えんせいにも同行どうこうできなかった。

しかし、結局けっきょくハイデンは1977ねんから1979ねんまでスプリントオールラウンドりょう世界せかい選手権せんしゅけん連覇れんぱしてまさ無敵むてき存在そんざいとなり、本場ほんばのヨーロッパぜい唖然あぜんとさせることとなった。また、そのトレーニング方法ほうほう今日きょうでは普通ふつうにスピードスケートの選手せんしゅれるポピュラーなものとなったのである。世界せかい記録きろくなん更新こうしんし、万全ばんぜん体制たいせいで1980ねん地元じもとレークプラシッドおこなわれる冬季とうきオリンピックにのぞむこととなる。

1977ねん

史上しじょう唯一ゆいいつ完全かんぜん制覇せいは[編集へんしゅう]

トリノオリンピックでのハイデン

1980ねん冬季とうきオリンピックレークプラシッド大会たいかいは、ハイデンのぜん種目しゅもく制覇せいは世界せかい注目ちゅうもくあつまった。地元じもとアメリカの選手せんしゅであり、21さいというわかさにもかかわらずスピードスケートの頂点ちょうてん君臨くんりんしていたこと、また種目しゅもくあいだにインターバルがじゅうふんれるという日程にっていもあり、ハイデン本人ほんにん完全かんぜん制覇せいは意識いしきしていた。しかし実際じっさいには強力きょうりょくなライバルもおり、容易よういではなかった。

最初さいしょ種目しゅもくは500mだが、これがとく不安ふあんされていた。どうはしソ連それんエフゲニー・クリコフ当時とうじ世界せかい記録きろく保持ほじしゃ、しかもハイデンは不利ふりなアウトスタート[1]だった。さらにわるいことに、ハイデンは最初さいしょのスタートでフライングをおかし、やりなおしとなったスタートでクリコフの先行せんこうゆるしてしまう。クリコフのリードでレースはすすみ、ハイデンのゆめはやくもくだかれてしまうのかとおもわれたとき、クリコフがカーブでおおきくバランスをくずし、そのおかげでハイデンは逆転ぎゃくてんきんメダルを獲得かくとくすることができた。クリコフは猛烈もうれつげでぎんメダルとなったが、ミスがなければまずハイデンをやぶっていたとおもわれる。

つづく5000mはハイデン自身じしん、「体力たいりょくてきにもっともきつい」とっていたレースである。結果けっか僅差きんさあらそいを1びょうせい優勝ゆうしょう、「ラッキーだったよ」とかたった。

インターバルをいた1000mは種目しゅもくちゅう唯一ゆいいつ問題もんだいなく制覇せいはさんかん達成たっせいした。

しかしつづく1500mでは、快調かいちょうすべ余裕よゆうをもって優勝ゆうしょうかとおもわれた矢先やさきの600m付近ふきんおおきくバランスをくずし、転倒てんとうしかけてしまう。それでも強靭きょうじんふとももとボディバランスでなおし、4つきんメダルを獲得かくとく安堵あんどかんからかインタビューでは感想かんそうもとめられての第一声だいいっせいで「ワーオ!」とおどけてせている。

そしてインターバルをいてついに最終さいしゅう種目しゅもく10000mにのぞむことになるが、ここに一番いちばん難関なんかんかまえていた。前日ぜんじつに、ハイデンはアイスホッケーのアメリカたいソ連それん試合しあい観戦かんせんしていた。学生がくせい中心ちゅうしんのぞんだアメリカが、最強さいきょうわれていたソ連それんチームをやぶった試合しあい熱狂ねっきょうし、興奮こうふんのあまりよるなかなかねむれなかったという[2]。おかげでハイデンは翌日よくじつスケート会場かいじょうおくれて到着とうちゃくし、コーチや関係かんけいしゃをやきもきさせた。

そんななかのぞんだ最終さいしゅう種目しゅもく10000mでは、またしても当時とうじ世界せかい記録きろく保持ほじしゃおなぐみすべることになる。その相手あいてソ連それんビクター・ラスキン個人こじん記録きろく以上いじょうに、スケート大国たいこく威信いしんけてハイデンのぜん種目しゅもく制覇せいははばまんとえていた。スタート直後ちょくごからばし、ハイデンのペースをくるわせる作戦さくせんたラスキンにハイデンはおおきくのこされ、精神せいしんてきにかなりのプレッシャーをされることとなった。それでもコーチはかまわずペースをまもつづけるよう冷静れいせい指示しじす。結局けっきょく5000m付近ふきんでラスキンは失速しっそくし、ぎゃくにハイデンの独走どくそうとなった。

しかし最終さいしゅう種目しゅもくだけにこれまでの疲労ひろう蓄積ちくせき並大抵なみたいていではなくしかも寝不足ねぶそくでもあり、プレッシャーをかけられつづけていたハイデンのほうとしても、周回しゅうかいかさねるごとに体力たいりょく限界げんかいちかづき、もはやこしげている状態じょうたいだけでもえられなくなってきたという。最後さいごまさのこりの気力きりょくしぼってのフィニッシュとなった。その結果けっかは、世界せかい記録きろく大幅おおはば更新こうしんしてのきんメダル獲得かくとく空前絶後くうぜんぜつご完全かんぜん制覇せいは達成たっせいし、当時とうじアメリカと冷戦れいせん状態じょうたいにあったソ連それん新聞しんぶんも「記録きろくのこ勝利しょうり」としてハイデンの栄誉えいよをたたえた。

オリンピック[編集へんしゅう]

全米ぜんべい英雄えいゆうとなったハイデンではあるが、五輪ごりんにあっさりとスケート競技きょうぎから引退いんたいし、大学だいがく医学部いがくぶもどることを表明ひょうめいした。殺到さっとうしたコマーシャル出演しゅつえんはなしすべことわり、「自分じぶんきんメダルを金儲かねもうけには利用りようしたくない」とべた。

ところがよく1981ねんいもうとのベスが1980ねん世界せかい選手権せんしゅけん個人こじんロードレース優勝ゆうしょうたした影響えいきょうけ、セブンイレブンと契約けいやくむすんで、自転車じてんしゃ競技きょうぎのプロロードレース選手せんしゅ転身てんしん1985ねん全米ぜんべいプロ自転車じてんしゃ選手権せんしゅけんロードレース(げん フィラデルフィア・インターナショナル・チャンピオンシップ)の初代しょだい優勝ゆうしょうしゃとなった。

よく1986ねん、セブンイレブンチームとしてもはつ参加さんかとなったツール・ド・フランスどうチームの一員いちいんとして参加さんか、しかし、だい18ステージで途中とちゅう棄権きけんした。なお、自転車じてんしゃ競技きょうぎ選手せんしゅとしては1990ねんまで現役げんえきつづけた。

エピソード[編集へんしゅう]

インタビューで、きんメダルをどうしているかとかれたときには「ベッドのしたんでいるよ」「結果けっかたしかにかったけど、そこにいた過程かてい、いかに努力どりょくしたかそしてベストをくしたことがもっと重要じゅうようなんだよ」とべた。

1988ねんぜん種目しゅもく入賞にゅうしょうたした橋本はしもと聖子せいこ1992ねんアルベールビルオリンピックでハイデンからアドバイスをけ、1500mでどうメダルを獲得かくとくした(日本にっぽん女子じょし選手せんしゅはつ冬季とうき五輪ごりんメダル獲得かくとく)。橋本はしもとはハイデンのようなオールラウンド・スケーターをモットーとした。

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 当時とうじの500mはソチオリンピックまでおこなわれたようにイン・アウトを交互こうごすべるルールではなく、たいらあきらオリンピックから復活ふっかつした完全かんぜん一発いっぱつ勝負しょうぶ形式けいしきだった
  2. ^ ディスコでフィーバーしていたというのうわさはデマであると本人ほんにん証言しょうげん[よう出典しゅってん]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]