(Translated by https://www.hiragana.jp/)
エルフリーデ・トレッチェル - Wikipedia コンテンツにスキップ

エルフリーデ・トレッチェル

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
エルフリーデ・トレッチェル
Elfride Trötschel
生誕せいたん (1913-12-22) 1913ねん12月22にち
出身しゅっしん ドイツの旗 ドイツ帝国ていこく ドレスデン
死没しぼつ (1958-06-20) 1958ねん6がつ20日はつか(44さいぼつ
東ドイツの旗 ひがしドイツ ベルリン
学歴がくれき ドレスデン音楽おんがく学校がっこう
ジャンル クラシック音楽おんがく
職業しょくぎょう 声楽せいがくソプラノ
活動かつどう期間きかん 1933-1956

エルフリーデ・トレッチェル(ドイツElfride Trötschel1913ねん12月22にち - 1958ねん6がつ20日はつか)は、ドイツの声楽せいがくソプラノ)。せい日本語にほんご表記ひょうきトレチェルとなっている場合ばあいがあり、一定いっていしない。ナチス政権せいけん時代じだいから戦後せんごにかけて、一瞬いっしゅん閃光せんこうのようなうつくしいかがやきをはなったが、わずか44さいはや逝した。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

エルフリーデ・トレッチェルは、もとリスト弟子でしでオルガン製作せいさくしゃけん音楽おんがく教師きょうしであるアルベルト・トレッチェルのむすめとしてドレスデンまれた。

9さいのときに孤児こじになり、里親さとおやあづけられたが、そこでは育児いくじ放棄ほうきった。彼女かのじょあね結婚式けっこんしきさいには、トレッチェルのしんみだれがられたが、 ドレスデン-コッタの2番目ばんめ家庭かていでのみ、ようやく彼女かのじょはフレンドリーで家族かぞくてきあつかいをけることができた。 彼女かのじょは16さいのときドレスデン音楽おんがく学校がっこう入学にゅうがくし、 ゾフィー・キューナウ=ベルンハルト[1]やドリス・ヴィンクラーとう師事しじし、合唱がっしょうだん歌手かしゅとしての訓練くんれんけた。ヘルデン(英雄えいゆうてきバリトンパウル・シェフラー授業じゅぎょうりょう免除めんじょしてくれた。 シェフラーとわかれたのち、 ヘレン・ユングがトレッチェルのためにウェーバーだん射手しゃしゅ』エンヒェンやくあたえ、彼女かのじょは1934ねん11月13にちはじめてうたった。わずか20さいである。

ドレスデンのコッタ墓地ぼちにあるエルフリーデ・トレッチェルのはか

ゼンパー・オーパー指揮しきしゃ音楽おんがく監督かんとく)のカール・ベームは1934ねんにトレッチェルと契約けいやくし、彼女かのじょは1950ねんまでのあいだ、リリックな役柄やくがらからのちには若々わかわかしくドラマティックな役柄やくがらいたるまで、主要しゅよううたとして活躍かつやくした。1950ねん彼女かのじょザクセン宮廷きゅうてい歌手かしゅ称号しょうごうあたえられた。1936ねん彼女かのじょロンドンフィレンツェにゲスト出演しゅつえんし、国際こくさいてき活躍かつやくをスタートさせ。5ねんにはザルツブルク音楽おんがくさいにも出演しゅつえんしている。1948ねん彼女かのじょヴァルター・フェルゼンシュタインベルリン・コーミッシェ・オーパーとのだい規模きぼなゲスト出演しゅつえん契約けいやくむすんだ。1949ねん以来いらい彼女かのじょオットー・クレンペラーかえ共演きょうえんし、(毒舌どくぜつられる)クレンペラーがトレッチェルを称賛しょうさんしている。「トレッチェルのようにしんがこもって、素朴そぼくで、女性じょせいらしい『少年しょうねん魔法まほう角笛つのぶえ (マーラー)』のうたうソプラノはいない」[2]

1950ねんから1951ねんまで彼女かのじょベルリン国立こくりつ歌劇かげきじょううたった。そこから彼女かのじょ西にしベルリン州立しゅうりつ劇場げきじょうベルリン・ドイツ・オペラ)にうつった。 彼女かのじょ国際こくさいてき活躍かつやくは、エディンバラグラインドボーン音楽おんがくさいウィーンナポリリスボンマルセイユチューリッヒおよんでいる。ドレスデン国立こくりつ歌劇かげきじょうでの最後さいごのゲスト出演しゅつえんは 1953ねん2がつ22にちワーグナーニュルンベルクマイスタージンガー』である。当時とうじ歌劇かげきじょうは、戦後せんごのドレスデンにのこった数少かずすくない大型おおがた施設しせつであるクアハウス・ビューラウであった。彼女かのじょ歌手かしゅ人生じんせいは1933ねんにドレスデンのリンネルシュロスでのリサイタルではじまり、1956ねん12月にクアハウス・ビューラウでの最後さいごのリサイタルでわった。

歌手かしゅとしての芸術げいじゅつ活動かつどうすうおおくの録音ろくおんめくくられた(とドイツ語どいつごばんWikipediaには記載きさいされているが、現在げんざいのこされている音源おんげんはそれほどおおくない。活動かつどう戦中せんちゅうをまたいだことと、はや逝したことによるのであろう)。エルフリーデ・トレッチェルはがんのため、1958ねん6がつ20日はつかにわずか44さいベルリンくなり、ドレスデンのコッタ墓地ぼち埋葬まいそうされた。葬儀そうぎ弔辞ちょうじんだのはヴァルター・フェルゼンシュタインであった[3]

今日きょう、ドレスデンのニッケルン地区ちくにある「エルフリーデ・トレッチェルどおり」は彼女かのじょ記念きねんして名付なづけられている。

評価ひょうか

[編集へんしゅう]

Kutsch / Riemensのグローセス・ゼンガーレクシコン(Großes Sängerlexikon)では「繊細せんさい歌唱かしょうと、音色ねいろかがやき、および広範囲こうはんいにおよぶ舞台ぶたいやコンサートのレパートリーによって」評価ひょうかされているとべている[4]

ディスコグラフィー

[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 音楽おんがく愛好あいこう衝撃しょうげきてきなニュース:エルフリーデ・トレッチェルす」: Berliner Morgenpost、1958ねん6がつ21にち
  • 「エルフリーデ・トレッチェル†。宮廷きゅうてい歌手かしゅは44さいくなった」:Der Kurier(ベルリン)、1958ねん6がつ21にち
  • 「エルフリーデ・トレッチェルの」:Der Tag(ベルリン)、1958ねん6がつ21にち
  • しずかなるぎん。エルフリーデ・トレッチェルの」:Der Tagesspiegel(ベルリン)1958ねん6がつ21にち
  • こええた/エルフリーデ・トレッチェルの」:Telegraf(ベルリン)、1958ねん6がつ21にち
  • ヴェルナー・ボラート:「偉大いだい歌手かしゅとのわかれ / エルフリーデ・トレッチェルの」:ディ・ヴェルト(ベルリン)、1958ねん6がつ21にち
  • ゴットフリート・シュミーデル:「エルフリーデ・トレッチェルは20さいうたはじめた」シリーズ「ドレスデンオペラストーリー」(21)ドレスデン日刊にっかん 1977ねん3がつ
  • ヘルマン・ヴェルナー・フィンケ:「トレッチェルのおも20日はつか あいすべき歌手かしゅ記念きねん」:Sächsische Neueste Nachrichten(ドレスデン)1978ねん6がつ21にち
  • ペーター・ツァッハー :「明星みょうじょう。エルフリーデ・トレッチェルは40ねんまえ今日きょうくなった」:Sächsische Zeitung 1998ねん6がつ19にち
  • ケルスティン・ライッセ:「オペラの生涯しょうがい-エルフリーデ・トレッチェル」:Sächsische Zeitung 1999ねん11月29にち
  • アンドレアス・トレッチェル博士はかせ(エルフリーデ・トレッチェルとヘルマン・ヴェーデキント息子むすこ)、伝記でんきへの追記ついき 2007ねん11月9にち

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]
 Werke von und über - ドイツ国立こくりつ図書館としょかん蔵書ぞうしょ目録もくろくドイツ)より。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ So die Schreibweise in Hesses Musiker-Kalender 1934. Kutsch/Riemens benutzt die Namensform Kuhnau-Bernard、 obwohl kein Zeitungsartikel aus der betreffenden Zeit sie verwendet、 zudem Kutsch/Riemens in Vorauflagen schwere Namensschnitzer aufweist – z. B. ist darin Elfride mit „ie“ geschrieben. Die älteste Schreibweise、 „Kühnau-Bernhard“、 findet sich zum Beispiel im Sächsischen Tageblatt vom 25. Juni 1958 (-el.: „Eine Stimme verklang … Zum Tode von Elfride Trötschel“; identisch in der in Halle erschienenen Liberal-Demokratischen Zeitung) und in der Dresdner Tageszeitung Die Union vom 27. Juni 1958 (Hermann Werner Finke: „Nekrolog auf eine Unvergessene. Persönliche Erinnerungen an Elfride Trötschel“)、 doch dieselben Organe schrieben am 22. bzw. 21. Juni 1978 „Kühne-Bernhard“ (Gottfried Schmiedel: „Elfride Trötschel unvergessen“ bzw. „Im Gedenken an Elfride Trötschel“). Die Schreibweise ohne Umlautpünktchen und Dehnungs-h wird dabei überwiegend von englischsprachigen Datenbanken verwendet. Ohne die Referenz von Kutsch/Riemens wäre das leicht mit den angloamerikanischen Sprachgepflogenheiten zu erklären und folglich abzutun gewesen.
  2. ^ Gottfried Schmiedel: „Im Gedenken an Elfride Trötschel“. In: Die Union、 21. Juni 1978.
  3. ^ エルフリーデ・トレッチェル/歌曲かきょくリサイタルしゅう レーヴライン、ギーゼン、ラウハイゼン、(2CD)”. HMV. 2020ねん7がつ4にち閲覧えつらん
  4. ^ Karl-Josef KutschLeo Riemens: Großes Sängerlexikon. 4.、 erweiterte und aktualisierte Auflage. Band 7: Suvanny – Zysset、 Anhang. Saur、 München 2003、 ISBN 3-598-11598-9、 S. 4768.