エロ劇画げきが

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エロ劇画げきが(エロげきがし)は、成人せいじん漫画まんが(いわゆる「エロ漫画まんが」)の一種いっしゅである「エロ劇画げきが」を中心ちゅうしん掲載けいさいする雑誌ざっしのことである。2010年代ねんだいまではコンビニやスタンドにられている代表だいひょうてきエロほんの1つであった。官能かんのう劇画げきが三流さんりゅう劇画げきがともいう。

概説がいせつ[編集へんしゅう]

成人せいじん男性だんせいたいして性的せいてき興奮こうふん喚起かんきすべく、ポルノグラフィ要素ようそ前面ぜんめんした漫画まんが(いわゆる「エロ漫画まんが」)を中心ちゅうしん掲載けいさいする雑誌ざっしである。体裁ていさいとしては「成人せいじんけマンガ雑誌ざっし」であり、ほとんどはA4ちゅうていじ。しゅたる内容ないよう漫画まんがで、その画風がふうはあくまでも劇画げきがである。普通ふつう表紙ひょうしうしろにヌードグラビアがはいる。また、巻末かんまつギャグマンガはいるケースもおおい。

劇画げきが」は、1960年代ねんだいから1970年代ねんだいにかけては若者わかもの最先端さいせんたんのムーブメントであり、「エロ劇画げきが」が誕生たんじょうした1970年代ねんだい前半ぜんはんにはえがしゅも10代後半こうはんから20だいにかけての若者わかものおおかった。とりわけ「エロ劇画げきが」は、内容ないよう劇画げきが調ちょうでエロがふくまれていればなんでもよく、ある意味いみでは間口まぐちひろかったことから、わか漫画まんがによるあたらしい感覚かんかく作品さくひん多数たすう発表はっぴょうされ、1970年代ねんだい後半こうはんには「エロ劇画げきがブーム」をした。基本きほんてきには低俗ていぞくなものとなされており、「三流さんりゅう劇画げきが」の異名いみょうったが、ここから巣立すだって一般いっぱん活躍かつやくした漫画まんがすくなくない。あるいは、のち作家さっか映画えいが監督かんとくなど分野ぶんやのクリエーターとして活躍かつやくしたものもいる。

ブームの最盛さいせいである1970年代ねんだいまつから1980年代ねんだい初頭しょとうにかけては、乱立らんりつしたエロ劇画げきが紙面しめんめるためにエロくない漫画まんが掲載けいさいされたが、そこにじって「一流いちりゅう劇画げきが」では評価ひょうかされない作家さっかせいつよ漫画まんが作品さくひん多数たすう掲載けいさいされ、「漫画まんがニューウェーブ運動うんどう」の一翼いちよくになった。

また、この雑誌ざっしにはかならず、エロ要素ようそふくまないよんコマ漫画まんがひとしのショートギャグマンガが掲載けいさいされており、ここを舞台ぶたい活躍かつやくし、あるいは一般いっぱん巣立すだったものもいる(蛭子えびす能収よしかずいがらしみきおひとし)。

ジャンルの全盛期ぜんせいきは1970 - 1980年代ねんだいであったが、1980年代ねんだい初頭しょとうの「ロリコン漫画まんがブーム」にされるかたちで、若者わかものけの最先端さいせんたんメディアとしての地位ちいゆずることになる。1990年代ねんだい以降いこう中高年ちゅうこうねん以上いじょう世代せだいけのてメディアにしたことから、漫画まんがにおいて特筆とくひつされる作品さくひん存在そんざいせず、まともな論考ろんこうすくない。読者どくしゃそう高齢こうれいにより、2000年代ねんだい以降いこう衰退すいたいしており、2020年代ねんだい以降いこう読者どくしゃ寿命じゅみょうにより、きわめて少数しょうすうとなっている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

前史ぜんし[編集へんしゅう]

「おとな漫画まんが」の誕生たんじょう(1950年代ねんだい後半こうはん[編集へんしゅう]

1960年代ねんだいまで、大人おとなけの漫画まんが子供こどもけの漫画まんが明確めいかくにジャンルけされていた。当時とうじ大人おとなけの漫画まんが」とされたのは、戦前せんぜん漫画まんが集団しゅうだん系譜けいふ古典こてんてきな1コマ漫画まんがで、漫画まんがにおいては「おとな漫画まんが大人おとな漫画まんが)」とばれる。(一方いっぽう子供こどもけの漫画まんがは「こども漫画まんが」とばれ、これが現代げんだいまでつづ漫画まんが本流ほんりゅうとなっている)

「おとな漫画まんが」は、大人おとなけの総合そうごう新聞しんぶんなどに掲載けいさいされていたが、1950年代ねんだい後半こうはんの「週刊しゅうかんブーム」にり、「おとな漫画まんが」だけを掲載けいさいした雑誌ざっし創刊そうかんラッシュとなる。主要しゅよう雑誌ざっしとしては、『土曜どよう漫画まんが』(土曜どよう漫画まんがしゃ、1956ねん創刊そうかん)『週刊しゅうかん漫画まんがTIMES』(芳文社ほうぶんしゃ、1956ねん創刊そうかん通称つうしょうしゅう漫』)などがある。「おとな漫画まんが」とっても、大人おとなむための雑誌ざっしなので、新聞しんぶん掲載けいさいされるような高尚こうしょうなものではない。文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃ正統せいとう「おとな漫画まんが雑誌ざっしである『漫画まんが読本とくほん』(1954ねん創刊そうかん)でも普通ふつうにおっぱいがてきた。

文春ぶんしゅんほこる『漫画まんが読本とくほん』は別格べっかくとして、1950年代ねんだい後半こうはん当時とうじの「おとな漫画まんが」は、「おとな漫画まんが」を主体しゅたいとしつつ、実話じつわ記事きじ、エログラビアなどで構成こうせいされる低俗ていぞく雑誌ざっしで、当時とうじこの雑誌ざっし調査ちょうさたっていた内閣ないかく官房かんぼう内閣ないかく調査ちょうさしつ分類ぶんるいでは「だい官能かんのう娯楽ごらく」に分類ぶんるいされる[1]。『アサヒ芸能げいのう』や『週刊しゅうかん大衆たいしゅう』のような当時とうじ一流いちりゅう低俗ていぞく雑誌ざっしだいいち官能かんのう娯楽ごらく)とはちがい、一応いちおうじゅん週刊しゅうかん体裁ていさいととのえているだけで、終戦しゅうせん直後ちょくごカストリ雑誌ざっし延長線えんちょうせんじょうにあり、いつつぶれてもおかしくない「泡沫うたかた」のような雑誌ざっしだと1959ねん当時とうじうち調ちょうかんがえていた。『土曜どよう漫画まんが』1963ねん4がつ26にちごう発禁はっきんらうなど、「わいせつぶつ」としてたびたび規制きせいらった(もっとも、当時とうじ規制きせいきびしく、当時とうじさん大中おおなかあいだの『週刊しゅうかん新潮しんちょう』あたりも普通ふつう有害ゆうがい指定していらっている)。1959ねん当時とうじ、この二流にりゅう低俗ていぞく雑誌ざっし最大手さいおおてであった『しゅう漫』は25まん発行はっこう部数ぶすうがあった。

1950年代ねんだい創刊そうかんされたゴミのような泡沫うたかた漫画まんが雑誌ざっしのうち、『しゅう漫』はのこった。『週刊しゅうかん漫画まんがTIMES』(通称つうしょうしゅう』)、『週刊しゅうかん漫画まんがサンデー』(実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ、1959ねん創刊そうかん通称つうしょうマンサン』)、『漫画まんが娯楽ごらく読本とくほん』(日本文芸社にほんぶんげいしゃ、1964ねん創刊そうかん通称つうしょうゴラク』)が、1960年代ねんだい当時とうじの3だい「おとな漫画まんが雑誌ざっし」である。『漫画まんが娯楽ごらく読本とくほん』は、そのとおり『漫画まんが読本とくほん』の亜流ありゅう雑誌ざっしで、実力じつりょく漫画まんがそろえつつも成人せいじん男性だんせいけ「娯楽ごらく」として創刊そうかん当時とうじから「おんな」「ギャンブル」「ゼニ」「キンタマ」「SEX」などを前面ぜんめんした「娯楽ごらく記事きじ大量たいりょうってる下品げひん雑誌ざっしだった(そのためか、当時とうじのマンサン編集へんしゅうちょうみねとう正行まさゆき手塚てづか治虫おさむじくとして大人おとな漫画まんが時代じだいかえった著書ちょしょ回想かいそう わたし手塚てづか治虫おさむ』では、『文春ぶんしゅん漫画まんが読本とくほん』『漫画まんが読売よみうり』『しゅう漫』『マンサン』がげられ、『ゴラク』は無視むしされているが、「おとな漫画まんが」の退潮たいちょうともない『文春ぶんしゅん漫画まんが読本とくほん』は早期そうき廃刊はいかんし、現実げんじつ戦後せんご漫画まんが背負せおうのは『ゴラク』のほうである)。

これらの「おとな漫画まんが」が想定そうていした読者どくしゃそうは、『しゅう漫』のキャッチコピー「いち週間しゅうかんをユカイにきる!」にはしてきあらわれているように、いち週間しゅうかん単位たんい生活せいかつしてつき単位たんい給料きゅうりょうをもらう、俸給ほうきゅう生活せいかつしゃサラリーマン)である。それなりの教養きょうようがあり、社会しゃかいてき地位ちいもあった。したがって「おとな漫画まんが」は、毎号まいごうミサイルみたいなおっぱいがてくる下品げひんな「お色気いろけ漫画まんが」がっている低俗ていぞく雑誌ざっしっても、ある程度ていど格式かくしきがあり、漫画まんがむにもある程度ていど教養きょうよう要求ようきゅうされた。また、執筆しっぴつする漫画まんがも、新聞しんぶん・テレビなどだいマスコミでも活躍かつやくするひとおおかったことから、社会しゃかいてき地位ちいたかく、プライドもたかかった。

時代じだい高度こうど成長せいちょうかり、サラリーマンが戦後せんご大衆たいしゅう主流しゅりゅうとなりつつあったが、一方いっぽうでそのらしの労働ろうどうしゃ社会しゃかい底辺ていへんでもがいていた。労働ろうどうしゃ学生がくせい、これが「エロ劇画げきが」を直接ちょくせつ母体ぼたいとなった貸本かしほん劇画げきが消費しょうひそうである。読者どくしゃそう社会しゃかいてき地位ちいひくく、かれらが貸本かしほん劇画げきが社会しゃかいてき評価ひょうかひくく、執筆しっぴつする漫画まんが社会しゃかいてき地位ちいひくかった。

青年せいねん劇画げきが」の誕生たんじょう(1960年代ねんだい後半こうはん[編集へんしゅう]

劇画げきがそのものの歴史れきしは1950年代ねんだい後半こうはんかし本屋ほんや漫画まんが貸本かしほん漫画まんが)にはじまる。ディフォルメされた画風がふう作風さくふうの「漫画まんが」にたいして、よりリアルで映画えいがてき描写びょうしゃもとめる当時とうじ若者わかもののニーズにこたえたものである。当初とうしょはそれほどエロチックなものはなかったが、1960年代ねんだいには「劇画げきが」の表現ひょうげん技法ぎほう発達はったつにより肉体にくたい強調きょうちょうした作品さくひんはじめる。

1960年代ねんだい後半こうはんには「劇画げきがブーム」がき、『漫画まんがアクション』(双葉社ふたばしゃ、1967ねん創刊そうかん)、『ヤングコミック』(少年画報社しょうねんがほうしゃ、1967ねん創刊そうかん)、『ビッグコミック』(小学館しょうがくかん、1968ねん創刊そうかん)に代表だいひょうされる「青年せいねん劇画げきが」の創刊そうかんラッシュとなった。エロい表紙ひょうしものおおく、とくに『漫画まんがアクション』の表紙ひょうし担当たんとうしたモンキー・パンチはかなりエロかった。

劇画げきが人気にんきとおとな漫画まんが退潮たいちょうけ、前述ぜんじゅつの「おとな漫画まんが」にも劇画げきがはじめる。たとえば前述ぜんじゅつの『漫画まんが娯楽ごらく読本とくほん』は、不調ふちょうのため劇画げきが志向しこうし『漫画まんがゴラクdokuhon』(1968ねん)にめい変更へんこう。やはり『漫画まんがアクション』を手本てほんとしたようで、同年どうねんより連載れんさい開始かいしした松本まつもとれいのエロSF漫画まんがセクサロイド』がたり、大人おとな漫画まんがなんほん掲載けいさいされているものの、完全かんぜん劇画げきががメインとなった。当時とうじの『ゴラク』の表紙ひょうし担当たんとうした松本まつもとれいは、おっぱいがモロで非常ひじょうにエロかった。ただし、松本まつもとれいおおきな影響えいきょうおよぼしたのはエロ劇画げきがの「つぎ」の世代せだいであり、この時期じきの『ゴラク』でエロ劇画げきがてき重要じゅうよう作家さっか歌川うたがわ大雅たいが笠間かさましろうほうである。歌川うたがわ大雅たいがは1950年代ねんだいには「おか友彦ともひこ」の物語ものがたりやイラストをえがいていたが、1960年代ねんだいになると「歌川うたがわ大雅たいが」を名乗なのって青年せいねん劇画げきが実話じつわなど様々さまざまなメディアでいかがわしい漫画まんがやイラストをえがいていた(いちみねだい桑田くわた次郎じろう師匠ししょうとしてもられている)。歌川うたがわ大雅たいがは「劇画げきが」というジャンルが確立かくりつする以前いぜん物語ものがたり劇画げきが漫画まんがとの区別くべつ不明瞭ふめいりょう時代じだい)からエロ漫画まんがてきなものをえがき、当時とうじのエロ劇画げきがてき表現ひょうげんはほとんどかれ一人ひとりによって展開てんかいされていたことから、エロ漫画まんが史家しか米沢よねざわ嘉博よしひろは、歌川うたがわ大雅たいがこそが「エロ劇画げきがおおいなるルーツ」だとみなしている[2]

なお、ハイティーン以上いじょう青年せいねんが「劇画げきが」をんでいたのにたいし、ローティーン以下いか少年しょうねんは「こども漫画まんが」をんでいた。当然とうぜんながらエロい漫画まんが人気にんき集中しゅうちゅうした。これは当時とうじ「ハレンチ漫画まんが」とばれたジャンルである。とくに『週刊しゅうかん少年しょうねんジャンプ』(集英社しゅうえいしゃ)に連載れんさいされた永井豪ながいごうハレンチ学園がくえん』(1968ねん-)の人気にんき絶大ぜつだいで、1970ねんには「ハレンチ漫画まんが追放ついほう運動うんどう」がおこるほどだった。

「エロ実話じつわ」の誕生たんじょう(1960年代ねんだい[編集へんしゅう]

1950年代ねんだいより以前いぜん週刊しゅうかん発行はっこうできる体力たいりょくがあるのは新聞しんぶんしゃだけだとかんがえられていたが、新潮社しんちょうしゃが1956ねん創刊そうかんした『週刊しゅうかん新潮しんちょう』はだい成功せいこうおさめ、出版しゅっぱんしゃにも週刊しゅうかん発行はっこうできると証明しょうめいされた。これをみた出版しゅっぱんしゃが1950年代ねんだい後半こうはんから1960年代ねんだいにかけて次々つぎつぎ週刊しゅうかん創刊そうかんし、週刊しゅうかんブームとなった。

新潮社しんちょうしゃとは比較ひかくにならない中小ちゅうしょう出版しゅっぱんしゃした週刊しゅうかんというと、大概たいがい戦後せんごのカストリ雑誌ざっしながれをむ「実話じつわものてきなものが主体しゅたいで、「実話じつわ」とっても全部ぜんぶでたらめのエロ雑誌ざっしである(いわゆる「実話じつわ」)。しかし、これまでのカストリ雑誌ざっしのエロほん月刊げっかん総合そうごうのフォーマットをっていたのにたいし、週刊しゅうかんブーム以降いこうのエロほん週刊しゅうかんのフォーマットをるようになったのがであった。編集へんしゅう方針ほうしん週刊しゅうかんのそれにじゅんじたものになる。

1960年代ねんだいなかばにはオフセット印刷いんさつ普及ふきゅうともない、中身なかみにエログラビア写真しゃしん増加ぞうか[3]過当かとう競争きょうそうともない、表紙ひょうし次第しだい過激かげきした。

このような実話じつわには、でたらめの実話じつわ記事きじじっていくつか艶笑えんしょうてき大人おとな漫画まんが掲載けいさいされていた。いわゆる「色気いろけ漫画まんが」で、そのほとんどはたんなる紙面しめん穴埋あなうめのゴミみたいな漫画まんがであったが、劇画げきがブームをた1970年代ねんだいはいると劇画げきが劇画げきが調ちょうイラストもはじめる。実話じつわ低俗ていぞく記事きじをそのまま劇画げきがにしたような作品さくひんおもだった。時代じだい青年せいねん劇画げきがブームなので、実話じつわからの派生はせいとして、そのような劇画げきがだけをあつめた雑誌ざっし多数たすう創刊そうかんされたが、ゴミみたいな劇画げきがあつめて雑誌ざっしにしても、一流いちりゅう青年せいねん劇画げきがのように読者どくしゃのハートをつかむことはできず、ほとんどは1ねんもたずにすぐに廃刊はいかんになった。そんなゴミみたいな雑誌ざっしひとつが、KKベストセラーズから1973ねん3がつ創刊そうかんされた『漫画まんがベストセラー』であった。『漫画まんがベストセラー』は不振ふしんともない、1974ねん3がつより『漫画まんがエロトピア』へと改題かいだいリニューアルし、エロ劇画げきが歴史れきしがここからはじまる。

「お色気いろけ漫画まんが」の衰退すいたいと「エロ劇画げきが」の隆盛りゅうせい(1960年代ねんだいまつ-1970年代ねんだい初頭しょとう[編集へんしゅう]

「お色気いろけ漫画まんが」(「ピンク漫画まんが」「艶笑えんしょう漫画まんが」とも)とは、「おとな漫画まんが」のサブジャンルのひとつで、小島こじまいさお富永とみなが一朗いちろうなどが代表だいひょうてきなクリエーターである。1950年代ねんだい後半こうはん最大手さいおおて官能かんのう娯楽ごらく」である『アサヒ芸能げいのう』に連載れんさいされた、小島こじまいさお仙人せんにん部落ぶらく』(1956ねん-)などは、そのエロさから1963ねんには日本にっぽんはつ深夜しんやアニメもされるだいヒットさくとなったが、画風がふうはやはり「大人おとな漫画まんが」だった。当時とうじの「大人おとな漫画まんが」の代表だいひょうてきクリエーターである横山よこやま泰三たいぞうは、カストリ雑誌ざっし『ホープ』(実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ)1950ねん8がつごう掲載けいさいされた、皇居こうきょぜん広場ひろばでアオカンにきょうじる人々ひとびと姿すがたえがいた『うわさ皇居こうきょぜん広場ひろば』(1950ねん)が「わいせつ」として戦後せんご漫画まんが史上しじょうはつ発禁はっきんらっているが、画風がふうはやはり「大人おとな漫画まんが」であり、アレをリアルにえがいたハードなものではなかった。1960年代ねんだいまでは、このような漫画まんがが、分別ふんべつのあるいい大人おとな一般いっぱんてきな「エロ漫画まんが」とされていた。

しかし1960年代ねんだい後半こうはんに「劇画げきがブーム」がき、「劇画げきが」が「おとな漫画まんが」と「こども漫画まんが」のあいだめるかたちで、境目さかいめ曖昧あいまいになりつつあった。当時とうじの「劇画げきが」の読者どくしゃであった「青年せいねんそう大人おとなになっても「大人おとな漫画まんが」なんかまず、普通ふつうにそのまま「劇画げきが」をんでいた。なんせ「劇画げきが」はリアルでエロかった。

官能かんのうせいつよ劇画げきがを、あるいはえがしゅとして支持しじしたのは、当時とうじの「青年せいねん」で、読者どくしゃそうとく高校生こうこうせい浪人ろうにんせいおおかったという[4](なお、ここでう「青年せいねん」とは一般いっぱん名詞めいしではなく、戦後せんご漫画まんがにおける「用語ようご」である。平成へいせい時代じだい以降いこう一般いっぱんてきに『ヤングマガジン』あたりを「青年せいねん」とんでいるのでややこしくなっているが、1970年代ねんだいから1980年代ねんだいまでは、おとな漫画まんが延長えんちょうとして創刊そうかんされた「大人おとな漫画まんが」と、貸本かしほん劇画げきが延長えんちょうとして創刊そうかんされた「青年せいねん」と、こども漫画まんが延長えんちょうとして創刊そうかんされた「ヤング」の区分くぶん自明じめいのものとして存在そんざいする。2020年代ねんだい現在げんざい、「青年せいねん」の代表だいひょうである『ビッグコミック』の読者どくしゃそうが60だいえているように、時代じだいくだるごとに「青年せいねん」の年齢ねんれいはそのままがるので注意ちゅうい)。1970ねんごろまで漫画まんがかい頂点ちょうてんにいた漫画まんが職能しょくのう集団しゅうだん漫画まんが集団しゅうだん」の幹部かんぶとして、当時とうじもっと権威けんいのある漫画まんがしょうだった文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう漫画まんがしょう選考せんこう委員いいんつとめていた横山よこやま泰三たいぞうは、1970年度ねんど文春ぶんしゅん漫画まんがしょう選者せんじゃ講評こうひょうにおいて、「いまはエロ、劇画げきが全盛ぜんせいで、もろくにえがけないやからが、最低さいてい漫画まんがブームをつくっている。それがわかいやつに人気にんきがあるというのだから、わしのようなロオトルはもうだまっているしかない」と激怒げきどした。ちなみに横山よこやまは、いずれ「本物ほんもの漫画まんが」「いちまいものの高級こうきゅう漫画まんが」の復権ふっけんるとかたったが、結局けっきょく大人おとな漫画まんが」というジャンルは「劇画げきがブーム」にされるかたちで、この新興しんこうのムーブメントに「大人おとな漫画まんが」としての地位ちいゆずり、えがしゅ寿命じゅみょうとともにそのまま衰退すいたいして消滅しょうめつした。

オルタナけい漫画まんが影響えいきょう[編集へんしゅう]

劇画げきが官能かんのうふくむようになったのは、1960年代ねんだい以降いこうむしプロ商事しょうじ発行はっこう漫画まんが雑誌ざっしCOM』(1967ねん-1973ねん)などで、漫画まんが私小説ししょうせつてきいろびてきた時期じきはしはっするというせつがある。漫画まんが/劇画げきがが「せい」をえがけるようになった。そして当時とうじはそのような「実験じっけんてき」な劇画げきが発表はっぴょうするというと『ガロ』か『COM』くらいしかなかったのである。エロ漫画まんが史家しか米沢よねざわ嘉博よしひろによると、1970ねん当時とうじ、(「こども漫画まんが」の王道おうどうである)手塚てづか治虫おさむけい少年しょうねん漫画まんがや、(「劇画げきが」の王道おうどうである)さいとう・たかをけい劇画げきがによる女体にょたい表現ひょうげんは、あくまでストーリーをかたるための記号きごうてき表現ひょうげんにすぎず、むしろ「エロス」をえがたのは傍流ぼうりゅうけい漫画まんがであるという[5]。エロス表現ひょうげんすぐれた傍流ぼうりゅうけい現代げんだい漫画まんが研究けんきゅうにおいては一般いっぱんに「オルタナティヴ・コミック」としょうされる。通称つうしょう「オルタナけい」)の漫画まんがであるみやたに一彦かずひこ青柳あおやぎ裕介ゆうすけ真崎まさきまもるらをメジャーげるかたちで、青年せいねん劇画げきがのエロス表現ひょうげん発展はってんしていく。とくに『COM』でデビューしたのちに『ヤングコミック』にげられたみやたに一彦かずひこ作品さくひんなどは、代表だいひょうさくの『肉弾にくだん時代じだい』(1976ねんより『ヤングコミック』連載れんさい)からって「肉弾にくだん劇画げきが」とばれるほど、非常ひじょう肉感的にっかんてきであった。のちにエロ劇画げきが全盛期ぜんせいき代表だいひょうするエロ劇画げきがとなるさかきまさるは、当時とうじ宮谷みやたに一彦かずひこのアシスタントをしており、また中島なかじま史雄ふみおふくしま政美まさみは『COM』読者どくしゃ投稿とうこうコーナーを担当たんとうしていた「とうげあかね」(真崎まさきまもる筆名ひつめい)のアシスタントをしていたなど、エロ劇画げきが黎明れいめいには1960年代ねんだいまつのオルタナけい漫画まんが雑誌ざっし影響えいきょうかげ存在そんざいする。

『ガロ』や『COM』などのメジャーなオルタナけい漫画まんが発表はっぴょうされた、後世こうせい漫画まんが史家しかにも評価ひょうかたか作品さくひんだけでなく、劇画げきが実話じつわ混在こんざいしたさい底辺ていへん官能かんのう娯楽ごらく雑誌ざっし発表はっぴょうされた無名むめいのゴミみたいな作品さくひんにも、それはそれで、記号きごうてき表現ひょうげんしたメジャー作品さくひんにはない「エロス」があった。

上記じょうきの「青年せいねん劇画げきが」「エロけい実話じつわ」「大人おとな漫画まんが」のながれが合流ごうりゅうし、エロ劇画げきがをメインとして雑誌ざっしつくられるようになったのがエロ劇画げきが起源きげんである[6]

「エロ劇画げきが」ブーム(1970年代ねんだい[編集へんしゅう]

「エロ劇画げきが」の乱立らんりつ(1970年代ねんだいなかごろ)[編集へんしゅう]

1973ねん昭和しょうわ48ねん)に一般いっぱん劇画げきがとして創刊そうかんされた『漫画まんがベストセラー』が、1974ねん1がつ3・17にち合併がっぺいごうをもってリニューアルし、『漫画まんがエロトピア』と改題かいだい沢田さわだ竜治りゅうじ篠原しのはらとおるなどの「劇画げきが」に、こう信太郎しんたろう谷岡たにおかヤスジなどの「ギャグエロトピア(おとな漫画まんが)」で構成こうせいされる、リニューアル当初とうしょ構成こうせいだけると一般いっぱん青年せいねん劇画げきがとそれほどわらなかった。めい印象いんしょうほどかならずしもエロにぜんりしていたわけではなく、また一般いっぱん青年せいねん劇画げきが相応そうおうにエロにっていた時期じきであった。そのため、史上しじょうはつの「エロ劇画げきが」がなにかということにかんしては議論ぎろん余地よちがあるが、『漫画まんがエロトピア』はリニューアル創刊そうかん当初とうしょより多数たすうのヒットさくめぐまれ、当時とうじの「エロ劇画げきが」の代表だいひょうとしておおきなげがあったこと、「エロ劇画げきが」のフォーマットを確立かくりつして多数たすうのフォロワーをんだこと、そしてなにより『エロトピア』というタイトルから、『漫画まんがエロトピア』こそが最初さいしょ官能かんのう劇画げきがとされる。

漫画まんがエロトピア』は、1974ねん2がつより原作げんさく滝沢たきざわかい/作画さくがふくしま政美まさみの『女犯にょぼんぼう』が連載れんさい。さらに、1975ねんより原作げんさく岡崎おかざき英生ひでお/作画さくが上村うえむら一夫かずおの『あくはな』が連載れんさい。この2さくは、ともに読者どくしゃ強烈きょうれつなインパクトをあたえ、『漫画まんがエロトピア』創刊そうかん当初とうしょ看板かんばん作品さくひんとなり、げを牽引けんいんした。どう時期じきほかのエロ劇画げきがりがメインだったのにたいし、『エロトピア』はつき2かいかんということもあり、連載れんさい漫画まんが重視じゅうししていたことが特徴とくちょうである。

漫画まんがエロトピア』のヒットをけ、競合きょうごうする劇画げきが劇画げきがハスラー』(東京とうきょうさんせいしゃ)がこれに追随ついずい、1975ねんには石井いしいたかしパイソン357』を看板かんばんえた。さらに、おなじコンセプトのフォロワー次々つぎつぎ創刊そうかんされた。『漫画まんがエロジェニカ』(1974ねん創刊そうかんうみしおしゃ)、『漫画まんがだい快楽かいらく』(1974ねん創刊そうかん檸檬レモンしゃ)、『漫画まんがダイナマイト』(1974ねん創刊そうかん辰巳たつみ出版しゅっぱん)など、その2-3ねんのうちに創刊そうかんされた雑誌ざっしかずゆうに20えた。

漫画まんがエロトピア』は1975ねんより横山よこやまあきらによるエアブラシ表紙ひょうし起用きようさかきまさるをメイン作家さっかえ、一気いっきにおしゃれな雰囲気ふんいきになって60まんまでげががった。これをてエロ劇画げきが参入さんにゅうする会社かいしゃがさらにえた。エアブラシでえがかれたどぎつい表紙ひょうし巻頭かんとうにグラビアのヌード、「なまなまごう」「ぺろぺろごう」のようなオノマトペを使つかった下品げひんなアオリぶんなど、『漫画まんがエロトピア』が次第しだいにエロ劇画げきがのフォーマットを確立かくりつし、他誌たしもそれに追随ついずいした。1977ねんがブームのピークで、発売はつばいされる雑誌ざっしつきに100えた。

当時とうじ連載れんさい漫画まんが単行たんこうほんにする慣習かんしゅう一般いっぱんですら定着ていちゃくしておらず、ましてエロ劇画げきがった漫画まんがなど単行本たんこうぼんされることは期待きたいできなかった。そのため、雑誌ざっしれた。さかきまさるや石井いしいたかしなど人気にんきのある作家さっか雑誌ざっし増刊ぞうかんとして特集とくしゅうごう発売はつばいされ、さらにれた。とはえ、『ガロ』などのマニアが雑誌ざっしとはちがい、エロ劇画げきが基本きほんてき若年じゃくねん肉体にくたい労働ろうどうしゃがエロ目的もくてきっててする雑誌ざっしであることから、当時とうじきのわりに後世こうせいまで現存げんそんするかずすくない(ちなみに、マニアけする雑誌ざっし当時とうじきのわりに現存げんそんすうおおい)。もちろん、なににでもマニアはいるので、1970年代ねんだい当時とうじからエロ劇画げきがマニアはいた。どの雑誌ざっしだれっているかわからないうえ、とても全部ぜんぶうわけにいかないので、マニアは大変たいへんだったが、基本きほんてきけいメディアのため、すうげついちまとめててられるので、当時とうじ漫画まんが評論ひょうろん智英ともひでによると、学生がくせいりょう店員てんいんりょうちかくのゴミ捨ごみすねらうのがいとのこと(いわく「夜間やかん一挙いっきょ大量たいりょう取得しゅとくほう」とのこと)[7]

成立せいりつしてあいだもないジャンルで雑誌ざっし急増きゅうぞうしたことから、掲載けいさいされる作品さくひんのレベルはピンキリだった。エロいのかエロくないのかよくわからない作品さくひんおおかった。また、当時とうじ著作ちょさくけん概念がいねんうすいことから、有名ゆうめい作品さくひんのパロディなど、なんでもありだった。作者さくしゃえがきたいものえがいて、もうわけ程度ていどにエロをれている作品さくひんや、エロすらない作品さくひんもあった。エロ漫画まんが雑誌ざっしなのにそんなまったくエロくない漫画まんがせる、編集へんしゅう方針ほうしん滅茶苦茶めちゃくちゃ雑誌ざっしもあった。そのため、1980ねん前後ぜんこうにデビューした「漫画まんがニューウェーブけい新人しんじん漫画まんが多数たすう流入りゅうにゅうした。なんせ、「漫画まんがニューウェーブ」の代表だいひょうてき雑誌ざっしだった『ガロ』は経営けいえいがカツカツで原稿げんこうりょうなかったので、たとえ「エロ劇画げきが」でも漫画まんが発表はっぴょうできて原稿げんこうりょうるだけでありがたかった。とくに『エロトピアDX』で執筆しっぴつしていた湊谷みなとやゆめきち作品さくひんや、『劇画げきがアリス』や『漫画まんがエロス』で執筆しっぴつしていた近藤こんどうようこ作品さくひん漫画まんがマニアをうならせた。(近藤こんどう当時とうじのエロ劇画げきが執筆しっぴつした作品さくひんぐんは、のち筑摩書房ちくましょぼうちくま文庫ぶんこ収録しゅうろくされている。そのレベルの作品さくひんがドマイナーなエロ劇画げきがっていたから、マニアはけなかった。)

劇画げきが悦楽えつらくごう』(サン出版しゅっぱん)や『漫画まんがハンター』(久保くぼ書店しょてん)などは比較的ひかくてきレベルがたかく、エロい作品さくひんおおかった。『漫画まんがボン』(少年画報社しょうねんがほうしゃ)や『漫画まんがキック』(いちみずしゃ)などは一般いっぱんでもえがいている作家さっかおお起用きようし、安定あんていしていた。『漫画まんがエロトピア』はさかきまさる、ふくしま政美まさみ上村うえむら一夫かずおの3まい看板かんばんくわえ、下位かい打線だせんすらやままつゆうきち沢田さわだ竜治りゅうじケン月影つきかげなど実力じつりょくようし、あたまひとけていた(『女犯にょぼんぼう』のふくしま政美まさみは1976ねんに『週刊しゅうかん少年しょうねんマガジン』にげられ、同誌どうしで『せいマッスル』を連載れんさい。そのため『エロトピア』ではわりに、おなじく滝沢たきざわかい原作げんさくで、小森こもり一也かずや怪物かいぶつ横丁よこちょう』が連載れんさいされ、おなじくカルトてき人気にんきはくした)。あがた有為ゆういやケン月影つきかげのようなエロぜんりの作家さっか支持しじされたが、ひさうちみちお宮西みやにしけいさんのような作家さっかせいつよ漫画まんががマニアに支持しじされた。

とくに「三流さんりゅう劇画げきが」の『劇画げきがハスラー』などに漫画まんが掲載けいさいしていた石井いしいたかし評価ひょうかたかく、りょくはもちろん作家さっかせいびぬけていた。それをけ、1975ねんより「一流いちりゅう劇画げきが」の「増刊ぞうかんヤングコミック」で起用きよう読者どくしゃ絶大ぜつだい人気にんきはくし、ヤンコミのげはがった。1975ねん当時とうじがきデカ』で有名ゆうめい人気にんき漫画まんがだった山上やまかみたつひこも、「増刊ぞうかんヤングコミック」(1975ねん8がつ26にちごう掲載けいさいさく劇画げきが山上やまかみたつひこ』において「さかきまさるもすごいが石井いしいたかしはもっとすごい」と激賞げきしょうした。石井いしいたかしは1977ねんより「ヤングコミック」本誌ほんしで『天使てんしのはらわた』を連載れんさい開始かいしし、さらなる人気にんきび、翌年よくねんには『女高生じょこうせい 天使てんしのはらわた』(1978ねん)として映画えいがされた。

自販機じはんき雑誌ざっし劇画げきがアリス編集へんしゅうちょうかめ和田わだたけしは、『ほん雑誌ざっし』1978ねんはるごうにおいて、石井いしいたかしを「つげ義春よしはる以来いらい」とまで激賞げきしょうした。これにたいし、梶井かじいじゅん権藤ごんどうすすむなどの漫画まんが評論ひょうろんから反論はんろんがったことから、亀和田かめわだはさらにアジり「漫画まんがエロジェニカとプレイコミック、さて本質ほんしつてき意味合いみあいでどちらがランクがうえか?」とまでった[8](1978ねん当時とうじ秋田あきた書店しょてんの『プレイコミック』は南波なんば健二けんじ甲良こうらみき二郎じろうなどを主力しゅりょくとし、『ビッグ』『アクション』『ヤンコミ』のような一流いちりゅう劇画げきがよりかくちる「二流にりゅう劇画げきが」とみなされていた。一方いっぽう、アニメもされた松本まつもとれい宇宙うちゅう海賊かいぞくキャプテンハーロック』の人気にんきから、石森いしもり章太郎しょうたろうのエロ表紙ひょうし目印めじるしのプレコミを少年しょうねんそう腐女子ふじょしもとめる異様いよう事態じたいとなっており、同誌どうしにナンセンスギャグ『やけくそ天使てんし』を連載れんさいちゅう吾妻あづまひでおどうさくで「プレコミを少年しょうねん少女しょうじょからもどそう!」とうったえたほどである[9]結局けっきょくこのアニメ世代せだい劇画げきがにとどめをすことは、当時とうじまだだれらない)。この亀和田かめわだをアジテーターとするかたちで、1978ねん昭和しょうわ53ねん)に三流さんりゅう劇画げきがムーブメントこった。

三流さんりゅう劇画げきがムーブメント(1978ねん[編集へんしゅう]

1978ねん当時とうじ前田まえだ俊夫としお羽中はなかルイなどをようする『漫画まんがエロトピア』がエロ劇画げきが代表だいひょうかくだった。安定あんていしてエロく、バイオレンスもギャグもかりなく、労働ろうどうしゃ要求ようきゅうする水準すいじゅんじゅうふんたしていた。後続こうぞく雑誌ざっしには、「もっとエロいもの」をもとめて真摯しんし雑誌ざっしおおかったが、たんれるからとってエロ劇画げきが参入さんにゅうした、編集へんしゅう方針ほうしんざつ雑誌ざっしおおかった。とにかく「エロ劇画げきが」ブームなので、いろいろあった。

1977ねん、エロ劇画げきがマニアの川本かわもとこう当時とうじ大学生だいがくせい、1978ねんみのり書房しょぼう就職しゅうしょくして三流さんりゅう劇画げきが官能かんのう劇画げきが』の編集へんしゅうしゃとなる。本名ほんみょう山田やまだ博良ひろよし名義めいぎでも活動かつどう)は、漫画まんが批評ひひょう集団しゅうだん現在げんざい評論ひょうろんけい同人どうじんサークル)「迷宮めいきゅう'77発行はっこう批評ひひょう同人どうじん漫画まんがしん批評ひひょう大系たいけい』7ごうだい21ごう)に「三流さんりゅう劇画げきがミニマップ」とだいするエロ劇画げきが評論ひょうろん寄稿きこうした[10]本論ほんろんにおいて川本かわもとは、旧来きゅうらい実話じつわとはちがあたらしい感覚かんかくっていた、『漫画まんがだい快楽かいらく』『漫画まんがエロジェニカ』『劇画げきがアリス』の3注目ちゅうもくした。たとえば『エロジェニカ』では『ガロけい作家さっかである川崎かわさきゆきお起用きよう岸田きしだせいSF紹介しょうかい平井ひらいげんロックろん流山ながれやまさちプロレスろん高取たかとりすぐる少女しょうじょ漫画まんがろんなどの評論ひょうろんコラムを掲載けいさいするなど[11]、このさんではエロ劇画げきが固定こてい観念かんねんからははなれた自由じゆう誌面しめんつくられていた。

この論評ろんぴょうがマスコミでおおきな話題わだいとなり、「三流さんりゅう劇画げきがムーブメント」の端緒たんしょとなった。『漫画まんがだい快楽かいらく』『漫画まんがエロジェニカ』『劇画げきがアリス』の3はマスコミで「エロ劇画げきが御三家ごさんけ」とばれるようになった。『劇画げきがアリス編集へんしゅうちょうかめ和田わだたけし、『漫画まんがエロジェニカ編集へんしゅうちょう高取たかとりすぐる、『漫画まんがだい快楽かいらく』の小谷おたにあきら菅野かんの邦明くにあきらはマスコミにもさかんに登場とうじょうし、「三流さんりゅう劇画げきが擁護ようごろんった。

亀和田かめわだによると、当時とうじ漫画まんが雑誌ざっしかいにははっきりとした階層かいそうがあり、一流いちりゅうからさんりゅうまでが区別くべつされる。『ビッグコミック』『ヤングコミック』『漫画まんがアクション』が「一流いちりゅう御三家ごさんけ」であり、それにつづ一般いっぱん漫画まんが二流にりゅうで、三流さんりゅうがエロ劇画げきが三流さんりゅう劇画げきが)である。ところがここでの一流いちりゅう内容ないようにおいてあまりにも保守ほしゅてき一切いっさい変革へんかくもとめない。そして二流にりゅう三流さんりゅうでデビューし、実力じつりょくをつけた作家さっかをつまみいにしている、とい、このような状況じょうきょう打破だはするためには三流さんりゅうをもって一流いちりゅうにしなければならない、といった主張しゅちょうがなされた。

この時期じきにはマスコミで「エロ劇画げきが」の特集とくしゅうえる。1978ねん8がつ大阪おおさかのイベント情報じょうほうプレイガイドジャーナル』(1978ねん8がつごう)が三流さんりゅう劇画げきが特集とくしゅう三流さんりゅう劇画げきがバトルロイヤル」をみ、亀和田かめわだは『官能かんのう劇画げきが編集へんしゅうしゃ山田やまだ博良ひろよし、『漫画まんがエロジェニカ』編集へんしゅうちょう高取たかとりすぐる漫画まんが評論ひょうろんサークル「迷宮めいきゅう'78」とともに気勢きせいげた。1978ねん10がつ日本にほんテレビけい11PM」が「ピンク劇画げきが特集とくしゅう放送ほうそうし、ピンク劇画げきが編集へんしゅうしゃ、ピンク劇画げきが、ピンク劇画げきが評論ひょうろん村上むらかみ知彦ともひこ)、ピンク映画えいが監督かんとく井筒いづつ和生かずお)らがそろって出演しゅつえんした。とくに『漫画まんがエロジェニカ』でデビューしたばかりである女流じょりゅうエロ劇画げきが山田やまだ双葉ふたば当時とうじ明大めいだい漫研に所属しょぞくする現役げんえき女子大じょしだいせいエロ劇画げきが)はマスコミの話題わだいとなり、同年どうねん12がつに「11PM」に出演しゅつえんし「11PM大賞たいしょう」を受賞じゅしょうした。1979ねん4がつ当時とうじのエロ劇画げきが評論ひょうろん集大成しゅうたいせいとして、川本かわもと評論ひょうろんをベースに、同人どうじん迷宮めいきゅう代表だいひょう米沢よねざわ嘉博よしひろ編集へんしゅうで、『別冊べっさつしんひょう さんりゅう劇画げきが世界せかい』(しんひょうしゃ)が刊行かんこうされた(「三流さんりゅう」には「エロ」とルビがく)。このころがブームのピークである。

こうした潮流ちょうりゅうは、橋本はしもとおさむ梶井かじいじゅん米沢よねざわ嘉博よしひろ村上むらかみ知彦ともひこ小野おの耕世こうせい飯田いいだ耕一郎こういちろうなどとった理論りろん論客ろんかくや、『奇想天外きそうてんがい』や『宝島たからじま』などとったサブカルチャー雑誌ざっしをもんで展開てんかいされた。「エロ劇画げきが御三家ごさんけ」における評論ひょうろん冒険ぼうけんてき編集へんしゅう姿勢しせいは、『漫画まんがバンバン』『漫画まんがバクダン』『漫画まんがピラニア』『漫画まんがカルメン』『漫画まんがハンター』『漫画まんがスカット』『官能かんのう劇画げきが』とった競合きょうごう他誌たしにも影響えいきょうあたえ、またそののニューウェーブけい雑誌ざっしたとえば『Peke』『月刊げっかんコミックアゲイン』『漫金ちょう』『ほん雑誌ざっし』『漫画まんがラブ&ラブ』『映画えいがエロス』『漫画まんがエロス』『漫画まんがダイナミック』『マンガ宝島たからじま』『漫画まんがブリッコ』などのしょにもひろがった。

しかし、「三流さんりゅう劇画げきがムーブメント」かならずしも「エロ劇画げきが」ファンの支持しじられたわけではない。あくまでマニアやマスコミが主導しゅどうするムーブメントであり、エロ劇画げきが本来ほんらい読者どくしゃそう雑誌ざっしをエロ目的もくてきっててする労働ろうどうしゃ)の視点してんからると、なにより、実用じつようせい不足ふそくがあった。とくに、三流さんりゅう劇画げきが御三家ごさんけ代表だいひょうかくであった『エロジェニカ』は、ダーティ・松本まつもと清水しみずおさむむら俊一しゅんいち中島なかじま史雄ふみお、という実力じつりょくかかえているものの、一方いっぽうで『ガロ』けい作家さっかである川崎かわさきゆきお(やありでん邦夫くにお)を主力しゅりょくえているなど、エロ雑誌ざっしとしてどうかんがえてもおかしい編集へんしゅう方針ほうしんっていた。川崎かわさきゆきおは『エロジェニカ』読者どくしゃ人気にんきたかく、漫画まんがマニアに注目ちゅうもくされて話題わだいとなり、マスコミにげられた結果けっか健康けんこう文化ぶんかてき生活せいかつおく一般いっぱん若者わかものにも注目ちゅうもくされ、雑誌ざっしげががったのはたしかだが、それはそれとして、そんなにエロくなかった。(三流さんりゅう劇画げきがムーブメントの渦中かちゅうにおいても、あくまでエロ劇画げきが絶対ぜったい王者おうじゃは『漫画まんがエロトピア』であったてん注意ちゅうい必要ひつようである。なお、同誌どうしには当時とうじ前田まえだ俊夫としお『タクシードライバー(地獄じごくせんおに)』やかわぐちかいじ『猛者もされんブギ』などが連載れんさいされており、労働ろうどうしゃけの過剰かじょうなエロと暴力ぼうりょくのサービス精神せいしんというてん当時とうじのエロ劇画げきが到達とうたつてんえるが、それはそれでおかしかった。『猛者もされんブギ』は、1979ねん当時とうじのエロ劇画げきが評論ひょうろん小中こなか陽太郎ようたろうは「いちかいんだだけではなにのことかわからないが(中略ちゅうりゃくなにやら不気味ぶきみ[4]ひょうしており、有識者ゆうしきしゃからはやはり当時とうじからそんなかんじの評価ひょうかだったもよう)

また、中小ちゅうしょう出版しゅっぱんしゃのマイナーふう特定とくてい編集へんしゅうしゃ個性こせい依存いぞんするというめんがあり、たとえ人気にんきであっても、編集へんしゅうしゃ異動いどう退社たいしゃともな変調へんちょう、あるいは廃刊はいかんいたれいおおかった。1979ねんに『アリス』の亀和田かめわだ退社たいしゃ、1980ねんには『だい快楽かいらく』の小谷おたに菅野かんの体制たいせい崩壊ほうかい、『アリス』が休刊きゅうかん、さらに『エロジェニカ』の出版しゅっぱんしゃ倒産とうさんいたるなど[12][13]、「三流さんりゅう劇画げきがムーブメント」は崩壊ほうかいする。

なお、「三流さんりゅう劇画げきがミニマップ」の発表はっぴょうさいして、川本かわもとは「全国ぜんこく三流劇画共斗会ギ」のペンネームを使つかったことから、「三流さんりゅう劇画げきがムーブメント」は当時とうじ一部いちぶマスコミに「劇画げきが全共闘ぜんきょうとう」と呼称こしょうされ、あたかもしん左翼さよく運動うんどう関係かんけいがあるようにわれたが、実際じっさいまった無関係むかんけいである。『劇画げきがアリス』編集へんしゅうちょうかめ和田わだたけしは1979ねん当時とうじの『週刊しゅうかん新潮しんちょう』の取材しゅざいたいし、大学だいがく時代じだい人並ひとなみに運動うんどうをやって1ねん留年りゅうねんしたことはみとめたが、エロ劇画げきが編集へんしゅうしゃとしてただでさえ警察けいさつにらまれていることから、マスコミでしん左翼さよくかかわりがあるようなことをわれるのをいやがっていた[14]当時とうじ漫画まんがエロジェニカ』編集へんしゅうちょうだった高取たかとりすぐる後年こうねん回想かいそうによると、エロ劇画げきが関係かんけいしゃもと全共闘ぜんきょうとうおおかったのは、たん世代せだいのせいだろうとのこと[15]。ただし「エロ劇画げきがブーム」と全共闘ぜんきょうとう運動うんどう(の敗北はいぼく)を関連付かんれんづける論考ろんこうはいくつかあり、主要しゅようなものをげると、たとえば漫画まんが編集へんしゅうしゃ大塚おおつか英志えいじは「これはわば学生がくせい運動うんどうのような革命かくめい思想しそう三流さんりゅう劇画げきが世界せかいんだものだった」と[16]かたり、漫画まんが編集へんしゅうしゃたけぐま健太郎けんたろうは「全共闘ぜんきょうとう運動うんどう敗北はいぼくし、なすすべをうしなった青年せいねん男子だんしは(中略ちゅうりゃく)そういうドロドログチョグチョした時代じだいのニーズがエロ劇画げきがんだ」[17]かたっている。

エロ劇画げきが規制きせい(1978ねん[編集へんしゅう]

当時とうじのエロ劇画げきがのほとんどは強姦ごうかんをテーマにしており、「強姦ごうかん劇画げきが[18]ともひょうされた。とくに、当時とうじのエロ劇画げきが代表だいひょうかくだった石井いしいたかしの『天使てんしのはらわた』は、文字もじにすれば「強姦ごうかん劇画げきが」としか形容けいようしようがなく[19]当時とうじ漫画まんが評論ひょうろんなかにもその評価ひょうかをめぐって論争ろんそうがあった。おそわれたおんながやがて自分じぶんからこしす、という「和姦わかんモノ」も存在そんざいしたが(エロ漫画まんが編集へんしゅうしゃかめ和田わだたけしいわく「おとこのキツーイ一発いっぱつおんなわる」[8]、これが典型てんけいてき当時とうじのエロ劇画げきが価値かちかんである)、やはり凌辱りょうじょくてき要素ようそつよかった。

「エロ劇画げきが御三家ごさんけ」は他誌たしくらべてかならずしもエロかったわけではなかったが、当時とうじ人気にんきテレビ番組ばんぐみの「11PM」に出演しゅつえんするなどマスコミにも露出ろしゅつおおかったことから警察けいさつけられ、1978ねん、「11PMで話題わだいをよんだエロスの王者おうじゃ」(自称じしょう)こと『漫画まんがエロジェニカ』(1978ねん11がつごう)がエロ劇画げきが史上しじょうはつ発禁はっきんらう。ニュースでもおおきくげられた『漫画まんがエロジェニカ』の1978ねん12がつごうは『エロジェニカ』史上しじょう最高さいこう部数ぶすうとなる11まん9せんれたが、今度こんど摘発てきはつされたらやばいということでなおされ、同誌どうしでもエロいと評判ひょうばんだったダーティ・松本まつもと堕天使だてんしたちのきょうえん』(最終さいしゅうかい)はしろヌキでおおきな修正しゅうせいはいり、大事だいじなシーンがほとんどしろになった。警察けいさつけられたことで版元はんもと経営けいえい次第しだい悪化あっかした。

ブーム後期こうき(1979ねん-1980ねん[編集へんしゅう]

1979ねんはいっても、エロ劇画げきが人気にんき依然いぜんとしてたかく、全部ぜんぶやく60、それぞれ4・5まん毎月まいつき300まんていたが、1970年代ねんだいまつにもなると読者どくしゃ高齢こうれいしていた。1970年代ねんだい当時とうじ、エロ劇画げきが主要しゅよう読者どくしゃは10後半こうはんから20だい若者わかものである、というのが業界ぎょうかい一般いっぱんてき見方みかただったが、当時とうじのエロ劇画げきが評論ひょうろん権藤ごんどうすすむによると、1979ねん当時とうじ読者どくしゃそうは27,8さいから40さいまでが圧倒的あっとうてきで、かれらは給料きゅうりょうにエロ劇画げきがを5さつ10さつ大人おとないしていたという[20]

『エロジェニカ』の摘発てきはつはやはり各誌かくしふるがらせたようで、1979ねんになると、『猛者もされんブギ』(原作げんさく滝沢たきざわかい/作画さくがかわぐちかいじ)で意味いみ不明ふめいなくらいのエロと暴力ぼうりょくをやってる「二流にりゅう劇画げきが」の『漫画まんがエロトピア』をのぞくと、「三流さんりゅう劇画げきが」に暴力ぼうりょくせいたかいエロ劇画げきがすくなくなっていた。せいきの暴力ぼうりょく読者どくしゃ支持しじされないので、暴力ぼうりょく漫画まんがはなくなり、わりにギャンブル漫画まんがはじめていることを、評論ひょうろん小中こなか陽太郎ようたろうは『スーパーコミック』芸文社げいぶんしゃ、「麻雀まーじゃんギャンブル&エロス」と副題ふくだいがある)などをれいげて報告ほうこくしている[4](なお、小中しょうちゅう劇画げきが読者どくしゃとして、やはりこの三流さんりゅう劇画げきがんでいるのは学生がくせいではなく、わか独身どくしんのサラリーマンや労働ろうどうしゃではないか、と推測すいそくしている)。

1977ねんごろよりおびただしいかずのギャンブル漫画まんが雑誌ざっし麻雀まーじゃん漫画まんが専門せんもん創刊そうかんされたが、当時とうじ三流さんりゅうエロ劇画げきが以下いかのゴミみたいな漫画まんがしかなく、『猛者もされんブギ』のようなエロ劇画げきがえがいていたかわぐちかいじすら、『近代きんだい麻雀まーじゃんオリジナル』編集へんしゅうちょう尾沢おざわ裕司ゆうじ尾沢おざわ工房こうぼう、『スーパーヅガン』の「オザワちくしょぼう」のモデル)に明大めいだい漫研のツテで執筆しっぴつ依頼いらいされたときえがくのをいやがったほどだった。しかし、これらの麻雀まーじゃん漫画まんがなかあたまひとすのが、1977ねんより麻雀まーじゃん漫画まんが進出しんしゅつしたたけ書房しょぼうで、衰退すいたいするエロ劇画げきがかいからかわぐちやのうじょう純一じゅんいちった有能ゆうのう人材じんざいかたち重用じゅうようすることで麻雀まーじゃん漫画まんがのレベルをげてく。1980ねん当時とうじの『エロトピア』の主力しゅりょく作家さっか一人ひとりであったかわぐちは、1981ねんより『近代きんだい麻雀まーじゃんオリジナル』で連載れんさいされた『プロ』がヒットし、これをきっかけに麻雀まーじゃん漫画まんが、そして青年せいねんへと進出しんしゅつする。

衰退すいたい(1980年代ねんだい[編集へんしゅう]

ロリコン劇画げきが乱立らんりつ(1980ねん年代ねんだい前半ぜんはん[編集へんしゅう]

1978ねん、『アニメージュ』(徳間書店とくましょてん)が創刊そうかん。アニメブームにともない、大手おおて出版しゅっぱんしゃがアニメ雑誌ざっし参入さんにゅうした最初さいしょれいとなる。このころから次第しだい漫画まんがかい変化へんかしょうはじめる。アニメ世代せだい増加ぞうかとともにロリコン漫画まんが台頭たいとうした。この時代じだいわせて登場とうじょうしたのが、エロ劇画げきが作風さくふうえがかれたロリコン漫画まんが、いわゆる「ロリコン劇画げきが(ロリコンエロ劇画げきが)」である。

もともと1970年代ねんだい後半こうはんより、「美少女びしょうじょもの」は「人妻ひとづまもの」などとならぶエロ劇画げきが人気にんきジャンルとなりつつあり、セクシーギャルの描写びょうしゃひいでたのうじょう純一じゅんいちなどのほか中島なかじま史雄ふみおむら俊一しゅんいちのように「少女しょうじょ」を得意とくいとする作家さっか人気にんきはじめていた。元々もともとはガチガチのエロ劇画げきがであった中島なかじまむら美少女びしょうじょぶつえがくように最初さいしょ依頼いらいしたのは、1977ねん当時とうじの『漫画まんがエロジェニカ』編集へんしゅうちょう高取たかとりえいで、中小ちゅうしょうのエロ劇画げきが大手おおての『エロトピア』のようにたか発行はっこう部数ぶすうたか原稿げんこうりょう背景はいけいとして実力じつりょくのエロ劇画げきがおおかかえることができないので、企画きかくりょく勝負しょうぶしないといけないという事情じじょうがあった[21]。そのため、『エロジェニカ』は読者どくしゃ対象たいしょう高校生こうこうせい浪人ろうにんせい大学生だいがくせいなどの若者わかものしぼり、当時とうじ若者わかもの人気にんきのあったニューウェーブ漫画まんが起用きようくわえて、当時とうじ若者わかもの人気にんきのアイドルをイメージした少女しょうじょのエロ劇画げきがえがくように劇画げきが依頼いらいしたところ、これがたった。

このながれにはのエロ劇画げきが御三家ごさんけ追随ついずいしており、1979ねんには『漫画まんがだい快楽かいらく』で三条さんじょう友美ゆみがデビューしている。「少女しょうじょもの」にかんしては、1980ねん当時とうじとく野口のぐち正之まさゆき中島なかじま史雄ふみお人気にんきたかく、特集とくしゅうごうなんさつている。この時期じきには谷口たにぐちたかし沢木さわきあかねなどのように、ロリコン漫画まんがにかなり画風がふうちか作家さっかもデビューしており、かれらはエロ劇画げきがからロリコン漫画まんがわりとすんなり移行いこうしている。

ロリコンブームにいちはや適応てきおうしたのが『漫画まんがエロジェニカ』で、1980ねんにはロリコン劇画げきがだけをあつめた漫画まんがエロジェニカ増刊ぞうかん漫画まんがエロリータ』が刊行かんこうされた。これにつづいて1980年代ねんだい前半ぜんはんにはロリコン劇画げきが大量たいりょう創刊そうかんされた。しかし、ロリコンブーム時代じだいにおいては、もはやエロ劇画げきが画風がふうでは10代後半こうはんから20だい前半ぜんはん(1980ねん当時とうじ)のアニメ世代せだい支持しじられなかった。『漫画まんがエロジェニカ』および『漫画まんがエロリータ』は版元はんもとであるうみしおしゃ倒産とうさんともない1980ねん6がつごうをもって廃刊はいかんした。また、1981ねん創刊そうかんされた、最初さいしょのロリコン雑誌ざっししょうされる可能かのうせいがあった『ヤングKISS』も、「ロリコン漫画まんが」としての野口のぐち正之まさゆき看板かんばんえながらも誌面しめん迷走めいそうし1982ねん休刊きゅうかんするなど、1980ねん-1982ねん当時とうじのエロ漫画まんが業界ぎょうかいは、エロ劇画げきがからロリコン漫画まんがへとつながる時代じだいながれを見極みきわめられなかった。

1980ねん当時とうじ、「ロリコン漫画まんが」はごく少数しょうすうのアニメ世代せだいのちに「オタク」とばれる)けのニッチで、コミケの同人どうじんやアニメ雑誌ざっしなどをおもとするごくちいさなムーブメントであり、「ロリコン劇画げきが」のいきおいと比較ひかくするまでもなかったが、1982ねん創刊そうかんの『レモンピープル』はのこり、ロリコン漫画まんがながれを確立かくりつした(そのため、『レモンピープル』が最初さいしょのロリコン漫画まんがとされる)。これにつづいて「ロリコン漫画まんが」が次々つぎつぎ創刊そうかん。アニメ世代せだい増加ぞうかとロリコン漫画まんがいきおいの拡大かくだいともない、次第しだいにロリコン劇画げきが圧倒あっとうされてき、当時とうじ乱立らんりつした「ロリコン劇画げきが」は、ほとんどは創刊そうかんすぐにつぶれてしまった。

時代じだい野口のぐち正之まさゆきは1980年代ねんだいはいると絵柄えがらをアニメふうえ、名前なまえも「内山うちやま亜紀あき」とえてしまった。中島なかじま史雄ふみおもエロ劇画げきが絵柄えがらて、ロリコン漫画まんがとなった。

この時期じきの「ロリコン劇画げきが」は、なんせブームとって大量たいりょう創刊そうかんされたものだから、おきけい一郎いちろうなど人妻ひとづまぶつ得意とくいとする作家さっかにロリコン劇画げきがえがかせたり、「ロリコン劇画げきが」なのに堂々どうどう人妻ひとづまぶつっていたりする(タイトルに「ようつま」とけてごまかしたりしているが、いつもの人妻ひとづまである。ひどいのだと、いつもの人妻ひとづまが「女子高じょしこうせい」という設定せっていふくている)。

なお、このころからしばらく、エロ漫画まんが主流しゅりゅうが「エロ劇画げきが」から「ロリコン漫画まんが」への過渡かととなり、どう時期じきのエロ漫画まんがには「エロ劇画げきが」と「ロリコン漫画まんが」が混在こんざいしているものがある。内山うちやま亜紀あきなどのトップクリエーターは雑誌ざっしおうじて作風さくふう使つかけることができた。同一どういつのクリエーターとはおもえないほど、絵柄えがらもストーリーもまったちがう。

中島なかじま史雄ふみおは、エロ劇画げきがから早々そうそう絵柄えがらえて、ロリコン漫画まんが先導せんどうしゃとなったが、実際じっさい夫人ふじんのアドバイスをいたりして、絵柄えがらえるのにかなり苦労くろうしたらしい。内山うちやま亜紀あきは、元々もともと吾妻あづまひでおふうのあっさりした画風がふうだったので、当時とうじ主流しゅりゅうだったエロ劇画げきがわせるのにぎゃく苦労くろうしていたらしい。おき圭一けいいちろうは、もととみ新蔵しんくらのアシスタント出身しゅっしんで、とみ新蔵しんくらそっくりの絵柄えがらから官能かんのう劇画げきがとして独立どくりつして人妻ひとづまぶつ名手めいしゅとされるまでに相当そうとう苦労くろうをしたらしいが、ロリコン漫画まんが/美少女びしょうじょ漫画まんがには移行いこうせず、そのまま1990年代ねんだいまでエロ劇画げきが残留ざんりゅうした。のうじょう純一じゅんいつは、元々もともと「ギャル」の描写びょうしゃ得意とくいとしたが、麻雀まーじゃん漫画まんがきのりゅう』(1985ねん)のヒットにより、ぎゃくに「おとこ」の描写びょうしゃ要求ようきゅうされる作家さっかとなった(のうじょうのエロ劇画げきが時代じだい作品さくひん封印ふういんされているが、1987ねん刊行かんこうたん編集へんしゅうきた獅子しし』などにその名残なごりがみられる)。

このころより、エロ劇画げきが先進せんしんてき企画きかくりょくうしない、才能さいのうあるエロ劇画げきがは、エロロリコン漫画まんが、エロくないロリコン漫画まんが(『アニメージュ』けいの『プチアップルパイ』など)、ヤング(『週刊しゅうかんヤングマガジン』が1980ねん創刊そうかん)、麻雀まーじゃん漫画まんがなどに移行いこうしてった。エロ劇画げきが次第しだい保守ほしゅしていく。

ブーム末期まっき(1980年代ねんだい前半ぜんはん[編集へんしゅう]

1980ねん以降いこうもエロ劇画げきが大量たいりょう創刊そうかんされたが、短命たんめいわったものがおおい。内容ないよう陳腐ちんぷしていた。1980ねんには日本にっぽんPTA全国ぜんこく協議きょうぎかいによって有害ゆうがい図書としょ自販機じはんき販売はんばい規制きせいほう請願せいがんおこなわれ、エロほん自販機じはんき撤去てっきょうごきが全国ぜんこくはじまったことも、販路はんろ一部いちぶ自販機じはんきたよっていたエロ劇画げきがにとっては痛手いたでとなった。

1982ねんには史上しじょうはつのロリコン漫画まんが雑誌ざっし美少女びしょうじょ漫画まんが雑誌ざっし)とされる『レモンピープル』が創刊そうかん。1983ねんにはエロ劇画げきが漫画まんがブリッコ』がロリコン漫画まんがにリニューアル。この「2だいロリコン漫画まんが」につづき、1980年代ねんだいなか以降いこう、『ハーフリータ』や『ペンギンクラブ』など美少女びしょうじょ漫画まんが多数たすう創刊そうかんされ、あっと類似るいじかずやし、エロ劇画げきが元々もともと市場いちばであった若年じゃくねんそう読者どくしゃうばっていった。勃興ぼっこう当初とうしょのロリコン漫画まんがは、同人どうじんからげたわか作家さっかくわえ、「レモンセックス」とばれた中島なかじま史雄ふみおなどの可憐かれん美少女びしょうじょえがくエロ劇画げきがげるかたち成立せいりつしていたが、美少女びしょうじょ漫画まんがかい拡大かくだいともない、次第しだいにエロ劇画げきが出身しゅっしんしゃすくなくなっていく。

1983ねん、『漫画まんがローレンス』(綜合そうごう図書としょ)が創刊そうかんされる。「ロリコン漫画まんが」にかたむ時代じだいながれを意識いしきしたかのように、創刊そうかんごう(1983ねん12がつごう)のキャッチコピーは「いまなぜ、人妻ひとづまなのか!」。「エロ劇画げきがブーム」創刊そうかんされた主要しゅようなエロ劇画げきがなかでは最後さいごはつちかいが、「エロ劇画げきがブーム」全盛期ぜんせいきにおけるエロ劇画げきが革新かくしんてき紙面しめんとは方向ほうこうせいまったちがう、創刊そうかん時点じてん価値かちかん固定こていされマンネリの極致きょくちした誌面しめんには固定こてい読者どくしゃき、2010年代ねんだいいたるまで「エロ劇画げきが」を代表だいひょうする雑誌ざっしとして存続そんぞくした。間宮まみや青児せいじ間宮まみやきよし)や城野しろのあきらなど、創刊そうかんごうよりすうじゅうねんにわたって漫画まんが掲載けいさいつづ人気にんきはくした作家さっかおおいが、もうタイトルをただけで内容ないようほどける、すうねんまえ作品さくひんさいろくされてもかずに普通ふつうんでしまうほどのマンネリであることから、漫画まんがにおいてその作品さくひん無視むしされている。21世紀せいきまで存続そんぞくした老舗しにせとしては、『漫画まんがプラザ』(あおいりゅうしゃ、1976ねん創刊そうかん、2018ねん休刊きゅうかん)にしても、ほぼ同様どうよう路線ろせんるが、特筆とくひつすべき作家さっかとして、白鳥しらとりいずみ白鳥しらとりいづみ、矢崎やさきとおる)は時代じだいわせてロリコン漫画まんがれようとしている(しかも、エロ劇画げきがとロリコン漫画まんが狭間はざま絵柄えがらでありながら「女装じょそう少年しょうねん」をあつかっており、当時とうじのエロ漫画まんが全体ぜんたいてもかなり先駆せんくてきだった。1990年代ねんだいまで単行たんこうほんており、人気にんきがあった模様もよう。しかし「女装じょそう少年しょうねん」の先駆せんくしゃながら少年しょうねんにまで進出しんしゅつたした雨宮あまみやあつしちがい、矢崎やさきとおるはのちに完全かんぜんにエロ劇画げきがまれ、平成へいせい時代じだいには『漫画まんがプラザ』の主力しゅりょく一人ひとりとして『調教ちょうきょうせんいち』でられるが、単行本たんこうぼんなくなった)。

この時期じきのエロ劇画げきがは、30だい以上いじょう(1980年代ねんだい前半ぜんはん当時とうじ)を想定そうてい読者どくしゃとした安定あんてい作家さっか安定あんてい内容ないようでメインをかためつつある一方いっぽうで、時代じだい影響えいきょうけた「ニューウェーブ」てき作家さっか漫画まんがもまだおおっており、たとえば戸崎とざきまこと早見はやみじゅんゴブリン森口もりぐちなどをようする『漫画まんがスキャンティ』(光彩こうさい書房しょぼう、1983ねん創刊そうかん)や、創刊そうかんごうから蛭子えびす能収よしかず平口ひらぐち広美ひろみひさうちみちお対談たいだん(しかも写真しゃしんき。わかころ蛭子えびすさんの写真しゃしんはレア)がっている『漫画まんがパーキング』(あおいりゅうしゃ、1983ねん創刊そうかん)など、後世こうせいのサブカルマニアに注目ちゅうもくされるような毛色けいろちが作品さくひんっていることがられている。エロ劇画げきががメインのなかに「ロリコン漫画まんが」「美少女びしょうじょ漫画まんが」が混在こんざいした雑誌ざっしもまだあり、創刊そうかんごう森山もりやまとうようした『漫画まんがエロトラブ』(あおいりゅうしゃ、1984ねん創刊そうかん)も、そのひとつである。

アダルトアニメへの展開てんかい(1984ねん[編集へんしゅう]

1980年代ねんだいはいるとビデオ普及ふきゅうによりOVA登場とうじょうし、アダルトアニメも登場とうじょうする。

1984ねんにワンダーキッズより、「ロリコン劇画げきが」として人気にんきたかかった中島なかじま史雄ふみお作品さくひんが「ロリータアニメ」シリーズとしてOVAされ、1984ねん2がつ、そのだい1だんとして世界せかいはつのアダルトOVA『ロリータアニメ ゆきべに化粧けしょう/少女しょうじょ薔薇ばらけい』が発売はつばいされた。しかし、ストーリーもキャラデザも1978ねんごろのエロ劇画げきがブーム最盛さいせい代物しろもので、ロリコンブーム最盛さいせいである1984ねん当時とうじのアニメファンにはやはりまったさらず、商業しょうぎょうてき失敗しっぱいした。そのため、「ロリータアニメ」シリーズはだい3だん仔猫こねこちゃんのいるみせ』よりキャラデザをまったえ、「アニメ」となった。

また、どう時期じきにはオレンジビデオハウスもエロ劇画げきが原作げんさくとしたアダルトOVA「スーパーアダルトアニメ」シリーズを展開てんかいしているが、だい1だんあお体験たいけん』(原作げんさく羽中はなかルイ)以下いか当時とうじのアニメファンにはやはりまったさらず、られ、同社どうしゃのOVAは『直子なおこのトロピックエンジェル 〜漂流ひょうりゅう』よりおなじく絵柄えがらが「アニメ」となった。同社どうしゃのOVAは、1985ねんよりリリースされた『ドリームハンターうららゆめ』シリーズが爆発ばくはつてきなヒットとなり、アニメ世代せだいにおいては、もはや「エロ劇画げきが」は流行はやらないのは明白めいはくとなった。

1984ねんより『漫画まんがエロトピア』で連載れんさいされた前田まえだ俊夫としおうろつき童子どうじ』がだいヒット。これに劇場げきじょうばん宇宙うちゅう戦艦せんかんヤマト』(1977ねん)をヒットさせた西崎にしざきよしてんプロデューサーが注目ちゅうもくし、1987ねんにはOVAされた。豪華ごうかなスタッフ(ほとんど匿名とくめいだったが、当時とうじのアニメファンなら大体だいたいわかった)を投入とうにゅうしてコストをかけて製作せいさくされた結果けっかたかいクオリティの「アダルトSF伝奇でんきアニメ」としてこちらもだいヒットした。また海外かいがいでもだいヒットし、「HENTAIアニメ」の代表だいひょうかくとして世界せかいてきられるようになった。(ただし、アニメと原作げんさくでは絵柄えがらがかなりちがうので、アニメからはいったひとはびっくりする。アニメのヒットにともない、これ以後いご前田まえだはアニメりの絵柄えがら要求ようきゅうされる場合ばあいえた)

森山もりやまとうのデビュー(1984ねん[編集へんしゅう]

当時とうじのエロ劇画げきがは、内容ないようマンネリ化まんねりかして古臭ふるくさ絵柄えがらとなりつつも、同人どうじんがりの10代から20だいのほぼ素人しろうとえがいているロリコン漫画まんがくらべて「リアルでエロい」というこれ以上いじょうない実用じつようじょう利点りてんがあり、1980年代ねんだい前半ぜんはん時点じてんではいきおいはまだまだおおきかった。急激きゅうげきいきおいをしつつあるロリコン漫画まんがとは、ある意味いみで「じゅうけ」ができていたが、アニメけい絵柄えがらながら革新かくしんてきにエロい漫画まんがえが森山もりやまとう山本やまもと直樹なおき)のデビュー(1984ねん)が契機けいきとなった。

劇画げきが漫画まんがエロトラブ』(あおいりゅうしゃ)に1985ねんより連載れんさいされた、森山もりやまとうの『とらわれペンギン』は、とてもリアルでエロかった。1970ねん若者わかものにとっては、劇画げきがこそがリアルで、ゆえにエロだったが、1986ねん若者わかものにとっては、森山もりやまとう美少女びしょうじょこそがリアルで、ゆえにエロだった。1986ねん辰巳たつみ出版しゅっぱんあおいりゅうしゃ親会社おやがいしゃ)から発売はつばいされた単行本たんこうぼん半年はんとしで10まん、1ねんで20まんげ、これをけた辰巳たつみ出版しゅっぱんは1986ねん森山もりやまとう看板かんばんとして美少女びしょうじょ漫画まんがペンギンクラブ』を創刊そうかんした(ちなみに、エロ劇画げきが伝統でんとうにのっとり、単行本たんこうぼん発売はつばいまえに『エロトラブ』増刊ぞうかんとして『とらわれペンギン』の特集とくしゅうごうが1986ねんている)。

1986ねん以前いぜん美少女びしょうじょ漫画まんがは、エロ漫画まんがとしてはあくまでオタクけのニッチだとおもわれていたが、1987ねんにもなると、森山もりやまとうなどの美少女びしょうじょ漫画まんがのエッチな単行本たんこうぼんならじゅうすうまん確実かくじつだとかったので[22]各社かくしゃとも美少女びしょうじょ漫画まんがほう本腰ほんごしれるようになった。1986ねんから1988ねんごろにかけて美少女びしょうじょ漫画まんが大量たいりょう創刊そうかんされるにいたり、美少女びしょうじょ漫画まんがこそがエロ漫画まんが主流しゅりゅうとなった。

森山もりやまとう輩出はいしゅつした」というてんでのみ漫画まんが足跡あしあとのこした劇画げきが漫画まんがエロトラブ』は、その普通ふつうにエロ劇画げきがとして存続そんぞくし、特筆とくひつすることもないまま2001ねん休刊きゅうかんした。

市場いちば崩壊ほうかい(1986ねん[編集へんしゅう]

1986ねんごろからエロ劇画げきが一気いっき衰退すいたいした原因げんいんとしては、森山もりやまとう筆頭ひっとうとする美少女びしょうじょ漫画まんが隆盛りゅうせいくわえて、ビデオ普及ふきゅうによるアダルトビデオ(AV)の普及ふきゅうげられる[23]当時とうじのエロ劇画げきがは、劇画げきがという「表現ひょうげん」としてではなく、「ポルノ」として、つまり写真しゃしん映像えいぞう代替だいたいひんとしておも消費しょうひされていたことから、自宅じたくのテレビのなか劇画げきがよりもリアルなAVには太刀打たちうちできず、読者どくしゃ急激きゅうげきらしていった。一方いっぽう美少女びしょうじょ漫画まんがは、もとより写真しゃしん映像えいぞう代替だいたいひんであろうとはしていなかったことから、まった影響えいきょうけず、ぎゃく時流じりゅうっていきおいをしていった。

エロ劇画げきが草創そうそうからブーム終焉しゅうえんまで、エロ劇画げきが代表だいひょうとして存続そんぞくしてきた『漫画まんがエロトピア』は、1986ねん11がつごう本号ほんごうよりつき2かいかんから月刊げっかんに)をもって表紙ひょうし横山よこやまあきらのエアブラシからゆうじんの「アニメ」にえ、美少女びしょうじょ漫画まんがにリニューアルした。リニューアル直後ちょくごこそのうじょう純一じゅんいちてんおとこ』や和気わけ一作いっさく今日きょうからは微熱びねつじん』などを主力しゅりょくとし、まだエロ劇画げきがいろかったが、やがてMEE(『えよ鉄人てつじん』)、ゆうじん前田まえだ俊夫としお看板かんばん作家さっかとして、大地だいちしょう多田ただ一夫かずおなどがわきかためる美少女びしょうじょ漫画まんがへの移行いこう成功せいこうした。『うろつき童子どうじ』のヒットにより同誌どうしのリニューアル以降いこう看板かんばん作家さっか一人ひとりとなった前田まえだ俊夫としおは、エロ劇画げきがブーム以前いぜんからのベテランで、同誌どうし執筆しっぴつじんなかでは「い」絵柄えがらではあったが、エロきでりょく非常ひじょうたかく、またそのたかりょく雑誌ざっし要望ようぼうおうじて美少女びしょうじょキャラをえがくことが可能かのうであり、エロ劇画げきが範疇はんちゅうまらないファンを海外かいがいにまで獲得かくとくし、その同誌どうしで『アドベンチャーKiD』(1988ねん、1992ねんにOVA)などのヒットをばす。

「ロリコンブーム」自体じたいは1980年代ねんだいちゅうごろにはくが、漫画まんがかいにおける「アニメ」「美少女びしょうじょ」のながれはいかんともしがたく、1980年代ねんだいまつにおいては「一昔ひとむかしまえ劇画げきがとかって、なんかウットーしい」「スマートでカッチョいい『アニメ』」[24]というのが当然とうぜん認識にんしきとなった。とくに1986ねんより『エロトピア』看板かんばんとなったゆうじんのインパクトはおおきかったようで、同誌どうしや『エロトピアデラックス』で活躍かつやくした大島おおしまたけし山田やまだのら(やまだのら)など、この時期じきに「美少女びしょうじょ」に転進てんしんした中堅ちゅうけんエロ劇画げきがおおい(かれらは当時とうじ30さい前後ぜんこうで、ほんのすうねんまれので「アニメ世代せだい」「オタク世代せだい」と「劇画げきが世代せだい」がかたれるが、軌道きどう修正しゅうせい可能かのうであった)。前田まえだ俊夫としおのアシスタントをてこの時期じきにエロ劇画げきがデビューしたゴブリン森口もりぐちも、当初とうしょ師匠ししょうゆずりのスプラッタしょくつよいヘビィメタル漫画まんが執筆しっぴつしていたが、ほどなく美少女びしょうじょ漫画まんがとなった。当時とうじ中堅ちゅうけんエロ漫画まんが単行本たんこうぼんは、やはり作風さくふう混在こんざいしているれいおおく、たとえばちょうど過渡かとにあたる、やまだのら『くちびる女高生じょこうせい』は、表紙ひょうしは「アニメ」の美少女びしょうじょなのに中身なかみはのっけからガチのエロ劇画げきが読者どくしゃはガッカリする(ちなみに1990年代ねんだい後半こうはん美少女びしょうじょ漫画まんがから漫画まんがへの過渡かとにも、こういう表紙ひょうし詐欺さぎともえるガッカリれいはよくあった)。

一方いっぽうで、あくまで「エロ劇画げきが」に固執こしつするひとや、べつ方面ほうめん転進てんしんするひともいた。この時期じきはスプラッターブームというのもあり、丸尾まるお末広すえひろ早見はやみじゅんなど、後世こうせいのサブカルマニアに支持しじされる猟奇りょうきてき作品さくひんがエロ劇画げきがおお発表はっぴょうされている(スプラッターブーム自体じたいは1980ねん公開こうかい映画えいが13にち金曜日きんようび』にはじまるが、1980年代ねんだい後半こうはんはビデオ普及ふきゅうにより、みんなビデオをりるかうかしてるようになり、ブームが拡大かくだいした。アニメファンの拡大かくだいやAVの普及ふきゅうなど、ビデオ普及ふきゅうがエロ劇画げきが衰退すいたいおよぼしたマイナスの影響えいきょうおおきいものの、ビデオ普及ふきゅうが「表現ひょうげん」の発展はってんというめんでエロ劇画げきがおよぼしたプラスの影響えいきょう無視むしできない)。

漫画まんがブリッコ』編集へんしゅうちょう大塚おおつか英志えいじによると、1986ねんにはすでにエロ劇画げきが市場いちば崩壊ほうかいしていた[25]

人材じんざい流出りゅうしゅつ(1980年代ねんだい後半こうはん[編集へんしゅう]

エロ劇画げきが転職てんしょくさきとして、1980年代ねんだいちゅうごろよりブームとなったレディースコミックがある。当初とうしょはややソフトなムードてきなセックス描写びょうしゃまっていたが、次第しだい過激かげきになった。市場いちば拡大かくだいともない、男性だんせいエロ劇画げきが女性じょせい名義めいぎ執筆しっぴつしていた。したがって、その作風さくふうてきにはエロ劇画げきがにおいがつよれいもある。読者どくしゃそうとしてはエロ劇画げきがとはことなっていたから、市場いちばいという意味いみではそれほど影響えいきょうはなかったようである。また、ホラー漫画まんがやお色気いろけ漫画まんがなど、当時とうじ漫画まんがのジャンルの細分さいぶんすすみ、また景気けいきくて、様々さまざまなジャンルの漫画まんが創刊そうかんされていた時代じだいであるから、それらで活躍かつやくしたひともいた。

おきけい一郎いちろうは、1980年代ねんだい後半こうはんには『ホリディCOMIC』などで活躍かつやくしたものの、1990年代ねんだいはいるとパチンコ漫画まんが転進てんしんした(劇画げきがのような豪快ごうかい人柄ひとがら人気にんきがあったが、2007ねん急逝きゅうせい)。出井いずいしゅうしのぶ鬼童おんどう譲二じょうじ谷間たにま夢路ゆめじ)にいたっては、ロリコン漫画まんが少年しょうねん漫画まんが漫画まんが、レディコミ、ホラー漫画まんが、とあらゆるジャンルに進出しんしゅつし、ポプラ社ぽぷらしゃ児童じどうしょ『ハチャメチャ探偵たんていちょう』の挿絵さしえまで手掛てがけている(エロ劇画げきが時代じだいから山上さんじょうたつひこふう艶笑えんしょう漫画まんがえがけるなど、もともと作風さくふうひろさでられたが、1980ねん後半こうはんより「谷間たにま夢路ゆめじ」の名義めいぎで『パンドラ』や『ハロウィン』などの少女しょうじょホラー活躍かつやく少女しょうじょ漫画まんがふうのキャラとガチのスプラッターが同居どうきょしたとてもおそろしい漫画まんが小学生しょうがくせい女子じょし読者どくしゃにトラウマをけた)。

エロ劇画げきがかいからの人材じんざい流出りゅうしゅつつづいた。『天使てんしのはらわた あか眩暈げんうん』(1988ねん)で映画えいが監督かんとくデビューした石井いしいたかしはエロ劇画げきが廃業はいぎょうし、映画えいが監督かんとくになった(エロ劇画げきが当時とうじ見下みくだされていたことから、監督かんとくになったのちはエロ劇画げきがはなしをされるのをいやがっていた)。1979ねんに『漫画まんがエロジェニカ』で「女子大じょしだいせいエロ劇画げきが」として颯爽さっそうとデビューした山田やまだ双葉ふたばは、レディコミでしばらく活動かつどうしたのち、1985ねん山田やまだ詠美えいみ名義めいぎの『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ)で文藝ぶんげいしょう受賞じゅしょう作家さっかデビュー。『劇画げきがアリス』で1979ねんにデビューした田口たぐち智朗ともあきは、りょくはそこそこながらそのパンクないきおいで人気にんきがあり、当時とうじ特集とくしゅうごう発売はつばいされたほどだが、1983ねんにパンクバンド「ガガーリン」を結成けっせい。1990年代ねんだいまで漫画まんが断続だんぞくてき発表はっぴょうされているものの、ミュージシャンや俳優はいゆうとしての活動かつどうおもとなった。

若者わかものにとって、劇画げきが絵柄えがらはリアルどころか次第しだいにギャグ漫画まんが絵柄えがら同然どうぜんあつかいになっていく。山本やまもと直樹なおきようする『ビッグコミックスピリッツ』で1989ねんより連載れんさいされた相原あいはらコージたけぐま健太郎けんたろうサルでもえがけるまんが教室きょうしつ』が好例こうれいである(「漫画まんがえがかたのハウツーほん」という体裁ていさいのギャグマンガとして、エロ劇画げきがふく当時とうじ漫画まんがをさんざんにパロディした。本書ほんしょ当時とうじ漫画まんが批評ひひょうとしても重要じゅうよう文献ぶんけんである)。1990ねんより『少年しょうねんキャプテン』で連載れんさいされた山浦やまうらあきらオタクの用心棒ようじんぼう』も、時代じだい劇画げきがのパロディでオタクあるあるネタをんだギャグマンガであった(山浦やまうらは、2000年代ねんだいには劇画げきが絵柄えがら当時とうじ最新さいしんのアニメのエロパロ同人どうじんつくっていたが、このあたりになると本気ほんきなのかギャグなのかわからなくなる)。

衰退すいたいはいったエロ劇画げきがは、1980年代ねんだいまつから1990年代ねんだいにかけて、エロをはげしくすることで、「美少女びしょうじょ」に移行いこうできないきゅう世代せだい三流さんりゅう劇画げきが難民なんみん方針ほうしんった[26]

このころより、「エロ劇画げきが」は漫画まんがおもて舞台ぶたいから姿すがたす(ただし、このころよりエロ劇画げきがは「て」となり、単行本たんこうぼんがまともになくなることから、まだあまり研究けんきゅうすすんでいないだけで、後世こうせいに「さい発見はっけん」「発掘はっくつ」される可能かのうせいがあるてんには留意りゅういされたい。とくに、エロ漫画まんが史家しかである米沢よねざわ嘉博よしひろ大著たいちょ戦後せんごエロマンガ執筆しっぴつちゅうの2006ねん死去しきょし、未完みかんとなったことが研究けんきゅうおおきな痛手いたでとなっている)。

エロ劇画げきがえば「人妻ひとづまもの」に(1990ねん[編集へんしゅう]

「ロリコン劇画げきが」をえがいていたエロ劇画げきがのうち、美少女びしょうじょえがけるエロ劇画げきが美少女びしょうじょ漫画まんが転進てんしんし、一方いっぽうでエロ劇画げきがのこった羽中はなかルイなどは本格ほんかくてき人妻ひとづまものに移行いこうした(羽中はなかルイはロリコンブーム人気にんきがあったのはたしかだが、「レモンセックス」とくらべると人妻ひとづまふくほうちかかった)。また、少女しょうじょねらった犯罪はんざいである東京とうきょう埼玉さいたま連続れんぞく幼女ようじょ誘拐ゆうかい殺人さつじん事件じけん(1988ねん-1989ねん)の余波よはでロリコンバッシングがきつくなったのもあり、1990ねんごろにはエロ劇画げきがからロリコン劇画げきがえてしまった。エロ劇画げきがえば人妻ひとづまもの、という図式ずしきがこのころ確立かくりつする。

その[編集へんしゅう]

古典こてんてき美少女びしょうじょ漫画まんが」の終焉しゅうえん(1990年代ねんだい[編集へんしゅう]

エロ劇画げきがえるかたち隆盛りゅうせいした1980年代ねんだい最新さいしん文化ぶんかである「美少女びしょうじょ漫画まんが」は、同人どうじんからげられたアニメおたくの漫画まんがおも主導しゅどうしたが、一方いっぽうでエロ劇画げきがからの転生てんせいぐみおおかった。いずれにしても、1990年代ねんだい隆盛りゅうせいした「漫画まんが」と比較ひかくすると十分じゅうぶん古臭ふるくさいもので、ある意味いみエロ劇画げきが区別くべつがつかないものもある。

この時期じきのエロ漫画まんが展開てんかいれいとして、『ホリディCOMIC』(大洋図書たいようとしょ)をげる。『ホリディCOMIC』は1985ねん12月創刊そうかんで、創刊そうかんごう表紙ひょうしひろもりしのぶ執筆しっぴつじん森山もりやまとう内山うちやま亜紀あきようし、当時とうじ美少女びしょうじょブームをんで創刊そうかんされたことがほどけるが、一方いっぽうおき圭一けいいちろう、ダーティ・松本まつもと三条さんじょう友美ゆみなどのブあついエロ劇画げきがじんようしており、1986ねんはやくも表紙ひょうしがエロ劇画げきが特有とくゆうのエアブラシとなり、純然じゅんぜんたるエロ劇画げきがとなった。1991ねん表紙ひょうしふたたびアニメになり、1993ねんにはおき圭一けいいちろうやケン月影つきかげなどの中堅ちゅうけんエロ劇画げきがぜいがいなくなり、やがてほとんど美少女びしょうじょ漫画まんがになった。このように美少女びしょうじょ漫画まんがとエロ劇画げきが狭間はざま編集へんしゅう方針ほうしんがブレまくりながらゼロ年代ねんだいまで存続そんぞくしたが、2001ねん休刊きゅうかんした。本誌ほんしがほとんど美少女びしょうじょ漫画まんがとなったのちも、エロ劇画げきがじんのダーティ・松本まつもと三条さんじょう友美ゆみだけは後期こうきまで掲載けいさいされ、しかもトップあつかいとなっていたことから、「エロ劇画げきが」と「美少女びしょうじょ漫画まんが」は完全かんぜん分断ぶんだんがあるわけではなく、また1990年代ねんだい後半こうはん古典こてんてき美少女びしょうじょ漫画まんが」の命脈めいみゃくきる時期じきまで、「美少女びしょうじょ漫画まんが」の読者どくしゃそうと「エロ劇画げきが」の読者どくしゃそう一部いちぶかぶっていたことがほどける。

1986ねんより美少女びしょうじょ漫画まんがへの鞍替くらがえに成功せいこうした『漫画まんがエロトピア』にしても、そもそも看板かんばん作家さっか前田まえだ俊夫としおであるてんからても、まだまだ劇画げきがいろく、たとえば『YOUNG HiP』(1990ねん創刊そうかん、『エロトピア』の姉妹しまい)の看板かんばん作家さっかであったおぎ寿一ひさいちや『コミックライジン』(1993ねん創刊そうかん漫画まんがエロトピア増刊ぞうかん、『COMICかい楽天らくてん』の前身ぜんしん)の看板かんばん作家さっかであった陽気ようきなどとはくらべるまでもなくふるかった。

なお、『漫画まんがエロトピア』は、1990ねんの「有害ゆうがいコミック騒動そうどう」も無事ぶじえ、その主要しゅようエロ漫画まんがとして存続そんぞく。『エロトピア』末期まっき表紙ひょうし担当たんとうはクリーチャーデザインでられる韮沢にらさわやすしで(かみおか編集へんしゅうちょう友達ともだちとのこと)、1999ねん2がつごうではスペシャルゲストとして『パタリロ!』のよるみねひさしとレディコミの女王じょおう矢萩やはぎ貴子たかこ招聘しょうへいするなど、微妙びみょう古臭ふるくさ紙面しめん維持いじしながらも、あえてマンネリにすことでのこりをはかったほか老舗しにせエロ劇画げきがとはちがって最期さいごまでニューウェーブ精神せいしんうしなわなかった。

『エロトピア』は1999ねん6がつごうよりリニューアル。ヤングよろしくグラビアを表紙ひょうしにし、ふくしま政美まさみしん連載れんさい暴乳ばくにゅうけん』(原作げんさくたけぐま健太郎けんたろう、1999ねん8がつごう-2000ねん1がつごう)、葉月はづきつや正山しょうざん小種こたね南川みなみかわめぐみ)などJUNEけい/レディコミ作家さっか起用きよう、とったただしくニューウェーブてき施策しさくおこなうも、かみおか英明ひであき編集へんしゅうちょう努力どりょくむなしく、げにはむすびつかず。すでにハイエンドけい象徴しょうちょう村田むらたれんなんじようする漫画まんがエロトピア増刊ぞうかん『COMICかい楽天らくてん』にエロ漫画まんが先導せんどうしゃとしての地位ちいゆずっており、2000ねん4がつごうをもって休刊きゅうかんした。『エロトピア』最後さいご編集へんしゅうちょうとなったかみおかは2009ねん死去しきょした。

ネオ劇画げきがムーブメント(1990年代ねんだい-2000年代ねんだい[編集へんしゅう]

1980年代ねんだいまではアニメふうのあっさりした描線が特徴とくちょうだったロリコン漫画まんが(あるいは美少女びしょうじょ漫画まんが)も、1990年代ねんだい以降いこうはエロ劇画げきがをそのなかんだともえる「い」描写びょうしゃ作品さくひんられるようになった。他方たほう、「健全けんぜん」な一般いっぱん青年せいねん漫画まんがも1990年代ねんだい以降いこう性的せいてき描写びょうしゃがタブーではなくなり、この方向ほうこうでもエロ劇画げきがとの境界きょうかい不明瞭ふめいりょうになっている。

1990年代ねんだいには、エロ劇画げきがさい評価ひょうかうごきがみられた。とくに1998ねんシュベール文庫ぶんこから刊行かんこうされたケン月影つきかげの「時代じだいげき」シリーズは、ぜん11かん刊行かんこうされる人気にんきシリーズとなった。ケン月影つきかげは2003ねんより「プレイコミック」登場とうじょうし、「つやしょく時代じだい劇画げきが[27]表紙ひょうしかざ看板かんばん作家さっかにまでなった。なお、『プレイコミック』や『漫画まんがアクション』といったかつての「一流いちりゅう劇画げきが」は、このころにはぜいちており、ケン月影つきかげはちがつかおるなどの「つやしょく劇画げきが」をすことでのこりをはかっていた。『プレイコミック』は2014ねん休刊きゅうかんした。

美少女びしょうじょ漫画まんが方面ほうめんからは、あくまで美少女びしょうじょ漫画まんがをベースとしながら作風さくふう画風がふうもエロ劇画げきがちかいところまでみ、「鬼畜きちく凌辱りょうじょくけい」「ネオ劇画げきが[26]」などとばれるサブジャンルも登場とうじょうした。1990年代ねんだいにおいてはこま一平いっぺいおにひとしなどが代表だいひょうてき作家さっかである。

サブカル方面ほうめんからは、早見はやみじゅんが「発掘はっくつ」され、2000ねんには傑作けっさくしゅう『ラヴレター・フロム彼方かなた』(太田出版おおたしゅっぱん)が刊行かんこうされた。当時とうじ漫画まんが引退いんたいしていた早見はやみじゅんは、2000ねんさいデビューした。また、「劇画げきがにく弾頭だんとう」ことふくしま政美まさみも「発掘はっくつ」され、『月刊げっかんアフタヌーン』(2005ねん5がつごう)に『ちょう市民しみんF』を発表はっぴょうした。

現在げんざい[編集へんしゅう]

エロ劇画げきがはそのも、1980年代ねんだい当時とうじの30だいから40だい中年ちゅうねん世代せだいおも読者どくしゃとして(時代じだいくだるごとに年齢ねんれいそうはそのままがる)、マンネリ化まんねりかした内容ないようたもったまま存続そんぞくしている。この雑誌ざっしにおける特異とくいなジャンルとしては、じゅくおんなあるいは人妻ひとづまもの、時代物じだいもの任侠にんきょうもの、それにギャンブルものがある。それらにエロシーンをからませたものがこの分野ぶんや主流しゅりゅうである。

雑誌ざっしかずってっている。2023ねん現在げんざい、『漫画まんがボン』(1969ねん創刊そうかん、2019ねん休刊きゅうかん)の系譜けいふぐ『漫画まんがボンジュール』、『漫画まんがローレンス』(1983ねん創刊そうかん、2020ねん休刊きゅうかん)の系譜けいふぐ『実話じつわローレンス』などが現存げんそんする。

おも作家さっか[編集へんしゅう]

1970年代ねんだいから1980年代ねんだいにかけての代表だいひょうてきなエロ劇画げきがとしては、石井いしいたかしダーティ松本まつもときた哲矢てつやむら俊一しゅんいちあがた有為ゆうい中島なかじま史雄ふみお土屋つちや慎吾しんご羽中はなかルイ宮西みやにしけいさんさかきまさる沢田さわだ竜治りゅうじ三条さんじょう友美ゆみ清水しみずおさむ玄海げんかいつとむしょうわか飯田いいだ耕一郎こういちろうなどがげられる[12][28]

また、エロ劇画げきが掲載けいさいされた艶笑えんしょう漫画まんが(エロよりもギャグにった、下品げひん漫画まんが)の作家さっかとしては、やままつゆうきちありでん邦夫くにおなどがげられる。ありでん邦夫くにおは1970年代ねんだいちゅうごろの『ガロ』に安部あべ慎一しんいちのような抒情じょじょうてき作品さくひん発表はっぴょうしながら、『漫画まんがエロジェニカ』で突如とつじょ山上やまかみたつひこのパチモノようなギャグマンガをえがはじめた、はばおおきい当時とうじなぞ作家さっかだったが、のちにイラストレーターとしてデビューした子供こどもwatabokuのtwitterによると、結局けっきょくひつって故郷こきょうかえって家業かぎょうぎ、『ガロ』以外いがい原稿げんこうはすべて処分しょぶんしてしまったという[29]。1974ねんより少年しょうねんチャンピオンに連載れんさいされた山上やまかみたつひこ『がきデカ』は、当時とうじ社会しゃかい現象げんしょうとなっていたこともあり、1970年代ねんだいちゅうごろにおいては『がきデカ』の影響えいきょうにある艶笑えんしょう漫画まんがおおかったが、1970年代ねんだいまつになるとニューウェーブの影響えいきょういシュールな艶笑えんしょう漫画まんがおおくなる。

一方いっぽう、1970年代ねんだいまつの「三流さんりゅう劇画げきがムーブメント」においては、「エロ劇画げきが」の本分ほんぶん逸脱いつだつした編集へんしゅう方針ほうしんにより、エロ劇画げきがではない作品さくひんもエロ劇画げきが多数たすう掲載けいさいされた。たとえば、吾妻あづまひでおいしかわじゅん諸星もろぼし大二郎だいじろうなどとったメジャーでも活躍かつやくする作家さっかや、芸術げいじゅつせいたかいばかりに一般いっぱんにはれられないニューウェーブばれた若手わかて作家さっかたち(ひさうちみちお蛭子えびす能収よしかず宮西みやにしけいさん安部あべ慎一しんいち鈴木すずきおきな平口ひらぐち広美ひろみ田口たぐち智朗ともあき奥平おくだいらイラまついなつき高野たかの文子ふみこ近藤こんどうようこ柴門さいもんふみ坂口さかぐちしょういがらしみきお吉田よしだ光彦みつひこさべあのま山田やまだ双葉ふたば=山田やまだ詠美えいみ峰岸みねぎしひろみなど)に実験じっけんてき作品さくひん発表はっぴょう提供ていきょうされた[12]。「エロ劇画げきが」にこれらの作家さっかによる名作めいさく掲載けいさいされていた1979ねんごろまでは「エロ劇画げきがルネッサンス」ともばれる[30]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

米沢よねざわ嘉博よしひろはエロ劇画げきがブームの意図いと経緯けいいについてつぎのように回想かいそうしている。

三流さんりゅう劇画げきがブームとわれた時代じだいから、すでに15ねんぎた。いまだからえるのだが、あれは、なかつくられたブームだった。ぼく川本かわもとこうあたりが中心ちゅうしんとなって、批評ひひょう同人どうじん漫画まんがしん批評ひひょう体系たいけい』〔ママ〕をかくに、いろんなメディアに波及はきゅうさせ、業界ぎょうかい一部いちぶ人達ひとたちがそれにノリ、『プレイガイドジャーナル』『別冊べっさつしんひょう』が参画さんかくすることでなにとかかたちになっていったというのが、実際じっさいながれだったようながする。意図いとはとわれれば、面白おもしろがりたかったからとうしかない。つまり、マンガはエロもえがきうるのだし、マンガファンにも一般いっぱんにも相手あいてにされていなかった世界せかいにも、才能さいのう変革へんかく意志いし作家さっか編集へんしゅうしゃがいることをらせたかったからだ。 — 米沢よねざわ嘉博よしひろ三流さんりゅう劇画げきが15ねん総括そうかつあお林堂はやしどう月刊げっかん漫画まんがガロ』1993ねん9がつごう特集とくしゅう三流さんりゅうエロ雑誌ざっし黄金おうごん時代じだい
個人こじんてきなことにもなるが、迷宮めいきゅうとして漫画まんが批評ひひょう漫画まんがしん批評ひひょう大系たいけい』をしていたななななねん時点じてんにおいて少女しょうじょ漫画まんがとエロ劇画げきがは、あらたな可能かのうせい漫画まんがジャンルとしてみをはじめることにもなっていった。ななななねん十二月じゅうにがつた『漫画まんがしん批評ひひょう大系たいけい』(だい2/VOL.1/迷宮めいきゅう77)において、ぼくは「戦後せんご少女しょうじょマンガのながれ」の連載れんさい開始かいしし、同時どうじ川本かわもとこうともに「三流さんりゅう劇画げきがミニマップ」を“三流さんりゅう劇画げきが共闘きょうとう会議かいぎめい掲載けいさいした。(中略ちゅうりゃく)たぶん、ここからさんりゅう劇画げきがブームはスタートしていったはずなのである。(中略ちゅうりゃく迷宮めいきゅうなか三流さんりゅう劇画げきが、エロ劇画げきが積極せっきょくてきかかわっていたのは川本かわもとこう青葉あおば伊賀いがまる、そしてぼくだ。川本かわもとはこのとしろくがつごろには『別冊べっさつ官能かんのう劇画げきが』の編集へんしゅうしゃとなり、業界ぎょうかいにつながりが出来でき迷宮めいきゅうふかかかわりのあった村上むらかみ知彦ともひこ編集へんしゅうたずさわる『プレイガイドジャーナル』に企画きかくげるなどのうごきがかさなっていく。 — 米沢よねざわ嘉博よしひろ戦後せんごエロマンガあおりん工藝こうげいしゃ 2010ねん 221-223ぺーじ
別冊べっさつしんひょう三流さんりゅう劇画げきが世界せかい』がた79ねんごろより、業界ぎょうかいはいっきに失速しっそくしていくことになる。『エロジェニカ』が会社かいしゃ倒産とうさんとも休刊きゅうかん、『劇画げきがアリス』もまもなく廃刊はいかんとなり、『だい快楽かいらく』も編集へんしゅうしゃがやめることになっていく。『カルメン』『ダイナミック』『ピラニア』など、方向ほうこうせい雑誌ざっしもあったし、『漫画まんがハンター』『漫画まんがスカット』『ラブ&ラブ』など、面白おもしろくなっていた雑誌ざっしもあった。だが、まぼろし三流さんりゅう劇画げきが全共闘ぜんきょうとううちゲバ(?)、当局とうきょくけ、自販機じはんき衰退すいたいなど様々さまざま要因よういんもあって、80年代ねんだいはいると、まるでまつりののちのようなさびしい状況じょうきょうになっていった。三流さんりゅう劇画げきがのちけたマニア中心ちゅうしんにしたニューウエーブ・ブームふくめて、70年代ねんだいまつのマイナーなマンガぐんは、80ねん前後ぜんこう相次あいついで創刊そうかんされていった『ヤングジャンプ』『ヤングマガジン』などのしん青年せいねんに、いいところだけ吸収きゅうしゅうされていくことになる。よりやすく、より有名ゆうめい作家さっかによる、あかるいSEXぶつ出回でまわれば、三流さんりゅう劇画げきがはたちうちできなかった。また時代じだいは、内山うちやま亜紀あき人気にんきでもほどけるように、劇画げきがてきえがみ、青年せいねんマンガてきくらさより、あかるいロリコンぶつもとはじめてもいた。エロ劇画げきがそのものが、ロリコンという過渡かと美少女びしょうじょコミックへと転回てんかいしていくのが80年代ねんだいだ。 — 米沢よねざわ嘉博よしひろ三流さんりゅう劇画げきが15ねん総括そうかつあお林堂はやしどう月刊げっかん漫画まんがガロ』1993ねん9がつごう特集とくしゅう三流さんりゅうエロ雑誌ざっし黄金おうごん時代じだい

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 調査ちょうさ月報げっぽう』、内閣ないかく官房かんぼうないかく調査ちょうさしつ、1959ねん5がつごう、p.36
  2. ^ 戦後せんごエロマンガ』、p.33、米沢よねざわ嘉博よしひろあおりん工藝こうげいしゃ、2010ねん
  3. ^ 日本にっぽん昭和しょうわトンデモエロ大全たいぜん』、辰巳たつみ出版しゅっぱん、2022ねん、p.98
  4. ^ a b c 現代げんだい』1979ねん3がつごう、p.60
  5. ^ 戦後せんごエロマンガ』、p.109、米沢よねざわ嘉博よしひろあおりん工藝こうげいしゃ、2010ねん
  6. ^ 日本にっぽん昭和しょうわエロ大全たいぜん辰巳たつみ出版しゅっぱん、p.48、2020ねんまれ
  7. ^ 東京とうきょう情報じょうほうコレクション』講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ編集へんしゅう、1986ねん、p.244
  8. ^ a b 別冊べっさつヤングコミック』1978ねん12月28ごう 石井いしいたかし特選とくせんしゅうNo.4 所収しょしゅう,かめ和田わだたけしせい吃音きつおんしゃたち 何故なぜいま石井いしいたかしか」
  9. ^ 『プレイコミック』1978ねん5がつ11にちごう、『やけくそ天使てんし』「これがうわさの天狗てんぐさし」
  10. ^ 私事しじですが - ネットゲリラ(2009ねん10がつ13にち配信はいしん - ウェイバックマシン(2011ねん11月20にちアーカイブぶん
  11. ^ 高取たかとりすぐる三流さんりゅう劇画げきがブーム・こうそうがった」(あお林堂はやしどう月刊げっかん漫画まんがガロ』1993ねん9がつごう特集とくしゅう三流さんりゅうエロ雑誌ざっし黄金おうごん時代じだい所載しょさい
  12. ^ a b c 米沢よねざわ嘉博よしひろ三流さんりゅう劇画げきが15ねん総括そうかつ」(あお林堂はやしどう月刊げっかん漫画まんがガロ』1993ねん9がつごう特集とくしゅう三流さんりゅうエロ雑誌ざっし黄金おうごん時代じだい所載しょさい
  13. ^ 米沢よねざわ嘉博よしひろ戦後せんごエロマンガあおりん工藝こうげいしゃ 2010ねん4がつ 253ぺーじだい33しょう/エロ劇画げきがかい再編さいへんとロリコンマンガ」
  14. ^ 週刊しゅうかん新潮しんちょう』1979ねん1がつ4にちごう
  15. ^ 高取たかとりすぐるさん馬鹿ばか劇画げきがブーム」(ダーティ・松本まつもと同人どうじん発禁はっきん20周年しゅうねんもと しん堕天使だてんしたちのきょうえん所載しょさい
  16. ^ 大塚おおつか英志えいじ『「おたく」の精神せいしん いちきゅうはち年代ねんだいろん』2016ねん ほしうみしゃ文庫ぶんこ 51-52ぺーじ
  17. ^ 『サルまん サルでもえがけるまんが教室きょうしつ 21世紀せいき愛蔵あいぞうばん 上巻じょうかん相原あいはらコージ、たけぐま健太郎けんたろう小学館しょうがくかん、2006ねん、p.91
  18. ^ 朝日あさひジャーナル』1977ねん6がつ17にちごう、p.80、菊池きくち浅次郎あさじろう俗悪ぞくあく劇画げきがせつない真摯しんしさ」
  19. ^ 思想しそう科学かがく』1978ねん9がつ、p81、「歴史れきしさんくりかえす、劇画げきがとして」小中こなか陽太郎ようたろう
  20. ^ 別冊べっさつ しんひょう 石井いしいたかし世界せかい権藤ごんどうすすむ劇画げきがのなかの石井いしいたかし」、1979ねんしんひょうしゃ
  21. ^ 武器ぶきとしての企画きかくりょく』p.225、パシフィカ、1982ねん7がつ高取たかとりすぐる水先案内みずさきあんないじんとしての三流さんりゅう文化ぶんか企画きかく
  22. ^ サンデさんで毎日まいにち』1987ねん12月20にちごう、p.160
  23. ^ 米沢よねざわ嘉博よしひろ戦後せんごエロマンガあおりん工藝こうげいしゃ 2010ねん4がつ 289ぺーじ
  24. ^ 『サルまん サルでもえがけるまんが教室きょうしつ 21世紀せいき愛蔵あいぞうばん 上巻じょうかん相原あいはらコージ、たけぐま健太郎けんたろう小学館しょうがくかん、2006ねん、p.146
  25. ^ そう創出そうしゅつばん、1986ねん6がつごう、p.42
  26. ^ a b 増補ぞうほ エロマンガ・スタディーズ: 「快楽かいらく装置そうち」としての漫画まんが入門にゅうもん永山ながやまかおる、2014ねん、「凌辱りょうじょく劇画げきがとネオ劇画げきが」(Kindleばん位置いちNo. 2236/4169)
  27. ^ 『プレイコミック』2001ねん7がつ5にち増刊ぞうかんごう
  28. ^ 伊集院いじゅういんらんまる三流さんりゅう劇画げきが作家さっか フォーカス・イン」(所載しょさい:プレイガイドジャーナルしゃプレイガイドジャーナル』1978ねん8がつごう
  29. ^ [1]
  30. ^ 北崎きたさき正人まさと三流さんりゅう劇画げきがムーブメント・エロ劇画げきがルネッサンスがのこしたもの」(月刊げっかん宝島たからじま』1982ねん3がつ臨時りんじ増刊ぞうかんごう『マンガ宝島たからじまJICC出版しゅっぱんきょく

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]