カラ・ホト城壁 じょうへき
カラ・ホト (Khara-Khoto)は内 うち 蒙 こうむ 古 こ 自治 じち 区 く アルシャー盟 めい エジン旗 はた にあるタングート の都市 とし 遺跡 いせき 。かつて居 きょ 延 のぶ 海 かい のほとりに位置 いち していた。西 にし 夏 なつ 語 ご "Eji Nai"を漢 かん 訳 やく して「亦 また 集 しゅう 乃 」、中国 ちゅうごく 語 ご では「黒 くろ 城 じょう 」[1] または「黒 くろ 水城 みずき 」と呼 よ ばれる。カラ・ホトの名 な は中古 ちゅうこ モンゴル語 ご より。マルコ・ポーロ の『東方 とうほう 見聞 けんぶん 録 ろく 』に現 あらわ れる「エチナ」に比定 ひてい されている。
カラ・ホトの歴史 れきし は1032年 ねん に遡 さかのぼ り、11世紀 せいき に交易 こうえき で栄 さか えた西 にし 夏 なつ の中心 ちゅうしん 都市 とし で、遼 りょう 朝 あさ と西域 せいいき をほぼ最短 さいたん で結 むす ぶことができる交易 こうえき 路 ろ の途上 とじょう にあった。高 たか さ9.1メートル、厚 あつ さ3.7メートルの城壁 じょうへき に囲 かこ まれ[2] 、東西 とうざい 421メートル、南北 なんぼく 374メートル[3] の囲 かこえ 郭 かく 都市 とし であった。カラ・ホトが最初 さいしょ に落城 らくじょう したのは1226年 ねん 、モンゴル帝国 ていこく のチンギス・ハン によって[4] であるが、落城 らくじょう 後 ご もモンゴルの宗主 そうしゅ 権 けん のもと、繁栄 はんえい を続 つづ けた。フビライ 治世 ちせい 下 か では西 にし 夏 なつ 時代 じだい の3倍 ばい にまで都市 とし は拡張 かくちょう されていた。元朝 がんちょう 15代 だい 皇帝 こうてい トゴン・テムル (順 じゅん 帝 みかど )は大 だい 都 と を追 お われたあとこの地 ち に潜伏 せんぷく した。カラコルム ・上 うえ 都 と ・クムル に通 つう じる交差 こうさ 路 ろ に位置 いち していた。
マルコ・ポーロは『東方 とうほう 見聞 けんぶん 録 ろく 』でこの地 ち を「エチナ」と呼 よ んだ[4] [5] [6] 。
カムピチュの
町 まち (
張 ちょう 掖 わき 市 し )から12
日 にち の
旅程 りょてい でエチナの
町 まち に
到着 とうちゃく する。
西 にし 夏 なつ 人 じん の
町 まち であり
北 きた へ
向 む かうとサンディ
砂漠 さばく (
ゴビ砂漠 ごびさばく )へと
続 つづ く。
人々 ひとびと は
偶像 ぐうぞう を
崇拝 すうはい し、
多 おお くのラクダや
牛 うし を
飼 か っている。
セーカーハヤブサ 、
ラナーハヤブサ が
多 おお く
生息 せいそく し、
住民 じゅうみん は
貿易 ぼうえき をせず、
農耕 のうこう と
牧畜 ぼくちく で
生活 せいかつ している。エチナを
抜 ぬ けると
北 きた に
砂漠 さばく が
広 ひろ がり、40
日間 にちかん は
人 ひと や
町 まち に
出会 であ うことはないため、この
地 ち で
食料 しょくりょう を
備蓄 びちく する
必要 ひつよう がある。
— Marco Polo、The Travels of Marco Polo、translated by Henry Yule, 1920
オーレル・スタイン探検 たんけん 隊 たい により南西 なんせい 角 かく の墳墓 ふんぼ を東方 とうほう から撮影 さつえい
現地 げんち の伝承 でんしょう によれば1372年 ねん モンゴルの将軍 しょうぐん カラ・バトール(英 えい : Khara Bator 、「黒 くろ い英雄 えいゆう 」の意 い )[2] が明 あかり の軍勢 ぐんぜい に包囲 ほうい され、水路 すいろ を断 た たれた[4] 。カラ・バトールは運命 うんめい を悟 さと り家族 かぞく 共々 ともども 自害 じがい した。その後 ご 、明 あかり 軍 ぐん の最終 さいしゅう 攻撃 こうげき で守兵 しゅへい と住民 じゅうみん は殲滅 せんめつ された。別 べつ の伝説 でんせつ ではカラ・バトールは城壁 じょうへき 北西 ほくせい の抜 ぬ け道 みち から脱出 だっしゅつ したといい、遺跡 いせき には馬 うま 一 いち 頭 とう 通 とお れるだけの抜 ぬ け道 みち が現在 げんざい も残 のこ されている。
カラ・ホトの見取図 みとりず
ロシア の探検 たんけん 家 か グリゴリー・ポターニン とウラジミール・オーブルチェフ はエジン河 かわ 下 しも 流域 りゅういき に古代 こだい 都市 とし があったとの噂 うわさ を耳 みみ にした。この噂 うわさ は科学 かがく アカデミー・アジア博物館 はくぶつかん に刺激 しげき を与 あた え、ピョートル・コズロフ を隊長 たいちょう とする探検 たんけん 隊 たい が結成 けっせい された[7] 。1907年 ねん から1909年 ねん の中央 ちゅうおう アジア探検 たんけん でコズロフはカラ・ホト都市 とし 遺跡 いせき の歴史 れきし 的 てき 発見 はっけん を成 な し遂 と げた。現地 げんち のタングート領主 りょうしゅ を歓待 かんたい や蓄音機 ちくおんき のプレゼントなどで懐柔 かいじゅう し、遺跡 いせき 発掘 はっくつ の許可 きょか を得 え ると1908年 ねん 5月1日 にち にカラ・ホト遺跡 いせき に入 はい り[7] 、2,000以上 いじょう の西 にし 夏 なつ 文書 ぶんしょ を発見 はっけん した[7] 。コズロフは10箱 はこ 分 ぶん の古文書 こもんじょ や仏教 ぶっきょう 遺物 いぶつ をサンクトペテルブルク に送 おく り、1909年 ねん 、残 のこ りを送 おく った。6月には書物 しょもつ と木版 もくはん 画 が が城壁 じょうへき から400メートル西方 せいほう の仏塔 ぶっとう から発見 はっけん された[7] 。
オーレル・スタイン 卿 きょう は1917年 ねん の第 だい 三 さん 次 じ 中央 ちゅうおう アジア探検 たんけん 隊 たい でカラ・ホトを8日間 にちかん 調査 ちょうさ し[6] 、その成果 せいか は報告 ほうこく 書 しょ 『中央 ちゅうおう アジア踏査 とうさ 記 き 』にまとめられた[8] [9] 。
1925年 ねん にはラングドン・ウォーナー がカラ・ホトを訪 たず ねている[4] 。
フォルケ・ベリイマン は1927年 ねん にカラ・ホトに旅 たび し、1年 ねん 半 はん 現地 げんち に滞在 たいざい して監視 かんし 塔 とう や砦 とりで 跡 あと を調査 ちょうさ 、多数 たすう の木版 もくはん 画 が を発見 はっけん し、カラ・ホトとエジン河 かわ の地図 ちず を製作 せいさく した。また、コズロフとスタインの調査 ちょうさ はいい加減 かげん でありその調査 ちょうさ 文書 ぶんしょ に一部 いちぶ 誤 あやま りがあると指摘 してき した[10] 。
スヴェン・ヘディン 率 ひき いるスウェーデン と中国 ちゅうごく の合同 ごうどう 調査 ちょうさ 隊 たい は1927年 ねん から1931年 ねん の間 あいだ 、遺跡 いせき の考古学 こうこがく 的 てき 調査 ちょうさ を行 おこな った[4] 。1935年 ねん にはジョン・デフランシス が遺跡 いせき を訪 おとず れている。
1983年 ねん から1984年 ねん の間 あいだ 、中国 ちゅうごく 、内 うち 蒙 こうむ 古 こ 考古 こうこ 研究所 けんきゅうじょ によるさらなる発掘 はっくつ 調査 ちょうさ が行 おこな われ、3,000を超 こ える古文書 こもんじょ が見付 みつ かっている[1] [4] [11] 。この発掘 はっくつ 調査 ちょうさ では書籍 しょせき 類 るい に加 くわ えて、建材 けんざい 、日 にち 用品 ようひん 、生産 せいさん 設備 せつび 、宗教 しゅうきょう 美術 びじゅつ が発掘 はっくつ された[12] 。衛星 えいせい 写真 しゃしん でもカラ・ホト遺跡 いせき が現在 げんざい も良好 りょうこう に保存 ほぞん されていることが分 わ かっている。
カラ・ホトの絹 きぬ 絵 え (エルミタージュ美術館 びじゅつかん )
コズロフの発掘 はっくつ した3,500点 てん もの絵画 かいが はサンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館 びじゅつかん に、書籍 しょせき や古文書 こもんじょ 、木版 もくはん 画 が は東洋 とうよう 学 がく 研究所 けんきゅうじょ に所蔵 しょぞう された。それらは幸運 こううん にもレニングラード包囲 ほうい 戦 せん を生 い き残 のこ り、そのうちのいくつかは1991年 ねん に「再 さい 発見 はっけん 」され[13] 、その後 ご の数 すう 年間 ねんかん 、西 にし 夏 なつ 語 ご 研究 けんきゅう の進展 しんてん に貢献 こうけん した。コズロフによってサンクトペテルブルクに送 おく られた書籍 しょせき や文献 ぶんけん はアレクセイ・イワノビッチ・イワノフによって研究 けんきゅう され、西 にし 夏 なつ 語 ご 辞書 じしょ である『番 ばん 漢 かん 合 あい 時 じ 掌中 しょうちゅう 珠 たま 』(1190年 ねん )が特定 とくてい された[12] 。
エルミタージュ美術館 びじゅつかん のカラ・ホトコレクションには文献 ぶんけん だけでなく、中国 ちゅうごく やチベット 風 ふう の仏教 ぶっきょう を主題 しゅだい とした絹 きぬ 絵 え も含 ふく まれる。加 くわ えて、ろうけつ染 ぞ め の絹 きぬ 片 へん も見付 みつ かっている[14] 。壁画 へきが の断片 だんぺん からは顔料 がんりょう としてコバルト が使用 しよう されていることが確認 かくにん されている[15]
。
エルミタージュ美術館 びじゅつかん 館長 かんちょう のKira Samosyukによれば、コレクションのほとんどは11世紀 せいき から13世紀 せいき にかけてのもので、コバルトの上薬 うわぐすり をかけた陶器 とうき の破片 はへん の殆 ほとん どは14世紀 せいき の物 もの であり、1378年 ねん から1387年 ねん よりあとの時代 じだい の絵画 かいが はない。中国 ちゅうごく 語 ご の文献 ぶんけん は1371年 ねん まで、西 にし 夏 なつ 語 ご 文献 ぶんけん は1212年 ねん 迄 まで のものしか無 な く1380年 ねん 頃 ころ に廃 はい 城 じょう となったのではないかという[16] 。
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