シモン・ド・モンフォール (Simon IV de Montfort 、1164年 ねん から1175年 ねん の間 あいだ - 1218年 ねん 6月15日 にち )は、中世 ちゅうせい フランス のモンフォール=ラモーリー 領主 りょうしゅ であり、第 だい 5代 だい レスター伯 はく であった人物 じんぶつ である。アルビジョワ十字軍 じゅうじぐん の重要 じゅうよう 人物 じんぶつ の1人 ひとり 。シモン4世 せい ・ド・モンフォールと呼 よ ばれることもあり、シモン5世 せい ・ド・モンフォールとすることもある[N 1] 。
イル=ド=フランス の男爵 だんしゃく 家 か 、モンフォール=ラモーリー家 か の一員 いちいん として生 う まれた。父 ちち はモンフォール=ラモーリー領主 りょうしゅ で同名 どうめい のシモン・ド・モンフォール (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、母 はは はアングロ=ノルマン貴族 きぞく の娘 むすめ アミシー(第 だい 3代 だい レスター伯 はく ロベール・ド・ボーモンの娘 むすめ )である。
父 ちち が亡 な くなると、シモンはモンフォール=ラモーリー家 か の頭領 とうりょう となったが、様々 さまざま な理由 りゆう からすぐにはフランス=イングランドの対立 たいりつ 関係 かんけい に参加 さんか しなかった。第 だい 一 いち に彼 かれ 自身 じしん の慎重 しんちょう さのため、第 だい 二 に に軍事 ぐんじ 遠征 えんせい はイル=ド=フランスではなくフランドル伯 はく 領 りょう で行 おこな われていたため、最後 さいご にレスター伯 はく 領 りょう に対 たい する自分 じぶん の権利 けんり が失 うしな われないようにするためである。実際 じっさい 、彼 かれ は1188年 ねん にジゾール (英語 えいご 版 ばん ) で行 おこな われたフランス王 おう フィリップ2世 せい (尊厳 そんげん 王 おう )とイングランド 王 おう ヘンリー2世 せい の会談 かいだん において政治 せいじ 的 てき に姿 すがた を見 み せたのみである。
1190年 ねん 頃 ころ 、エクアン領主 りょうしゅ およびモンモランシー男爵 だんしゃく ブシャール5世 せい の娘 むすめ アリックス(fr )と結婚 けっこん [1] 。アリックスは、フィリップ2世 せい の最初 さいしょ の王妃 おうひ イザベル・ド・エノー とはいとこの間柄 あいだがら であった。
聖地 せいち 十字軍 じゅうじぐん [ 編集 へんしゅう ]
1199年 ねん 、エクリー・シュル・エーヌで騎乗 きじょう 試合 しあい に参加 さんか した際 さい 、シャンパーニュ伯 はく ティボー3世 せい の一団 いちだん に加 くわ わり、第 だい 4回 かい 十字軍 じゅうじぐん に参加 さんか した。十字軍 じゅうじぐん はすぐにヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく が主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ り、アドリア海 あどりあかい 沿岸 えんがん のザーラ(当時 とうじ はハンガリー王国 おうこく の保護 ほご 下 か 。現在 げんざい のザダル )に向 む かった。ローマ教皇 きょうこう インノケンティウス3世 せい はキリスト教徒 きりすときょうと を攻撃 こうげき しないよう特 とく に警告 けいこく していた。シモンはザーラ攻撃 こうげき に反対 はんたい し、これではフランク人 じん たちはヴェネツィアを支持 しじ できないと主張 しゅちょう し、ザーラの代表 だいひょう 団 だん が十字軍 じゅうじぐん 側 がわ に降伏 ごうぶく しないよう待 ま った。その結果 けっか 、代表 だいひょう 団 だん はザーラへ戻 もど り、都市 とし の抵抗 ていこう は続 つづ いた。フランク人 じん 領主 りょうしゅ の大 だい 部分 ぶぶん はヴェネツィアに借金 しゃっきん をしていたので、彼 かれ らはザーラ攻撃 こうげき を支持 しじ し、1202年 ねん に都市 とし は陥落 かんらく して略奪 りゃくだつ された。シモンはこの行 おこな いに参加 さんか せず、最 もっと も率直 そっちょく に批判 ひはん した1人 ひとり だった。彼 かれ と彼 かれ の仲間 なかま たちは、アレクシオス4世 せい アンゲロス を東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の帝位 ていい につけるために十字軍 じゅうじぐん がコンスタンティノープル に向 む かう決定 けってい が下 くだ されると、十字軍 じゅうじぐん から離脱 りだつ した。代 か わりに、シモンと追従 ついしょう 者 しゃ たちはハンガリー 王 おう イムレ の宮廷 きゅうてい へ旅 たび し、そこからアッコン へ向 む かった。
1204年 ねん 、第 だい 4代 だい レスター伯 はく ロベール(シモンの叔父 おじ )が嫡子 ちゃくし のないまま没 ぼっ し、母 はは アミシーが領地 りょうち の半分 はんぶん を相続 そうぞく してレスター伯 はく 領 りょう の請求 せいきゅう を行 おこな った。領地 りょうち の分割 ぶんかつ は1207年 ねん 初頭 しょとう に行 おこな われ、最初 さいしょ に権利 けんり はアミシーとシモンに譲渡 ゆずりわた された。しかし、イングランド王 おう ジョン (欠 かけ 地 ち 王 おう )は自 みずか らがノルマンディー 、アンジュー 、メーヌ 、ポワトゥー に持 も つ領地 りょうち をフランスに占領 せんりょう されると、フランスの男爵 だんしゃく たちがイングランドに持 も つ全 すべ ての所領 しょりょう を没収 ぼっしゅう した。
アルビジョワ十字軍 じゅうじぐん [ 編集 へんしゅう ]
シモンはフランスの領地 りょうち に滞在 たいざい していたが、再 ふたた び十字架 じゅうじか を掲 かか げキリスト教徒 きりすときょうと の異端 いたん 征伐 せいばつ に向 む かうことになった。1206年 ねん 頃 ころ 、友人 ゆうじん のヴォー・ド・セルネー修道 しゅうどう 院長 いんちょう ギーが、ドミニコ・デ・グスマン やピエール・ド・カステルノー (英語 えいご 版 ばん ) といった聖職 せいしょく 者 しゃ たちともに、オクシタニア の異端 いたん カタリ派 は を改宗 かいしゅう させるべく説教 せっきょう するよう要請 ようせい された。彼 かれ らの伝道 でんどう 活動 かつどう はほんのわずかしか成果 せいか を得 え られず、教皇 きょうこう 特使 とくし カステルノーはトゥールーズ伯 はく レーモン6世 せい を破門 はもん した。ところがカステルノーは1208年 ねん 1月 がつ 14日 にち に暗殺 あんさつ された。インノケンティウス3世 せい はカタリ派 は 征伐 せいばつ の遠征 えんせい 隊 たい 派遣 はけん を決 き め、聖地 せいち で戦 たたか った者 もの と同 おな じく、免罪 めんざい 符 ふ と特別 とくべつ なはからいをカタリ派 は 征伐 せいばつ の戦士 せんし に与 あた えることにした[N 2] 。ポブレー修道院 しゅうどういん の修道 しゅうどう 士 し アルノー・アモーリーと院長 いんちょう ギーはフランス王国 おうこく 内 ない を歩 ある いて回 まわ り、男爵 だんしゃく たちに『十字軍 じゅうじぐん 』に参加 さんか するよう説 と いた[N 3] · [2] 。
シモンは1209年 ねん のアルビジョワ十字軍 じゅうじぐん 最初 さいしょ の遠征 えんせい に加 くわ わった。自 みずか らの領土 りょうど に対 たい する脅威 きょうい を避 さ けるため、1209年 ねん 6月18日 にち に名誉 めいよ ある振 ふ る舞 ま いを表明 ひょうめい したレーモン6世 せい も十字軍 じゅうじぐん に参加 さんか した[3] 。十字軍 じゅうじぐん の騎士 きし たちはリヨン 近郊 きんこう で集会 しゅうかい を開 ひら き、アモーリー指揮 しき のもと南部 なんぶ へ向 む かった[N 4] 。レーモン6世 せい が十字軍 じゅうじぐん の一員 いちいん となれば、もはや目的 もくてき はトゥールーズ伯 はく 領 りょう ではなく、カタリ派 は が多 おお く暮 く らす、ベジエ およびカルカソンヌ 子爵 ししゃく レーモン=ロジェ・トランカヴェル(fr )の領地 りょうち であった[4] 。ベジエおよびカルカソンヌ陥落 かんらく の後 のち 、トランカヴェルは子爵 ししゃく 位 い から追 お われ、参加 さんか した男爵 だんしゃく たちの中 なか から後継 こうけい 者 しゃ が選 えら ばれた[N 5] 。シモンが選 えら ばれ、トランカヴェル家 か から没収 ぼっしゅう した領地 りょうち を継承 けいしょう した。彼 かれ はトゥールーズ伯 はく の領土 りょうど を征服 せいふく し、これによりオクシタニア最大 さいだい の地主 じぬし となった。1209年 ねん 11月 がつ 10日 とおか 、幽閉 ゆうへい されていたレーモン=ロジェ・トランカヴェルが急死 きゅうし した。モンフォールの敵 てき たちが、彼 かれ がトランカヴェルを暗殺 あんさつ したと噂 うわさ を広 ひろ めた。オクシタニアで反乱 はんらん が起 お き、シモンのいとこにあたるマルリー領主 りょうしゅ ブシャールが、トランカヴェル家 か 家臣 かしん ピエール・ロジェ・ド・カバレに捕 とら えられたうえ、城 しろ のいくつかは包囲 ほうい され、オクシタニア側 がわ とその軍勢 ぐんぜい によって奪取 だっしゅ された。シモンはいくつかの都市 とし にしか頼 たよ れず、オクシタニアを完全 かんぜん に征服 せいふく する準備 じゅんび を行 おこな わなければならなかった。この時 とき 、妻 つま のアリックス・ド・モンモランシーは軍勢 ぐんぜい を連 つ れて夫 おっと に合流 ごうりゅう している。
シモンはその冷酷 れいこく さで恐 おそ れられた。シモンの残虐 ざんぎゃく 行為 こうい を、20世紀 せいき と21世紀 せいき の人々 ひとびと が野蛮 やばん だと思 おも うだろうが、彼 かれ の行為 こうい は13世紀 せいき においては当然 とうぜん のことだった。シモンは大勢 おおぜい のカタリ派 は 信徒 しんと を火刑 かけい にした。彼 かれ は、カタリ派 は を異端 いたん と非難 ひなん する教会 きょうかい の、世俗 せぞく 権力 けんりょく 者 しゃ としてふるまった。1210年 ねん 、彼 かれ はミネルヴ の村 むら で改宗 かいしゅう を拒否 きょひ したカタリ派 は 住民 じゅうみん 140人 にん を火刑 かけい にした(改宗 かいしゅう した者 もの の命 いのち は救 すく った)。別 べつ の広 ひろ く知 し られた事件 じけん として、ラストゥールの村 むら の略奪 りゃくだつ 前 まえ に、彼 かれ は近 ちか くのブラム村 むら から捕虜 ほりょ を連行 れんこう させ、彼 かれ らの目玉 めだま をくりぬき、鼻 はな と耳 みみ 、唇 くちびる を切 き り落 お とした。片目 かため だけ残 のこ された捕虜 ほりょ 1人 にん が先導 せんどう して、盲目 もうもく の人々 ひとびと を村 むら へ連 つ れ帰 かえ ったという。
シモンの十字軍 じゅうじぐん の仲間 なかま たちは、彼 かれ らの封建 ほうけん 領主 りょうしゅ であるフィリップ2世 せい を全面 ぜんめん 的 てき に支持 しじ していた。フィリップ2世 せい はジョンからノルマンディーを攻略 こうりゃく すると、十字軍 じゅうじぐん の主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ るべくインノケンティウス3世 せい に接近 せっきん するが、これを断 ことわ られた。フィリップ2世 せい はジョンに対 たい して、そしてイングランドが神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく およびフランドルと結 むす んだ同盟 どうめい に対抗 たいこう し、己 おのれ の利益 りえき を守 まも ることに執着 しゅうちゃく した。
しかし、フィリップ2世 せい はトゥールーズ伯 はく 家 か の領地 りょうち に対 たい してフランス王 おう の完全 かんぜん な権利 けんり を主張 しゅちょう した。歴史 れきし 家 か の中 なか には、王 おう がモンフォールや北部 ほくぶ の男爵 だんしゃく たちを南 みなみ フランスへ派遣 はけん したのは、少 すく なくともフランス王権 おうけん を再 ふたた び主張 しゅちょう するための遠征 えんせい であったと信 しん じる者 もの がいる。フィリップ2世 せい は、彼 かれ の結婚 けっこん をめぐる長 なが い論争 ろんそう で王国 おうこく 全体 ぜんたい が聖 ひじり 務 つとむ 停止 ていし を命 めい じられる事態 じたい に至 いた ったため、教皇 きょうこう 庁 ちょう を軟化 なんか させたかったのかもしれない[5] 。
シモンは、宗教 しゅうきょう 的 てき に正統 せいとう 派 は に属 ぞく する者 もの とみなされ、ドミニコ会 かい や異端 いたん の弾圧 だんあつ と深 ふか く関 かか わっていた。ドミニコは、シモンの本営 ほんえい が置 お かれたファンジョーを中心 ちゅうしん に数 すう 年間 ねんかん フランス南部 なんぶ で、特 とく に十字軍 じゅうじぐん の活動 かつどう が低下 ていか する冬季 とうき に活動 かつどう した。シモン側 がわ には、他 ほか にも主要 しゅよう な同盟 どうめい 者 しゃ たち、ブルゴーニュ 公 おおやけ ウード3世 せい 、ドンジー領主 りょうしゅ エルヴェ4世 せい 、ブルゴーニュ家令 かれい ゴーシェ3世 せい ・ド・シャティヨン(fr )がいた。多 おお くの歴史 れきし 家 か たちは、貪欲 どんよく な北 きた フランスの貴族 きぞく たちが南 みなみ フランスの土地 とち を征服 せいふく したとみなしている。彼 かれ らの多 おお くは第 だい 4回 かい 十字軍 じゅうじぐん に関 かか わっていた。そのうちの1人 ひとり ギーは、シモンのモンフォール=ラモーリー領 りょう から30マイルも離 はな れていないところにあるシトー会 かい 派 は ヴォー・ド・セルネー修道院 しゅうどういん の院長 いんちょう で、ラングドック への十字軍 じゅうじぐん に同行 どうこう し、後 のち にカルカソンヌ司教 しきょう となった。アルビジョワ十字軍 じゅうじぐん の間 あいだ 、ギーの甥 おい にあたるピエールが十字軍 じゅうじぐん について記述 きじゅつ した。歴史 れきし 家 か は総 そう じて、これが十字軍 じゅうじぐん の行動 こうどう を正当 せいとう 化 か するための宣伝 せんでん と考 かんが えている。ピエールは、十字軍 じゅうじぐん の残虐 ざんぎゃく 行為 こうい を、道徳 どうとく 的 てき に堕落 だらく した異端 いたん 者 しゃ に対 たい する『神 かみ の御 ご 業 ぎょう 』であると正当 せいとう 化 か した。彼 かれ は反対 はんたい に、南仏 なんふつ の領主 りょうしゅ たちが犯 おか した暴虐 ぼうぎゃく を記 しる している。
『シモン・ド・モンフォールの死 し 』、アルフォンス・マリー・ド・ヌヴィル画 が 、1883年 ねん
シモンは精力 せいりょく 的 てき な冒険 ぼうけん 者 しゃ で、彼 かれ と同 おな じ信仰 しんこう をかつて持 も ちながら捨 す てた人々 ひとびと を攻撃 こうげき するため軍 ぐん を素早 すばや く動 うご かした。情勢 じょうせい が自分 じぶん に有利 ゆうり だと思 おも えばいつでも地方 ちほう 領主 りょうしゅ たちは寝返 ねがえ りを繰 く り返 かえ すため、シモンの敵 てき は常 つね に多 おお かった。南仏 なんふつ は、高度 こうど に要塞 ようさい 化 か された都市 とし トゥールーズ 、カルカソンヌ、ナルボンヌ があるのと同様 どうよう に、小 ちい さな要塞 ようさい 化 か した町 まち のある、ウサギの巣 す 穴 あな のようにごみごみした場所 ばしょ だった。シモンは誓約 せいやく を裏切 うらぎ った者 もの に対 たい して特 とく に残虐 ざんぎゃく であるのと同様 どうよう に冷酷 れいこく さと大胆 だいたん さを示 しめ した。
ちょうど同 おな じころ、ナバス・デ・トロサの戦 たたか い でイスラム軍 ぐん を破 やぶ ったアラゴン 王 おう ペドロ2世 せい は、シモンの進軍 しんぐん を憂慮 ゆうりょ し、トゥールーズ伯 はく とフォワ伯 はく 、コマンジュ伯 はく を自 みずか らの保護 ほご 下 か に置 お いていた。1213年 ねん 8月 がつ 、ペドロ2世 せい はピレネー山脈 さんみゃく を越 こ えてミュレ で3人 にん の伯 はく たちと合流 ごうりゅう した。シモンは同盟 どうめい 軍 ぐん を攻撃 こうげき し、9月12日 にち にミュレの戦 たたか い でペドロ2世 せい を破 やぶ った。これはアルビジョワ派 は の完全 かんぜん な敗北 はいぼく であったが、シモンは征服 せいふく 戦争 せんそう としての遠征 えんせい を続 つづ けた。1215年 ねん 12月、第 だい 4ラテラン公 こう 会議 かいぎ の終 お わりに教皇 きょうこう インノケンティウス3世 せい は、トゥールーズ伯 はく およびナルボンヌ公 こう 、カルカソンヌ子爵 ししゃく 、ベジエ子爵 ししゃく の領地 りょうち と称号 しょうごう をシモンに与 あた えた。彼 かれ はトゥールーズ伯 はく 領 りょう の多 おお くの場所 ばしょ で2年間 ねんかん を戦争 せんそう に費 つい やした。1216年 ねん 4月 がつ 10日 とおか 、ムラン において彼 かれ はフランス王 おう から伯 はく として目通 めどお りを許 ゆる されている。ナルボンヌ公 こう となったことで、ナルボンヌ大司教 だいしきょう アルノー・アモーリーと対立 たいりつ するまでに長 なが い時間 じかん はかからなかった。
ボーケール の町 まち はトゥールーズ伯 はく に忠実 ちゅうじつ で、レーモン6世 せい の息子 むすこ レーモン7世 せい に対 たい して門戸 もんこ を開 ひら いた。1216年 ねん 6月2日 にち から8月 がつ 24日 にち まで、シモンはボーケールを包囲 ほうい した。
レーモン7世 せい はアルビジョワ十字軍 じゅうじぐん の期間 きかん の間 あいだ 、多 おお くの時間 じかん をアラゴンで過 す ごしたが、トゥールーズにいる協力 きょうりょく 者 しゃ とつながっていた。1216年 ねん 9月 がつ 、レーモンがトゥールーズへ向 む かったという噂 うわさ が流 なが れた。ボーケールの包囲 ほうい を解 と いて、シモンはトゥールーズへ向 む かい、市民 しみん の処罰 しょばつ を意図 いと して市街 しがい を部分 ぶぶん 的 てき に略奪 りゃくだつ した。フォワ伯 はく 、カタルーニャ およびアラゴン連合 れんごう 軍 ぐん と組 く んだレーモン7世 せい は1217年 ねん 10月にトゥールーズを取 と り戻 もど した。シモンは急 いそ いで町 まち を包囲 ほうい し、妻 つま アリックスをトゥールーズ司教 しきょう フルクらと共 とも にフランス宮廷 きゅうてい へ派遣 はけん し、王 おう に支援 しえん を訴 うった えた。9か月 げつ 間 あいだ 包囲 ほうい し続 つづ けた後 のち 、シモンは1218年 ねん 6月 がつ 25日 にち に立 た て籠 こ もった市民 しみん 側 がわ に殺害 さつがい された。ある情報 じょうほう によると、『トゥールーズの婦女子 ふじょし ら(donas e tozas e mulhers)』が操 あやつ るマンゴネル から放 はな たれた石 いし が、彼 かれ の頭 あたま に命中 めいちゅう したという。彼 かれ の遺体 いたい は当時 とうじ の習慣 しゅうかん に従 したが って整 ととの えられ[6] 、カルカソンヌのサン・ナゼ―ル教会 きょうかい に埋葬 まいそう された。1224年 ねん 、息子 むすこ アモーリー6世 せい (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) によって遺体 いたい は最終 さいしゅう 的 てき にイル=ド=フランスへ送 おく られ、モンフォール=ラモーリー近郊 きんこう のオート=ブリュイエール王立 おうりつ 修道院 しゅうどういん (フォントヴロー会派 かいは )に再 さい 埋葬 まいそう されている。
アモーリー (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) (1191年 ねん - 1241年 ねん ) - レスター伯 はく
ギー(1195年 ねん - 1220年 ねん ) - ビゴール伯 はく ベアトリスと結婚 けっこん し、共同 きょうどう 統治 とうち 者 しゃ となった
ロベール(1226年 ねん 没 ぼつ )
シモン (1208年 ねん - 1265年 ねん ) - レスター伯 はく
アミシー(1253年 ねん 没 ぼつ ) - シャトー=ルナール領主 りょうしゅ ゴーシェ・ド・ジョワニーの妻 つま 。後 のち にモンタルジ のドミニコ会 かい 修道院 しゅうどういん を創建 そうけん
ロール(1227年 ねん 没 ぼつ ) - ピキニー領主 りょうしゅ ジェラール3世 せい と結婚 けっこん
ペトロニーユ(生 なま 没年 ぼつねん 不明 ふめい ) - 修道 しゅうどう 女 おんな 。後 のち にパリのサンタントワーヌ修道院 しゅうどういん 院長 いんちょう となった
^ 長 なが い間 あいだ 、この記事 きじ の人物 じんぶつ の父 ちち にあたるシモン(fr 、1188年 ねん 没 ぼつ )は、シモン3世 せい ・ド・モンフォール(fr 、1181年 ねん 没 ぼつ )と混同 こんどう されてきた。この状況 じょうきょう は、シモン・ド・モンフォールという同名 どうめい 人物 じんぶつ のナンバリングの問題 もんだい を引 ひ き起 お こした。インターネット・サイトMedlandsにおいて、1188年 ねん 没 ぼつ の人物 じんぶつ はシモン4世 せい とされ、1218年 ねん 没 ぼつ のシモン・ド・モンフォールはシモン5世 せい とされている。MedLands .
^ 先 さき の十字軍 じゅうじぐん とはその精神 せいしん がかなり異 こと なるが、この遠征 えんせい はアルビジョワ十字軍 じゅうじぐん の名 な を採用 さいよう した。初期 しょき の十字軍 じゅうじぐん の目的 もくてき は、聖地 せいち に赴 おもむ き、東方 とうほう のキリスト教徒 きりすときょうと を守 まも り、コンスタンティノープルを脅 おびや かすトルコを撃退 げきたい することだった。だが、目的 もくてき 地 ち をコンスタンティノープルに変 か えられた第 だい 4回 かい 十字軍 じゅうじぐん の参加 さんか 者 しゃ たちは、キリスト教徒 きりすときょうと たち(正教会 せいきょうかい )と戦 たたか ったことで大義 たいぎ を失 うしな い、崩壊 ほうかい する寸前 すんぜん にあった。アルビジョワ十字軍 じゅうじぐん の経過 けいか から、我々 われわれ は十字軍 じゅうじぐん の概念 がいねん の変化 へんか を目 ま の当 あ たりにしている。この概念 がいねん は、フリードリヒ2世 せい に対 たい する十字軍 じゅうじぐん 、対 たい アラゴン王国 おうこく 、対 たい フス派 は 十字軍 じゅうじぐん において再 ふたた び取 と り上 あ げられることになる。
^ 男爵 だんしゃく にとって、オクシタニアへの遠征 えんせい は聖地 せいち 遠征 えんせい よりも安上 やすあ がりだったので、アルビジョワ十字軍 じゅうじぐん は彼 かれ らにとって贖罪 しょくざい と神 かみ の免罪 めんざい が低 てい 価格 かかく で手 て に入 い れられるという恩恵 おんけい があった
^ 理 り にかなって、彼 かれ らの人数 にんずう は50,000人 にん ほどと推定 すいてい される(voir (Paladilhe 1988 , p. 86)).
^ 広 ひろ く信 しん じられている説 せつ とは異 こと なり、シモンではなく、正 まさ しくは教皇 きょうこう 特使 とくし アモーリーが『彼 かれ らを皆殺 みなごろ しにせよ。神 かみ はそれをお認 みと めになる』と発言 はつげん した。当時 とうじ 、シモンはサンス大司教 だいしきょう 、クレルモン司教 しきょう 、ブルゴーニュ公 こう 、ヌヴェール伯 はく といった主要 しゅよう な十字軍 じゅうじぐん 参加 さんか 者 しゃ よりはるかに地位 ちい が低 ひく かった。
Dominique Paladilhe, Simon de Montfort, Librairie Académique Perrin, 1988 (réimpr. 1997), 324 p. (ISBN 2-262-01291-1 ). Rééd. Via Romana, 2011, 262 p. (ISBN 978-2-916727-59-2 )
Chronique, 1145 - 1275. Guillaume de Puylaurens. Traduit, présenté et annoté par Jean Duvernoy. Toulouse, Le Pérégrinateur éditeur.
先代 せんだい レーモン・ロジェ・トランカヴェル
アルビ、ベジエ、カルカソンヌ子爵 ししゃく 1209年 ねん - 1218年 ねん
次代 じだい アモーリー6世 せい
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 人物 じんぶつ その他 た