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シャーロット・ブロンテ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
シャーロット・ブロンテの肖像しょうぞうジョージ・リッチモンド英語えいごばん、1850ねん

シャーロット・ブロンテ(Charlotte Brontë、1816ねん4がつ21にち - 1855ねん3月31にち)は、イギリス小説しょうせつヨークシャーソーントンうまれ。

ブロンテさん姉妹しまい長姉ちょうし当時とうじ社会しゃかい通念つうねん反逆はんぎゃくした同名どうめい女性じょせいえがいた『ジェーン・エア』で反響はんきょうんだ(カラー・ベルの筆名ひつめい刊行かんこう)。ほかに自伝じでんてきな『ヴィレット』などがある。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

1816ねん4がつ21にち、イギリスのヨークシャーソーントンに、牧師ぼくしパトリック・ブロンテ英語えいごばん[1]つまマリア・ブランウェル英語えいごばんさんじょとしてまれた。パトリックは子供こどもたちを気遣きづかい、その成長せいちょうふか関心かんしんせる、愛情あいじょうふか父親ちちおやだったとわれる[2]。1820ねんにパトリックはハワース牧師ぼくし任命にんめいされて牧師ぼくしかんうつり、翌年よくねんの1821ねんははマリアががん危篤きとく状態じょうたいになり、マリアのあね、シャーロットにとっては伯母おばエリザベス・ブランウェル英語えいごばんペンザンスから看病かんびょうたった[2]。マリアは9月に38さい死去しきょし、ブランウェル伯母おばがハワースにまり、育児いくじ家事かじおこなった[2]

1824ねん8がつあね2人ふたりと2さいいもうとエミリーともランカシャーのカウアン・ブリッジこう入学にゅうがくする。同年どうねん、パトリックは年配ねんぱい未亡人みぼうじんタビサ・アクロイドを牧師ぼくしかん使用人しようにんとしてやとい、彼女かのじょ以降いこう30ねんわたって一家いっかささえ、あいされた[2]

カウアン・ブリッジこう施設しせつ環境かんきょう劣悪れつあくであり、あね2にん寄宿舎きしゅくしゃ不衛生ふえいせい原因げんいん肺結核はいけっかくにかかり、1825ねんに11さいと10さい死去しきょした。この学校がっこうは『ジェーン・エア』のローウッド学院がくいんのモデルであり、ローウッド学院がくいん不衛生ふえいせい管理かんり粗末そまつものによるひもじさは実体験じつたいけんもとづいている[3]。また、『ジェーン・エア』のヘレン・バーンズのモデルは4さいすえいもうとアンであったことを、シャーロットは示唆しさしている[3]

シャーロットとエミリーはいえもどされ、そのまま学校がっこうにはもどらず、きょうだいは牧師ぼくしかん一緒いっしょごし、パトリックとブランウェル伯母おば教育きょういくけ、読書どくしょあそびをおこな生活せいかつが5ねんはんつづいた[3]。きょうだいは幅広はばひろ読書どくしょおこない、とく政治せいじ文学ぶんがくについての論評ろんぴょうなど多彩たさいもの掲載けいさいされた「ブラックウッズ・マガジン」を愛読あいどくし、知的ちてき刺激しげきけた[3]。シャーロットは1さいおとうとブランウェル英語えいごばん(パトリック・ブランウェル)[4]とのシェアード・ワールドのファンタジー「アングリア物語ものがたり」など、おおくの戯曲ぎきょくく。ブロンテにはあまりたくわえがなく、シャーロットは年長ねんちょうしゃとして一家いっか家計かけいたすけなければという義務ぎむかんから、1831ねんより私塾しじゅくで1ねんはんまなび、1835ねんにロウ・ヘッド・スクールに教師きょうしとして赴任ふにんした[5]。シャーロットは教師きょうし仕事しごと忙殺ぼうさつされてフラストレーションをつのらせ、ブランウェルが「アングリア物語ものがたり」を主導しゅどうした[5]。シャーロットとブランウェルは文学ぶんがくてようとかんがえ、シャーロットは1837ねん桂冠詩人けいかんしじんロバート・サウジーえて手紙てがみおくり、評価ひょうかされたが、「文学ぶんがくは、女性じょせい一生いっしょう仕事しごとにはなりえないし、そうであってはならない」と忠告ちゅうこくけた[6]

その家庭かてい教師きょうしとして各地かくち転々てんてんとする。牧師ぼくしかんもどるといもうと相談そうだん私塾しじゅくひらくことを計画けいかくし、エミリーとともに1842ねんベルギーブリュッセルにあるエジェ寄宿きしゅく学校がっこう留学りゅうがく一時期いちじき伯母おばのためにイギリスにもどるが、エミリーをのこしてふたたびブリュッセルにもどった。だがエジェ寄宿きしゅく学校がっこう学長がくちょうおっと恋慕れんぼいてしまい、1ねんらずで帰国きこく。その私塾しじゅくひらくが、入塾にゅうじゅく希望きぼうしゃあらわれなかった。

ブランウェル、1848ねん

1846ねん5がつ男性だんせいふうのカラー・ベルの筆名ひつめいで、3姉妹しまい共同きょうどう詩集ししゅうカラー、エリス、アクトン・ベルの詩集ししゅう英語えいごばん』を出版しゅっぱんする。2しかれなかったが、3にん小説しょうせつはじめ、シャーロットは「教授きょうじゅ英語えいごばん」を完成かんせいさせた。この作品さくひん出版しゅっぱんしゃってもらえなかったが(死後しご出版しゅっぱん)、ちち看病かんびょう合間あいまだい2さく「ジェーン・エア」を執筆しっぴつし、1847ねん10がつにカラー・ベルの筆名ひつめい刊行かんこう社会しゃかい反抗はんこうする同名どうめいおんな主人公しゅじんこうだい反響はんきょうび、その名前なまえひろられるようになった。しかし翌年よくねん、ブランウェルが31さい死亡しぼうすると、おなねんすえにエミリーも30さい死亡しぼう。さらに翌年よくねんにはアンたおれ、29さいぼっした。

ロンドンにるようにさそわれるようになると、身元みもとあきらかにし、エリザベス・ギャスケルウィリアム・サッカレーらとまじわった。作品さくひんも『シャーリー英語えいごばん』(1849ねん)、『ヴィレット英語えいごばん』(1853ねん)などを発表はっぴょう、1854ねん6がつふく牧師ぼくしアーサー・ベル・ニコルズ英語えいごばん[7]結婚けっこんした。だが妊娠にんしんちゅう妊娠にんしん中毒ちゅうどくしょうにかかり、1855ねん3月31にち、「エマ」を未完みかんのまま胎内たいない子供こどもとも死去しきょした。38さいぼつ。6にんあねおとうとなかもっとながきたが、いずれも子孫しそんのこさず早世そうせいしたため、彼女かのじょによってブロンテ断絶だんぜつした。

ながあいだシャーロット・ブロンテの写真しゃしんだとおもわれてきた、親友しんゆうエレン・ナッシー英語えいごばん[8]写真しゃしん
ジョージ・リッチモンドのもと死後しごえがかれた、理想りそうされた肖像しょうぞう、1873ねん

友人ゆうじんエリザベス・ギャスケルによる伝記でんき『シャーロット・ブロンテの生涯しょうがい[9]がある。ギャスケルは、ちちパトリックを人間にんげんきらいで、子供こどもたちへの興味きょうみうす人物じんぶつとしてえがいたが、彼女かのじょ収集しゅうしゅうしたパトリックの情報じょうほうにはあやまりもおおざっており、実像じつぞうとはことなるとわれる[2]

作品さくひん一覧いちらん[編集へんしゅう]

若年じゃくねん作品さくひん
  • A Book of Ryhmes (1829ねん豆本まめほん[10]
  • ヤング・メンズ・マガジン英語えいごばん 1 – 3 (1830ねん8がつ豆本まめほん[11][12]
  • The Bridal婚礼こんれい。1832ねん[13]
  • The Secret秘密ひみつ。1833ねん[14]
  • High Life in Verdopolis(ヴェルドポリスの上流じょうりゅう社会しゃかい。1834ねん[14]
  • The Spell(のろい。1834ねん[14][15]:146
  • Lily Hart[15]:157
  • The Foundling[16]
  • Albion and Marina(アルビオンとマリーナ)[15]:129
  • Tales of the Islandersしまじんたちの物語ものがたり[17]
  • Tales of Angria (アングリア物語ものがたり。1838ねん – 1839ねん執筆しっぴつ。5つの短編たんぺん小説しょうせつふく幼年ようねんヤングアダルト作品さくひんのコレクション。)
    • Mina Laury[15]:119
    • Stancliffe's Hotel[15]:166
    • The Duke of Zamorna
    • Henry Hastings[15]:15,100
    • Caroline Vernon[15]:46
    • The Roe Head Journal Fragments[15]:147
    • Farewell to Angria(アングリアよさらば)[18]

The Green Dwarf, A Tale of the Perfect Tense』は、「グラス・タウン英語えいごばん」と「アングリア物語ものがたり」の中編ちゅうへん小説しょうせつ[19]、1833ねんにチャールズ・アルバートきょうフロリアン・ウェルズリー(Lord Charles Albert Florian Wellesley。一連いちれん物語ものがたり主人公しゅじんこうかくのひとりウェリントン公爵こうしゃく長子ちょうしアーサー・ウェルズリーのおとうとで、皮肉ひにくかた[20])のをペンネームにかれた作品さくひん[21]ウォルター・スコット影響えいきょうられ、シャーロットがそれまでのゴシック様式ようしきくわえたことから、クリスティン・アレクサンダーはこの作品さくひんで、「(シャーロット・)ブロンテはゴシック様式ようしきそのものにきていたことがあきらかだ」とコメントしている[22]

「1839ねんまつ、(シャーロット・)ブロンテは『Farewell to Angria(アングリアよさらば)』とばれる原稿げんこうで、ファンタジー世界せかいわかれをげた。彼女かのじょは、現実げんじつ世界せかいまるより、イマジネーションの世界せかいむことを、ますますこのむようになり、自分じぶんくるってしまうのではないかとおそれるようになったため、(ファンタジー世界せかいの)キャラクターや情景じょうけい題材だいざいわかれをげたのである。(中略ちゅうりゃく彼女かのじょは「友人ゆうじんたち」から自分じぶんはなし、未知みち世界せかいあしれたときかんじたいたみについてつづった。[18]

小説しょうせつ
  • カラー、エリス、アクトン・ベルの詩集ししゅう

日本語にほんごばん全集ぜんしゅう[編集へんしゅう]

  • 『ブロンテ全集ぜんしゅう』(みすず書房しょぼう ぜん12かん)- シャーロットたんちょは6かんぶん
  • 『シャーロット・ブロンテ書簡しょかん全集ぜんしゅう註解ちゅうかい』(いろどりりゅうしゃ ぜん3かん、2009ねん
  • 『ブロンテ姉妹しまいエッセイ全集ぜんしゅう ベルジャン・エッセイズ』(いろどりりゅうしゃ、2016ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本語にほんごやくに『パトリック・ブロンテ著作ちょさく全集ぜんしゅう』(中岡なかおかひろしへんやくいろどりりゅうしゃ、2013ねん)。
  2. ^ a b c d e 平田ひらた 2016, pp. 763–764.
  3. ^ a b c d 平田ひらた 2016, pp. 765–766.
  4. ^ 著作ちょさく訳書やくしょに『ブランウェル・ブロンテぜん詩集ししゅう』(2かんぐみいろどりりゅうしゃ、2013ねん
  5. ^ a b 平田ひらた 2016, pp. 765–767.
  6. ^ 平田ひらた 2016, pp. 767–768.
  7. ^ 伝記でんきに『ミスター・シャーロット・ブロンテ アーサー・ベル・ニコルズの生涯しょうがい』(アラン・H・アダムソン、樋口ひぐち陽子ようこやくいろどりりゅうしゃ、2015ねん
  8. ^ 杉村すぎむら 2005, p. 4.
  9. ^ 訳書やくしょは『ギャスケル全集ぜんしゅう 7 シャーロット・ブロンテの生涯しょうがい』(山脇やまわき百合子ゆりこやく大阪おおさか教育きょういく図書としょ、2005ねん)。ギャスケルの伝記でんきあやまちと偏見へんけん修正しゅうせいした、現代げんだい英国えいこくブロンデ研究けんきゅうしゃによる伝記でんきに『ブロンテ姉妹しまい作家さっかとしての生涯しょうがい シャーロットとエミリを中心ちゅうしんに』(トム・ウィニフリス/エドワード・チタム、内田うちだのう嗣ほかやくえいたからしゃ、2009ねん)が刊行かんこうしている。
  10. ^ Nathan-Kazis, Josh (2022ねん4がつ25にち). “Brontë Manuscript Buyer Will Donate Book To Museum”. Barron's. 2022ねん4がつ27にち閲覧えつらん
  11. ^ Barnard, Robert (2007). A Brontë encyclopedia. Louise Barnard. Malden, MA: Blackwell Pub. pp. 29, 34–35. ISBN 978-1-4051-5119-1. OCLC 76064670. https://www.worldcat.org/oclc/76064670 
  12. ^ Glen, Heather (2004). Charlotte Brontë : the imagination in history. Oxford: Oxford University Press. pp. 9. ISBN 978-1-4294-7076-6. OCLC 139984116. https://www.worldcat.org/oclc/139984116 
  13. ^ 金子かねこ 2015, p. 47.
  14. ^ a b c 金子かねこ 2015, p. 48.
  15. ^ a b c d e f g h Butcher, Emma (2019). The Brontës and War : Fantasy and Conflict in Charlotte and Branwell Brontë's Youthful Writings. Cham: Palgrave Macmillan. ISBN 978-3-319-95636-7. OCLC 1130021690. https://www.worldcat.org/oclc/1130021690 
  16. ^ Charlotte Brontë's Unpublished Works Discovered”. Newsweek (2015ねん11月13にち). 2021ねん6がつ13にち閲覧えつらん
  17. ^ Tales of the Islanders”. Oxford Reference. 2023ねん5がつ6にち閲覧えつらん。 “Volumes 1–4, written between 31 [sic] June 1829 and 30 June 1830, is Charlotte Brontë's first extended attempt at storytelling”
  18. ^ a b The secret history of Jane Eyre: Charlotte Brontë's private fantasy stories”. The Guardian (2016ねん4がつ21にち). 2021ねん6がつ6にち閲覧えつらん
  19. ^ Green Dwarf. A Tale of the Perfect Tense”. Oxford Reference. 2023ねん5がつ6にち閲覧えつらん
  20. ^ 金子かねこ 2015, p. 46.
  21. ^ [:en:Clement King Shorter (19 September 2013). The Brontës Life and Letters: Being an Attempt to Present a Full and Final Record of the Lives of the Three Sisters, Charlotte, Emily and Anne Brontë. Cambridge University Press. ISBN 9781108065238. https://books.google.com/books?id=6aiHAAAAQBAJ&pg=PA431 2019ねん2がつ2にち閲覧えつらん 
  22. ^ Alexander 1993, pp. 430–432.
  23. ^ もとはんは「ブロンデ全集ぜんしゅう 5・6」みすず書房しょぼう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 平田ひらた佳子けいこ「ブロンテ姉妹しまい 年譜ねんぷ」『ブロンテ姉妹しまい集英社しゅうえいしゃ〈ポケットマスターピース 12(集英社しゅうえいしゃ文庫ぶんこヘリテージシリーズ)〉、2016ねん 
  • 金子かねこ弥生やよい「シャーロット・ブロンテの初期しょき作品さくひん研究けんきゅう」『學苑がくえんだい894かん光葉こうようかい、2015ねん4がつ、43-52ぺーじNAID 110009890863 
  • 杉村すぎむらあい「ブロンテ姉妹しまい初期しょき作品さくひん研究けんきゅう(1)シャーロット・ブロンテを中心ちゅうしんに」『名古屋女子大学なごやじょしだいがく紀要きよう 人文じんぶん社会しゃかいへんだい51かん名古屋女子大学なごやじょしだいがく、2005ねん3がつ、1-11ぺーじNAID 120005696062 
  • Alexander, Christine (March 1993). “'That Kingdom of Gloo': Charlotte Brontë, the Annuals and the Gothic”. Nineteenth-Century Literature 47 (4): 409–436. doi:10.2307/2933782. JSTOR 2933782. 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]