チャドの歴史れきし

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チャドの歴史れきし(チャドのれきし)では、チャド歴史れきしについて解説かいせつする。

チャドの歴史れきし特徴付とくちょうづけるのは、やく1000年間ねんかんさかえたカネム・ボルヌ帝国ていこくである。アフリカ分割ぶんかつ以降いこうフランス植民しょくみん帝国ていこく構成こうせいするフランスりょう西にしアフリカとして、西にしアフリカ地域ちいきだい部分ぶぶんあわせてまれた。1960ねん独立どくりつサハラ砂漠さはらさばくみなみ位置いちする諸国しょこくれいれず、北部ほくぶイスラム教徒きょうと南部なんぶキリスト教徒きりすときょうとあらそいがえなかった。さらに、きたせっするリビア侵略しんりゃくけたうえに、ひがしせっするスーダン発生はっせいしたダルフール紛争ふんそう影響えいきょうけた。

先史せんし時代じだい[編集へんしゅう]

300まんねんまえのものとおもわれるアウストラロピテクスしも顎骨がっこつ一部いちぶエミクーシ山脈さんみゃくみなみ多数たすうワジ交差こうさするボルコウで発見はっけんされている。これはアフリカ大地だいちみぞたいならび、アフリカで発見はっけんされた人類じんるい化石かせきなかでも、とくふる時代じだい化石かせきである。アフリカの人間にんげん集団しゅうだんおおきく5種類しゅるいけられるとかんがえられている。4まんねんまえから1まんねんまえまではチャド付近ふきん黒人こくじんピグミー生活せいかつけん境界きょうかいになっていた。

紀元前きげんぜん5000ねんから紀元前きげんぜん2000ねんにかけて定住ていじゅうしていた民族みんぞく遺構いこうのこっている。彩色さいしきされた壁画へきが多数たすうのこっているため、当時とうじ生息せいそくしていたサハラ動物どうぶつかんする記録きろくとしても役立やくだつものである。紀元前きげんぜん2000ねんごろ現在げんざいエチオピア周辺しゅうへん定住ていじゅうしていたクシュ西にしおおきく勢力せいりょく拡大かくだいし、チャド周辺しゅうへんはクシュの勢力せいりょくけんとなった。

紀元前きげんぜん2000ねんから紀元前きげんぜん500ねんごろ、チャド周辺しゅうへん現在げんざいチュニジア方面ほうめんからサハラを経由けいゆして、動物どうぶつ家畜かちく技術ぎじゅつつたわった。ウシヒツジヤギ家畜かちくした記録きろくのこっている。ほぼどう時期じきにアフリカでは、コメモロコシシコクビエ栽培さいばいはじまった。

紀元前きげんぜん600ねんから紀元前きげんぜん500ねんごろには現在げんざいのリビア方面ほうめんからサハラを経由けいゆして鉄器てっきつたわった。経路けいろとなったサハラの交易こうえきには当時とうじ戦車せんしゃ彫刻ちょうこくのこっている。当時とうじは、現代げんだいほどには乾燥かんそうすすんでおらず、チャドには北部ほくぶのエミクーシ山脈さんみゃく東部とうぶのスーダンとのさかい西南せいなんのアダマワ高地こうち南部なんぶのコンゴ盆地ぼんち手前てまえから、ひろみずあつまってきていた。

8世紀せいきにはアラブじんおとずれた記録きろくのこっている。9世紀せいきごろチャド沿岸えんがんサオぞくばれる民族みんぞく定住ていじゅうはじめた。サオぞくは、鉄器てっき陶芸とうげいすぐれた作品さくひんのこしている。(en:Sao civilisation

カネム・ボルヌ帝国ていこく[編集へんしゅう]

9世紀せいき前半ぜんはん、チャドちかくにカネム王国おうこくおこった。カネム王国おうこくは、12世紀せいきから13世紀せいきにはイスラム教いすらむきょう改宗かいしゅうした。まず、13世紀せいき前半ぜんはん王位おういにあったマイ・ドゥナマ・ディバレミの治世ちせい版図はんと最大さいだいになった。帝国ていこく基盤きばん交易こうえきにあった。交易こうえき文字通もじどお東西とうざい南北なんぼくび、サハラ交易こうえきさえ、トリポリエジプトにまでたっした。13世紀せいきにはカネムのいわば「朝貢ちょうこうこく」だったボルヌ王国おうこく勢力せいりょくばし、カネム王国おうこく衰退すいたいした。16世紀せいきにはボルヌ帝国ていこくのスルタン、イドリス・アローマがカネムを占領せんりょう支配しはいいた。帝国ていこく自体じたいはそのまま継続けいぞくし、西にしとなりソンガイ帝国ていこく朝貢ちょうこうこくとなった。アローマは版図はんとおおきく地中海ちちゅうかいちかくまできたひろげた。オスマン帝国ていこくとの関係かんけい重視じゅうしし、うま金属きんぞくしおどうり、コーラ黄金おうごん象牙ぞうげ交換こうかんした。ダルフール地方ちほう経由けいゆして奴隷どれい輸出ゆしゅつしていた。このころにサハラの交易こうえきもっとさかんになり、かくオアシスをむすあみのような交易こうえき発達はったつした。チャド西岸せいがんのヌガザルガムにはイスラムがく学校がっこう設立せつりつされ、名実めいじつともに中央ちゅうおうスーダン盟主めいしゅとなった。

バギルミ王国おうこく・ワダイ王国おうこく[編集へんしゅう]

どう時期じきに、南東なんとうにはイスラム教いすらむきょうバギルミ王国おうこく英語えいごばんひがしにはワダイ王国おうこく登場とうじょうした。3つのくには、北部ほくぶのオスマンりょうへの奴隷どれい貿易ぼうえきとみきずいたものの、たがいの勢力せいりょくあらそいにより衰退すいたいしていった。

このころから、1880年代ねんだいはじまるヨーロッパ列強れっきょうによるアフリカ分割ぶんかつひかえて、ヨーロッパじんによるアフリカ大陸たいりく内陸ないりく探検たんけんはじまった。まずイギリスじんのディクスン・デンハムとヒュー・クラッパートンが1822ねんにチャドに到達とうたつした。いで、トリポリから南下なんかしたドイツじんのハインリッヒ・バルトが1853ねん周囲しゅういふくめて探査たんさし、1870ねんと1871ねんにはやはりトリポリからドイツじんのギュスタフ・ナハティガルがチャドを調しらべた。チャド探検たんけん拠点きょてんはチャド湖南こなみ西部せいぶのクカワである。1884ねんから1885ねんにかけてベルリン会議かいぎでは、フランスがリビアより西にしのアフリカの大半たいはん獲得かくとくしたが、ドイツもチャド南岸なんがんからカメルーンというかたち現在げんざいのチャドの一部いちぶ植民しょくみんとした。

そして、カネム・ボルヌ帝国ていこくなど3カ国かこくは1883ねんから1890ねんにかけてスーダンから侵入しんにゅうしたラビーフ・アッ=ズバイル英語えいごばんによって滅亡めつぼういやられた。1890年代ねんだいにはフランスが、チャドのカメルーンよりの領域りょういきしょ部族ぶぞく交渉こうしょうおこなった。1891ねんにフランスは、カネム・ボルヌ王国おうこく保護ほご口実こうじつにチャドへの侵入しんにゅう開始かいしした。1894ねんにはウバンギ・シャリ(1894ねん - 1910ねんげん中央ちゅうおうアフリカ共和きょうわこく)をフランスりょうとした。

植民しょくみん時代じだい独立どくりつ[編集へんしゅう]

1900ねん4がつ22にちにラビーフ・アッ=ズバイルとフランスとのあいだ戦闘せんとうきた(クッスリのたたか英語えいごばん)。ズバイルはこの戦闘せんとう死亡しぼうし、フランスがわ勝利しょうりわった(フランスりょうチャド成立せいりつ)。そのも、しょ民族みんぞくとの武力ぶりょく闘争とうそうつづいていたものの(ワダイ戦争せんそうドイツばん - Wadai War, 1909ねん - 1912ねん)、1910ねんにフランスはチャドの併合へいごう断行だんこうし、フランスりょう赤道せきどうアフリカ(1910ねん - 1958ねん)と改称かいしょうした。1913ねんごろまでにはチャド全域ぜんいき支配しはい確立かくりつし、1920ねんには正式せいしきフランスりょう赤道せきどうアフリカ編入へんにゅうされた。チャドりょう支配しはいは、現在げんざいコンゴ共和きょうわこく首都しゅとブラザヴィルかれた総督そうとくおこなった。

フランスのチャド経営けいえいは、南部なんぶへの綿花めんか農場のうじょう投資とうし重点的じゅうてんてきおこなわれた。北部ほくぶでのフランスへの不満ふまん蓄積ちくせきされた。南部なんぶでも徴税ちょうぜいめぐ徐々じょじょはんフランスの雰囲気ふんいきひろまっていった。

だい世界せかい大戦たいせんではシャルル・ド・ゴールびかけにおうじ、自由じゆうフランス政府せいふ支持しじした。

1957ねん自治じちみとめられ、チャド進歩しんぽとう党首とうしゅ、ガブリエル・リセットが最初さいしょ政府せいふ組織そしきした。1958ねんには、フランス共同きょうどうたいぞくする自治じち共和きょうわこく成立せいりつ宣言せんげんされた。

トンバルバイ政権せいけん[編集へんしゅう]

1960ねん8がつ11にち、チャドは完全かんぜん独立どくりつたした。初代しょだい大統領だいとうりょうにはチャド進歩しんぽとうフランソワ・トンバルバイ就任しゅうにんした。トンバルバイ大統領だいとうりょうは、野党やとう結成けっせい禁止きんし反対はんたい粛清しゅくせいおこない、独裁どくさい体制たいせいった。トンバルバイ政権せいけんは、フランス統治とうち時代じだい同様どうよう南部なんぶへの優遇ゆうぐうつづけ、フランス依存いぞん国家こっか経営けいえいつづけた。

チャド内戦ないせん (1965ねん–1979ねん)[編集へんしゅう]

1965ねん11月にゲラしゅう反乱はんらん(tax revolt)が勃発ぼっぱつし、500にん死者ししゃした。

1969ねんには北部ほくぶイスラム勢力せいりょくチャド民族みんぞく解放かいほう戦線せんせん英語えいごばん(FROLINAT)を結成けっせいし、はん政府せいふゲリラ活動かつどう展開てんかいはじめた(チャド内戦ないせん (1965ねん–1979ねん)英語えいごばん)。これにたいしてトンバルバイは、フランスにたいして援助えんじょ要請ようせいした。ところが1971ねんには、リビアが、FRONLINATに援軍えんぐんおく内戦ないせん干渉かんしょうはじめ、1973ねんにはリビアがウラン鉱脈こうみゃくのある北部ほくぶアオゾウ地帯ちたい占拠せんきょした。リビアのカダフィーは、その返還へんかん要求ようきゅうをチャドが撤回てっかいして政治せいじはん釈放しゃくほうすることを要求ようきゅうし、要求ようきゅうたされればリビアぐん撤退てったいをすると表明ひょうめいした。トンバルバイはこれをれた。にもかかわらずトンバルバイの独裁どくさい政治せいじはエスカレートし、軍人ぐんじん官僚かんりょうたいしてブードゥーきょうへの改宗かいしゅうせまり、反発はんぱつしゃ容赦ようしゃなく処刑しょけいした。

マルーム政権せいけん[編集へんしゅう]

1975ねん4がつ13にち軍事ぐんじクーデターき、トンバルバイ大統領だいとうりょう暗殺あんさつされた。すぐに、フェリックス・マルーム将軍しょうぐん議長ぎちょうとする最高さいこう軍事ぐんじ評議ひょうぎかい政権せいけん掌握しょうあくした。マルーム政権せいけんは、FROLINATとの交渉こうしょうはじめたものの、FROLINAT内部ないぶグクーニ・ウェディイッセン・ハブレ分裂ぶんれつしており、交渉こうしょう進展しんてんしなかった。

チャド・リビア紛争ふんそう[編集へんしゅう]

1978ねん1がつにハブレはリビアぐん援軍えんぐんけて、戦闘せんとう激化げきかさせてチャド北部ほくぶ制圧せいあつした(チャド・リビア紛争ふんそう)。1978ねん8がつ、マルーム将軍しょうぐんは、ハブレを首相しゅしょうとして政権せいけんないんだ。しかし、よく1979ねん首都しゅとでマルームとハブレ衝突しょうとつきた。ナイジェリアなどの周辺しゅうへん諸国しょこく調停ちょうていにより、マルームは辞任じにんした。

グクーニ政権せいけん[編集へんしゅう]

1979ねん8がつロル・モハメド・シャワ英語えいごばん大統領だいとうりょうとする紛争ふんそう当事とうじしゃ全員ぜんいん参加さんかした暫定ざんてい連合れんごう政府せいふ樹立じゅりつ同意どういされた。これによって、事実じじつじょうきゅうFRONLINATを母体ぼたいとする北部ほくぶ政権せいけんまれた。1979ねん9がつ、グクーニが大統領だいとうりょう就任しゅうにんし、ハブレは陸軍りくぐんしょうとして政権せいけんくわわった。当初とうしょから政権せいけん内部ないぶではグクーニとハブレとのあいだ対立たいりつしょうじていたが、1980ねんはいると、ハブレとグクーニ戦闘せんとうはじまった。ハブレは南部なんぶ民族みんぞく和解わかいし、リビアのカダフィとの距離きょりくようになった。

ハブレ政権せいけん[編集へんしゅう]

1981ねん11月にリビアぐんがチャドから撤退てったいし、カダフィのライバルでハブレを擁護ようごするモブツ・セセ・セコザイールのパラシュート部隊ぶたい先陣せんじんとするインター・アフリカぐんアフリカ統一機構あふりかとういつきこう(OAU)の平和へいわ維持いじぐんとしてチャドに派遣はけんされた[1]。1982ねん6がつ、ハブレが大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。

ハブレ大統領だいとうりょうは、反対はんたい残忍ざんにんなやりかた粛清しゅくせいした。グクーニはOAUはハブレに加担かたんしてると批判ひはん[2]、リビアのうしたてて、ハブレ度々たびたび衝突しょうとつした。1983ねん、リビアぐん侵入しんにゅうするとフランスとザイールが政府せいふぐん支援しえんして、リビアぐんもどした。1984ねん9がつにフランスとリビアのあいだ休戦きゅうせんたがいの撤退てったい合意ごういがなされた。フランスとザイールは1984ねんまつまでに撤退てったいえたのにたいして、リビアはチャド北部ほくぶ占領せんりょうつづけた。しかし1987ねんトヨタ戦争せんそう英語えいご: Toyota War)によって、チャドはリビア勢力せいりょく排除はいじょ成功せいこうした。アフリカ統一機構あふりかとういつきこう調停ちょうていで、リビアとの休戦きゅうせん協定きょうてい成立せいりつした。そして1988ねんにはリビアとのあいだで、国交こっこう回復かいふくした。なお、問題もんだいとなっていたアオゾウ地帯ちたいは、外交がいこうによる解決かいけつはかることになり、1994ねん国際司法裁判所こくさいしほうさいばんしょ決定けっていで、チャドに帰属きぞくけんみとめられた。

デビ政権せいけん[編集へんしゅう]

1989ねん4がつ、ハブレ大統領だいとうりょう軍事ぐんじ顧問こもんをしていたイドリス・デビ一派いっぱスーダン亡命ぼうめいした。そこで党派とうは愛国あいこく救済きゅうさい運動うんどう(MPS)を結成けっせいし、ハブレ攻撃こうげきはじめた。1990ねん12月に、デビらの軍隊ぐんたいはチャドの首都しゅとンジャメナに侵攻しんこうし、ハブレ大統領だいとうりょう国外こくがい追放ついほうした。そして1991ねん2がつ28にち、デビは大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。

1992ねんから1993ねんにかけて、すくなくとも2かいのクーデターが計画けいかくされたとわれている。デビ大統領だいとうりょうは、チャド周囲しゅうい南部なんぶはん政府せいふ勢力せいりょく弾圧だんあつする一方いっぽうで、民主みんしゅけて野党やとう軍部ぐんぶ労働ろうどうしゃ代表だいひょうとの対話たいわ集会しゅうかいひらいた。野党やとうとの対話たいわ成功せいこうわったものの、1996ねんにデビ大統領だいとうりょう選挙せんきょ実施じっし約束やくそくした。同年どうねん実施じっしされた大統領だいとうりょう選挙せんきょは、2かい投票とうひょうて、デビ大統領だいとうりょう当選とうせんたした。よく1997ねんには議会ぎかい選挙せんきょ実施じっしされた。与党よとうのMPSは125議席ぎせきちゅう63議席ぎせき獲得かくとくし、単独たんどく過半数かはんすうた。しかし、国際こくさい選挙せんきょ監視かんしだんから、多数たすう不正ふせい指摘してきされた。さらに、2001ねん5がつおこなわれた大統領だいとうりょう選挙せんきょで、デビ大統領だいとうりょう再選さいせんたしたものの、やはりこのときも、選挙せんきょ監視かんしだんからデビ大統領だいとうりょう不正ふせい多数たすう報告ほうこくされた。

1990年代ねんだいなかばから、デビ大統領だいとうりょう世界銀行せかいぎんこうIMF融資ゆうしれ、経済けいざい再生さいせい政府せいふ機能きのう回復かいふく目指めざした。2000ねん世界銀行せかいぎんこうから融資ゆうしけて、ドバ油田ゆでん原油げんゆ輸出ゆしゅつするためのパイプライン建設けんせつ開始かいしした。2003ねん10がつに、南部なんぶドバドバ油田ゆでん)からカメルーンクリビこうまで、全長ぜんちょう1070 kmのパイプラインが完成かんせいし、にちりょう10まんバーレル石油せきゆ生産せいさんはじまった。

ダルフール紛争ふんそう[編集へんしゅう]

2003ねんから2004ねんにかけて隣国りんごくスーダンのダルフール紛争ふんそう激化げきかし、20まんにんとも推定すいていされる難民なんみん追撃ついげきする民兵みんぺい組織そしきがチャド国内こくない侵入しんにゅうし、政情せいじょう不安定ふあんていなものにさせた。チャドとスーダンはたがいにはん政府せいふ勢力せいりょく荷担かたんしていると非難ひなんしたが解決かいけつさくせず、チャド国内こくないがわ治安ちあんは、さらに悪化あっかした。

チャド内戦ないせん (2005ねん–2010ねん)[編集へんしゅう]

チャド国内こくないはん政府せいふ勢力せいりょくen:United Front for Democratic Change(FUC)は混乱こんらんじょうじて、2006ねん4がつ13にち首都しゅとンジャメナを攻撃こうげきしたものの(en:Battle of N'Djamena (2006))、政府せいふがわ撃退げきたいされた。2006ねん5がつには野党やとうがボイコットするなかそう選挙せんきょ実施じっしし、イドリス・デビ大統領だいとうりょうが3せんめたものの、相変あいかわらず選挙せんきょ不正ふせい行為こうい横行おうこうしていた。国際こくさい監視かんしだんばかりか、国内こくないしょ勢力せいりょく非難ひなんをもけてデビの求心力きゅうしんりょく低下ていかし、国内こくない各地かくちでのはん政府せいふ勢力せいりょく伸長しんちょうする下地したじつくった。

2007ねん10月にはリビアの斡旋あっせんにより、チャド政府せいふはん政府せいふ勢力せいりょく4あいだ和平わへい合意ごういむすばれたものの、あいだをおかずに決裂けつれつした。2008ねん1がつまでに複数ふくすう都市としはん政府せいふ勢力せいりょく支配しはいはいり、2がつ2にちふたたびFUCをふくはん政府せいふ勢力せいりょくen:Union of Forces for Democracy and Development(UFDD)は首都しゅとンジャメナを攻撃こうげきした(en:Battle of N'Djamena (2008))。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 小田おだ英郎ひでお「リビア・チャド合邦がっぽう問題もんだいとOAU」慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく法学ほうがく研究けんきゅうかい1990ねん
  2. ^ Mays, Terry M. (2002). Africa's First Peacekeeping operation: The OAU in Chad. Greenwood. ISBN 978-0-275-97606-4. p. 139

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]