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エチオピアの歴史 - Wikipedia コンテンツにスキップ

エチオピアの歴史れきし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

エチオピアの歴史れきし(エチオピアのれきし)では、エチオピア歴史れきしについて記述きじゅつする。

概要がいよう

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諸侯しょこうちからつよエチオピア帝国ていこくソロモンちょうにおいて、支配しはいしゃソロモンおう系譜けいふがもたらす権威けんいをもちいて統治とうちしてきた。これには国民こくみんやく半数はんすう東方とうほう教会きょうかいけいエチオピア正教会せいきょうかい信仰しんこうしているためであった。一方いっぽうキリスト教きりすときょう信仰しんこうしていないティグレじんソマリじんはエチオピア正教会せいきょうかい信仰しんこうするアムハラじん支配しはいされる構造こうぞうっていた[1]。しかしながらエチオピアは地域ちいきごとに民族みんぞく構成こうせいことなり、その自治じちけんつよかったために、諸侯しょこうたいする皇帝こうてい影響えいきょうりょく限定げんていてきなものであり、かく民族みんぞくはその土地とち諸侯しょこうしたゆるやかな間接かんせつ支配しはいけていた。戦乱せんらんにはかく地方ちほうごとに有力ゆうりょくしゃ名乗なのりをあげ、それぞれが皇帝こうていしてあらそいがしょうじた。

また、アフリカ分割ぶんかつによっても主権しゅけんのある独立どくりつこくとして存在そんざいつづけたことがエチオピアの特色とくしょくとしてあげられる。これはしたたかな外交がいこう近代きんだいされた軍備ぐんびによってげられたものであり、パン・アフリカ主義しゅぎにおいては「アフリカのほし」と称揚しょうようされた[2]

セムぞく移動いどう

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紀元前きげんぜん10世紀せいきころ元々もともとこの地域ちいきにはアフロ・アジア語族ごぞくべつかたりであるクシ住民じゅうみん存在そんざいしていたが、イエメンにあるサバ王国おうこくからセムけい人々ひとびとおおうつんで、かれらはエチオピア北部ほくぶイエハ (Yeha) の一帯いったい中心ちゅうしん繁栄はんえいした。だが、その支配しはい範囲はんいはエチオピア北部ほくぶせま範囲はんい限定げんていされ、エチオピア高原こうげん全体ぜんたい部族ぶぞくごとにかれて統治とうちされていた。部族ぶぞくは70以上いじょう確認かくにんされており、大別たいべつすればアムハラ中心ちゅうしんとするセムと、オロモソマリ中心ちゅうしんするクシかれるが、実際じっさいにはさらに言語げんごごとに細分さいぶんしていた[3] そのなかではアムハラじんいでオロモじん有力ゆうりょく部族ぶぞくとされていた。

エチオピアの呼称こしょう

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エチオピアという最初さいしょ使つかったのは紀元前きげんぜん5世紀せいきころギリシアじんたちであり、歴史れきしヘロドトスは『ヒストリア』においてエチオピア地方ちほう人々ひとびとをイティオプス (AETHIOPS) と記録きろくした。これは「けた人々ひとびと」を意味いみするギリシアであり、旧約きゅうやく聖書せいしょにおいても同様どうよう記述きじゅつのこされている[4]。これが現在げんざいのエチオピアの語源ごげんであるが、その国名こくめい使用しようされるようになったのは1900年代ねんだいになってからのことだった。この地域ちいき有力ゆうりょく部族ぶぞく周辺しゅうへん部族ぶぞく混在こんざいする地域ちいきでしかなく、現在げんざいのエチオピアという国家こっかとしての概念がいねん存在そんざいしていなかった。ゴンダル中心ちゅうしんとしたアムハラけいがかろうじて最大さいだい勢力せいりょくであったが、支配しはい地域ちいき現在げんざいのエチオピア北部ほくぶ一部いちぶでしかない。そのため、エチオピアという領土りょうどふくんだ国家こっか概念がいねんされるまでには、1889ねんエチオピア帝国ていこく皇帝こうてい即位そくいしたメネリク2せいによる最大さいだい版図はんと確立かくりつたねばならなかった[5]

一方いっぽうかれ自身じしん国名こくめい名乗なのらなかったが、外部がいぶからはこの地域ちいき名称めいしょうをつけた民族みんぞく存在そんざいする。アラビア半島はんとうアラビアじんたちは、エチオピア地方ちほうのことをハベシュんでいた。これは、スーダンから西方せいほう人々ひとびとを「くろ人々ひとびと」「純血じゅんけつのハムけい」を意味いみするスーダンとんだことと対比たいひした言葉ことばで、ハベシュはセムしたハムぞく、つまり「混血こんけつ」を意味いみする言葉ことばだった。それは当初とうしょ、アラビアじんのみによる呼称こしょうだったが、マルコ・ポーロが『東方とうほう見聞けんぶんろく』においてこの言葉ことばをアバッシュ (Abash) としてげると一般いっぱんし、ヨーロッパで伝播でんぱする過程かていでさらにアビシニアという言葉ことばてんじた[6]。その言葉ことばはヨーロッパじんからてエチオピアをしめ言葉ことばとしてひろ浸透しんとうし、19世紀せいきまでエチオピアにけたしょ外国がいこく書簡しょかん宛名あてなはアビシニアとなっていた[注釈ちゅうしゃく 1]

だが、このひろ浸透しんとうしたアビシニアという言葉ことばを、エチオピア地方ちほう人々ひとびととくにアムハラじんきらっていた。アビシニアとは混血こんけつ以上いじょう差別さべつてきな「あいの」という意味いみ蔑称べっしょうでもあった。また、「セムしたハムぞく」という意味いみ言葉ことば国名こくめいとなることは、セムけいのアムハラじん支配しはいしゃそうとなっていたエチオピアの国情こくじょうにもそぐわないものだった。りしもメネリク2せい国内こくない統一とういつ事業じぎょうがほぼ完成かんせいしつつあったため、アムハラじんたちは至急しきゅうそれにわる名称めいしょう用意よういしなければならなかった。そこでアムハラぞく中心ちゅうしんとした支配しはいしゃそうは、ギリシアの記録きろくのこるイティオプスからてんじたエチオピアという名称めいしょう国名こくめいとして名乗なのった。エチオピアという言葉ことば意味いみは、前述ぜんじゅつけた人々ひとびとという意味いみとともに、ハムぞく息子むすこという意味いみ[3]。しかしこれらの努力どりょくにもかかわらず、アビシニアという呼称こしょう1940年代ねんだいまでヨーロッパ諸国しょこくあいだのこることになる。

エチオピアの領土りょうど

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アクスム帝国ていこく
エチオピア帝国ていこく(1962ねんから1993ねんまでの領土りょうど)
エチオピア(2004ねん

1993ねんエリトリア独立どくりつして内陸ないりくこくとなったエチオピアであるが、アクスム王国おうこく成立せいりつまで、最大さいだい部族ぶぞくであるアムハラの支配しはいおよんだのはゴンダルとその周辺しゅうへんでしかなかった。紀元前きげんぜんさかえたアクスム王国おうこくもエチオピア北部ほくぶ支配しはいしたが、その意欲いよくはエリトリアや紅海こうかい方面ほうめんへの交易こうえきにむいており、エチオピア南部なんぶふく現在げんざい国境こっきょうせん19世紀せいきまであらわれることはなかった。しかし、1850年代ねんだいエチオピア帝国ていこくテオドロス2せいがエチオピア中央ちゅうおう平定へいていすると、その後継こうけいしゃメネリク2せい現在げんざいのエチオピアにちか勢力せいりょくけん確立かくりつした。その理想りそうとする領土りょうどは、ひがしソマリアオガデンみなみルドルフ周辺しゅうへん西にしファショダきたはエリトリア全域ぜんいきという広大こうだい地域ちいきわたり、メネリク2せい果敢かかん遠征えんせいでそれを達成たっせい目前もくぜんまでひろげた。しかし、エリトリアはイタリア領有りょうゆうし、ファショダもイギリスの影響えいきょうにあったために、メネリク2せい野望やぼう途中とちゅう断念だんねんせざるをえなかった。また、東方とうほうのオガデンは1970年代ねんだい後半こうはんソマリアだいソマリア主義しゅぎひろがると係争けいそうとなり、オガデン戦争せんそう一因いちいんとなった。

神話しんわ

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エチオピア紀元前きげんぜん10世紀せいきシバの女王じょおうソロモンおうメネリク1せい伝承でんしょうじょう国家こっか起源きげんとしている。旧約きゅうやく聖書せいしょれつおうによれば、エチオピア(もしくはイエメン)とされる「みなみ土地とち」はシバの女王じょおうによって統治とうちされていた。シバの女王じょおう才知さいちそなえた女王じょおうだったが、二十歳はたちとなったおりおなじく評判ひょうばんたかかったエルサレムおうもとおとずれ、きのすえにんかれあい、ついにシバの女王じょおう宿しゅくすにいたった。だが、女王じょおう母国ぼこく統治とうちすこともできず、帰国きこく選択せんたくする。こうして帰国きこくまれた子供こどもメネリク1せいであり、成人せいじんしたメネリクはちちのソロモンおう訪問ほうもんし、対面たいめんたしたあとは多数たすうユダヤじんをエチオピアにまねいた。

この伝承でんしょう確立かくりつしたのは、紀元前きげんぜん5世紀せいきころ建国けんこくされたアクスム王国おうこく王室おうしつと、1270ねんにエチオピア帝国ていこく建国けんこくしたイクノ・アムラクだった。両者りょうしゃ正当せいとうせい主張しゅちょうするため、ともにメネリク1せい直系ちょっけい子孫しそん名乗なのる。とく後者こうしゃのイクノ・アムラクは国内こくない安定あんていのために正当せいとうせい確立かくりつする必要ひつようがあり、エチオピアの古事記こじきともうべき『国王こくおう頌栄(ケブレ・ネガストkebre-negast[注釈ちゅうしゃく 2]』を編纂へんさんさせた。おうから編纂へんさんめいじられた家臣かしんのイシャクはエチオピア帝国ていこくを「ソロモン王朝おうちょう」とするために新約しんやく聖書せいしょ旧約きゅうやく聖書せいしょコーラン、そしてアクスム王国おうこく時代じだいからのこアラビア文献ぶんけんアレキサンドリア図書館としょかんコプト文献ぶんけん中心ちゅうしんにしてシバの女王じょおうとソロモンおうであるメネリク1せいからイクノ・アムラクへとつづ系譜けいふを、アムダ・セヨン1せいだいつくげた。その伝説でんせつ裏付うらづける史跡しせきいま発見はっけんされていないが、エチオピア北部ほくぶゴンダルんでいたベータ・イスラエルばれるユダヤじん集団しゅうだんは、メネリク1せいがソロモンおうとの対面たいめんませて帰国きこくするさい同行どうこうした人々ひとびと末裔まつえいだとつたえられている。かれらは1974ねんエチオピア革命かくめい中央ちゅうおう革命かくめい捜査そうさきょくによる迫害はくがいからイスラエル政府せいふによって救出きゅうしゅつされる[7] まで、エチオピア国内こくない陶磁器とうじきあきないをいとなんでいた[8]。これらの経緯けいいにより、エチオピア皇室こうしつ象徴しょうちょうする紋章もんしょうはソロモンおう由来ゆらいとするすすきぼしとなっており、エチオピア連邦れんぽう民主みんしゅ共和きょうわこくくにあきら国旗こっきもそれにちなむかたちとなった。

アクスム王国おうこく

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建国けんこく当初とうしょのアクスム王国おうこく
交易こうえき

エチオピアに歴史れきしじょうはじめて国家こっかとして存在そんざいしていたのがアクスム王国おうこくである。紀元前きげんぜん5世紀せいきから1世紀せいきにかけて、ティグレ地方ちほうこったアクスム王国おうこくは、アドゥリスみなと交易こうえきによって発展はってんする[注釈ちゅうしゃく 3]。その交易こうえき相手あいてエジプトギリシアアラブ、そしてインドであり、おも象牙ぞうげきむ皮革ひかく奴隷どれい輸出ゆしゅつし、わりにどうてつぎん細工ざいく宝石ほうせきガラス製品せいひん上質じょうしつ武器ぶき輸入ゆにゅうした[9]。これらのとみはアドゥリスから内陸ないりくに300kmはいったところに存在そんざいする首都しゅとアクスムはこびこまれ、アクスムのなが繁栄はんえいいしずえとなった。この時期じきマ帝国まていこくちから紅海こうかいおよばなくなったことがアクスムの隆盛りゅうせいたすけた。アクスムはローマの硬貨こうか真似まね金貨きんか銀貨ぎんか銅貨どうかからなる独自どくじ硬貨こうかち、活発かっぱつ交易こうえき基礎きそとした。また、アトバラがわ水運すいうんつうじてクシュ王国おうこくとも交易こうえきをした。

アクスム王国おうこく最盛さいせいむかえたのは、クシュ王国おうこくほろぼしてスーダン北部ほくぶからアラビア半島はんとう南部なんぶまで領土りょうどひろげた350ねんころとされている。アクスムのおうエザナ327ねん石碑せきひてたが、その碑文ひぶんには「アクスムのおう、ヒムヤル(イエメン)のおう、ライダンのおう、サバのおう、ベジャのおうエザナ」という文言もんごんが、これまた支配しはい地域ちいきひろがりをしめすようにゲエズサバギリシアまれていた。

キリスト教きりすときょうへの改宗かいしゅう

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アクスムの最大さいだい版図はんと確立かくりつしたエザナだったが、320ねんころキリスト教きりすときょう改宗かいしゅうしている。ローマ皇帝こうていコンスタンティヌス1せいキリスト教きりすときょう公認こうにんしたミラノみことのりれい313ねんであり、相当そうとうはやキリスト教きりすときょう受容じゅようだった。アクスムは、当時とうじアラビア世界せかい進出しんしゅつしたことでサーサーンあさペルシアが敵対てきたいこくとなっており、それに対抗たいこうするためにキリスト教きりすときょうビザンティン経由けいゆれていた。アクスム王国おうこく布教ふきょうされたキリスト教きりすときょうは、東方とうほう教会きょうかいけいカルケドンぞくしていたが、エジプトのコプト正教会せいきょうかい影響えいきょうけたために独自どくじのエチオピア正教せいきょうともいうべきものだった。だが、6世紀せいきはいるとユダヤきょういきかえしてキリストきょう迫害はくがいされるなど、王国おうこく時期じきによって中心ちゅうしんとなった宗教しゅうきょうことなる。9世紀せいき女帝にょていヨディドのだいになって、ようやくエチオピア正教せいきょうユダヤきょうとすことに成功せいこうする。ただし、あくまでも隆盛りゅうせいいちじるしいイスラム勢力せいりょくへの対抗たいこう処置しょちであった。

衰退すいたい

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最大さいだい版図はんときずいたアクスム王国おうこくだが、征服せいふく王朝おうちょうとなったことで各地かくちでの反乱はんらんくことになる。とくにクシュをほろぼしたことで、クシュの系譜けいふにあるベジャじん反発はんぱつつよめ、543ねんキリスト教きりすときょうこくヌビア文明ぶんめいちたて、アクスムと明確めいかく敵対てきたいした。この問題もんだいながくアクスムによる統治とうちかげとした。だが、なによりもアクスムの凋落ちょうらく決定けっていけたのはイエメンの領土りょうど喪失そうしつであった。585ねんサーサーンあさペルシアホスロー1せいがイエメンに遠征えんせいぐんけてくると、アクスムは壊滅かいめつてき損害そんがいとともにイエメンの支配しはいけんうしなう。サーサーンあさ651ねん滅亡めつぼうするが、わってイスラム教徒きょうとがイエメンと紅海こうかい交易こうえきみ、アクスムから交易こうえき主役しゅやく地位ちいうばっていった。アクスムはそれでも政治せいじてきにはイスラム勢力せいりょく表立おもてだって敵対てきたいすることはなく、軍事ぐんじ衝突しょうとつもなく大国たいこくとして300ねん以上いじょう君臨くんりんしていたが、広大こうだいだが支配しはいおよばない領土りょうどと、イスラム商人しょうにん席巻せっけんによってアクスムは次第しだいおとろえていった。とくにアクスムの国威こくいおとしめられたのは975ねん後継こうけいしゃ問題もんだいだった。アクスムの国王こくおうDegna Djanはにん息子むすこ'Anbasa WedemとDil Na'odのどちらにこうがせるかまよい、エジプトからにんのコプト正教会せいきょうかい司祭しさいまねいたが、二人ふたりとも別々べつべつ息子むすこえらんだ。このため、後継こうけいしゃあらそいがこり[10]、アクスムはキリスト教きりすときょうふたた中心ちゅうしんにすえたうえで、敵対てきたいしていたヌビア王朝おうちょうおなキリスト教きりすときょうこくとして救援きゅうえんもとめるしかなかった。一方いっぽうでその内紛ないふんはエチオピア北部ほくぶでのイスラム勢力せいりょく伸張しんちょうまねき、以後いごやく100ねん以上いじょうわたってアスクム周辺しゅうへん以外いがい統治とうち能力のうりょく喪失そうしつする。一方いっぽうみなみラスタ地方ちほうアガウぞく集団しゅうだんきたへと勢力せいりょく拡大かくだいつづけ、1137ねんにアクスム王国おうこくほろぼしてザグウェあさてるにいたった[注釈ちゅうしゃく 4]

ザグウェあさ

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1137ねん[注釈ちゅうしゃく 5] にサグウェあさ成立せいりつしたマラ・テクレ・ハイマノートおうは、アクスムよりも南方なんぽう300kmに位置いちするラスタ地区ちく本拠地ほんきょちとし、その地区ちくロハ首都しゅとさだめた。ザグウェあさ支配しはい領域りょういきファーティマあさ伸張しんちょうと、みずからがエチオピア高地こうちっていたことからアクスム王朝おうちょうくらべて南方なんぽう移動いどうしていた。ザグウェ王朝おうちょう紅海こうかい支配しはいするファーティマあさ交易こうえきおこない、その利益りえき繁栄はんえいみなもととなった。一方いっぽう、ザグウェ王朝おうちょうキリスト教きりすときょうへの熱心ねっしん奉仕ほうししゃであり、1177ねんには教皇きょうこうアレクサンデル3せいから手紙てがみとどけられるにいたった。その手紙てがみのやりりはインノケンティウス4せいから100ねん以上いじょうわたって継続けいぞくてきつづけられ、その結果けっかドミニコ修道しゅうどうがエチオピアに派遣はけんするなどの交流こうりゅうんだ。また、最初さいしょのインノケンティウス4せい手紙てがみ宛名あてなが「プレスター・ジョンてとなっていたことで、これがのちにエチオピア=プレスター・ジョンせつうわさ出所しゅっしょとなる[注釈ちゅうしゃく 6]。こうしてとき教皇きょうこうつたわるほど共通きょうつうしてキリストきょう擁護ようごしてきたザグウェ王朝おうちょう歴代れきだい国王こくおうだったが、そのなかでも熱心ねっしんだったおうゲブレ・マスケル・ラリベララリベラの岩窟がんくつ教会きょうかいぐん建設けんせつした。それは2まんにん以上いじょう動員どういんし、24ねん歳月さいげつついやして丘陵きゅうりょうをくりぬいた11の教会きょうかいぐんによって構成こうせいされた地下ちか寺院じいんだった。また、ラリベラは聖地せいちエルサレムにも巡礼じゅんれいおこなっており、おいナアクエト・ラアブ巡礼じゅんれいとともに、エチオピアのキリスト教徒きりすときょうと存在そんざいつよ印象いんしょうけた。そのため、バチカン図書館としょかんにはゲエズかれたラリベラでんおさめられている。

キリスト教きりすときょうじく独自どくじ建築けんちく美術びじゅつをきずきあげたザグウェ王朝おうちょうだったが、国力こくりょくはアムハラじん有力ゆうりょく部族ぶぞく独立どくりつ傾向けいこうせる11世紀せいきからおとろはじめる。ザグウェ王朝おうちょうはアガウぞくによっててられた王朝おうちょうだが、周囲しゅういにはよりだい規模きぼアムリクじんなどが存在そんざいしており、その協調きょうちょうほころびがそのまま国家こっか危機ききとなった。ザグウェ王朝おうちょう滅亡めつぼう直接ちょくせつのきっかけは王位おうい継承けいしょうめぐ内紛ないふんであり、これにじょうじて王朝おうちょう南端なんたんショア(ショワ)と周辺しゅうへん地域ちいきのアムリクじんらが相次あいついでザグウェをめ、ついに1268ねん、ザグウェ王朝おうちょう滅亡めつぼうした。

エチオピア帝国ていこく成立せいりつ

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成立せいりつ過程かてい

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ショア出身しゅっしんのアムリクじんイクノ・アムラク1268ねんこした反乱はんらん結果けっか1270ねんあらたな王国おうこく建設けんせつする。イクノ・アムラクは支配しはい正統せいとうせいをメネリク1せいもとめ、その直系ちょっけい子孫しそんであるイクノ・アムラクのこした王朝おうちょう復興ふっこうソロモン王朝おうちょうとした。そのため、さきのザグウェあさをソロモン王朝おうちょうへの簒奪さんだつしゃ位置いちづけるとともに、みずからの系譜けいふを「930ねんまでにソロモン王朝おうちょう一族いちぞくがことごとく抹殺まっさつされたなかで、唯一ゆいいつショアにのがれたデイナオド」の子孫しそんとした。また、あらたなくに首都しゅとをショアへうつし、ショア出身しゅっしんおうは「諸王しょおうおう(ネグサ・ナガスト、皇帝こうてい)」を名乗なのるようになる。イクノ・アムラクの建国けんこく正当せいとうせい樹立じゅりつには、ショアとアムリクのキリスト教徒きりすときょうとおおきな役割やくわりたした。そのため、テクレ・ハイマノートとキリスト教徒きりすときょうと寄進きしんされた領土りょうど全体ぜんたいの3ぶんの1におよんだ。イクノ・ラムラクの没後ぼつご後継こうけいあらそいののち末子まっしウェデム・アラドいでそのアムダ・セヨン1せいぐ。アムダ・セヨン1せいはエチオピア南部なんぶ根拠地こんきょちきずいていたイスラム勢力せいりょく軍事ぐんじりょく行使こうしし、退しりぞけることで国内外こくないがい基礎きそかためた。また、イクノ・アムラクが編纂へんさんめいじた年代ねんだい「ケブレ・ネガスト」はこの時期じき完成かんせいしている。1382ねん皇帝こうていとなったダウィト1せいはエチオピア高原こうげん東部とうぶワラスマ王朝おうちょうイファト・スルタンこく幾度いくどり、1402ねんにはスルタンを戦死せんしさせるなどの軍功ぐんこうげた。しかし、紅海こうかい沿岸えんがんアダル中心ちゅうしんとしたイスラム諸国しょこく(アダルのほかハデヤファティガルドアロバリ)の抵抗ていこうはげしく、ダウィトの息子むすこであるテオドロス1せい、そのをついだイシャク1せいと、エチオピアの皇帝こうていはアダルとの交戦こうせんちゅう相次あいついで殺害さつがいされてしまう。このながつづいたイスラム諸国しょこくとのたたかいに決着けっちゃくをつけたのは、皇帝こうていザラ・ヤコブだった。ザラ・ヤコブはエジプトに妨害ぼうがいされていたヨーロッパからの火器かき購入こうにゅう紅海こうかい進出しんしゅつすることでたし、軍事ぐんじてきにも1445ねんダワロのたたかにおいてアダルらの軍勢ぐんぜい壊滅かいめつさせた。ザラ・ヤコブはアダルに朝貢ちょうこうしたが、スルタン制度せいど温存おんぞんしてアダルを属国ぞっこくとして存続そんぞくさせる。また、ザラ・ヤコブはうみへの出入でいぐち確実かくじつなものとするためエリトリア侵攻しんこうし、これを支配しはいした。内政ないせいにおいては、地方ちほうラスばれる諸侯しょこう配置はいちし、エチオピアに封建ほうけん制度せいど構築こうちくする。このためエチオピア帝国ていこく内外ないがい安定あんていし、皇帝こうてい名実めいじつともにネグサ・ネガスト(諸王しょおうおう)となった。ザラ・ヤコブのバエダ・マリアム1せい軍事ぐんじてき野心やしんしめさなかったが、そのためにエジプトのマムルークあさには友好ゆうこうてき接近せっきんはかり、全盛期ぜんせいきのマムルークあさとの激突げきとつ回避かいひすることができた。

グラン戦争せんそう

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エチオピア皇帝こうていダウィト2せい

イスラム諸国しょこくなかにあるとされるプレスター・ジョン伝説でんせつは、1487ねんバルトロメウ・ディアス航海こうかい目的もくてきひとつとなるほどポルトガル人々ひとびと魅了みりょうしていたが、だい航海こうかい時代じだいくだるにしたがって一旦いったんねつめた状態じょうたいとなっていた。だが、ペルシアわんインド洋いんどようイスラム商人しょうにん競争きょうそう相手あいてとして対峙たいじするようになると、イスラム諸国しょこくなかでのキリスト教きりすときょうこく存在そんざい同盟どうめい相手あいてとして注目ちゅうもくあつめるようになっていた。そのなかでエチオピアにとく関心かんしんせたのはポルトガルであった。書簡しょかんからはじまったやりとりは、やがてはポルトガル艦隊かんたいのエチオピアへのよせこう許可きょかへとつながっていく。だが、エチオピアのきたにはトルコ艦隊かんたい停泊ていはくするスエズがあり、寄港きこう提供ていきょう明白めいはく敵対てきたい行為こういとみなされたためにイスラム諸国しょこくとのあいだ緊張きんちょうたかまった。1525ねん前後ぜんごになるとついにオスマン帝国ていこくうごき、後押あとおしされるかたちでアダルの軍人ぐんじんアフメド・イブラヒム・ガジ通称つうしょう左利ひだりききを意味いみする「グラン」)を指揮しきかんいたイスラムぐんがエチオピアにんでくる[注釈ちゅうしゃく 7]。この突如とつじょとして出現しゅつげんしたイスラムぐんたいしてエチオピアの皇帝こうていダウィト2せい生名いきなレブナ・デンゲル)は11さいおさなく、領土りょうど蹂躙じゅうりんするガジの軍勢ぐんぜいたいして無力むりょくだった。デンゲルはポルトガルに援軍えんぐん依頼いらいし、みずからは修道院しゅうどういんむ。潜伏せんぷくさきでデンゲルは再起さいきをはかったが、存命ぞんめいちゅうねがいははてたれることなく、その修道院しゅうどういんかれおわりの棲家となった。皇帝こうていのこの境遇きょうぐうとそのては研究けんきゅうしゃつよ印象いんしょうのこし、この時期じきはエチオピア帝国ていこくの「暗黒あんこく時代じだい」とばれている。一方いっぽう、ガジのうごきによって属国ぞっこくからの独立どくりつ目指めざしていたアダルだったが、スルタンのアブンが暗殺あんさつされるとその混乱こんらんじょうじたガジとオスマン帝国ていこくぐんによって征服せいふくされる。ガジはこのイスラム純化じゅんか活動かつどうおこない、みずからの戦争せんそう聖戦せいせん(ジハード)としょうした。

1535ねん聖職せいしょくしゃつうじてエチオピアはポルトガルにたいして援軍えんぐん要請ようせいする。これにたいするポルトガルの対応たいおう緩慢かんまんで、ヴァスコ・ダ・ガマ息子むすこクリストヴァン・ガマふくすうひゃくにん[注釈ちゅうしゃく 8]援軍えんぐんがエチオピアに到着とうちゃくしたのは1541ねんであり、すでに救援きゅうえんもとめた皇帝こうていダウィト2せい死去しきょしていた。1542ねん4がつ、ポルトガル遠征えんせいぐん後継こうけいのエチオピア皇帝こうていガローデオス軍勢ぐんぜいはイスラムぐん交戦こうせんして、この初戦しょせん勝利しょうりおさめる。しかし、8がつウォフラのたたかでは兵力へいりょくとく騎兵きへいがあらわとなってポルトガルぐん敗北はいぼくした。ガマの息子むすこも、このたたかいでらわれて斬首ざんしゅされた。敗戦はいせんによる痛手いたでったポルトガルぐんだったが、イスラムぐん追撃ついげきまぬかれることはできたためにさい編成へんせいして陣容じんようなおすことには成功せいこうする。1543ねんふたたびポルトガル遠征えんせいぐん皇帝こうていガローデオスとともにタナみずうみ付近ふきんでイスラムぐん交戦こうせんした。このたたかいにおいて、ポルトガル遠征えんせいぐんがイスラム先鋒せんぽうのオスマン帝国ていこく火縄銃ひなわじゅう部隊ぶたい壊滅かいめつさせると、ほころびをみせたイスラムぐんにガローデオスのぐん物狂ものぐるいの攻勢こうせいをしかけ、ついには指揮しきかんのガジを戦死せんしさせた。ガジのによってイスラムぐん崩壊ほうかいし、ソロモンちょうはようやくイスラム教徒きょうと領有りょうゆうから解放かいほうされた。エチオピアの属国ぞっこくから反乱はんらんくみしたアダルも、1559ねん南部なんぶから移動いどうしてきたオロモじん襲撃しゅうげきけて衰退すいたい決定的けっていてきとなる。そのわりにエチオピアは、遊牧ゆうぼくによって衝突しょうとつこすオロモじんと、分離ぶんり独立どくりつ傾向けいこうのあるティグレじんというふたつの社会しゃかい不安ふあんかかえることになった。また、外部がいぶのイスラム教徒きょうととのいさかいはこれで解決かいけつしたわけではなく、以後いご周辺しゅうへんのスルタンの侵略しんりゃく度々どど発生はっせいする。その結果けっか、ガローデオスをはじめとするその後継こうけいたちは、度々たびたびイスラムぐんとの戦闘せんとうによっていのちとした。これはポルトガルがエチオピアを「はんイスラム同盟どうめい」の先鋒せんぽうとする戦略せんりゃくのためであり、1632ねん即位そくいしたファシラダス不信ふしんまねく。また、即位そくい経緯けいいにはポルトガルの布教ふきょうしたカトリックとエチオピア正教せいきょうとの対立たいりつによる政情せいじょう不安ふあんがあり、首都しゅとゴンダルうつすとともに鎖国さこく政策せいさく実施じっしし、安定あんていもどしたエチオピア帝国ていこく繁栄はんえい円熟えんじゅくむかえることになる。

諸公しょこうこう時代じだい

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ラス(諸侯しょこう)の反乱はんらん

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エチオピアのきゅうしゅう(1942ねん-1993ねん

18世紀せいき前半ぜんはん北部ほくぶティグレ (Tigray) と西部せいぶゴジャム (Gojjam) はアムハラじんとの対立たいりつふかめ、権力けんりょくめぐってしばしば内紛ないふんこした。とくにラス(諸侯しょこう)としてふうじられた諸侯しょこう実力じつりょくたくわえると、エチオピア帝国ていこく支配しはいそうであるアムハラ-ショアにたいして明確めいかく反旗はんきひるがえした。その一部いちぶ首都しゅとゴンダルへけて進軍しんぐんすると、エチオピア皇帝こうていイヨアス1せい祖母そぼ皇太后こうたいごうメンテワブとの協議きょうぎうえ、ティグレじんなかでもトルコから大量たいりょう火器かき購入こうにゅうして随一ずいいち軍事ぐんじりょくほこったミカエル・セフル救援きゅうえんもとめる。当時とうじ、エチオピア最大さいだい規模きぼマスケットじゅう部隊ぶたいつゼフルはこれをけ、ゴンダルへ軍勢ぐんぜいひきいてはいった。だが、ゼフルの目論もくろみは簒奪さんだつにあり、1769ねんにイヨアス、メンテワブをころして最高さいこう権力けんりょくしゃ名乗なのりをあげる。諸侯しょこうであるラスがおうなかおう殺害さつがいして君臨くんりんしたこの象徴しょうちょうてき事件じけんは、「諸公しょこうこう時代じだい英語えいごばん(ザマナ・マサフェン、ラスたち時代じだい審判しんぱん時代じだい)」とばれる戦国せんごく時代じだい嚆矢こうしとなった。

ヤジュあさ

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ゼフルは傀儡かいらいとしてヨハンネス2せいをたてるが、軍務ぐんむきらうヨハンネス2せい隠棲いんせいもうると、わずか半年はんとし毒殺どくさつして[10]テクレ・ハイマノット2せいわりに擁立ようりつした。絶大ぜつだい権力けんりょくにぎったゼフルだったが、1780ねん病没びょうぼつするとすぐさまつぎ簒奪さんだつしゃにとってわられる。ウォロしゅう出身しゅっしんアリ・グワングラギヨルギス1せい支援しえんして皇位こういにつけると、1784ねんにはギヨルギス1せいはいしてみずか皇帝こうていとなった。グワングラはイスラム教徒きょうとであり、オロモじんのイスラム教徒きょうと多数たすう定住ていじゅうするヤジュ基盤きばんとしたことから、かれ政権せいけんヤジュあさばれている。こうしてイスラム教徒きょうととして皇帝こうていとなったグワングラだったが、すぐに少数しょうすうのイスラム教徒きょうとでゴンダルを支配しはいすることの無謀むぼうさにづいた。グワングラはキリスト教きりすときょう改宗かいしゅうすることで柔軟じゅうなん対応たいおうしたが、結局けっきょく首都しゅとをゴンダルからデブレ・タボルへとうつした。ヤジュあさ最盛さいせい1803ねん即位そくいしたググサ・マルスによるもので、かれ帝国ていこくない有力ゆうりょく存在そんざいであり独自どくじ傾向けいこうつよティグレじん警戒けいかいしてその監視かんしいた。セブルの一族いちぞくわってティグレの支配しはいしゃとなったウォルデ・セラシエふるくからのキリスト教徒きりすときょうとであり、ヤジュあさ政策せいさくきらうとともにソロモン王朝おうちょう復興ふっこう志向しこうして沿岸えんがんへの進出しんしゅつ企図きとしていた。しかし、一方いっぽうでは沿岸えんがんへの進出しんしゅつのためにイスラム教徒きょうとへの懐柔かいじゅうおこなっていた。その矛盾むじゅんをググサはあおり、同時どうじにティグレへの懐柔かいじゅうさく駆使くししてティグレじん分断ぶんだんねらった。ウォルデはぎゃくはんオロモじん感情かんじょう利用りようしてはんオロモ勢力せいりょく結集けっしゅうしての包囲ほういもう構築こうちくしようとするが、高齢こうれいだったウォルデはそれをたせず死去しきょした。ググサはこののがさず、はんオロモの諸侯しょこう政略せいりゃく結婚けっこん当主とうしゅ交代こうたいすすめてエチオピア北部ほくぶ安定あんていげた。しかし、ググサの死去しきょによっておもしがれると、かつてのミカエル・ゼフルの一族いちぞくと、ウォルデ・セラシエの一族いちぞくとのあいだでのティグレの主導しゅどうけんあらそいが加熱かねつする。ティグレの内紛ないふん勝者しょうしゃは、ウォルデのセバガデスだったが、この介入かいにゅうねらってヤジュあさぐん行動こうどうこし、ダブラ・アベイでセバガデスと交戦こうせんした。その結果けっかは、最高さいこう指揮しきかんであるセバガデスとググサの息子むすこである皇帝こうてい双方そうほう戦死せんしするという甚大じんだい被害ひがいをもたらしただけだった。ヤジュ王朝おうちょう皇后こうごうメネン息子むすこアリ2せい即位そくいさせてなおしをはかるが、ティグレは空白くうはくとなって隣接りんせつするセミエン従属じゅうぞくした。これにより、セミエン-ティグレの支配しはいしゃとなったウーベ・ハイラ・マリアムは、ティグレをはんオロモ勢力せいりょくという共通きょうつうてんでまとめて北部ほくぶエチオピア最大さいだい実力じつりょくしゃとなった。しかし、どう時期じきにエチオピア中部ちゅうぶにおいてそれ以上いじょう隆盛りゅうせいをみせたのがショア (Shewa) だった。サフレ・セラシエ1840ねんまでに全域ぜんいき統一とういつしたショアは、サフレ自身じしん外国がいこくとの交流こうりゅうこの性格せいかくもあって、イギリスイタリアフランスといったヨーロッパからの客人きゃくじんおおく招ねくことになる。サフレは熱心ねっしんなエチオピア正教せいきょう信者しんじゃであったためソロモン王朝おうちょう復活ふっかつ大義たいぎとし、そのために南方なんぽう領土りょうど拡大かくだいした。また、武器ぶき弾薬だんやく手段しゅだんとして奴隷どれい交易こうえきすすめる。ショワは小型こがた大砲たいほうなどを入手にゅうしゅし、代価だいかとして年間ねんかん3,000にんから4,000にん奴隷どれい輸出ゆしゅつすることで、北部ほくぶエチオピア諸侯しょこう上回うわまわ資金しきん軍備ぐんびれていた。また、サフレのまごのサハレ・マリアムはメネリク2せいとなる。

エチオピア帝国ていこく復興ふっこう

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テオドロス2せい

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カッサ・ハイル時代じだい

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テオドロス2せい十字架じゅうじか
テオドロス2せい

テオドロス2せいとなるカッサ・ハイルは、タナみずうみ西北せいほく位置いちするクワラ地区ちくちょうとしてまれた。身分みぶんとしては下級かきゅう貴族きぞくではあったが、その血筋ちすじさかのぼればソロモン王朝おうちょうつながると周囲しゅういにみられていた。だが、カッサは少年しょうねんちちくし、親族しんぞくによって財産ざいさんうばわれたうえ修道院しゅうどういんれられてしまう。からだよくはらわれたカッサだったが、法律ほうりつ歴史れきし宗教しゅうきょうまなんでみずからの血筋ちすじ活用かつようつけるとともに、ながじるにしたがって射撃しゃげきけん伎でも才能さいのうせるようになっていた。

1839ねんには死去しきょした異母いぼけいから兵力へいりょく相続そうぞくし、17さいわかさでタナみずうみからスーダン国境こっきょうにかけてゲリラせん展開てんかいし、その徹底てっていした略奪りゃくだつぶりは交易こうえきしょうからおそれられていた。だが、カッサがたんなる強盗ごうとう集団しゅうだんまらなかった。活動かつどう大儀たいぎとして「クワラに勢力せいりょくばす皇帝こうていアリ2せいと、それを実質じっしつてきうごかすははメネン皇后こうごうたいする抵抗ていこう」をかかげたことと、略奪りゃくだつしたものをクワラの農民のうみんあたえて義賊ぎぞくとして支持しじたことで、カッサはこの地方ちほう基盤きばんをきずきあげることに成功せいこうした。1845ねんになるとメネン皇后こうごうれ、クワラのちょうとして追認ついにんするとともに皇帝こうていむすめをカッサにあたえた。この背景はいけいとして、エチオピア北部ほくぶ支配しはいしようとするゴジャムのビルル、ティグレのウーベとの対立たいりつがあり、カッサにはその支援しえん期待きたいされていた。だが、皇后こうごうとそのおっとひきいる軍勢ぐんぜいがティグレのウーベを攻撃こうげきしている最中さいちゅう、カッサはクワラ北東ほくとうのデンビアをおさえ、さらにアムリクじん本拠ほんきょゴンダルの占拠せんきょにいたる。これにたいし、皇后こうごうひきいるぐんはティグレぐん退却たいきゃくんですぐに反転はんてんし、ゴンダルの奪回だっかいいどんだが、カッサはそのうごきをも利用りようしてメネン皇后こうごうとそのおっと捕虜ほりょとした。

皇后こうごうらの身柄みがらは、アリ2せい交渉こうしょうによって返還へんかんされたが、その代償だいしょうとして占領せんりょう追認ついにんとデジャズマッチ(伯爵はくしゃくくらい行政ぎょうせいふく長官ちょうかん)の称号しょうごうをカッサにあたえねばならなかった。以後いごの5年間ねんかん平穏へいおん時期じきとして、アリ2せいとカッサは友好ゆうこう関係かんけい維持いじつづけたが、カッサにとってはヤジュあさ完全かんぜんほうむるための準備じゅんび期間きかんぎなかった。カッサは再度さいど反乱はんらんこすと18ヶ月かげつあいだおよ戦闘せんとうすべ勝利しょうりし、1853ねん6月29にちアイシャルのたたかおこなってアリ2せい軍隊ぐんたい事実じじつじょう崩壊ほうかいさせた。ティグレの有力ゆうりょくしゃウーベも、その一連いちれん戦闘せんとうでアリ2せい味方みかたをしてやぶられてカッサに従属じゅうぞくしたため、エチオピアの歴史れきしにおいては、このをもって「諸公しょこうこう時代じだい」が終焉しゅうえんむかえたとされている。ゴジャムのビルルとの戦闘せんとう1854ねんにはビルルをらえることで決着けっちゃくし、その功績こうせきをもってエチオピア正教会せいきょうかいから同年どうねん9がつ、「諸王しょおうおう」の称号しょうごうみとめられた。これはソロモン王朝おうちょう復活ふっかつ意味いみしている。

テオドロス2せい時代じだい

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ティグレのウーベはカッサに従属じゅうぞくしていたが、ドイツつうじて領内りょうないに「諸王しょおうおう即位そくいのための教会きょうかい建設けんせつするなど、内心ないしん野心やしん服従ふくじゅうからの脱却だっきゃくもとめていた。だが、そのうごきはカッサの監視かんしによって見抜みぬかれ、カッサはいちはやくウーベの本拠地ほんきょちのセミエンにんでこれを占有せんゆうする。ウーベはティグレで編成へんせいしたぐんひきいて西進せいしんしてくるが、カッサの迎撃げいげきによって粉砕ふんさいされた。こうして完全かんぜんエチオピア高地こうち支配しはいしゃとなったカッサは、1855ねん諸王しょおうおうとなる聖油せいゆしきおこなって正式せいしき皇帝こうていとなる。皇帝こうていとなったカッサは、テオドロス2せい名乗なのった。テオドロス1せい伝説でんせつじょうではイスラムをたおし、腐敗ふはい飢餓きがといった国家こっか災厄さいやく一掃いっそうした名君めいくんしんじられており、そのためにカッサはテオドロスのもとめた。また、「天啓てんけいしょ」ではテオドロスという名前なまえについて、「苦難くなんから民衆みんしゅうすく救世主きゅうせいしゅてきおう」とされており、それはカッサのもとめる理想りそうおう姿すがたそのものだった。テオドロス2せいとなったカッサは戴冠たいかんしきで「過去かこのエチオピア帝国ていこく領土りょうどすべ奪還だっかんし、おう権威けんいすべてをあつめて支配しはいする」ことをちかい、即位そくいただちにウォロ (Wello) をめてマグダラ要塞ようさいとすと、その首都しゅととした。つづいてショワへもぐん派遣はけんし、メネリク2せいとなるサハレ・マリアムをらえる戦果せんかをあげて支配しはいき、エチオピア帝国ていこく旧領きゅうりょうもどすことにほぼ成功せいこうする。

スエズ運河うんがとアビシニア出兵しゅっぺい

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がるマグダラの要塞ようさい
イギリスが捕虜ほりょ解放かいほうせま風刺ふうし

テオドロス2せい中央ちゅうおう集権しゅうけんしての近代きんだいされたエチオピア国家こっか目標もくひょうに、ラス(諸侯しょこう)のちからぐために世襲せしゅうきんじ、皇帝こうていによる任命にんめいせいとした。さらには常備じょうびぐん創設そうせつして軍隊ぐんたいしつ向上こうじょうと、軍事ぐんじりょく集中しゅうちゅう目指めざし、道路どうろなどのインフラの整備せいびにもちからそそいだ[11]。しかし、これらの政策せいさく諸侯しょこうのみならず帝室ていしつ内部ないぶからもつよ反発はんぱつまねき、中央ちゅうおう集権しゅうけんではなく、結束けっそく弱体じゃくたいつながった。また、テオドロスはこれらの苦境くきょうり、先進せんしん知識ちしき導入どうにゅうするため海外かいがいからの支援しえんイギリスなどにたのんだが、テオドロスのたいイスラムを主軸しゅじくにした外交がいこうは、すでにオスマン帝国ていこく弱体じゃくたいによってヨーロッパの興味きょうみくものではなくなっていた。むしろ、イギリスの興味きょうみ1869ねん開業かいぎょうひかえたスエズ運河うんがと、その権益けんえきじょうおさえておかなければならないアフリカのかくにあり、この地域ちいきへのフランスイタリア干渉かんしょう注意ちゅういはらっていた[12]。テオドロス2せい改革かいかくまりにあせりをおぼえ、幾度いくどもイギリスにけて国書こくしょおくるがすべ無視むしされて、ついにイギリスへの強硬きょうこうさくる。エチオピアに在留ざいりゅうしていた13にんのイギリスじんらえ、軟禁なんきん状態じょうたいいたのだった。これにたいするイギリスの返答へんとうは、すうせんにん規模きぼのインドへい、44とうぞう大砲たいほう輸送ゆそうしての1868ねんエチオピアへのだい攻勢こうせい英語えいごばんだった。イギリスのだい動員どういんは、アフリカ東部とうぶたいしてどれだけの兵力へいりょく投入とうにゅうできるかという西欧せいおう各国かっこくたいするデモンストレーションの意味合いみあいがつよ[13]、その対象たいしょうとなったテオドロス2せい対抗たいこうするための兵力へいりょくそろえることはできなかった。これは、改革かいかく諸侯しょこう不評ふひょうったためであり、ティグレの勢力せいりょくもイギリスぐん味方みかたした。結果けっか、テオドロスはマグダラのたたか英語えいごばんにおいて、イギリスぐん死者ししゃ2にんたいし、死者ししゃ800にんという一方いっぽうてき敗北はいぼくきっする。その敗戦はいせんったテオドロス2せいは、マグダラの陥落かんらくまぬかないものとさとると、1868ねん4がつ13にちみずかえらんだ。エチオピア皇帝こうていんだイギリスぐんは、当初とうしょ目的もくてきどおりに捕虜ほりょ解放かいほうすると、戦後せんご混乱こんらんけるためにぜんぐんげた。テオドロス2せいあとのエチオピアには、ティグレのカッサ(テオドロス2せい同名どうめい)と、捕虜ほりょとなりながらもテオドロス2せいられて教育きょういくけたショワおうメネリク2せいのこされており、有力ゆうりょくしゃ2にん後継こうけいしゃあらそいがこることは予測よそくできることだった。イギリス政府せいふ外交がいこうかんのスタンレーをつうじ「テオドロスがったのちのアビシニア(エチオピア)の将来しょうらいにはかかわらないし、たとえ内乱ないらんおちいっても関係かんけいのないこと」と以後いごのエチオピアへのかかわりを放棄ほうきした[14]

メネリク2せい

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メネリクの挫折ざせつ

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テオドロス2せい死後しご皇帝こうていとなったのはギヨルギス2せい英語えいごばんだったが、これはワグ地区ちくちょう混乱こんらんじょうじてゴンダル占領せんりょうしたさい自称じしょうしたもので、正式せいしき皇帝こうていではなかった。当時とうじ実力じつりょくしゃとしてげられる2人ふたり、ティグレの諸侯しょこうカッサ英語えいごばんとショアおうのメネリク2せいのうち、ギヨルギス2せいのこもるゴンダルへちか位置いちにいたのはカッサだった。カッサは12,000にんへいをもってギヨルギス2せいひきいる60,000にん軍勢ぐんぜい戦闘せんとうをしかけ、アッサムでこれをやぶった。カッサはこのたたかいで24,000にんもの捕虜ほりょ、またギヨルギス2せいをもらえることに成功せいこうする。これにより、カッサに皇帝こうていとなるみちひらけ、聖油せいゆしきによってネグサ・ナガスト(諸王しょおうおう)に君臨くんりんするとともに、みずからのヨハンネス4せい英語えいごばんあらためた。出遅でおくれたメネリク2せいは、このヨハンネス4せい即位そくいたいして消極しょうきょくてき反対はんたいおこなった。すなわち、承認しょうにん拒否きょひだった。メネリク2せいはより積極せっきょくてき妨害ぼうがいのためにエジプトをけしかけようとしたが、ヨハンネス4せいはエジプト国境こっきょうぐん配備はいびしてすきをつくらず、メネリク2せいねらいはふせがれた。わって、メネリク2せいつぎ接近せっきんしたのは、ひがしアフリカ進出しんしゅつ気配けはいせていたイタリアだった。メネリクは友好ゆうこう関係かんけいきずき、近代きんだい兵器へいき購入こうにゅうにつなげようとした。しかし、1878ねんになるとヨハンネス4せい勢力せいりょく拡大かくだいするとともに、圧迫あっぱくけたメネリク2せいのショアに内乱ないらん発生はっせいする。しかも、その首班しゅはんとしてかつされたのはメネリク2せいつまであった。メネリク2せいはしばらくその対処たいしょわれることになる。また、周辺しゅうへん地域ちいき混乱こんらんするショアにけ、ウォロなどがヨハンネス支持しじ鞍替くらがえする。一方いっぽう、ヨハンネス4せいはこの時期じき食糧難しょくりょうなんくるしんでおり、食料しょくりょう豊富ほうふなショアの反乱はんらんは、まさにわたりにふねであった。1878ねん1がつ、ヨハンネス4せいがショアにぐんすすめると、応戦おうせん準備じゅんびすらできないメネリクは和平わへいのぞんだ。それにたいし、ヨハンネスの要求ようきゅうは「奴隷どれい500にんうし5まんとううま1,000とう貢物みつぎものと、メネリクを上半身じょうはんしんはだかにしたうえ罪人ざいにん首枷くびかせをつけて謝罪しゃざいさせる」というものだった。メネリクは憤慨ふんがい戦闘せんとう準備じゅんびいそぐが、ひざもとであるショアの評議ひょうぎかい一方いっぽうてき和平わへい決定けっていし、メネリクもそれにしたがってワダラ条約じょうやく英語えいご: Treaty of Wadara)を締結ていけつした。ワダラ条約じょうやくとはメネリクがヨハンネス4せい承認しょうにんすることと、ショアおうであるメネリクが「諸王しょおうおう」への名乗なのりを放棄ほうきすることと、同時どうじ双方そうほう勢力せいりょくけんさだめる条約じょうやくであり、これによりメネリクはショア英語えいごばんウォロ英語えいごばんガラ地方ちほう英語えいご: Galla-landオロモおよオガデン)の領有りょうゆうみとめられ、ヨハンネス4せいティグレ英語えいごばんアムハラ英語えいごばんゴジャム地方ちほう英語えいごばんといったエチオピア北部ほくぶ支配しはいし、テオドロス2せいのきずきあげたエチオピア帝国ていこく二分にぶんされるかたちとなった。このとき、ショアのおうLicheからDebre Berhan遷都せんとされた。

一方いっぽう、この時期じき1883ねんにはイタリアがひがしアフリカにおける植民しょくみんほっし、エリトリアの植民しょくみん宣言せんげんしている。これはエリトリアとせっするティグレの支配しはいしゃ、ヨハンネスにとって脅威きょういとなり、ヨハンネスはイタリアのうごきを警戒けいかいした。イタリアはヨハンネスにわってメネリクと友好ゆうこう関係かんけいむすび、イギリスアフリカのかく周辺しゅうへんにフランスがはいるよりもイタリアがはいったほうくみしやすい[15] ためにこれを黙認もくにんした。メネリクとイタリアは1883ねん5月に独自どくじ通商つうしょう友好ゆうこう条約じょうやく締結ていけつし、武器ぶき取引とりひき一層いっそう拡大かくだいする。イタリア政府せいふにはメネリクを傀儡かいらいとして、エリトリアのみならずエチオピアを植民しょくみんとする思惑おもわくがあり[16]ぎゃくにメネリクもそれを利用りようした。

エリトリア戦争せんそう

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ドガリのたたかイタリアばん英語えいごばん

1887ねん1がつ24にち、ヨハンネスのエチオピアぐんとイタリアぐんがついに衝突しょうとつする(エリトリア戦争せんそう)。これはイタリアが1885ねんマッサワ占領せんりょうし、さらにはヨハンネスの支配しはいするサハティぐんおくったのが発端ほったんだった。ヨハンネスは交渉こうしょう解決かいけつするみち模索もさくしたが、イタリアは外交がいこう使節しせつだんおくりながらも返事へんじ保留ほりゅうし、そのあいだにイタリアの将軍しょうぐんジュネーうごかしてヨハンネスりょうワハーウィア占領せんりょうした。エチオピアの軍事ぐんじ外交がいこう一任いちにんされていた指揮しきかんラス・アルラはイタリア外交がいこう使節しせつだんたいし、ジュネーの撤退てったい同意どういするよう20,000にん兵力へいりょく背景はいけいせまり、「さもなければサハティを攻略こうりゃくする」と最後さいご通牒つうちょうきつけた[17]。イタリアはアルラにたいして領土りょうどてき野心やしんをもっていないと釈明しゃくめいしたものの、肝心かんじんのサハティからはぐんくことはなかった。アルラは同年どうねん1がつ24にちそう兵力へいりょくのうち10,000にんをサハティへける。サハティには要塞ようさい構築こうちくされており、イタリアぐん大砲たいほう機関きかんじゅうそなえててこもっていた。アルラは無理むりして攻撃こうげきをしかけず、これを素通すどおりしてジュネー将軍しょうぐんのいるマッサワ方面ほうめんけてすすつづける。一方いっぽう、イタリアのサハティ守備しゅびたい大軍たいぐんまえにして援軍えんぐん要請ようせいしていた。その要請ようせいけて救援きゅうえんうごいたのは、イタリアのクリストフォリスたい540にんだった。だが、マッサワとサハティのあいだ位置いちするドガリ到着とうちゃくしてしばらくして、クリストフォリスたいはエチオピアぐん包囲ほういされていることにづく。10,000にんへいかこまれて、クリストフォリスたいげることすらできなくなっていた。こうして、クリストフォリスたいはアルラの迅速じんそく包囲ほういまえになすじゅつもなく殲滅せんめつされ、540にんちゅう450にん戦死せんしするという惨憺さんたんたる被害ひがいけた(ドガリのたたかイタリアばん英語えいごばん)。この一方いっぽうてき敗戦はいせんを、イタリアは「ドガリの虐殺ぎゃくさつ」とんでエチオピアを非難ひなんする。エチオピアの戦法せんぽうを「卑怯ひきょうきわまりない」不意打ふいうちとめ、「エチオピアじん残酷ざんこく野蛮やばんじんである」とけて喧伝けんでん材料ざいりょうとした[18]。しかし、研究けんきゅうすすむにつれ、エチオピアの進軍しんぐんさきなん警戒けいかいもなくはいんだイタリアぐん軽率けいそつさと、エチオピアのアルラによる遭遇そうぐうせんにおける適切てきせつ指揮しきあきらかとなる[19] が、政治せいじてきにこの事件じけん利用りようしようとするイタリアの帝国ていこく主義しゅぎしゃにとって、事実じじつかは問題もんだいではなかった。イタリア国内こくないではナショナリズムたかまりがしょうじ、エチオピアへの対抗たいこうとしてエリトリアの兵力へいりょくを20,000にん大幅おおはば増員ぞういんする。ヨハンネスも対抗たいこうして100,000にんごうする大軍たいぐん動員どういんし、りょうぐんあやうい均衡きんこうなか小康しょうこう状態じょうたいとなる。この火種ひだねは、アドワのたたかかう要因よういんひとつとなった。

メネリクの即位そくい

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メネリク2せいはこの時期じき政略せいりゃく結婚けっこんによって足場あしばかためていた。ヨハンネス4せいカッファをメネリク2せいあたえるわりに、ウォロの支配しはい東部とうぶ南部なんぶ地元じもと有力ゆうりょくしゃに、北部ほくぶをヨハンネスの息子むすこアラヤ・セラシエゆずらせた。カッファとウォロの交換こうかんではメネリクのほうそん取引とりひきではあったが、メネリクは自分じぶんむすめザウディトゥをアラヤ・セラシエにとつがせる付帯ふたい条件じょうけん重視じゅうしした[20]。また、メネリクは以前いぜんつま反乱はんらん旗頭はたがしらとなった経緯けいいから離婚りこんしており、あらたな政略せいりゃく結婚けっこん相手あいてとしてドガリでの功労こうろうしゃであるアルラのいもうとタイトゥ英語えいごばんつまむかえた。タイトゥの一族いちぞく北部ほくぶへの影響えいきょうりょくをもち、またタイトゥ自身じしん女傑じょけつというべき気性きしょうぬしであり、度々たびたびメネリク2せい暴走ぼうそうおさえた。ヨハンネスとメネリクの関係かんけいは、これらの政略せいりゃく結婚けっこんつうじて友好ゆうこうてきとなる。また、西部せいぶスーダンにイスラム教徒きょうとマフディー国家こっかマフディスト・スーダン英語えいごばん)が出現しゅつげんしており、聖戦せいせんとなえてエチオピアへ侵攻しんこうしていたが、これは両者りょうしゃにとって共通きょうつうてきであった。ヨハンネスはメネリクとの関係かんけい改善かいぜんとイタリアとの小康しょうこう状態じょうたいけてマフディーぐん攻勢こうせい開始かいしし、1889ねんには60,000にんのマフディーぐんこめ基地きちしばたあいだ攻略こうりゃくしていく。だが、そのかい進撃しんげきつづ最中さいちゅうの3がつ9にちメテムナのたたかでヨハンネスは致死ちし重傷じゅうしょうってしまう[21]。ヨハンネスは臨終りんじゅうさい義妹ぎまいマンガッシャ後継こうけいしゃ指名しめいし、死亡しぼうする。マンガッシャは指揮しきかんとして実績じっせきがある人物じんぶつだったが、メネリク2せいはこの後継こうけいこうから異議いぎとなえてみずか皇帝こうてい名乗なのる。たちまち両者りょうしゃ後継こうけいしゃめぐって戦闘せんとう突入とつにゅうし、イタリアの武器ぶき供給きょうきゅうけたメネリク2せい圧勝あっしょうして名実めいじつともにエチオピア皇帝こうていとなった。マンガッシャはメネリク2せいふくし、以後いごはその協力きょうりょくしゃとなる。これにより、もはやメネリク2せい即位そくい異議いぎとなえる勢力せいりょく消滅しょうめつし、ようやく念願ねんがん皇帝こうていへとのぼめた。

だいいちエチオピア戦争せんそう

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しん首都しゅとアディスアベバの位置いち

イタリアは支援しえんつづけたメネリク2せい即位そくいしたことを、エチオピアの保護ほごこく好機こうきとみなした。1889ねん5月、イタリアはエチオピアとの地位ちい確認かくにんするウッチャリ条約じょうやく締結ていけつした。ウッチャリ条約じょうやくはイタリアアムハラという双方そうほう公用こうようもちいた条文じょうぶん作成さくせいされた。ただ、その17じょう他国たこくとの交渉こうしょう部分ぶぶんについてはイタリアばんとアムリクばんではあきらかな差異さいがあった。アムリクでは「エチオピアはイタリア以外いがいくに交渉こうしょうするさいはイタリアを利用りようしてもよい」という条文じょうぶんだったが、イタリアでは「エチオピアはイタリア以外いがいくに交渉こうしょうする場合ばあいは、イタリアを利用りようすることに同意どういした」となっていた。イタリア表現ひょうげんはエチオピアの外交がいこうけんをイタリアにゆだねるという、保護ほごこく同意どういする内容ないようとなっていた[22]。エチオピアがわ条文じょうぶんちがいにづいたのは翌年よくねん1890ねんであり、しょ外国がいこく手紙てがみがことごとくイタリアの許可きょかもとめたためだった。メネリク2せいつまのタイトゥはすぐさまイタリアに抗議こうぎもうれる。イタリアがわ全権ぜんけん大使たいしアントネッリは「17じょうあやまちだと他国たこく通告つうこくすることは、くに威信いしんにかかわるためできない」と難色なんしょくしめすが、交渉こうしょうおもて舞台ぶたいたタイトゥは「同様どうようにエチオピアの威信いしん尊重そんちょうされるので、あやまちであることはすでに各国かっこく通知つうちした」となしくずしの保護ほごこく行動こうどう回避かいひした。さらに5じょう構成こうせいされたあらたな協定きょうてい提案ていあんがイタリアからなされたが、そのだい3じょうひそかにイタリアの保護ほごけん肯定こうていするものだったため、「わたしおんなであるためたたかいをこのみませんが、これをれるくらいなら戦争せんそうえらぶ」と強硬きょうこうてき姿勢しせいせてイタリアの文書ぶんしょわしのみで保護ほごこくする目論見もくろみっぱねた。タイトゥはメネリク2せい以上いじょうにティグレのエリートとして、領土りょうどおびやかすイタリアへの対抗たいこう意識いしきをもっていた。また、つま意見いけんおなじくするメネリク2せい長年ながねん協力きょうりょく相手あいてだったイタリアへの妥協だきょうゆるさず、ついに1893ねん2がつ、ウッチャリ条約じょうやく破棄はきをイタリア国王こくおうウンベルト1せい通告つうこくする。この強硬きょうこう姿勢しせいうらには、チュニジアめぐってイタリアと対立たいりつしていたフランス、そしてそのフランスと同盟どうめいしているロシアといった勢力せいりょく支援しえんがあった。1892ねん首都しゅとアディスアベバ(「あたらしいはな」の)にうつしたメネリク2せいは、1895ねんにエリトリアにみ、撃退げきたいされてティグレへとのがれる。これが、だいいちエチオピア戦争せんそうはじまりであった。

アドワのたたかいのタペストリー
現在げんざいのアドワ

イタリアぐんはドガリでのりをかえすべくエチオピア領内りょうないのティグレにむが、エチオピアはそれをかまえて逆襲ぎゃくしゅうし、イタリアぐん敗走はいそうさせる。そのたたか自体じたい小競こぜいといえるものだったが、イタリアへ勝利しょうりしたという情報じょうほういままで静観せいかんめていたしょ部族ぶぞくをメネリク2せいがわにつかせた[注釈ちゅうしゃく 9]。これにより、テオドロス2せい時代じだいとはことなり、団結だんけつした状態じょうたいたいイタリアにあたることになる。イタリアぐんそう司令しれいかんバラティエリ敗北はいぼくによって慎重しんちょうとなり、2まんのイタリアぐんアドワきたのソリア高原こうげん進出しんしゅつさせたものの、補給ほきゅうおくれから1かげつあいだうごけずにいた。そのあいだ、イタリアぐんいちにち150グラムの食料しょくりょう配給はいきゅうえをしのぐことをいられ、次第しだい不満ふまんたかまっていく。将校しょうこう早期そうき決着けっちゃくにつながる強硬きょうこうろんとなえるが、バラティエリは後続こうぞく援軍えんぐん補給ほきゅうつことをき、イタリアぐん意見いけんふたつにれた。それでもなにとか部下ぶかおさえていたバラティエリだったが、1896ねん2がつ29にち、「メネリク2せいやまいたおれる」という情報じょうほうがイタリアぐんにもたらされると、バラティエリも深夜しんや出撃しゅつげき決意けついする。バラティエリはイタリアぐんさんたいけ、21にアドワにけて進軍しんぐんはじめた。一方いっぽう、メネリク2せいコプト正教会せいきょうかい聖堂せいどうで、イタリアぐんにせ情報じょうほうしんじてうごしたと報告ほうこくける。3月1にち新型しんがたライフル武装ぶそうする10まんのエチオピアぐん行動こうどう開始かいしした。アドワのたたかにおいて、イタリアぐんさん部隊ぶたいは、本隊ほんたいアルベルトネ旅団りょだんダボルミダ旅団りょだんによって構成こうせいされており、それぞれ大砲たいほうと4,000ちょう以上いじょうしょう火器かきゆうする部隊ぶたいであった。だが、地形ちけいかんする知識ちしき軽視けいしし、そのうえ夜中よなか行軍こうぐんでもあったため、アルベルトネ旅団りょだん行軍こうぐん目的もくてき見失みうしなってしまう。午前ごぜん6、アルベルトネ旅団りょだん周囲しゅういたすエチオピアぐん姿すがたに、一部いちぶたい突出とっしゅつしていたことをる。疲労ひろう困憊こんぱいしていたアルベルトネ旅団りょだんは、たちまちエチオピアぐん襲撃しゅうげきによって犠牲ぎせいしゃやしていった。バラティリはその苦境くきょうると、ダボルミダ旅団りょだんにアルベルトネ旅団りょだんへの救援きゅうえんめいじる。命令めいれいけてダボルミダ旅団りょだんはすぐにうごきだしたが、不思議ふしぎなことにその進軍しんぐんさきはアルベルトネ旅団りょだん位置いちとはまるでせい反対はんたい方角ほうがくだった。これは、のちにバラティエリが回想かいそうするに、がけはばまれて迂回うかいしているうちにはじまった迷走めいそうとしている。ダボルミダ旅団りょだんはエチオピアぐんただちゅう目的もくてきうしなって放浪ほうろうする集団しゅうだんとなり、メネリク2せいはこれを見逃みのがさなかった。午前ごぜん9、ダボルミダ旅団りょだん民兵みんぺい大隊だいたい崩壊ほうかいすると、りょうぐんみだれた大砲たいほう使つかえない乱戦らんせんとなり、イタリアぐんふたつの旅団りょだんはたちまち殲滅せんめつされていった。イタリアぐん本隊ほんたい支援しえんした、かろうじて撤退てったいすることができたが、イタリアぐん死者ししゃは6,000にん捕虜ほりょも5,000にんをとられる大敗たいはいだった。エチオピアの損害そんがい死傷ししょうしゃ1まんにんという規模きぼだったが、全体ぜんたいの1わり損害そんがいにすぎなかった。このアドワの戦闘せんとうのイタリアの敗因はいいんは、補給ほきゅうきかけた状態じょうたい地形ちけいらないままてき侵入しんにゅうしたことによる[23][注釈ちゅうしゃく 10]だいいちエチオピア戦争せんそうは、半年はんとし1896ねん10月に和平わへい条約じょうやく締結ていけつされて終了しゅうりょうした。その内容ないよう戦前せんぜんにイタリアがゆうしていたエリトリアとソマリア南部なんぶ領有りょうゆうみとめるわりに、オガデンまでのエチオピアの領有りょうゆうみとめるというものだった。だが、エリトリアとエチオピアの境界きょうかいをどこにくかの協議きょうぎは、ふたたびの対立たいりつけるために両者りょうしゃともれることはなかった。これは、1998ねんエチオピア・エリトリア国境こっきょう紛争ふんそう原因げんいんとなる保留ほりゅうであった。

メネリク2せい統治とうち

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ヨーロッパ諸国しょこく衝撃しょうげきあたえる勝利しょうりによって、ヨーロッパ諸国しょこくから主権しゅけん国家こっかとしてみとめられたエチオピアだが、メネリク2せい列強れっきょうたいする対等たいとう外交がいこう実現じつげんするため、理想りそうエチオピア帝国ていこく領土りょうど提唱ていしょうした。きた国境こっきょうせん曖昧あいまいであるもののエリトリアを国境こっきょうとし、ひがしはイタリアとイギリスとの協議きょうぎによってオガデンまでの領有りょうゆう合意ごういすると、メネリクは南方なんぽう西方せいほう領土りょうど拡張かくちょう興味きょうみをもった。西にしスーダンはマフディー国家こっかマフディスト・スーダン英語えいごばん)とイギリスフランスきそっている状態じょうたいマフディーのらん)であったため、メネリク2せいはファショダ(げんKodok付近ふきんまでの侵攻しんこうにとどめ、フランスとはしろナイル協定きょうてい、イギリスとは友好ゆうこう条約じょうやく締結ていけつして国境こっきょうせん策定さくてい合意ごういした。南方なんぽう独立どくりつしたイスラム国家こっか平定へいていしてルドルフ付近ふきんまでを領有りょうゆうした。これにより、現在げんざいのエチオピアとほぼかさなる領土りょうどつことになった。しかし、一方いっぽうでは周辺しゅうへんかこ勢力せいりょくがイタリア、イギリス、フランスといった列強れっきょうこくとなり、1906ねんさんこく協定きょうていむすんでエチオピアへの干渉かんしょうはじめる。いわば、エチオピアは名目めいもくじょうでは主権しゅけん国家こっか達成たっせいしながら、実態じったいとしては依然いぜんとしてさんこく意思いし無視むしできる状況じょうきょうではなかった[24]

アフリカ分割ぶんかつのエチオピア(1908)

メネリク2せい内政ないせいにおいては、フランス・ベルギー・イタリアの協力きょうりょくけて近代きんだいすすめた。首都しゅととして建築けんちくしたアディスアベバは1910ねんまでに10まんにん都市としとして名実めいじつともに首都しゅととなり、鉄道てつどうをアディスアベバからファショダまで敷設ふせつした。また、道路どうろ整備せいび積極せっきょくてきっている。メネリクの統治とうち期間きかんにはすうおおくのはし建設けんせつされている。また、通信つうしんせん鉄道てつどうわせて併設へいせつし、郵便ゆうびん通貨つうか制度せいど改革かいかくおこたらなかった。さらには貨幣かへい経済けいざい基礎きそとしてアビシニア銀行ぎんこうエチオピア銀行ぎんこう)を設立せつりつする。これらの事業じぎょうのうち鉄道てつどう事業じぎょうはフランスが、銀行ぎんこう事業じぎょうはイギリスがイニシアティブをにぎった。教育きょういくにおいてはメネリク学校がっこう開設かいせつし、知識ちしきじん育成いくせいこころざした。それらの近代きんだい政策せいさく一方いっぽうで、エチオピアでふるくから存在そんざいする農奴のうどせい(ガバル制度せいど)は温存おんぞんし、領主りょうしゅ権限けんげんして孤立こりつしたテオドロス2せいわだちまなかった[25]

権力けんりょく闘争とうそう時代じだい

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1906ねん、メネリク2せい脳溢血のういっけつたおれる。メネリクの容態ようだい徐々じょじょ快方かいほうかうが、すでに高齢こうれいとなっていたことから一線いっせんへの復帰ふっきはほぼ不可能ふかのうとなっていた。メネリクの後継こうけいしゃされていた有力ゆうりょくしゃは、長年ながねんメネリクの右腕うわんとしてはたらき、アドワのたたかいでぐんひきいたハラレ総督そうとくマコンネンと、かつてヨハンネス4せい英語えいごばんから後継こうけいしゃ指名しめいけ、アドワ奮戦ふんせんげたティグレのマンガッシャだったが、この時期じき相次あいついで病没びょうぼつしていた。メネリクは自分じぶん没後ぼつごのことをかんがえ、皇帝こうてい補佐ほさする内閣ないかく制度せいどを1907ねん創設そうせつし、1908ねんには後継こうけいしゃとしてむすめシャワラッガとそのおっとのウォロのミカエル英語えいごばん、つまりまごリジ・イヤス後継こうけいしゃ指名しめいした。だが、この後継こうけいしゃ指名しめい納得なっとくしなかったのが、メネリクにわって実権じっけん掌握しょうあくしつつあったつまタイトゥ英語えいごばんだった。タイトゥはイヤスの12さいというわかさを懸念けねんし、メネリクの前妻ぜんさいむすめザウディトゥ後継こうけいしゃす。おいググサ・ワレ結婚けっこんさせ、ショワのザウディトゥとティグレのググサとをむすびつけたうえ権力けんりょくにぎることが目的もくてきだった。ショワの勢力せいりょくもティグレとショワの融和ゆうわ必要ひつようせいでは同意どういしていたが、タイトゥ自身じしんきたエチオピアの利害りがい代表だいひょうする人物じんぶつだったため異議いぎ表明ひょうめいし、ショワのリジ・イヤスとティグレのマンガッシャのむすめとの結婚けっこん提案ていあんした。しかし、タイトゥは譲歩じょうほすることはなく、次第しだいにエチオピア宮廷きゅうていはイヤスとタイトゥ分断ぶんだんされるようになっていった[26]

1909ねん、リジ・イヤスはマンガッシャのむすめ結婚けっこんすると同時どうじ非公式ひこうしきながら皇位こういいだ。これにともなってショワの貴族きぞくタサンマ・ナダウ摂政せっしょう称号しょうごうけるが、実権じっけんはタイトゥが手放てばなさず、ザウディトゥ擁立ようりついまあきらめていなかった。イヤスはこの状態じょうたいえるべく、タイトゥ投獄とうごくや、ショワのアバテをティグレの君主くんしゅ任命にんめいして内乱ないらんこさせたが、1910ねんにはついに陸軍りくぐん大臣だいじんハブタ・ギヨルギスうごかしてタイトゥへのクーデターをこす。タイトゥはこの時期じきおっと介護かいご忙殺ぼうさつされていたために対応たいおうできず、エチオピア正教せいきょうだい司祭しさい中立ちゅうりつ立場たちばくずさなかったことからタイトゥはタサンマらの要求ようきゅうみ、以後いごしばらくは皇帝こうてい介護かいご専念せんねんする。またこの時期じきには、病死びょうししなければ皇位こうい確実かくじつとされていたハラレ総督そうとくマコンネンの、ラス・タファリ・マコンネン(ハイレ・セラシエ)がウォロの君主くんしゅ孫娘まごむすめ結婚けっこんしていた。タファリはクーデターにもかかわっていなかったことから、ハラレ総督そうとく地位ちいちちからぐにあたって、タマンサとタイトゥという対立たいりつする二人ふたりから同時どうじ支持しじけ、その人気にんき背景はいけいにして着実ちゃくじつ足場あしばかためていった[27]

リジ・イヤス(イヤス5せい)を皇位こういにつけ、摂政せっしょうとなったタサンマはエチオピアの実権じっけん掌握しょうあくするが、その栄華えいがは1ねんきた。1911ねん4がつ梅毒ばいどくによってタサンマは死去しきょする[注釈ちゅうしゃく 11]。これによりタイトゥいきかえし、財務ざいむ大臣だいじんアバタ・ブワヤラウつうじて影響えいきょうりょく駆使くししようとした。しかし、陸軍りくぐん大臣だいじんハブタ・ギヨルギスはアバタのせんよこゆるさず、またイヤスのちちのミハイルは8,000にんへいひきいてアバタをらえてごくくだした。

だいいち世界せかい大戦たいせん

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1913ねんのメネリク2せい死去しきょにともなってようやく皇帝こうていイヤスの政権せいけん樹立じゅりつされた。イヤスのわりに政務せいむおこなった摂政せっしょう廃止はいしされ、ネグサ・ナガスト(諸王しょおうおう)となる権利けんりたが、イヤスはソロモン王朝おうちょう子孫しそんたるネグサ・ナガストを名乗なのらなかった。なぜなら、かれちちのミカエルとおなじくイスラム教徒きょうとであり、先祖せんぞはソロモンおうではなく預言よげんしゃムハンマドだと公言こうげんしたためだった。イヤスはターバンをまとい、スルタンのように人前ひとまえ振舞ふるまいはじめる。また、ちちのミカエルをティグレのおうにんじ、このためティグレの部族ぶぞくからのはげしい反発はんぱつまねいた。これらの急激きゅうげきなイスラムへの転換てんかんは、当時とうじぜん人口じんこうの30%をめていながら政治せいじてき権利けんりをほとんどもたないイスラム教徒きょうと不満ふまん解消かいしょうするてんでは効果こうかがあるものだったが、キリスト教徒きりすときょうとしいたげるというおそれは一人ひとりあるきし、エチオピアを包囲ほういする列強れっきょうこくに「キリスト教徒きりすときょうとへの虐待ぎゃくたい」としてつたわった。そのため、国境こっきょうにはイギリス、フランス、イタリアがへい展開てんかいしたが、イヤスはかいさずにソマリア独立どくりつ運動うんどうつづけていたデルヴィッシュこく英語えいごばん国王こくおうサイイド・ムハンマド・ハッサンむすめつまむかえようとし、またオスマン帝国ていこくたいしては同盟どうめい意思いしつたえていた。また、だいいち世界せかい大戦たいせんつながる同盟どうめいこくがわへの参加さんかドイツからびかけられ、ドイツとの友好ゆうこう関係かんけいもあって同盟どうめい参加さんかした。しかし、有事ゆうじさいにはエチオピアをかこえいふつすべてがてきとなるこの同盟どうめいを、エチオピアの諸侯しょこうれるわけにはいかなかった[28]1916ねん9月26にち、かねてよりえいふつあらそっていたハッサンにたいして援助えんじょとがめる手紙てがみが3かこく公使館こうしかんからとどくが、イヤスはそれを黙殺もくさつし、回答かいとうすらしなかった。そのうえ翌日よくじつの27にちはエチオピア正教せいきょうにとって重要じゅうよう祝祭日しゅくさいじつマスカル (Masqal) であったが、イヤスは首都しゅともど気配けはいすらせなかった。エチオピア正教せいきょうだい司祭しさいマテフォスは、それまでイヤスを「完全かんぜんなイスラム教徒きょうとであるとはいえない」とかばってきた[29] が、もはや限界げんかいだった。27にち、イヤスの破門はもんをきっかけにクーデターがこり、財務ざいむ大臣だいじんハイラ・ギヨルギスもと諸侯しょこうあつまって、イヤスの退位たいい宣言せんげんされた。ハイラはつづけてしん皇帝こうていとなるメネリク2せいむすめザウディトゥと、その摂政せっしょうとなるタファリ・マコンネン(のハイレ・セラシエ)を発表はっぴょうした。タファリは、クーデターにおいて黒幕くろまく役割やくわりたしていた[30]廃位はいい宣言せんげんされたイヤスは、それをれず、まずみずからはキリスト教徒きりすときょうとであると宣言せんげんしたが、破門はもんはもはやかれることはなかった。イヤスはトルコけいアラブじんあつめたが、300にんほどしかちょうすることができなかった。一方いっぽうで、ちちのミハイルはティグレで反発はんぱつけてされたものの、本拠地ほんきょちのウォロでへいあつめてしん皇帝こうていへとたたかいをいどんだが、摂政せっしょうであるタファリの用兵ようへい機関きかんじゅう採用さいよう近代きんだいされた軍隊ぐんたいによって敗北はいぼくした。ミカエル英語えいごばん捕虜ほりょとなり、流刑りゅうけいで2ねん死去しきょする。のイヤスもオガデンで1935ねん死亡しぼうした。

ハイレ・セラシエ1せい

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ザウディトゥが女帝にょていとして君臨くんりんしたエチオピア帝国ていこくだったが、諸侯しょこう期待きたいされていたのは摂政せっしょう人気にんきたかいタファリ・マコンネンだった。内政ないせい外交がいこうすべてにおいてタファリが指揮しきをとり、ザウディトゥと対立たいりつしながらもタファリは混乱こんらんした国内こくない安定あんていをもたらし、1926ねん陸軍りくぐん大臣だいじん死去しきょすると国軍こくぐんもタファリの支持しじ鮮明せんめいにする。外交がいこうにおいては1921ねん万国ばんこく郵便ゆうびん連合れんごう加入かにゅうして国際こくさいてき文明ぶんめいこく仲間入なかまいりすると、さらに1924ねん4がつからヨーロッパ外遊がいゆうし、国際こくさい連盟れんめいへの加入かにゅうけてうごす。国際こくさい連盟れんめい加入かにゅうにあたってはエチオピアの奴隷どれいせい問題もんだいとなり、その廃止はいし加入かにゅう条件じょうけんとなった。タファリはザウディトゥに依頼いらいして奴隷どれい解放かいほうみことのりれいはっし、無事ぶじ加入かにゅうたした[31]。しかし、奴隷どれい解放かいほうれいにはザウディトゥをはじめとする諸侯しょこう反対はんたいしていたため、実際じっさいには主人しゅじん死亡しぼう条件じょうけんとした先送さきおくりの内容ないようとなっていた。また、列強れっきょうたいしてはドイツ通商つうしょうじょう関係かんけいたもちながら、アメリカ日本にっぽんとも通商つうしょう関係かんけいむすんだ。タファリの外交がいこう姿勢しせいすべての列強れっきょう等距離とうきょり関係かんけいむすび、エチオピアへの干渉かんしょう牽制けんせいさせあうというねらいに集約しゅうやくされる。一方いっぽうで、1928ねんにタファリは敵対てきたいするイタリアとも友好ゆうこう条約じょうやくむすんだ。これは、イタリアをすでに掌握しょうあくしていたファシストとうムッソリーニによる、永世えいせい友好ゆうこう条約じょうやくびかけにこたえたものだった。エリトリアアッサブみなと自由じゆう使用しようをエチオピアにゆるし、そこまでの道路どうろ建設けんせつ許可きょかするわりに、アメリカの移民いみんほう制定せいていのために毎年まいとし10まんにん送還そうかんされてくる移民いみんさきとしてエチオピアの協力きょうりょくもとめるものだった。この条約じょうやくは20ねん更新こうしんで、異議いぎがなければ永遠えいえん更新こうしんされていくことが合意ごういされ、その成立せいりつしょうするために国際こくさい連盟れんめいへの届出とどけでさえした。しかし、実際じっさいにイタリアがこの条約じょうやくまもった期間きかんは、7年間ねんかんにすぎなかった[32]

ザウディトゥはすべての実権じっけんをタファリににぎられていたことについて、不快ふかいねんいだつづけていた[33] が、1928ねんころ大病たいびょうわずらい、もはや余命よめいすうねんという状況じょうきょうおちいっていた。宮殿きゅうでん近衛このえへいひきいるアバ・ウェクァウは、ザウディトゥの意向いこうけて反乱はんらんこすが、まもなくタファリに鎮圧ちんあつされる。しかし、ザウディトゥはなおもあきらめず、1930ねんにはティグレの不満ふまん分子ぶんしひきいて前夫ぜんふラス・ググサがったものの、これもタファリの対抗たいこう勢力せいりょくたりえなかった。これにより絶望ぜつぼうしたザウディトゥは退位たいい決心けっしんし、1930ねん4がつ3にち、タファリはネグサ・ナガストに即位そくいする。このよりタファリ・マコンネンはエチオピア皇帝こうていハイレ・セラシエ1せいとなった[34]

エチオピア1931ねん憲法けんぽう制定せいてい

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皇帝こうてい即位そくいまず憲法けんぽう制定せいてい熱意ねついけたハイレ・セラシエ1せい制憲せいけんさいして、1923ねんころからエチオピアにあらわれたJapanizerとばれる、大日本帝国だいにっぽんていこくをモデルにした近代きんだい模索もさくしたショア青年せいねん貴族きぞく知識ちしきじんそう影響えいきょう[35]1931ねん7がつ16にち制定せいていされたエチオピアはつ成文せいぶん憲法けんぽうである「エチオピア1931ねん憲法けんぽう」はとりわけ前文ぜんぶんいて、大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうをそのはんとしたものとなった[36][37]。しかしながらこの憲法けんぽう二院にいんせいゆうしつつも、上院じょういんいては憲法けんぽうだい31じょう規定きていもとづき上院じょういん議員ぎいん皇帝こうてい任命にんめいけんが、下院かいんいては憲法けんぽうだい32じょうもとづき下院かいん議員ぎいん下級かきゅう貴族きぞく中級ちゅうきゅう官僚かんりょうから選出せんしゅつすることが規定きていされ、さら議会ぎかいよりも皇帝こうてい側近そっきん会議かいぎ立法りっぽうてき重要じゅうようせいたもたれるなど、立法府りっぽうふ司法しほう独立どくりつ達成たっせいされない、絶対ぜったい主義しゅぎてき色彩しきさいつよ欽定きんてい憲法けんぽうとなった[38]

イタリアによる占領せんりょう時代じだい

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イタリアのエチオピア政策せいさく

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19世紀せいきまつからイタリアの人口じんこう急激きゅうげき上昇じょうしょうをみせ、国内こくないではかかえきれない余剰よじょう人口じんこうかかえるようになっていた。イタリアはその問題もんだい解決かいけつアメリカへの移住いじゅうによって解決かいけつしようとし、アメリカには毎年まいとしおおくのイタリアじん移住いじゅうしてアメリカに一大いちだいコミュニティ形成けいせいしていた。しかし、アメリカは移民いみんたいする方針ほうしん転換てんかんし、1924ねん移民いみんほう成立せいりつ以降いこうぎゃく毎年まいとし10まんにんものイタリア移民いみんおくかえすようになる。イタリアの人口じんこうは1931ねん時点じてんで4200まんにんふくがっており、ファシストとう多産たさん奨励しょうれいしたため、世界せかい恐慌きょうこう人口じんこう爆発ばくはつかさなって社会しゃかい不安ふあんをもたらした。なかでもとく人口じんこう過大かだいだったのは農村のうそんであり、そのため農業のうぎょう従事じゅうじする入植にゅうしょくしゃさき確保かくほ急務きゅうむとなっていたが、エリトリアソマリアにはかれらをれる耕作こうさく生産せいさん手段しゅだん不足ふそくしていた。そのイタリアのきゅうした視点してんからすると、エチオピアの農業のうぎょうてきしたエチオピア高原こうげんプラチナダイヤモンドといった資源しげん存在そんざい非常ひじょう魅力みりょくてきうつった。ムッソリーニイタリアりょうひがしアフリカ帝国ていこく建国けんこくけてうごしていた。ムッソリーニはイギリスフランスローマ協定きょうていむすび、イタリアのエチオピア領有りょうゆうへの黙認もくにんにこぎつける。侵攻しんこう準備じゅんびととのえつつあったムッソリーニだが、その機先きせんせいしたのは日本にっぽんだった。日本にっぽんはエチオピアとの通商つうしょう条約じょうやく締結ていけつにより、武器ぶき弾薬だんやく積極せっきょくてき供与きょうよし、ハイレ・セラシエ1せい外交がいこう努力どりょくもあって新聞しんぶん連日れんじつエチオピアとの親善しんぜんうながしていた。また、ムッソリーニのうごきを決定的けっていてき掣肘せいちゅうあたえていたのは国際こくさい連盟れんめい反対はんたいうごきだった。しかし、日本にっぽん満州まんしゅう進出しんしゅつすることで国際こくさい連盟れんめい無力むりょくさはりとなり、ムッソリーニをしばかせはずれることになる。

エチオピアとイタリアりょうソマリランドとの国境こっきょうにあるワルワルというまちがあった。ワルワルはエチオピア東部とうぶオガデンちかくにあり、地図ちずじょうはエチオピアりょうとされていた。しかし、イタリアはこのまち帰属きぞくについてエチオピアの領有りょうゆうみとめておらず、1934ねんぐん派遣はけんして占有せんゆう状態じょうたいいた。エチオピアの主権しゅけん侵害しんがいとみたハイレ・セラシエ1せいぐん小規模しょうきぼ衝突しょうとつしょうじ、イタリアへい60にん、エチオピアへい200にん死亡しぼうする事態じたいとなった[39]。このワルワル事件じけんをきっかけに、ムッソリーニは「攻撃こうげきてき野蛮やばんな」エチオピアに対抗たいこうするためとしょうしてくろシャツたい(イタリア義勇ぎゆうへい)を編成へんせいし、ソマリアやエリトリアへ次々つぎつぎおくんでいった。一方いっぽう皇帝こうていハイレ・セラシエ1せい国際こくさい連盟れんめい調査ちょうさだん派遣はけん要請ようせいしつつ、戦争せんそうへの準備じゅんびはじめていた。アドワのたたかいを経験けいけんしているムルゲタ陸相りくしょうはイタリアの軍備ぐんびから、どくガス空軍くうぐん戦車せんしゃ運用うんよう危惧きぐし、ドイツから防毒ぼうどくマスク26,000購入こうにゅうした[40]。エチオピアのかく部族ぶぞくへの動員どういん要請ようせいし、75まん動員どういんりょく確保かくほした。軍備ぐんび空軍くうぐんたいする高射こうしゃほう戦車せんしゃたいする対戦たいせんしゃじゅうひとし対抗たいこう手段しゅだん確保かくほできなかったが、かく部族ぶぞく供出きょうしゅつした兵力へいりょくおも旧式きゅうしきライフルじゅう所持しょじしていた[40]1935ねん、イギリスとフランスはイタリアにたいして、「エチオピアの独立どくりつ名目めいもくじょう維持いじしながらえいふつ共同きょうどう管理かんりする」というエチオピアを無視むしした妥協だきょうあんをイタリアにしめすが、ムッソリーニはこれを黙殺もくさつし、エチオピアへの単独たんどく侵攻しんこう決定けっていする。同年どうねん10がつ2にち、ムッソリーニはアドワのたたかいにだした演説えんぜつおこない、「我々われわれからのあたる場所ばしょうばった正義せいぎ黒人こくじんたちに正義せいぎおしえ、文明ぶんめいされた我々われわれ場所ばしょもどさなければならない」としてエチオピアへの侵攻しんこうひがしアフリカ帝国ていこく建国けんこくうったえた。だいエチオピア戦争せんそうはその翌日よくじつからはじまる。

だいエチオピア戦争せんそう

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イタリアりょうひがしアフリカ帝国ていこく領土りょうど
地域ちいき区分くぶん

エリトリアのイタリアぐんエミーリオ・デ・ボーノ元帥げんすい指揮しきした1935ねん10月3にちにエチオピア国境こっきょう侵犯しんぱんして領内りょうない突入とつにゅう同時どうじアドワたいしてばくげきおこない、多数たすうのエチオピアじん死亡しぼうした[41]。 アドワでは地上ちじょう部隊ぶたい交戦こうせんおこなわれ、イタリアぐんは10月6にちまでにまち占拠せんきょした[42]。 このとき、エチオピアは国際こくさい社会しゃかいたいしてイタリアの仕掛しかけた戦争せんそう印象いんしょうづけるために防衛ぼうえい行動こうどうおこなわず、アドワから南方なんぽうへと移動いどうしていた。イタリアぐんはエチオピアぐん駐屯ちゅうとんするマクァレけてさらに前進ぜんしんする。しかし、デ・ボーノのきたイタリアぐん現地げんち傭兵ようへいである不正規ふせいきへいもちいていたために練度れんどひくく、指揮しきかん性格せいかくもあって慎重しんちょう攻防こうぼうせんつづいた。この遅滞ちたいは、国際こくさい連盟れんめい石油せきゆ輸出ゆしゅつ制裁せいさい可決かけつされるまえ戦争せんそうわらせたいムッソリーニにとってはもどかしくかんじられ、エチオピアぐん拡張かくちょう弾頭だんとうダムダム弾だむだむだん使用しようじょうじて1925ねんジュネーブ協定きょうてい禁止きんしされたどくガス使用しよううながす。だが、デ・ボーノはどくガスの使用しよう難色なんしょくしめし、かつ補給ほきゅうせんびきっている危険きけんせいから作戦さくせん変更へんこうもとめたため[43]名誉めいよそこなわないかたち前線ぜんせんからはずされる。わりに司令しれいかんとなったピエトロ・バドリオ航空機こうくうきどくガスをひろ散布さんぷし、兵士へいしのみならず一般いっぱん市民しみんおおきな打撃だげきあたえたうえでマクァレを占領せんりょうし、ティグレを勢力せいりょくけんれた。また、アドワとマクァレのなかあいだ地点ちてんタンベン・テンビエンにおいてイタリアぐんはエチオピアの陸相りくしょうムルゲタぐんとのたたかいとなり、エチオピアからさん方面ほうめん包囲ほういされかけたが、どくガスによって相手あいて足止あしどめし、ムルゲタの本隊ほんたい集中しゅうちゅうてきねらいうつことでこれを撃破げきはした。さらに追撃ついげき最中さいちゅうにムルゲタを殺害さつがいしてアドワにおける敗戦はいせん溜飲りゅういんげる。双方そうほう決戦けっせんとなったのは、マイチャウまちにおける攻防こうぼうせんだった。このたたかいにおけるイタリアぐん攻撃こうげきは、ほぼ虐殺ぎゃくさつひとしかった。上空じょうくうからマスタードガスきちらされ、はだただれる激痛げきつうこう戦力せんりょくうしなったマイチャウのまちに、イタリアぐん執拗しつようばくげき銃撃じゅうげきくわえる。兵士へいし市民しみん次々つぎつぎたおれていき、のこったものには爆風ばくふうがって液化えきかしたマスタードガスのあめそそいだ[44]。そのうえ、マイチャウとちかくのデシェ病院びょういん重点的じゅうてんてき爆撃ばくげきされた[45]。これがのちにハイレ・セラシエが「最大さいだい悲劇ひげき」とかた殲滅せんめつせんだった。エチオピア北部ほくぶ展開てんかいしたエチオピアぐん壊滅かいめつし、タナ湖畔こはんのがれたハイレ・セラシエの兵力へいりょくはすでに5,000にんっていた。これは首都しゅとアディスアベバ防衛ぼうえいどころか、皇帝こうていハイレ・セラシエの安全あんぜんすら保障ほしょうできない兵力へいりょくであり、アディスアベバの議会ぎかい皇帝こうていにイタリアぐんからはなれるように懇願こんがんした。ハイレ・セラシエは4がつ30にちにアディスアベバにもどると、一族いちぞく側近そっきんれて5月2にち首都しゅとのちにした。皇帝こうていフランスりょうソマリランドむと、ロンドンけて出航しゅっこうする。ハイレ・セラシエには、どくガス使用しよう戦争せんそう不当ふとうさを国際こくさい世論せろん直接ちょくせつうったえかける方法ほうほうでの抵抗ていこうえらんだのだが、エチオピア国内こくないのこっててきむか将兵しょうへい諸侯しょこう一部いちぶにとって、それは祖国そこく放棄ほうきならなかった。そのため、ハイレ・セラシエにたいする不満ふまん諸侯しょこうあいだくらかげ後々あとあとまでとすことになる。また、軍隊ぐんたい指導しどうしゃ消滅しょうめつはアディスアベバを混沌こんとんとしいれ、統制とうせいうしなったエチオピアの兵士へいし市民しみんによってだい規模きぼ略奪りゃくだつ暴動ぼうどう発生はっせいした。 5月1にち、イタリアぐんのアルプス歩兵ほへいたいくろシャツたいによる混成こんせい部隊ぶたいは、首都しゅとアディスアベバに入城にゅうじょうたす[46]。まずイタリアぐんがしたことは、武力ぶりょく抵抗ていこうしたもの、皇帝こうてい保護ほご優遇ゆうぐうされたもの、暴動ぼうどうくわわったもの、武器ぶきてないものをらえて処刑しょけいすることだった。

このパドリオの北部ほくぶ戦線せんせんたいし、ソマリアから西にしすすんでいたグラツィアーニぐん近代きんだいされたイタリア本国ほんごく部隊ぶたい中心ちゅうしんであったため、通常つうじょう戦術せんじゅつでエチオピアぐん圧倒あっとうしていた。エチオピア東部とうぶオロモじんからも協力きょうりょくて5がつ8にちにはハラール占領せんりょうし、イタリアの初期しょき軍事ぐんじ目標もくひょうであるエチオピアの3ぶんの1に該当がいとうする北部ほくぶ東部とうぶ制圧せいあつ達成たっせいした。しかし、いま各所かくしょには抵抗ていこうするエチオピアぐん諸侯しょこう存在そんざいし、そのためにエチオピアの当初とうしょ目的もくてきであった移民いみん活動かつどうについては遅々ちちとしてすすまなかった[47]

アディスアベバとハラール制圧せいあつをおかず、5月9にち、イタリアはエリトリアイタリアりょうソマリランドエチオピアさんこくにわたるイタリアりょうひがしアフリカ帝国ていこく建国けんこく宣言せんげんした。その皇帝こうていにはイタリア国王こくおうヴィットーリオ・エマヌエーレ3せい即位そくいし、エチオピア皇帝こうていならってネグサ・ナガスト(諸王しょおうおう)を名乗なのった。

植民しょくみん支配しはいへの抵抗ていこう

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1936ねんのアディスアベバ攻略こうりゃくのち、イタリアはエチオピアの獲得かくとく宣言せんげんしたが、この時点じてんでイタリアの支配しはいふくさない地域ちいきカッファショアアルッシバリゴレといった地域ちいきで、それは合計ごうけいぜん領土りょうどの3ぶんの2にまでたっしていた。それらの地域ちいきは「くろ獅子ししたち」とばれるレジスタンスによってはんイタリア活動かつどう活発かっぱつだった[47]。イタリアはそれにたいきびしい対処たいしょのぞみ、レジスタンスの指導しどうしゃとそれを支援しえんするものはほとんどは処刑しょけいされた。ただし、レジスタンスの指導しどうしゃとしてもっと有名ゆうめいラス・エムルのち自伝じでんのこしたイェルマ・デレサせしめとしての用途ようと期待きたいされ、即座そくざ処刑しょけいされず刑務所けいむしょかれたままのこるが、これはめずらしいケースだった。また、イタリアの追及ついきゅう聖職せいしょくしゃ対象たいしょうとし、エチオピア正教せいきょうだい司祭しさいペトロとそのいだミハエルは、イタリアへの協力きょうりょくこばんだことを理由りゆう死刑しけい宣告せんこくされた。この時期じき修道しゅうどうだけでも100にん以上いじょう処刑しょけいされている。さらに皇族こうぞく例外れいがいではなく、ハイレ・セラシエのむすめウェルクごくつながれたままむかえ、そのおっと銃殺じゅうさつされた。1937ねん2がつ19にちにグラッツィアーニへのばくだんテロ(結果けっか軽傷けいしょう)がこると、グラツィアーニはそれを口実こうじつにエチオピアへのだい規模きぼ弾圧だんあつ実施じっしし、「指導しどうしゃたりえる教養きょうようのあるエチオピアじん」であるだけで弾圧だんあつ対象たいしょうとなった。その対象たいしょうとなったエチオピアじんかずはイタリアの管理かんり能力のうりょくえるほどで、刑務所けいむしょはいりきらないという理由りゆうにより、すくなくとも3,000にん以上いじょう動物どうぶつよう屠場とじょう処刑しょけいされるにいた[48]。そのあまりの徹底てっていぶりはイタリアぐん一部いちぶ服従ふくじゅうしょうじさせたほどだった[注釈ちゅうしゃく 12]。この弾圧だんあつにより、エチオピアの知識ちしきじんそう戦前せんぜん世代せだい戦後せんご世代せだいあいだ欠落けつらくした空白くうはく世代せだい存在そんざいしている。初期しょきのレジスタンス指導しどうしゃおおくがらえられて処刑しょけいされたが、エチオピアのレジスタンスのゲリラ活動かつどう自体じたいはむしろ拡大かくだいした。ティグレのセユム・マンガッシャといった諸侯しょこうもレジスタンスの支援しえんまわ[注釈ちゅうしゃく 13]。イタリアの敗戦はいせんまで抵抗ていこうつづけたレジスタンスとしては、テクレ・ウェルデベライ・ゼレクェマモ・ハイルハイル・ケブレトらが存在そんざいし、かれらは初期しょきでは皇帝こうていへの忠誠ちゅうせい確信かくしんしていたが、やがては亡命ぼうめいした皇帝こうていへの批判ひはんかえすようになっていく。かれらの皇帝こうていへの不満ふまんは、後々あとあとまで問題もんだいとなった。

1936ねん6月30にち国際こくさい連盟れんめい総会そうかいにおいて、イタリアは「連盟れんめい規約きやくもとづき、文明ぶんめい使者ししゃとしてエチオピアに公正こうせい解放かいほうをもたらすせいなる使命しめい完遂かんすいした」とエチオピア侵略しんりゃく報告ほうこくしたうえで「しかるに、文明ぶんめいこく責務せきむたしたイタリアが経済けいざい制裁せいさいという異常いじょう事態じたいにおかれているとは、いかなることか」とその経済けいざい制裁せいさい解除かいじょもとめた[49]。イタリアとの戦争せんそうけたかったフランスとうはその提案ていあんへの賛意さんいしめす。つづいて演題えんだいったのは亡命ぼうめいちゅうのハイレ・セラシエだった。ハイレ・セラシエはイタリア代表だいひょうとそのジャーナリスト12にん罵声ばせいびながら、イタリアの提案ていあんどくガス使用しよう根拠こんきょ同様どうように「エチオピアじん文明ぶんめいじんではないためゆるされる」とするもので、「それは事実じじつではないし、違法いほうせいを阻却する妥当だとうせいにもける」とうったえたが、総会そうかいでの審議しんぎでイタリアへの制裁せいさい解除かいじょ難色なんしょくしめしたのはみなみアフリカニュージーランドこくだけであり、このこくも7がつ4にち総会そうかい投票とうひょうではひょうえ、イタリアの経済けいざい制裁せいさい解除かいじょ提案ていあん賛成さんせい44、棄権きけん4、反対はんたい1(エチオピア)で可決かけつされた。7がつ15にちにムッソリーニは「アフリカ、ヨーロッパのいずれにおいても文明ぶんめい正義せいぎ勝利しょうりおさめた」と宣言せんげんする[50]。しかし、イタリアの目的もくてきであった殖民しょくみん計画けいかくにおいては、目標もくひょうとする100まんにんたい実際じっさい移民いみんした人数にんずうは14まんきょうにとどまり、さらに自給自足じきゅうじそくもできず、レジスタンスの攻撃こうげき頻繁ひんぱんこっていたことで10まんにん帰国きこくした。

イタリアりょうひがしアフリカ帝国ていこく崩壊ほうかい

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1939ねん9月1にちだい世界せかい大戦たいせん開始かいしされる。当初とうしょ軍備ぐんび不十分ふじゅうぶんであることから参戦さんせん見送みおくっていたイタリアだったが、ドイツ戦果せんかて、1940ねん6がつ10日とおかにフランス、イギリスへの宣戦せんせん布告ふこくした。ひがしアフリカの植民しょくみんにおいては8がつ3にちナージ将軍しょうぐんひきいられた40,000の軍団ぐんだんイギリスりょうソマリランド侵攻しんこう開始かいしした。イギリスがこの配置はいちしていたのはインドへいなど13,000にぎず、イギリスぐんベルベラ攻防こうぼうせんのち海路かいろから脱出だっしゅつする。このたたかいでの死者ししゃはイギリスぐんが250にんたいし、イタリアぐんが2,000にん被害ひがいおおきいものになった。同年どうねん11がつ、イギリスぐんスーダンガラバトとソマリアで反撃はんげきうつり、スーダン方面ほうめん撃退げきたいされたものの、ソマリア方面ほうめんはイギリスぐん勝利しょうりわった。イタリアぐんはこの結果けっか両面りょうめんまもることは不可能ふかのう判断はんだんし、スーダン方面ほうめんぐんをエチオピアに集中しゅうちゅうさせようとする。しかし、そのうごきをさっしたイギリスぐんさい編成へんせいした部隊ぶたいでイタリアを追撃ついげきし、その旅団りょだんちょうらえるなどしてイタリアの戦力せんりょく集中しゅうちゅう妨害ぼうがいした。そのあいだにもイギリスぐんモガディシオ占領せんりょうするとイタリアりょうソマリアへぐんすすめる。この推移すいい見守みまもっていたエチオピア皇帝こうていハイレ・セラシエ1せいはイギリスぐんとともスーダン方面ほうめんからエチオピアにさい入国にゅうこくたし、1941ねん1がつ10日とおかゴジャムんだ。それとときおなじくして、エリトリアのイタリアぐんはフランスとイギリスの共同きょうどう攻撃こうげき壊滅かいめつし、イタリア海軍かいぐん降伏ごうぶくした。アディスアベバのイタリアは抗戦こうせん断念だんねんし、ひがしアフリカ帝国ていこくふくおうアオスタこうらはアディスアベバからの撤退てったいはじめ、のち降伏ごうぶくする。イタリアぐんはゴンダル周辺しゅうへんでまだ抗戦こうせんする部隊ぶたいのこしていたが、首都しゅとへの進軍しんぐんさまたげる勢力せいりょく存在そんざいせず、ようやくハイレ・セラシエは首都しゅとアディスアベバに帰還きかんする。しくも、それはイタリアぐん占領せんりょうされた日付ひづけおなじ5がつ5にちのことだった[注釈ちゅうしゃく 14]

エチオピア帝国ていこく終焉しゅうえん

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ハイレ・セラシエの独裁どくさい

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帰国きこくした皇帝こうていハイレ・セラシエ1せいは、エチオピアの国民こくみんから熱狂ねっきょうてき支持しじあつめた。その信仰しんこうちか崇拝すうはいラスタファリ運動うんどう)は、ハイレ・セラシエの権威けんいをイタリア侵略しんりゃく以前いぜんをはるかにしのぐものにげる。そのためにハイレ・セラシエは、戦後せんご政体せいたいにおいて立憲りっけん君主くんしゅせいではなく旧来きゅうらい絶対ぜったい主義しゅぎ選択せんたくする。権威けんい批判ひはんてき勢力せいりょくとしては、レジスタンス指導しどうしゃからてられた諸侯しょこうらがいたが、エチオピア政界せいかい主流しゅりゅうにはならなかった。ハイレ・セラシエとともにエチオピアの政治せいじをとりしきったのは、皇帝こうてい国璽こくじあずかる職務しょくむ大臣だいじんであり、1943ねん以降いこう実質じっしつじょう首相しゅしょうとして機能きのうしていた。1955ねんまでのギヨルギス・ワルダ1961ねんから1974ねんまでのアキル・ハブタといった大臣だいじんは、それらのなかでもとく有力ゆうりょく存在そんざいであった[51]。ハイレ・セラシエの統治とうちは、軍事ぐんじ経済けいざいてき最初さいしょはイギリスに、のちアメリカ従属じゅうぞくすることで資本しほんむというもので、東西とうざい冷戦れいせん利用りようして多数たすう借款しゃっかんあつめた。イギリス、アメリカはエチオピアの農業のうぎょう大臣だいじん商務しょうむ大臣だいじんねるメコネン・ワルダつうじて影響えいきょうりょく行使こうしし、はん体制たいせいソ連それんはしらせた。ハイレ・セラシエは1955ねんには憲法けんぽう改正かいせいおこない、皇帝こうてい神格しんかく謬性さい確認かくにんした。

ハイレ・セラシエが最初さいしょした産業さんぎょう育成いくせい対象たいしょう農業のうぎょうであったが、近代きんだい進展しんてん全土ぜんどにわたって停滞ていたいした。これは植民しょくみんこばんで西欧せいおう技術ぎじゅつ思想しそう侵入しんにゅうこばつづけていたため、アフリカほか国々くにぐにくらべて経済けいざい計画けいかく導入どうにゅう困難こんなんなためだった[52]。そのなかにおいて、1952ねんからアメリカが技術ぎじゅつ援助えんじょおこなったカッファのコーヒー栽培さいばい順調じゅんちょうすすみ、イエメンモカこうからされるコーヒーまめはアメリカに5000まんドルの利益りえきをもたらした。1960ねんにはアメリカが200まんドルの開発かいはつ融資ゆうし基金ききんされたが、それにより南部なんぶでは私的してき土地とち所有しょゆうすすみ、土地とち高騰こうとうした。一方いっぽう北部ほくぶでは旧来きゅうらい土地とち制度せいどまもつづけ、効果こうか地方ちほうによりまちまちだった。商業しょうぎょうにおいては1960年代ねんだいになっても国民総生産こくみんそうせいさんの7%をめるのみだったが、コーヒーといった商品しょうひん作物さくもつ利用りようして規模きぼ拡大かくだいしていった。輸出ゆしゅつ品目ひんもくには、それぞれ管理かんりするボード設置せっちし、輸出ゆしゅつされる数量すうりょう価格かかく調整ちょうせいしていた。工業こうぎょうにおいては1952ねんにイギリスの軍政ぐんせいから連邦れんぽうとしてくわわったエリトリアいちじるしい進展しんてんをみせ、旧来きゅうらいのエチオピアは緩慢かんまん進捗しんちょくであった。そのなかではアディスアベバ近郊きんこうには電力でんりょく会社かいしゃ設立せつりつされ、石油せきゆ精製せいせい工場こうじょうセメント工場こうじょう建設けんせつされ、石油せきゆセメントといった都市とし計画けいかく不可欠ふかけつ資材しざい生産せいさんされはじめる。輸出ゆしゅつ品目ひんもくとしては、綿織物めんおりもの工場こうじょう製糖せいとう工場こうじょう生産せいさんひんがエチオピアに外貨がいかをもたらす。しかし、工場こうじょうはほとんどがアディスアベバにかたよっており、その建設けんせつともな利権りけん繁栄はんえい集中しゅうちゅう次第しだい諸侯しょこう反感はんかんそだてていった[53]

ハイレ・セラシエはイタリアの占領せんりょう以前いぜんからハイレ・セラシエ軍事ぐんじ訓練くんれんこう設立せつりつするなど軍事ぐんじ改革かいかくしていたが、皇帝こうてい復帰ふっきしたことでその改革かいかくをさらにすすめていく。ぐん改革かいかくはイギリスから1942ねん同意どういしょを、アメリカからは1953ねん同意どういしょをとり、りょうぐん関与かんよもと推進すいしんされた。エチオピアぐんはイタリアへのレジスタンス活動かつどうからいだ正規せいきぐんおおく、地域ちいき領主りょうしゅとのかかわりがふかかった。ハイレ・セラシエはこれをみずからの統制とうせいもどすべく、正規せいきぐんへと徐々じょじょ編入へんにゅうさせていった。この正規せいきぐん増員ぞういん背景はいけいには、ソマリアとのあいだ帰属きぞくあらそうオガデンの存在そんざいがあった。1953ねん、ハイレ・セラシエはさらにスウェーデンに5,000にん帝国ていこく親衛隊しんえいたいおくり、エリート部隊ぶたいとしての訓練くんれんけさせたが、陸軍りくぐん親衛隊しんえいたい、そして親衛隊しんえいたい内部ないぶでの待遇たいぐうが、はげしい反目はんもくをもたらすことになった[54]

紛争ふんそう

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だいソマリア主義しゅぎ

エリトリア1952ねんまでイギリスの軍政ぐんせいしたにあったが、国際こくさい連合れんごうでエチオピアに連邦れんぽうというかたち参入さんにゅうする。帝国ていこくへの編入へんにゅうでも、独立どくりつでもないこのかたちは、カグニューへの通信つうしん基地きち (Kagnew Station) の提供ていきょうけエチオピアへの編入へんにゅう支持しじするアメリカと、独立どくりつ支持しじするソ連それんとの妥協だきょうそのものだった。しかし、エリトリアは本来ほんらいエチオピアとはことなる歴史れきしをたどってきた国家こっかであり、宗教しゅうきょうをはじめ文化ぶんか差異さいおおきかった。そのため、国連こくれん措置そち乱暴らんぼうさはベルギーのアフリカ専門せんもんヴァンデルはじめとする研究けんきゅうしゃからの指摘してきけたが、その決定けっていくつがえることはなかった。エリトリアは自治じちけんかたちだけみとめられてはいたが、軍事ぐんじ外交がいこうはエチオピアがにぎるため主権しゅけんはなく、貿易ぼうえき工業こうぎょう生産せいさんもエチオピアが管理かんりした。1958ねんにはそれまでゆるされていたエリトリアの国旗こっき掲示けいじ禁止きんしされ、使用しよう言語げんごもエチオピア公用こうようアムハラ使つかうようにいられた[55]。この処置しょちたいするデモも発生はっせいしたが、エチオピアは発砲はっぽうでこれにこたえ、532にん死傷ししょうしゃ発生はっせいした。エチオピアはエリトリア議会ぎかいへの圧力あつりょくつよめ、帝国ていこく議会ぎかい1960ねん政府せいふ権限けんげん縮小しゅくしょうして官庁かんちょうえる提案ていあん全会ぜんかい一致いっち可決かけつする。これは完全かんぜん併合へいごうにらんだ準備じゅんび[56] であり、エリトリアじんたちはもう反発はんぱつした。1958ねん、イスラム教徒きょうと中心ちゅうしんに「エリトリア解放かいほう戦線せんせん (ELF)」が結成けっせいされ、中近東ちゅうきんとうのアラブ勢力せいりょく支援しえんけて自治じちけん確立かくりつ目指めざした[57]。また、しかし、エリトリアは1962ねん併合へいごうされてエチオピアのいちしゅうとなり、以降いこう30ねんおよ武力ぶりょく闘争とうそう幕開まくあけとなった[58]。またソビエト連邦れんぽう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく支援しえん1970ねん、「エリトリア人民じんみん解放かいほう戦線せんせん (EPLF)」というべつ組織そしきつく[59]、こちらは自治じちけんもとめて闘争とうそう開始かいしした。このほかにもエリトリア解放かいほう戦線せんせん人民じんみん解放かいほうぐん (ELF-PLF) とう大小だいしょう2けたおよはん政府せいふ組織そしき乱立らんりつした。

一方いっぽう、かつてだいエチオピア戦争せんそうがねとなったオガデンはエチオピアの領土りょうどとされていたが、そのおも住民じゅうみんソマリけいしょ民族みんぞくオロモじんイスラム教徒きょうとであり、エチオピアの支配しはいには抵抗ていこうしめせていた。一方いっぽうだい世界せかい大戦たいせんのアジア・アフリカにおける民族みんぞく自決じけつながれのなかイギリスりょうソマリランドイタリアりょうソマリアはそれぞれ1960ねん独立どくりつし、合併がっぺいしてひとつのくにソマリア共和きょうわこく誕生たんじょうする。与党よとうとなったソマリ青年せいねん同盟どうめい勃興ぼっこうナショナリズム全面ぜんめんだいソマリア主義しゅぎ提唱ていしょうした。これは、「すべてのソマリけいはソマリアへ」をスローガンとし、エチオピアからおも家畜かちくぜいせられたオガデンの住民じゅうみんはソマリアの支援しえんもとめた。しかし、オガデンの抵抗ていこう中心ちゅうしんはオロモじんであり、分離ぶんりではなく搾取さくしゅへの反乱はんらん目的もくてきだったためにソマリアも本腰ほんごしをいれて介入かいにゅうすることはなく、表立おもてだった紛争ふんそう発生はっせいしなかった。りょうぐん泥沼どろぬま戦闘せんとうはじめるのはシアド・バーレがソマリアに軍事ぐんじ政権せいけん樹立じゅりつし、エチオピアに1974ねん以降いこうであった。

アディスアベバのはる

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1960ねん皇帝こうていハイレ・セラシエ1せい外遊がいゆうちゅうクーデター未遂みすい発生はっせいするが、これは親衛隊しんえいたいネウェイ兄弟きょうだい軍部ぐんぶ主導しゅどうけんにぎるためにこしたものであり、アスファ皇太子こうたいしおどしてかつげたことからも体制たいせい自体じたい転覆てんぷくかんがえてはいなかった。そのため、ラジオでアスファ皇太子こうたいし声明せいめいぶん発表はっぴょうさせたものの、ラジオ自体じたい流通りゅうつうすくなさとハイレ・セラシエの権威けんいからつづくものはなく、すぐに鎮圧ちんあつされてアスファ皇太子こうたいし救出きゅうしゅつされたが、皇族こうぞく18にん突撃とつげきさい反逆はんぎゃくしゃによって殺害さつがいされた。多数たすう親族しんぞくと、みずか子飼こがいとして育成いくせいした親衛隊しんえいたい反乱はんらんは、ハイレ・セラシエのいに影響えいきょうあたえる。それまでイタリアへの抵抗ていこう活動かつどう英雄えいゆうである諸侯しょこうたちを、みずからへの批判ひはん理由りゆう次々つぎつぎ処刑しょけいしていった。

また、当初とうしょみずか熱心ねっしん改革かいかくしていたハイレ・セラシエだったが、1970年代ねんだいにもなると国璽こくじあずかる大臣だいじんアキル・ハブタせんよこゆるすようになっていた。周囲しゅうい側近そっきんらがもたらす情報じょうほうをそのままれ、エチオピアの根幹こんかん産業さんぎょうまりをまったく理解りかいできていなかった。1967ねん第三次中東戦争だいさんじちゅうとうせんそうによって封鎖ふうさされたスエズ運河うんがは、エチオピアの石油せきゆ製品せいひん価格かかく高騰こうとうさせ、タクシー運転うんてんするだけ赤字あかじになるためエチオピアから姿すがたした。原油げんゆ価格かかくわせて物価ぶっか上昇じょうしょうつづけて、1973ねんいちげつ前年ぜんねん20%を上昇じょうしょうし、それにたいして政府せいふ無策むさくだった。さらに農業のうぎょう近代きんだい依然いぜんとして放置ほうちされており、技術ぎじゅつとぼしいエチオピアの農業のうぎょうは、1972ねんからいちねんわただい旱魃かんばつなん対応たいおうもできなかった。そのため、旱魃かんばつつづ1973ねん飢饉ききんける人為じんいてき手段しゅだん何一なにひとたれることなく、ウォロしゅうティグレしゅうシダモしゅう飢餓きが深刻しんこくきわめた。ウォロだけでも、わずか4ヶ月かげつで10まんにん餓死がししゃ発生はっせいし、放置ほうちされた飢餓きがはさらにショアしゅうハラルゲしゅうといった地方ちほうへとひろがっていった[60]国際こくさい社会しゃかいはこの惨状さんじょうについてエチオピア政府せいふ非難ひなんするとともに、オイルショック混乱こんらん見舞みまわれながらも救援きゅうえん物資ぶっしおくとどけたが、それらは為政者いせいしゃ不正ふせい行為こういによって高額こうがくりさばかれることになった[61]飢饉ききん後期こうきには、ついに餓死がししゃは20まんにんたっする。だが、皇帝こうてい飢饉ききんこっていることすら側近そっきんらされず、国内こくない報道ほうどう機関きかんつよ言論げんろん統制とうせいしばられていた。政府せいふ飢饉ききんのニュースをデマであると否定ひていし、対処たいしょのなされない飢饉ききん失業しつぎょうがエチオピアに蔓延まんえんした。それらの事情じじょう一切いっさいらないハイレ・セラシエは、ペットのライオンにくあたえている写真しゃしん撮影さつえいされ、公表こうひょうによって民衆みんしゅうはげしいいかりをった。

1973ねんはいると、インフレてい賃金ちんぎんから労働ろうどうしゃ労働ろうどう組合くみあいをつくり、ストライキ各地かくちこされた。軍部ぐんぶにおいても飲料いんりょうすい食料しょくりょう配給はいきゅうとどこおり、南部なんぶネゲレ陸軍りくぐんだい4師団しだん反乱はんらんこる。とくにエチオピア政府せいふにとって痛手いたでだったのは、2がつきゅうエリトリアの首都しゅとアスマラでの陸軍りくぐんだい2師団しだん反乱はんらんであり、20%の賃金ちんぎん引上ひきあげをもとめるうったえは海軍かいぐん空軍くうぐんにも支持しじひろげた。ハイレ・セラシエは当初とうしょ、この反乱はんらんたい強気つよきのぞんだが、2がつ28にちにはクーデターをこされて首相しゅしょうらがらえられるという事態じたいおちいると兵士へいしたちの要求ようきゅうをききいれた。兵士へいし要求ようきゅうによって首相しゅしょう就任しゅうにんしたエンダルカチュー・マコンネン事態じたいおさめるためにハイレ・セラシエの権限けんげんおさえる立憲りっけん君主くんしゅせい採用さいよう体制たいせい維持いじはかろうとしたが、軍部ぐんぶ民衆みんしゅうもとめるのは共和きょうわせいであり、象徴しょうちょうとしてのハイレ・セラシエの温存おんぞんはほぼ絶望ぜつぼうてきとなる。また、この皇帝こうてい権威けんい失墜しっついおなじくして、ホレッタ・ミリタリー・アカデミー卒業そつぎょうらによってデルグ(Derg[注釈ちゅうしゃく 15])が結成けっせいされ、共和きょうわせいによるあらたな国家こっか建設けんせつ目指めざして軍部ぐんぶ活動かつどうひろげていった。

1974ねん9月11にち午前ごぜん3外出がいしゅつ禁止きんしれい布告ふこくされたアディスアベバ市街しがいをエチオピアぐん部隊ぶたい宮殿きゅうでんけて移動いどうはじめる。午前ごぜん7時半じはん、ラジオは皇帝こうてい退位たいいつたえた。皇帝こうてい巨大きょだい宮殿きゅうでんからちいさなフォルクスワーゲン強制きょうせいてきうつされ、アディスアベバからられた。翌日よくじつ皇帝こうてい殺害さつがいされた[62]公称こうしょう3000ねん歴史れきしほこるソロモン王朝おうちょう終焉しゅうえんだった。実行じっこうしゃぐんハイレ・マリアム少佐しょうさであり、その行動こうどう背景はいけいにはデルグ政権せいけん帝政ていせい解体かいたい決断けつだんがあった。

エチオピア人民じんみん民主みんしゅ共和きょうわこく

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エチオピア人口じんこう分布ぶんぷ(1976ねん)

革命かくめいによって皇帝こうてい排除はいじょしたエチオピアの軍部ぐんぶだったが、急進きゅうしん学生がくせい労働ろうどうしゃ期待きたいする共和きょうわせいにはすぐに移行いこうしなかった。当面とうめんあいだ臨時りんじ軍事ぐんじ行政ぎょうせい評議ひょうぎかい (Provisional Military Administration Council, PMAC) によって運営うんえいされることになり、その議長ぎちょうにはアスマラの反乱はんらん調停ちょうていしゃアマン・アンドム中将ちゅうじょう就任しゅうにんした。しかし、エリトリア出身しゅっしんのアンドム議長ぎちょうはエリトリアの独立どくりつ理解りかいしめし、急進きゅうしんてき改革かいかくこのまなかった[63] ため、1974ねん11月17にち解任かいにんされ、11月22にち軟禁なんきんよく23にち殺害さつがいされた。後任こうにん議長ぎちょうにはハイレ・マリアムが臨時りんじ代行だいこうしたのちテフェリ・バンテじゅんしょう就任しゅうにんしたが、実質じっしつてき支配しはいしていたのは議長ぎちょうゆずった、デルグ(軍部ぐんぶ調整ちょうせい委員いいんかい)を手中しゅちゅうおさめていたメンギスツ・ハイレ・マリアム陸軍りくぐん少佐しょうさだった。当時とうじ軍部ぐんぶ支配しはいしていた思想しそうは「エチオピアだいいち主義しゅぎ」であり、ぐんによる国家こっか統一とういつ(エリトリアとオガデンふくむ)をかかげていた。これはソマリアでいうだいソマリア主義しゅぎ似通にかよったかんがえであった。PMACにおいてもっと強硬きょうこうにエチオピアだいいち主義しゅぎとなえていたのはメンギスツ・ハイレ・マリアム陸軍りくぐん少佐しょうさであり、右派うはエチオピア民主みんしゅ同盟どうめい (EDU) に対抗たいこうして「社会しゃかい主義しゅぎ政策せいさく」を提唱ていしょうしてPMACの実権じっけんにぎった。だが、メンギスツは社会しゃかい主義しゅぎしゃではなかった。これは、当時とうじアフリカにおいて社会しゃかい主義しゅぎ提唱ていしょうすると国民こくみんがわ存在そんざいとされたことから、政策せいさく内容ないよう関係かんけいなく主張しゅちょうしただけであり、実際じっさい民族みんぞく主義しゅぎしゃにすぎなかった。メンギスツが1974ねんにPMACをつうじて発表はっぴょうしたくに指針ししんとなる10項目こうもく提言ていげん[注釈ちゅうしゃく 16] も、統一とういつ国家こっか口実こうじつとした民族みんぞく同化どうか政策せいさくであり、アムハラ使用しようエチオピア正教会せいきょうかいへの信仰しんこう強制きょうせいつながるものだった。しかし、それはかえってティグレじんオロモじんらの民族みんぞく意識いしき目覚めざめさせ、ティグレ人民じんみん解放かいほう戦線せんせん (TPLF)、オロモ解放かいほう戦線せんせん (OLF) とう結成けっせいされてPMACと対立たいりつした。また、メンギスツは労働ろうどう組合くみあい連合れんごう(CELU、850,000にん所属しょぞく)には解散かいさんめいじ、みずからの思想しそうあらわにした。

メンギスツの独裁どくさい

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メンギスツ・ハイレ・マリアム

独裁どくさい体制たいせいととのえたメンギスツは、より盤石ばんじゃく体制たいせいきずくためにぜんエチオピア社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどう (MEISON)に接近せっきんし、おな社会しゃかい主義しゅぎしゃの「エチオピア人民じんみん革命かくめいとう (EPRP)」への攻撃こうげきはじめた。りょうとうはともに社会しゃかい主義しゅぎ政党せいとうで、メンギスツらの軍部ぐんぶ政治せいじをコントロールする事態じたいきらっていたが、メンギスツの社会しゃかい主義しゅぎしゃという自称じしょうしんじきってしまっていたMEISONは政治せいじ安定あんていまで軍部ぐんぶちからをある程度ていど利用りようすることは仕方しかたがないとり、協力きょうりょく体制たいせいをつくった。MEISONの協力きょうりょくのち1986ねん4がつ開校かいこうするマルクス・レーニン主義しゅぎ幹部かんぶ養成ようせいする機関きかんイェカティ66イデオロギーこう」の設立せつりつつながった。しかし、そこで教育きょういくされる内容ないよう共産きょうさん主義しゅぎではなく、ソ連それんがたいちとう独裁どくさい体制たいせい確立かくりつ必要ひつようせいであった。MEISONは1977ねん8がつ協力きょうりょく関係かんけい解消かいしょうしている。

メンギスツは1977ねん2がつ3にち、PMAC議長ぎちょうタファリ・ベンティ粛清しゅくせいしたのちみずか議長ぎちょう就任しゅうにんした[64]。これにより権力けんりょく絶頂ぜっちょうたっしたメンギスツはエチオピア人民じんみん革命かくめいとう (EPRP) を徹底的てっていてき排除はいじょする決意けついかため、EPRPの脅威きょういはん社会しゃかいせいについてだいキャンペーンをはった。これにより、メンギスツはみずからに反対はんたいするPMAC内部ないぶ右派うはとともにEPRPりを開始かいしし、EPRPのメンバーとされた人物じんぶつ即座そくざ逮捕たいほされ処刑しょけいされていった。かつて協力きょうりょく関係かんけいにあったMEISONもEPRPと同一どういつされて次々つぎつぎ投獄とうごくされていった。五月ごがつ上旬じょうじゅん数日すうじつあいだで20,000にん殺害さつがいされたとされ、政府せいふの寡少な見積みつもりでも732にん死亡しぼう確認かくにんされている。これら、EPRPにたいする攻撃こうげきは「白色はくしょくテロル」とばれたが、対抗たいこうしたEPRPの反撃はんげきは「赤色あかいろテロル」とばれ、エチオピアは事実じじつじょう内戦ないせん状態じょうたいおちいった。アディスアベバだけで1まんにん赤色あかいろテロルによって殺害さつがいされたが、政府せいふによるしろいテロルはEPRPとうたがわれた人々ひとびと中心ちゅうしんに3まんにん以上いじょう収容しゅうようしょめ、次々つぎつぎ死亡しぼうさせていった。これにより、この時代じだいのエチオピアの青年せいねん、インテリそうはイタリア侵攻しんこう同様どうようおおきな空白くうはくしょうじることになった。EPRPはメンギスツの攻撃こうげき地方ちほうのがれて活動かつどうつづけたが、MEISONは根絶ねだやしにちか被害ひがいけてその二度にど党勢とうせいもどすことはできなかった。

ソマリア、エリトリア戦争せんそう

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メンギスツ政権せいけんソ連それん支援しえんける一方いっぽうアメリカ帝国ていこく主義しゅぎ、EPRP、ハイレ・セラシエからつづ保守ほしゅ勢力せいりょくら、根絶こんぜつできないてきかかえて政権せいけん運営うんえいおこない、1974ねんからつづいていたオガデン飢餓きがたいしてしばらくっていなかったが、ようやく18の難民なんみんキャンプ設置せっちしてえた70まんにん救済きゅうさいりこんだ。だが、メンギスツの民族みんぞく主義しゅぎによって、エチオピアの監視かんしではイスラム教いすらむきょう習慣しゅうかんおこなうことがゆるされず、だい多数たすうのオガデンじんはキャンプをてイスラム諸国しょこくたすけをもとめようとした。そのうごきはオガデンの分離ぶんり独立どくりつとそのソマリアへの併合へいごうのぞむ「西にしソマリア解放かいほう戦線せんせん (WSLF)」にとって好都合こうつごうで、ソマリア政府せいふはWSLFを援助えんじょするとともに1977ねんにはみずかオガデン砂漠さばく通過つうかしてエチオピア領内りょうない侵攻しんこうした。エチオピアはソ連それん支援しえんけていたのにたいし、ソ連それんからの支援しえんられたソマリアぐんはアメリカの援助えんじょけた冷戦れいせん構造こうぞうそのものの戦争せんそうは、決着けっちゃくまで11年間ねんかんかかる泥沼どろぬまたたかいとなった。戦争せんそう1988ねん停戦ていせんというかたち終結しゅうけつするが、のこされたものは以前いぜんわらぬ国境こっきょうせん難民なんみんによって衰退すいたいしたオガデンのまち、そして疲弊ひへいしきったりょう政府せいふだけだった。

国家こっか統一とういつ方針ほうしんにより、強制きょうせいてきにエチオピアのいちしゅう併合へいごうされたエリトリアだったが、独立どくりつ目指めざすELF, EPLF, ELF-PLFらのゲリラせんおとろえる気配けはいせず、さらにエチオピアからのがれたEPRPがエリトリアに潜伏せんぷくしたことでメンギスツのなやみのたねとなった。EPLFは1976ねんにスーダン国境こっきょうまちカロラ[よう曖昧あいまい回避かいひ]政府せいふぐん壊滅かいめつさせると、翌年よくねんには政府せいふ重要じゅうよう補給ほきゅう基地きちアファベト陥落かんらくさせた。破竹はちくいきおいのEPLFには、のエリトリアどく立派りっぱからも続々ぞくぞく流入りゅうにゅうし、EPLFにほぼ一本いっぽんされたエリトリアの独立どくりつ勢力せいりょくたいして、エチオピアぐんはアスマラに篭城ろうじょうして防衛ぼうえい専念せんねんするしかなかった。

メンギスツ失脚しっきゃく

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デルグ政権せいけん崩壊ほうかい、アディスアベバ市内しない遺棄いきされたエチオピアぐん戦車せんしゃ

メンギスツはみずからの「エチオピア労働ろうどうしゃとう」によるいちとう支配しはいえることはなかったが、戦況せんきょうて「エリトリアの優遇ゆうぐう」「地方ちほう自治じち共和きょうわこく」「エチオピア人民じんみん民主みんしゅ共和きょうわこくへの改称かいしょう」といった妥協だきょうあん提示ていじし、1987ねん占拠せんきょにおいて憲法けんぽう改正かいせいすると議会ぎかいからの指名しめいにより大統領だいとうりょう就任しゅうにんする。しかし、そのあいだにもソ連それんペレストロイカによって支援しえんりの検討けんとうはじめ、わりの援助えんじょもとめてアメリカたよったが、アメリカは人権じんけん民主みんしゅ主義しゅぎ実現じつげんもとめてむしろはん政府せいふ勢力せいりょくへの支援しえんやした。1988ねんアスマラにこもっていたエチオピアぐんが、エリトリア独立どくりつもとめるEPLFの攻撃こうげきによって決定的けっていてき敗北はいぼくきっした。EPLFのうごきは、エチオピア北部ほくぶティグレじんたちに影響えいきょうあたえ、「ティグレ人民じんみん解放かいほう戦線せんせん (TPLF)」が結成けっせいされ、ティグレとウォロを地盤じばん民主みんしゅもとめて蜂起ほうきすした。1989ねんにはショワにまで進出しんしゅつし、エチオピアじんの40%をめるようになっていたオロモじんたちのオロモ人民じんみん民主みんしゅ機構きこう (OPDO)もくわわってさん組織そしき合同ごうどうエチオピア人民じんみん革命かくめい民主みんしゅ戦線せんせん (EPRDF)が結成けっせいされた。ソ連それんがメンギスツ政権せいけんへの援助えんじょ完全かんぜんった1989ねん、EPRDFはエチオピア政府せいふぐんへの攻勢こうせい開始かいしした。

1991ねん2がつ13にちゴンダルゴジャム駐屯ちゅうとんしていた政府せいふぐんがEPRDFの攻撃こうげきによって完全かんぜん壊滅かいめつしてもはや反撃はんげき不可能ふかのう事態じたいとなり、メンギスツ政権せいけん命運めいうんきた。しかし、メンギスツはこのさいに3,400にんのティグレじんをEPRDFの関係かんけいしゃとして処刑しょけいした。この結果けっかメンギスツ政権せいけんはますます人心じんしん離反りはんさせただけにわり、EPRDFのびかけによってメンギスツを見捨みすてる都市としがあらわれ、はん政府せいふ勢力せいりょく拠点きょてんあたえるとともに首都しゅとへの進軍しんぐん可能かのうとした。1991ねん5月にはメンギスツ政権せいけんにとどめをワレリグン作戦さくせん成功せいこうおさめ、メンギスツ大統領だいとうりょうジンバブエ亡命ぼうめいし、16ねんおよ独裁どくさい政治せいじ終止符しゅうしふたれた。

エチオピア連邦れんぽう民主みんしゅ共和きょうわこく

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メンギスツの逃亡とうぼうタスファレ・ゲブレ・キダン1991ねん5月21にち - 5月28にち就任しゅうにん)による代行だいこうはさんで、人民じんみん共和きょうわこく解体かいたい、EPRDFのメレス・ゼナウィ書記しょきちょう暫定ざんてい大統領だいとうりょうとなり、1995ねん8がつにはしん憲法けんぽう公布こうふしてエチオピア連邦れんぽう民主みんしゅ共和きょうわこくあらためる。表現ひょうげん自由じゆうみとめられ、公正こうせい選挙せんきょ実施じっしされるなどメレスの指導しどうのもとで民主みんしゅへのみちすすはじめている。メレスは1995ねん8がつ22にちオロモ人民じんみん民主みんしゅ機構きこう(OPDO)出身しゅっしんネガソ・ギダダがエチオピア連邦れんぽう民主みんしゅ共和きょうわこく初代しょだい大統領だいとうりょう就任しゅうにんした[65] さい首相しゅしょう就任しゅうにんし、2001ねん10月8にちギルマ・ウォルドギオルギスだい2だい大統領だいとうりょう就任しゅうにんしたのち首相しゅしょうにとどまっている。また、独立どくりつしたエリトリアとは港湾こうわん使用しようりょうバドメ地区ちく帰属きぞくめぐって紛争ふんそうとなり、1998ねん5月12にち戦争せんそう状態じょうたい突入とつにゅうするが、2000ねん5月、アフリカ統一機構あふりかとういつきこう(OAU)の停戦ていせん提案ていあんれた。アフリカ統一機構あふりかとういつきこうはかつてハイレ・セラシエが、ギニア大統領だいとうりょうセク・トゥーレとともにげに奔走ほんそうした組織そしきであり、その組織そしきによってエリトリアとの紛争ふんそうはようやく停戦ていせんにたどりついた。一方いっぽうではオガデンとの戦闘せんとう泥沼どろぬまし、人道的じんどうてき問題もんだいのある行為こうい発生はっせいしている。アフリカ統一機構あふりかとういつきこう2002ねんアフリカ連合れんごうとして発展はってんてき解消かいしょうされ、アフリカ連合れんごう本部ほんぶはアディスアベバにかれることになった。

ひがしアフリカだい旱魃かんばつ

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2011ねんから2012ねんにかけて、ひがしアフリカだい旱魃かんばつ発生はっせいした。やく460まんにん支援しえん必要ひつようとし[66]栄養失調えいようしっちょうしゃ割合わりあい一部いちぶで30%にたっした。

アビィ・アハメド政権せいけん

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2018ねん4がつ2にち、エチオピアの最大さいだい民族みんぞくであるオロモじんからた、アビィ・アハメド首相しゅしょう就任しゅうにんした。アビィはエチオピア・エリトリア国境こっきょう紛争ふんそう以降いこう緊張きんちょうつづいているエリトリアとの和平わへい注力ちゅうりょくした。2018ねん9月16にちにアビィは「ジッダ平和へいわ協定きょうてい」に署名しょめい[67]2019ねんノーベル平和へいわしょう受賞じゅしょうした[68]

ディグレ紛争ふんそう

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2020ねん北部ほくぶのティグレしゅうでのそう選挙せんきょ延期えんきされたことをきっかけとして、ティグレ人民じんみん解放かいほう戦線せんせん(TPLF)との亀裂きれつし、同年どうねん11がつにはティグレ紛争ふんそう勃発ぼっぱつした。11月28にちには州都しゅうとメケレ占領せんりょうした[69]が、2021ねんにTPLFは反攻はんこうてんじメケレを奪還だっかんした[70]11月2にちにはアビィは非常ひじょう事態じたい宣言せんげん発令はつれいした[71]。12月下旬げじゅんからはTPLFは北部ほくぶティグレしゅう撤退てったいし、2022ねん2がつ15にち、エチオピア人民じんみん代表だいひょう議会ぎかい国家こっか非常ひじょう事態じたい宣言せんげん解除かいじょ可決かけつした[72]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1860ねんヴィクトリア女王じょおう手紙てがみなど[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  2. ^ おうたちの栄光えいこうしょ」の
  3. ^ その起源きげんはアクスム周辺しゅうへんにいたセムけいのサバとわれているが、異説いせつ存在そんざいする[よう出典しゅってん]
  4. ^ サグウェによる直接ちょくせつ支配しはい以外いがいにもアクスム滅亡めつぼうには諸説しょせつある
  5. ^ アジスアベベ大学だいがくのゼウデ博士はかせせつによれば1150ねん [よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  6. ^ 実際じっさいのプレスター・ジョンのくに位置いち不明ふめい
  7. ^ ガジは資料しりょうによってオロモじんともソマリじんともされるが、正確せいかく出自しゅつじあきらかにされていない
  8. ^ 資料しりょうによりまちまち、300にん程度ていど?
  9. ^ 皇位こういあらそったティグレのマンガッシャもエチオピアぐん参加さんかし、のアドワのたたかいで活躍かつやくする
  10. ^ フランスのペロー大尉たいいは『戦略せんりゃくろん[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]でマフディーを上回うわまわ士気しきしつゆうしていたとエチオピアぐん評価ひょうかしている
  11. ^ 毒殺どくさつとものろいとも[だれによって?]われた
  12. ^ とくにエリトリアへいなどアフリカへい顕著けんちょだった
  13. ^ レジスタンスをたすけた諸侯しょこう解放かいほう愛国あいこくしゃという尊称そんしょうけることになる
  14. ^ 岡倉おかくら (1999:240) では、演出えんしゅつせつ採用さいよう。また、6にち入城にゅうじょう主張しゅちょうする書籍しょせきもあり
  15. ^ アムハラで「委員いいんかい」を意味いみし、急進きゅうしん軍部ぐんぶ調整ちょうせい委員いいんかいす。デルグは当初とうしょ軍部ぐんぶ主導しゅどう政治せいじ機関きかんすべてを言葉ことばとして使つかわれていたが、1976ねんになるとメンギスツとその側近そっきん言葉ことばとして、言葉ことば意味いみわっていく
  16. ^ 1.エチオピアは人種じんしゅ宗教しゅうきょう言語げんご文化ぶんかてき差異さいのない統一とういつ国家こっかである。2.エチオピアは周囲しゅうい国々くにぐにとは経済けいざい文化ぶんか社会しゃかいてき共同きょうどうたい構築こうちくのぞむ。3.エチオピアだいいち主義しゅぎはエチオピア社会しゃかい主義しゅぎ基盤きばんである。4.すべての地方ちほう行政府ぎょうせいふむら自給自足じきゅうじそくできなければならない。5.エチオピアだいいち主義しゅぎという革命かくめい哲学てつがくおおきな政党せいとうによって統一とういつされなければならない。6.すべての経済けいざい国家こっか管理かんりする。しかし、財産ざいさん所有しょゆうけんはエチオピア人民じんみんにある。7.土地とち所有しょゆうけん実際じっさいたがやすものだけがもてる。8.工業こうぎょう国家こっか直営ちょくえいとし、現在げんざい民間みんかん企業きぎょう国有こくゆう実施じっしされるまでは私有しゆうゆるされる。9.エチオピアを構成こうせいするあらゆる家族かぞくを、外部がいぶからのこのましくない影響えいきょうから保護ほごしなければならない。10.エチオピアは現在げんざい外交がいこう維持いじし、極力きょくりょく周辺しゅうへん諸国しょこくとの友好ゆうこう維持いじする。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 石田いしだけんちょ、1994ねん、『地中海ちちゅうかいしんマ帝国まていこくへのみち東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかいISBN 4-13-036079-5
  • アドゥ・ボユネスコちょ宮本みやもとただしきょうへん、1988ねん、『ユネスコ アフリカの歴史れきしだい7かん上巻じょうかん同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん
  • アドゥ・ボユネスコちょ宮本みやもとただしきょうへん、1988ねん、『ユネスコ アフリカの歴史れきしだい7かん下巻げかん同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん
  • リシャルト・カプシチンスキーちょ山田やまだ一広かずひろやく、1989ねん、『皇帝こうていハイレ・セラシエ―エチオピア帝国ていこく最後さいご日々ひび筑摩書房ちくましょぼうISBN 4480023089
  • 吉田よしだ昌夫まさおちょ、1978ねん、『アフリカ現代げんだい〈2〉ひがしアフリカ』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ
  • 岡倉おかくら登志とし北川きたがわ勝彦かつひこ日本にっぽん - アフリカ交流こうりゅう――明治めいじからだい世界せかい大戦たいせんまで』(初版しょはん発行はっこう同文どうぶんかん東京とうきょう、1993ねん10がつ15にちISBN 4-495-85911-0 
  • 『エチオピアをるための50しょう』(初版しょはんだい1さつ明石書店あかししょてん東京とうきょう〈エリア・スタディーズ68〉、2007ねん12月25にちISBN 978-4-7503-2682-5 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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