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ソマリランドの歴史 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ソマリランドの歴史れきし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

この記事きじではソマリランドの歴史れきしについて解説かいせつする。

ソマリランドは1991ねんソマリアから一方いっぽうてき独立どくりつ宣言せんげん主張しゅちょうしたくにである。ソマリランド政府せいふ見解けんかいでは、ソマリランドは1960ねん独立どくりつし、そのにソマリアと連合れんごう国家こっか形成けいせいしていたが、1991ねん連合れんごう解消かいしょうしたとされている。ソマリランド政府せいふ主張しゅちょうする領土りょうどきゅうイギリスりょうソマリランドそのものであるが、東部とうぶ地域ちいきプントランドなどと係争けいそう状態じょうたいにある。

前史ぜんし

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ダイムール英語えいごばん洞窟どうくつえがかれている野生やせい動物どうぶつ

今日きょうのソマリランドの地域ちいきには、やく1まんねんまえしん石器せっき時代じだいひとんでいた[1][2]一方いっぽう言語げんご学者がくしゃは、現在げんざいソマリじんぞくするアフロ・アジア語族ごぞく最初さいしょ集団しゅうだんは、 しん石器せっき時代じだいに、ナイル渓谷けいこく [3]あるいは近東きんとう [4]から今日きょうのソマリランドに到達とうたつしたとかんがえている。古代こだいひつじいたちがうしやその家畜かちく飼育しいくし、あざやかないわ絵具えのぐえがいた。これをドイアン文化ぶんか(Doian)、ハルゲイサン文化ぶんか(Hargeisan)とひともいる[5]。また、ソマリランドの遺跡いせきには、紀元前きげんぜん4千年紀せんねんきアフリカのかくにおける最初さいしょ墓地ぼちおもわれるものも発見はっけんされている[6]北部ほくぶのジャレロ遺跡いせきから出土しゅつどした石器せっきもまた、1909ねんに、旧石器時代きゅうせっきじだいにおける東洋とうよう西洋せいよう考古学こうこがくてき普遍ふへんせいしめ重要じゅうよう遺物いぶつとして特徴とくちょうづけられた[7]

ソマリランドの首都しゅとハルゲイサ郊外こうがいにあるラース・ゲール遺跡いせきぐん歴史れきしやく5,000 ねんまえさかのぼり、野生やせい動物どうぶつ装飾そうしょくされたうし両方りょうほうえがいたいわがある[8]ダンバリン北部ほくぶ地域ちいきでは洞窟どうくつ壁画へきが発見はっけんされており、これにはうまった狩人かりゅうどえがいたもっと初期しょきられているもののひとつがえがかれている。このいわ独特どくとくのエチオピア・アラビア様式ようしきで、紀元前きげんぜん 1,000 ねんから 3,000 ねんのものとされている.[9][10]

さらに、ソマリランド東部とうぶラス・コレーエル・アヨまちあいだには、実在じつざい動物どうぶつ神話しんわじょう動物どうぶつえがいた洞窟どうくつ壁画へきが多数たすうあるカリンヘガネ英語えいごばんがある。かく絵画かいがしたには碑文ひぶんがあり、それらをわせるとやく 2,500 ねんまえのものと推定すいていされている[11][12]

紀元前きげんぜん26世紀せいきプントこくからエジプト黄金おうごんなどがおくられた。その紀元前きげんぜん15世紀せいきごろまでにわたってエジプトとの乳香にゅうこう没薬もつやくなどの交易こうえきおこなわれている。このプントこく有力ゆうりょく比定ひていひとつがソマリランドである(諸説しょせつある)。

古代こだい

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サナーグ地域ちいきメイトにある、イサック氏族しぞく始祖しそとされるシェイク・イサーク英語えいごばんはか

2世紀せいきマ帝国まていこくナバテア王国おうこく(げんヨルダン西部せいぶ)を征服せいふくし、海賊かいぞく行為こうい抑制よくせいするためにローマ海軍かいぐんアデン(げんイエメン)に駐留ちゅうりゅうするようになると、アラブ商人しょうにんとソマリ商人しょうにんマ帝国まていこく協力きょうりょくし、紅海こうかい地中海ちちゅうかいむす有利ゆうり通商つうしょうにおけるソマリ商人しょうにんとアラブ商人しょうにん利益りえきまもるために、アラビア半島はんとう自由じゆう港湾こうわん都市とし[13]でのインドせん取引とりひき禁止きんしした[14]。しかし、インド商人しょうにんたちは、マ帝国まていこく干渉かんしょうけなかったソマリア半島はんとう港湾こうわん都市とし貿易ぼうえきつづけた[15]

7世紀せいきアラビア半島はんとうイスラームきょう誕生たんじょうした。ソマリランドにはアラブの地域ちいきとしては比較的ひかくてき早期そうきにイスラームきょうつたわった。ゼイラにある「2つのキブラモスク」(ゼイラのマスジトカ・ラバダ・キブラ英語えいごばん))は7世紀せいき建設けんせつされたとかんがえられている[16]:7

なに世紀せいきものあいだ、インド商人しょうにんセイロンモルッカ諸島しょとうからソマリやアラビアに大量たいりょうのシナモンをはこんだ。スパイスの産地さんちは、アラブ商人しょうにんとソマリ商人しょうにんがローマやギリシア世界せかいとの交易こうえきにおいてもっと秘密ひみつにしていたとわれており、ローマじんやギリシアじんはその産地さんちがソマリア半島はんとうであるとしんじていた。[17]ソマリ商人しょうにんとアラブ商人しょうにん協力きょうりょくにより、きたアフリカ、近東きんとう、ヨーロッパにおけるインドや中国ちゅうごくのシナモンの価格かかく高騰こうとうし、スパイス貿易ぼうえき利益りえきむようになり、とくにソマリ商人しょうにんによって大量たいりょうのシナモンが海路かいろ陸路りくろ輸送ゆそうされるようになった[14]

中世ちゅうせい/イスラーム王国おうこくとエチオピアとの関係かんけい

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ソマリランド北西ほくせい港町みなとちょうゼイラにあるアダル・スルタンこく時代じだいのものとみられる遺跡いせき

中世ちゅうせいになると、様々さまざまなイスラーム王国おうこくがこのつくられた[18]

13世紀せいき文献ぶんけん記録きろくがあるイファト・スルタンこくは、イスラーム教徒きょうとくにであり、もと今日きょうのエチオピアにあたる場所ばしょ首都しゅとがあったが、エチオピアにわれるかたち首都しゅと今日きょうのソマリランド北西ほくせいにあるゼイラ移動いどうした。

14世紀せいきにゼイラを拠点きょてんとするアダル・スルタンこくができた。アダル・スルタンこくはエチオピア皇帝こうていアムダ・セヨン1せい英語えいごばん在位ざいい 1314–1344)の時代じだいにエチオピアとだい規模きぼ戦闘せんとうをした[19]。そのもたびたびエチオピアから攻撃こうげきけていたが、1528ねん退しりぞけ、よく1529ねんからぎゃくにアダルの将軍しょうぐんアフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガジーひきいるぐんがエチオピアに侵攻しんこうした。1543ねんにポルトガルの援軍えんぐんけたエチオピアぐんとのたたかいでアル=ガジーが戦死せんしするまで、エチオピア北部ほくぶ蹂躙じゅうりんした。アル=ガジーの死後しごはエチオピアの領土りょうどうしなった。アダル・スルタンこく国力こくりょくおおきくとしながらも1577ねんまでつづいた。

一方いっぽう、1538ねん、オスマン帝国ていこく皇帝こうていスレイマン1せいは、インド洋いんどよう海軍かいぐん派遣はけんした。遠征えんせいやく30年間ねんかんつづいた。皇帝こうていセリム2せいわったのちの1567ねん副官ふっかんであったエズデミル・パシャ英語えいごばんは、紅海こうかい西岸せいがん今日きょうのスーダンとエリトリア沿岸えんがんたる地域ちいき征服せいふくした[20][21]以後いご形式けいしきてきにオスマン帝国ていこく一部いちぶとなったが、実質じっしつてきには氏族しぞくごとによる自治じち状態じょうたいだった。

ソマリランド東部とうぶエル・アフウェインちかくに廃墟はいきょとなったイスラム都市としマドゥナ英語えいごばんがある[22][23]。この遺跡いせきにはミフラーブおおきな長方形ちょうほうけいモスクあとがあり、3メートルのかべ現存げんそんする。スウェーデンけいソマリ考古こうこ学者がくしゃサダ・ミレ英語えいごばんは、この遺跡いせきを15~17世紀せいきのものと推定すいていしている[24]

18世紀せいきになると、氏族しぞくのまとまりがある程度ていど確立かくりつした。このためこの時期じき氏族しぞく集団しゅうだんが、イサックスルタンこく英語えいごばんハバル・ユーニススルタンこく英語えいごばんワルサンガリ・スルタンこく英語えいごばんなどとばれることもある。ただしこれらの族長ぞくちょう中東ちゅうとうスルターンのような権力けんりょくしゃであったか、その組織そしきスルターンこくばれるほど確立かくりつされたものであったかどうかは不明ふめいである。また、ソマリじんおおくは遊牧民ゆうぼくみんであり、移動いどう生活せいかつをするものおおかったため、氏族しぞくである程度ていど居住きょじゅう範囲はんいまっていたものの、今日きょうてき意味いみでの領土りょうど国境こっきょうがあったわけではなく、氏族しぞくえた婚姻こんいんおこなわれていた。

近代きんだい/エジプトとイギリスの進出しんしゅつ

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1821ねんから1841ねんにかけてオスマン帝国ていこくりょうエジプトパシャであるムハンマド・アリーがこの地域ちいき足場あしばきずいた[25]

一方いっぽう、19世紀せいきになると、イギリス国力こくりょくして、世界せかい各地かくち進出しんしゅつした。1825ねんにベルベラのみなとにゅうろうとしたイギリスのふねがソマリじんおそわれて複数ふくすう乗組のりくみいんころされた[26]。1827ねんにイギリスはすうせき軍艦ぐんかんをベルベラに派遣はけんし、ソマリじん部隊ぶたい降伏ごうぶくさせ、イギリス国旗こっきかかげたふね安全あんぜん通行つうこうさせることを約束やくそくさせた。(イギリスによるベルベラ攻撃こうげき (1827)英語えいごばん[27][28]

1839ねんにイギリスはベルベラやゼイラの対岸たいがんにあたるアデン占領せんりょうした。1840ねん、インド海軍かいぐんのロバート・モレスビー大佐たいさが「ざいインドイギリス政府せいふ代表だいひょう」としてゼイラ総督そうとくとイギリスに貿易ぼうえき特権とっけんあたえる条約じょうやくむすんだ[29]

1869ねんスエズ運河うんが開通かいつうし、紅海こうかい沿岸えんがん重要じゅうようせいした。

1875ねんにエジプトがベルベラを占領せんりょう。しかしイギリスじんやイタリアじんによるソマリランドの探検たんけんつづけられた[29]一方いっぽう、エジプトでは1879ねんからウラービー革命かくめいばれる騒動そうどう発生はっせいし、途中とちゅうから介入かいにゅうしたイギリスが1883ねんからエジプトの統治とうちをおこなった。

イギリスは1884ねんからソマリランドにむソマリじんかく氏族しぞくと、かく氏族しぞく保護ほごする条約じょうやくむすんでいった。具体ぐたいてきにはガダブルシ英語えいごばん(1884)[30]ハバル・アワル英語えいごばん(1884と1886)[30]イッサ(1885)[31]ワルサンガリ英語えいごばん (1886) [32]:568などの氏族しぞく相手あいてだった(年代ねんだい文献ぶんけん多少たしょうことなる)。

イギリスりょうソマリランド

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イギリスりょうソマリランドの領域りょういき今日きょうのエチオピアりょう一部いちぶも「予定よてい地域ちいき」とされている。細字さいじかれているのが氏族しぞく。ESA, GADABURSI, OGADENI, DOLBAHANTA, WARSANGERLIをのぞ氏族しぞくはイサック氏族しぞく支族しぞく

イギリスは1887ねん7がつ20日はつかベルリン会議かいぎ調印ちょういんこくたいし、 イギリスりょうソマリランド保護ほごりょうとして成立せいりつしたことを公式こうしき通告つうこくした[33]

1888ねんには西にしのフランスりょうとの境界きょうかい明確めいかくされた。ひがしのイタリアりょうとの境界きょうかいは1894ねんに、みなみのエチオピアとの境界きょうかいは1897ねん協定きょうていむすんで明確めいかくされた[29]。なお、イギリスりょうソマリランド東部とうぶデュルバハンテ氏族しぞくは、イギリスとの協定きょうていおこなっていなかったが、イギリスとイタリアとの協定きょうていでイギリスりょうソマリランドにぞくするものとされた[34]

1896ねん、ソマリランドで野生やせい動物どうぶつ調査ちょうさにベルベラからかおうとする調査ちょうさだん

1901ねんごろからソマリじんオガデン氏族しぞく英語えいごばんぞくしデュルバハンテ氏族しぞくははサイイド・ムハンマド・アブドゥラー・ハッサンがイギリスぐん対立たいりつはじめ、ソマリランド東部とうぶタレー拠点きょてんとして一時期いちじきソマリランド東部とうぶ占領せんりょうした[35][36]だいいち世界せかい大戦たいせんわるとイギリスは反乱はんらん勢力せいりょく空爆くうばくするなどして1920ねん鎮圧ちんあつした[37]

1920ねん、イギリス政府せいふは、ワルサンガリ英語えいごばん氏族しぞく族長ぞくちょうがサイイド・ムハンマドの反乱はんらん加担かたんしたとして、この族長ぞくちょうセーシェル流刑りゅうけいにした。1928ねんゆるされ、最終さいしゅうてき族長ぞくちょう復帰ふっきした。

1920ねん資金しきんなんとなったイギリスの植民しょくみん政府せいふは、民間みんかん投資とうし誘致ゆうちするための公社こうしゃ設立せつりつした。さらに1922ねん、ソマリじんあらたなぜいした。しかしブラオ新税しんぜい反対はんたいする武装ぶそう蜂起ほうき発生はっせいし、鎮圧ちんあつのためあつめたソマリじん部隊ぶたい命令めいれい拒否きょひしたため、植民しょくみん政府せいふ知事ちじ交替こうたいした。あらたな知事ちじ徴税ちょうぜいあきらめて民間みんかん投資とうし誘致ゆうちしようとしたが、失敗しっぱいして1926ねんには公社こうしゃ解散かいさんした。1920年代ねんだいまつにはブラオで油田ゆでん調査ちょうさおこなわれたが、つからなかった。農業のうぎょう畜産ちくさんぎょう振興しんこうにも失敗しっぱいした。学校がっこう設立せつりつすすめられたが、ソマリでの教育きょういく目指めざしたイギリス植民しょくみん政府せいふとアラビアでの教育きょういく主張しゅちょうした地元民じもとみんとがわずにすすまなかった[38]

だい世界せかい大戦たいせんがはじまると、イタリアは1940ねん8がつにソマリランドを一時いちじてき占領せんりょうしたが、6かげつにイギリスに奪還だっかんされた(ソマリランドのたたか[39]

ソマリランド独立どくりつへのうご

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学校がっこう教育きょういくすすまなかったこともあり、えいりょうソマリランドでは現地げんちじん政治せいじそだたなかった。1947ねんえいりょうソマリランドないえらばれた氏族しぞくあいだのバランスを考慮こうりょした48にん評議ひょうぎいんから評議ひょうぎかいができた。この評議ひょうぎかい実質じっしつてき権限けんげんたなかったが、イギリスじん行政ぎょうせいかん現地げんちじんとの橋渡はしわたやくになった[40]

1949ねん11月、だい世界せかい大戦たいせんのイタリア植民しょくみん処遇しょぐうがきめられ、イタリアりょうソマリアは「国連こくれん総会そうかいによる信託しんたく統治とうち協定きょうてい採択さいたくから10ねん以内いない独立どくりつ国家こっかとして承認しょうにんされなければならない」とさだめられた。イタリアのソマリア信託しんたく統治とうちは1950ねん4がつ1にち正式せいしき開始かいしされ、信託しんたく統治とうち協定きょうていは1951ねん12月7にち公布こうふされた[41]

1955ねん、ニューヨークでエチオピアのソマリじん居住きょじゅうハウドの処遇しょぐうについてうったえるマイケル・マリアーノ英語えいごばん
1955ねん、ロンドンでハウドの処遇しょぐうについてうったえるイサック氏族しぞく族長ぞくちょうみぎ)と有力ゆうりょく氏族しぞくハバル・アワルの族長ぞくちょうひだり

今日きょうのエチオピアソマリしゅう北部ほくぶたる地域ちいきハウド英語えいごばんは、1935ねんにイタリアりょうとなり、さらに1941ねんにイギリスの軍政ぐんせいしたとなった。この地域ちいき将来しょうらいてきにソマリアが独立どくりつしたさいにソマリアの一部いちぶとするあんもあったが、実際じっさいには1954ねん条約じょうやくでエチオピアりょうとなった。[41] これはソマリじん同意どういずにすすめられたため、ソマリじんからロンドンのイギリス政府せいふニューヨーク国連こくれん本部ほんぶ正式せいしき陳情ちんじょうしょ提出ていしゅつされた。とくにハバル・ジェロ氏族しぞくのカトリック教徒きょうとマイケル・マリアーノ英語えいごばん抗議こうぎ活動かつどうられる[40]

エチオピアへの領土りょうど割譲かつじょうが、ソマリランド独立どくりつ運動うんどうのきっかけとなった。1956ねんイギリス政府せいふは、将来しょうらいてきにイタリア信託しんたく統治とうちりょうソマリアとの統合とうごう要望ようぼう場合ばあいには反対はんたいしない、という声明せいめい発表はっぴょうした[40]

行政ぎょうせいにソマリじん登用とうようするうごきが加速かそくされ、1957ねんには政党せいとうせい導入どうにゅう模索もさくされたが、結局けっきょく氏族しぞく代表だいひょうしゃからなる24にん立法りっぽう評議ひょうぎかいとなった[40]

1959ねん1がつ、イギリス政府せいふは「ソマリランド評議ひょうぎかいのぞむなら、イタリア信託しんたく統治とうちりょうソマリアとのより緊密きんみつ関係かんけい支援しえんする」と発表はっぴょうした。2月、評議ひょうぎかいではイギリス政府せいふ指名しめいした17めいくわえて、都市としではラクダかいえ所有しょゆうしている成年せいねん男子だんしによる選挙せんきょ地方ちほう氏族しぞく会合かいごうえらばれたけい12めい増員ぞういんされた。おもにイサック氏族しぞくハバル・ジェロ支族しぞく支持しじするNUFが7議席ぎせきおもにハバル・ジェロ以外いがいのイサック氏族しぞく支持しじするSNLが1議席ぎせき無所属むしょぞくが4議席ぎせき獲得かくとくした。ただしSNLは評議ひょうぎかい選挙せんきょわくせますぎるとして選挙せんきょのボイコットを発表はっぴょうしていた。また、都市とし選挙せんきょ事実じじつじょう氏族しぞくからの選出せんしゅつだった[40]

1959ねん11月、評議ひょうぎ会議かいぎいん37めいちゅうの33めい選挙せんきょえらばれることになった。また、閣僚かくりょうの3めいはイギリス政府せいふ指名しめい、4めい選挙せんきょされた議員ぎいんからえらばれることになった。選挙せんきょ結果けっかおもにハバル・ジェロ以外いがいのイサック氏族しぞく支持しじするSNLが20議席ぎせきおもイサック氏族しぞく東部とうぶのデュルバハンテ、ワルサンガリ、西部せいぶのイッセ、ガタブルシ)が支持しじするUSPが12議席ぎせきおもにイサック氏族しぞくハバル・ジェロ支族しぞく支持しじするNUFが1議席ぎせき獲得かくとくした。このほか氏族しぞく政党せいとうソマリ青年せいねん同盟どうめい(SYL)からも立候補りっこうほがあり、NUFと連合れんごうんでいた。SYLとNUFの連合れんごうそう得票とくひょうりつが31%にのぼっていたにもかかわらず、しょう選挙せんきょせい選挙せんきょではこの連合れんごう得票とくひょう分散ぶんさんしたため、結果けっか前記ぜんきとおりNUFの1議席ぎせきにとどまった。閣僚かくりょう議員ぎいんわくもSNLとUSPから任命にんめいされた[40]

1959ねん12月、国連こくれん総会そうかいでイタリア信託しんたく統治とうちりょうソマリアの独立どくりつ時期じき発表はっぴょうされたため、イギリスりょうソマリランドでも南部なんぶとの統合とうごうすみやかに実施じっししたいという世論せろんたかまった。イギリスりょうソマリランド評議ひょうぎかいは1960ねん4がつ、「我々われわれ独立どくりつとソマリアの統一とういつは1960ねん7がつ1にちとする」という決議けつぎ採択さいたくした。イギリス政府せいふもソマリランドとの良好りょうこう関係かんけい維持いじするため、これに賛成さんせいした。ただしすべてのソマリランドじん統合とうごうのぞんだわけではなく、連邦れんぽうせいのようなゆるやかな連合れんごうのぞ意見いけんもあった[40]。イギリスりょうソマリランドとイタリア信託しんたく統治とうちりょうソマリアの会合かいごうが、イタリア信託しんたく統治とうちりょうソマリアの首都しゅとモガディシュおこなわれ、連邦れんぽうせいではなく統一とういつ国家こっか、つまり内閣ないかく議会ぎかい統合とうごうすることがきめられた。イギリス政府せいふは5月、BBC放送ほうそうベルベラからつづけることを条件じょうけんに、ソマリア統合とうごうあん了承りょうしょうした[40]。ただし、12月におこなわれるはずの独立どくりつが7がつはやまったことによって、ほう制度せいどなどの準備じゅんび時間じかん十分じゅうぶんれなかった[40]

現代げんだい

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ソマリランドこく

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1960ねん6がつ26にち独立どくりつ式典しきてんでソマリア国旗こっき敬礼けいれいするソマリランドこく首相しゅしょうイブラヒム・エガル

イギリスりょうソマリランドは1960 ねん 6 がつ 26 にち独立どくりつし、7がつ1にちイタリア信託しんたく統治とうちりょうソマリア統合とうごうするまでの5日間にちかん国際こくさいてき承認しょうにんされた独立どくりつこくとして存在そんざいした。ソマリランドこくはアメリカをふくむ35かこくから承認しょうにんされた[42]

たった5日間にちかん独立どくりつではあるが、今日きょうのソマリランド政府せいふはソマリランド独立どくりつ法的ほうてき根拠こんきょとして、このソマリランドこく存在そんざいをしばしばべている[43]:168たとえば2022ねん、ソマリランド大統領だいとうりょうムセ・ビヒ・アブディヘリテージ財団ざいだんでの講演こうえんなかで、1960ねん7がつ1にちのソマリア成立せいりつはあくまでもソマリランドこくきゅうイタリア信託しんたく統治とうちりょうソマリアとの連合れんごうであり、現在げんざいきゅうイタリアりょうがわ不誠実ふせいじつのため連合れんごうから脱退だったいした状態じょうたいである(つまりむかしもどっただけだ)とべている[44]

これ以外いがいにも、「アフリカの国境こっきょうきゅう植民しょくみん国境こっきょうもとにしなければならない」という理論りろんでソマリランド独立どくりつ正当せいとうせい主張しゅちょうされる場合ばあいもある[45]

なお、ソマリランドは英語えいご、ソマリアはイタリアともに「ソマリじん」を意味いみする。つまり、イタリアりょうはイギリスではItalian Somalilandとばれ、ぎゃくにイギリスりょうはイタリアでSomalia britannicaとばれた。

イタリア信託しんたく統治とうちりょうとの合併がっぺい

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1960ねん7がつ1にち、ソマリランドこくイタリア信託しんたく統治とうちりょうソマリア計画けいかくどおりに統合とうごうしてソマリア共和きょうわこくとなった[46][47]初代しょだい大統領だいとうりょうソマリ青年せいねん同盟どうめい(SYL)所属しょぞくハウィエ氏族しぞくアデン・アブドラ・ウスマン初代しょだい首相しゅしょうマジェルテーン氏族しぞくアブディラシッド・アリー・シェルマルケとなった。きゅうイギリスりょうソマリランド出身しゅっしんしゃとしては、イサック氏族しぞくイブラヒム・エガルつとめた国防こくぼう大臣だいじん最高さいこうだった[40]:113

1961ねん7がつ、ソマリア憲法けんぽう信任しんにんわれた国民こくみん投票とうひょうおこなわれた。しかし、しん憲法けんぽうはイタリア政府せいふあんもとにしていたため、北部ほくぶ出身しゅっしんしゃ不満ふまんち、きゅうイギリスりょうソマリランド評議ひょうぎかい与党よとうだったSNLはボイコットをびかけた。その結果けっか北部ほくぶでは推定すいてい有権者ゆうけんしゃすう60まんにんうちの10まんにんしか投票とうひょうせず、投票とうひょうしゃ過半数かはんすう反対はんたいひょうとうじた。しかしソマリア全体ぜんたいでは150まんひょうとうじられ、反対はんたいはわずか10まんひょうという圧倒的あっとうてき多数たすう採択さいたくされた[40]:113

1961ねん12月、きゅうイギリスりょうソマリランドでクーデターが発生はっせいし、北部ほくぶ主要しゅよう都市とし一時いちじてき制圧せいあつしたが、もなく鎮圧ちんあつされた[40]:113[48]

1964ねんそう選挙せんきょでソマリ青年せいねん同盟どうめい(SYL)が勝利しょうりした。野党やとう当選とうせんしゃから21にん与党よとうSYLに所属しょぞくえた[40]:115大統領だいとうりょうには継続けいぞくしてハウィエ氏族しぞくのアデン・アブドラ・ウスマンが指名しめいされた。首相しゅしょうアブディリザク・ハジ・フセインわったが、前任ぜんにんしゃおなじマジェルテーン氏族しぞくだった。アブディリザク首相しゅしょう国政こくせい改革かいかく意欲いよくてきで、閣僚かくりょうきゅうイギリスりょうソマリランド出身しゅっしんしゃやした[40]:115

一方いっぽうきゅうイギリスりょうソマリランド出身しゅっしんぜん内閣ないかくはいっていたイサック氏族しぞくイブラヒム・エガルは、閣僚かくりょうはいらなかったが、ぜん首相しゅしょうのアブディラシッド・アリー・シェルマルケと懇意こんいになって1966ねん10がつきゅうイギリスりょうソマリランド与党よとうだったSNLを脱退だったいしてSYL党員とういんとなった[40]:115

1967ねん6がつ、アブディラシッドが大統領だいとうりょうとなり、きゅうイギリスりょうソマリランド出身しゅっしんイサック氏族しぞくイブラヒム・エガル首相しゅしょう指名しめいされた。SYLは1969ねん選挙せんきょでも勝利しょうりおさめ、大統領だいとうりょう首相しゅしょう継続けいぞくして就任しゅうにんした。

独裁どくさい大統領だいとうりょうによるイサック氏族しぞく弾圧だんあつと、さい独立どくりつうご

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1969ねん10がつ、アブディラシッド大統領だいとうりょう護衛ごえいころされ、直後ちょくご陸軍りくぐん将校しょうこうだったモハメド・シアド・バーレクーデターこして政権せいけん掌握しょうあくした[49]首相しゅしょうのイブラヒム・エガルらは検挙けんきょされ、幽閉ゆうへいされた[40]:118

バーレ大統領だいとうりょうは1974ねんエチオピア政変せいへんきると、エチオピアのソマリじん居住きょじゅう地域ちいきはん政府せいふ組織そしきをひそかに支援しえんし、非公式ひこうしき軍隊ぐんたい派遣はけんした。1977ねんになるとソマリア国軍こくぐんだい部隊ぶたいをエチオピアに派遣はけんした(オガデン戦争せんそう)。エチオピア、ソマリア両国りょうこくども軍備ぐんび不足ふそくしていたが、当初とうしょはソマリアがわ勝利しょうりつづいた。しかしエチオピアはソビエト連邦れんぽう支援しえんることに成功せいこうし、1978ねんハラール勝利しょうりして以後いごはソマリアに連勝れんしょうした[40]:122

バーレ大統領だいとうりょうはオガデン戦争せんそう一環いっかんとして、エチオピアにむソマリじんのオガデン氏族しぞく軍事ぐんじ支援しえんした。しかしオガデン氏族しぞくきゅうイギリスりょうソマリランドにむイサック氏族しぞくにも戦闘せんとうをしかけたため、イサック氏族しぞくはバーレ大統領だいとうりょう政策せいさく批判ひはんした。これにたいしてすでに独裁どくさいしゃとなっていたバーレ大統領だいとうりょうは、イサック氏族しぞく露骨ろこつ弾圧だんあつした[40]:122

1981ねん4がつ、イギリスとサウジアラビアにむイサック氏族しぞくがロンドンで会合かいごうひらき、はん政府せいふ組織そしきソマリ国民こくみん運動うんどう(SNM)を設立せつりつした。SNMはやがてソマリランド独立どくりつ母体ぼたいとなる。ただし、当時とうじのSNMは「ソマリランドの独立どくりつ」を標榜ひょうぼうしておらず、あくまでもはん独裁どくさい大統領だいとうりょう組織そしきだった[40]:124

一方いっぽうきゅうイギリスりょうソマリランドの首都しゅとハルゲイサでは、医療いりょう設備せつび改善かいぜん目的もくてき帰国きこくしたディアスポラグループが政府せいふ腐敗ふはい人権じんけん侵害しんがい批判ひはんてきだったため、1981ねんからメンバーが次々つぎつぎ検挙けんきょされて拷問ごうもんなどがおこなわれた。それに反対はんたいした学生がくせいなどによる暴動ぼうどう発生はっせいし、それに兵士へいし発砲はっぽうして5にん死亡しぼう、200にん以上いじょう逮捕たいほされ、14にんが20ねん以上いじょうけいけた。ただし国際こくさいNGOなどの抗議こうぎけて8ねん釈放しゃくほうされた[40]:125

1980年代ねんだいのSNMの戦闘せんとういん

ソマリア政府せいふはこのころからタベレ(tabeleh)とばれる責任せきにん制度せいど導入どうにゅうし、ソマリア北部ほくぶやく20世帯せたいごとに政府せいふりの人物じんぶつをリーダーに指名しめいして、メンバーのはん政府せいふ活動かつどう旅行りょこうなどを政府せいふ報告ほうこくさせた[40]:125。また、イサック氏族しぞく近隣きんりんデュルバハンテ氏族しぞくやガダブルシ氏族しぞく武装ぶそうをさせてイサック氏族しぞくとの対立たいりつをけしかけた。さらに閣僚かくりょうだったイサック氏族しぞくウマル・アルテ・ガリブなどを虚偽きょぎ理由りゆう逮捕たいほした。1982ねんきゅうイギリスりょうソマリランドのはん政府せいふ組織そしきSNMはエチオピアに拠点きょてんうつした。また、イエメンはSNMりの民兵みんぺい軍事ぐんじ支援しえんして、SNMは1983ねん政治せいじはん収容しゅうようしていたマンデラ刑務所けいむしょ英語えいごばん囚人しゅうじん解放かいほうさせた。それにたいしてバーレ大統領だいとうりょうはマンデラから半径はんけい50キロメートルの範囲はんい無差別むさべつ爆撃ばくげきした。政府せいふによる家畜かちく没収ぼっしゅう交易こうえきへの妨害ぼうがいなどもおこなわれた[40]:127

1988ねんのソマリアによるブラオばくげきふせいだ記念きねんとして、ばくげき使つかわれたMiG-17してつくられた記念きねん

1988ねんになると、エチオピア、ソマリア両国りょうこくで、政権せいけんるがすほどのはん政府せいふ運動うんどうおこなわれた。そこでエチオピアとソマリア両国りょうこく政府せいふは、たがいのはん政府せいふ組織そしき支援しえんめる協定きょうていむすんだ。そのためSNMはエチオピアの拠点きょてんわれ解散かいさん危機ききまれた。1988ねん5がつ起死回生きしかいせいねらったSNMはきゅうイギリスりょうソマリランドの領域りょういき侵入しんにゅうしてブラオとハルゲイサを短期間たんきかん制圧せいあつした[40]:127[50][51]。ソマリア政府せいふはSNM支配しはい地域ちいき無差別むさべつ爆撃ばくげきし、犠牲ぎせいしゃかずは5せん~6まんにん諸説しょせつあり)にのぼった。これは現在げんざいのソマリランドではイサック虐殺ぎゃくさつ英語えいごばんばれている。40まんにん住民じゅうみんがエチオピアのハートシェイク英語えいごばん[52][53]、さらに40まんにん国内こくない避難ひなんした[54][55]。このため、イサック氏族しぞくおおくがはん政府せいふてきになり、SNMの支持しじりつがった[40]:128

1990ねん東部とうぶイサックであるデュルバハンテ氏族しぞくさい有力ゆうりょく長老ちょうろうである ガラド・アブディカニ・ガラド・ジャマが、デュルバハンテ氏族しぞくもSNMに参加さんかさせてしいともうれたが、それまでデュルバハンテ氏族しぞくはバーレ大統領だいとうりょうちか氏族しぞくとしてむしろイサック氏族しぞく攻撃こうげき積極せっきょくてきだったこともあり、SNMがわことわられた[40]:131。ただし停戦ていせんには合意ごういした[40]:132一方いっぽう、SNMは西部せいぶむガダブルシ氏族しぞくとも、1991ねん2がつ会合かいごうして停戦ていせん合意ごういした[40]:132

ソマリランドのさい独立どくりつ

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ソマリランド独立どくりつ宣言せんげん文書ぶんしょ各氏かくしぞく代表だいひょうしゃ署名しょめい。1991ねん5がつ5にちづけ

1991ねん4がつボラマで、SNMイサック氏族しぞく)、デュルバハンテ氏族しぞく、ガダブルシ氏族しぞく、ワルサンゲリ氏族しぞくイッセ氏族しぞく会合かいごうし、ソマリアとは無関係むかんけい独立どくりつ行政ぎょうせい確立かくりつする決議けつぎをした[40]:133かく氏族しぞく長老ちょうろう署名しょめいは5月5にち宣言せんげんは5月18にちであり、これがソマリランド独立どくりつ宣言せんげんとされる。この会議かいぎで、今後こんご2年間ねんかんはSNMがソマリランドを暫定ざんてい統治とうちすることになり、SNM議長ぎちょうアブドゥラフマン・アフメド・アリ・トゥール大統領だいとうりょう就任しゅうにんした[40]:134

ただしデュルバハンテ氏族しぞくは、ソマリランド独立どくりつ問題もんだい議論ぎろんが2ふんしており、ボラマの会合かいごうには独立どくりつ賛成さんせいのみが参加さんかしていた[40]:134。また、ソマリランドのさい独立どくりつ時点じてんで、SNMが圧倒的あっとうてき軍事ぐんじてき優位ゆういっていたため、イサック氏族しぞくはそれにしたがわざるをなかった、とする分析ぶんせきもある[56]

なお、現在げんざいのソマリランド政府せいふは5月18にちを「独立記念日どくりつきねんび」ではなく「主権しゅけん回復かいふく」としており、独立記念日どくりつきねんびはかつてソマリランドこく独立どくりつした(1960ねん)6がつ26にちとされている[57]

このときのSNMにはおおきく2つの派閥はばつがあり、1つは大統領だいとうりょうおも事務じむ部門ぶもん、もうひとつは「あかはた」(ソマリでCalan Cas)とばれた軍事ぐんじ部門ぶもんだった。なお「あかはた」はかれらの反対はんたいからの呼称こしょうであったとする資料しりょうもある[58]。「あかはた」のリーダーかく大佐たいさのイブラヒム・アブディラヒ・デガウェインだった。デガウェインは「あかはた」の管理かんりにあったベルベラみなと利権りけん維持いじしようとした[56]

1992ねん2がつ、ソマリランド政府せいふ民兵みんぺい武装ぶそう解除かいじょすすめた。これに反発はんぱつする民兵みんぺいブラオ反乱はんらんし、1週間しゅうかんで300にん死亡しぼうする戦闘せんとうとなった[40]:134。そのすう週間しゅうかん政府せいふはソマリランドない重要じゅうよう貿易ぼうえきみなとである ベルベラみなと国営こくえいしようとした。それにたいしてベルベラを拠点きょてんとするイサック氏族しぞく支族しぞくハバル・アワル英語えいごばん支族しぞくイッサ・ムサ英語えいごばん反対はんたいした。ソマリランド大統領だいとうりょう政府せいふぐんとしておなじハバル・アワルの支族しぞくサード・ムサ英語えいごばん中心ちゅうしんとする部隊ぶたい派遣はけんしようとしたが、サード・ムサは拒絶きょぜつした。そこでトゥール大統領だいとうりょう自分じぶん出身しゅっしんであるハバル・ヨーニス英語えいごばん氏族しぞく中心ちゅうしんとする部隊ぶたい派遣はけんして、戦闘せんとう断続だんぞくてき半年はんとしあいだ継続けいぞくした。最終さいしゅうてきにははん大統領だいとうりょうのイッサ・ムサ氏族しぞく勝利しょうりし、大統領だいとうりょうがわ重要じゅうよう収入しゅうにゅうげんうしなった[40]:135

これをけて首都しゅとでソマリランド与党よとう野党やとうはないがおこなわれ、そのではベルベラみなと政府せいふ管理かんりくことで合意ごういられたが、イッサ・ムサ氏族しぞく長老ちょうろう自分じぶんたちの氏族しぞくだけが不利ふりあつかいをけているとして拒絶きょぜつした。1992ねん9がつ、ベルベラでイサックのガダブルシ氏族しぞく調停ちょうていやくとなって、ハルゲイサ空港くうこうゼイラみなとなどの施設しせつ公平こうへい政府せいふ管轄かんかつするとの条件じょうけん和平わへい成立せいりつした[40]:136。このとき捕虜ほりょ保障ほしょう問題もんだいなどが解決かいけつしていなかったが、1992ねん11月にシェイク英語えいごばん和平わへい会議かいぎ解決かいけつした。ただし一連いちれん騒動そうどう政府せいふ権威けんいおおきく失墜しっついした[40]:136

国民こくみん和解わかいだい会議かいぎと2代目だいめエガル大統領だいとうりょう氏族しぞく統治とうちから政府せいふ統治とうち

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2代目だいめ大統領だいとうりょう選出せんしゅつされたエガル(花輪はなわをしたおとこ)とぜん大統領だいとうりょうトゥール(中央ちゅうおうみぎ

1992ねんまつ権力けんりょく掌握しょうあくあきらめたトゥール大統領だいとうりょうは、ソマリランドの長老ちょうろう会議かいぎ(グルティ)に調停ちょうてい依頼いらいした。その結果けっか長老ちょうろう会議かいぎ主体しゅたいボラマまちで、のち国民こくみん和解わかいのためのだい会議かいぎばれる会議かいぎ開催かいさいされた。会議かいぎには代表だいひょうだん150にん関係かんけいしゃ700~1000にんあつまった[40]:138結果けっか氏族しぞく長老ちょうろう構成こうせいされた長老ちょうろういん通称つうしょうつづきグルティ)が設立せつりつされることとなった。また、選挙せんきょ議員ぎいんえら衆議院しゅうぎいんもうけられることになった(実際じっさい衆議院しゅうぎいん設立せつりつは2005ねん)。グルティの委員いいん氏族しぞく単位たんいられることとなり、イサック氏族しぞくが90議席ぎせき、ダロッド氏族しぞくが30議席ぎせき、ガダブルシとイッセ氏族しぞくわせて30議席ぎせきることとなった。なお、このグルティは投票とうひょうよりもはないを重視じゅうししたものであり、会議かいぎは4カ月かげつつづき、有力ゆうりょく参加さんかしゃ一人ひとりは「投票とうひょうあらそいをむ。はないをえらぼう」とけたという。ときには「議長ぎちょう体調たいちょうくずした」として投票とうひょうりやめ、はないの時間じかん延長えんちょうしたこともあった[40]:139

えらばれたグルティは1993ねん5がつイブラヒム・エガル任期にんき2ねん大統領だいとうりょう指名しめいした。エガルがえらばれたのは、エガルがSNMなどの組織そしき無関係むかんけい中立ちゅうりつてき立場たちばだったからだとわれている[59]:446一方いっぽうで、SNM軍事ぐんじ部門ぶもんの「あかはた」がつよしたからとする分析ぶんせきもある[56]

こののちしばらく、ソマリランドの長老ちょうろういん(グルティ)は首都しゅとハルゲイサではなく、ボラマでおこなわれた。まだ衆議院しゅうぎいん設立せつりつされていなかったため、行政ぎょうせい中心ちゅうしんはハルゲイサ、立法りっぽう中心ちゅうしんはボラマという体制たいせいつづいた。また、グルティはだんだんと政府せいふりの組織そしきられるようになった[59]:448

国民こくみん和解わかいのためのだい会議かいぎ」でただちにソマリランドが平和へいわになったわけではなかった。ぜん大統領だいとうりょうぞくする有力ゆうりょく氏族しぞくひとハバル・ヨーニス英語えいごばんは、大統領だいとうりょうしょくられなかったため、役職やくしょく辞退じたいした。イサック氏族しぞくにはいくつか有力ゆうりょく支族しぞくがあったが、歴史れきしてきさかえた氏族しぞくと、現時点げんじてんさかえている氏族しぞく一致いっちしておらず、さらに当時とうじ氏族しぞく所属しょぞく人口じんこうしめ統計とうけいもなかったため、最大さいだい派閥はばつ自任じにんしていたハバル・ヨーニスは自分じぶんたちの権利けんり不当ふとうけずられているとして不満ふまんった。ハバル・ヨーニス氏族しぞくぞくするぜん大統領だいとうりょうは、ソマリアの首都しゅとモガディシュをおとずれて統一とういつソマリアへの参加さんか表明ひょうめいしすらした[40]:140

1993ねん、エガル大統領だいとうりょうはベルベラ港湾こうわん管理かんりきょく設立せつりつし、大統領だいとうりょう直轄ちょっかつとした。これにより、SNM軍事ぐんじ部門ぶもんなどに資金しきんながれることをふせいだ[56]一方いっぽう、エガル大統領だいとうりょう自分じぶんぞくするハバル・アワル氏族しぞく支配しはいするベルベラこう関税かんぜいげ、その見返みかえりとしてハバル・アワルの実業じつぎょうから多額たがく融資ゆうしけた。エガル大統領だいとうりょうはこの資金しきん使つかってSNMの武装ぶそう解除かいじょすすめるとともに、政府せいふ運用うんよう資金しきんとした[59]:448。さらに1994ねん後半こうはんぜん大統領だいとうりょう発注はっちゅうしていたソマリランド・シリング紙幣しへい入荷にゅうかし、それをげん大統領だいとうりょうのエガルが政府せいふ有利ゆうり条件じょうけん流通りゅうつうさせたため、国民こくみん政権せいけんへの不信ふしんつのらせた。とくにハバル・ヨーニス氏族しぞくから反発はんぱつされた[59]:448。ハバル・ヨーニス氏族しぞく多数たすう族長ぞくちょうは、ソマリアとのさい連合れんごうのぞむと表明ひょうめいした[56]

ソマリランドの首都しゅとハルゲイサの空港くうこう地盤じばんとしていたハバル・ヨーニス氏族しぞくは、乗客じょうきゃくから勝手かって利用りようりょう徴収ちょうしゅうした。1994ねん10がつには兵力へいりょく使つかってハルゲイサ空港くうこう占拠せんきょした。政府せいふはハバル・ヨーニス氏族しぞく地盤じばんであるブラオの交易こうえきしょさえようとしたため、こちらでも戦闘せんとうとなった。これらのあらそいで、ブラオからは8まん5せんにん、ハルゲイサからは20まんにん避難ひなんしたともいわれる(これほどではなかったというせつもある)。さらに、アウダル地域ちいきのゼイラこうとジブチとの交易こうえきしょについても地元じもと氏族しぞく民兵みんぺい政府せいふとのあいだ戦闘せんとう発生はっせいした。これらの地域ちいきでは民兵みんぺい同士どうしあらそいも頻発ひんぱつした。しかしエガル大統領だいとうりょう氏族しぞくちからりずに政府せいふによる問題もんだい解決かいけつにこだわったため、講和こうわ難航なんこうした[40]:143

1994ねん11月、ソマリランド政府せいふがハルゲイサ空港くうこう武力ぶりょく占領せんりょうしたため、戦闘せんとう発生はっせいした。この戦闘せんとうには非難ひなんあつまり、まずスウェーデンイェーテボリで、1995ねん4がつにはイギリスのロンドンで講和こうわ会議かいぎ開催かいさいされた。会議かいぎ資金しきんはソマリランドディアスポラ提供ていきょうした[40]:144

1995ねん、エガル大統領だいとうりょう任期にんき満了まんりょうむかえたが、戦闘せんとうつづ国内こくない選挙せんきょおこなえる状態じょうたいではなかったため、議会ぎかいは18カ月かげつ任期にんき延長えんちょうめた。野党やとうはこれを批判ひはんした[40]:146。もっとも、国内こくないでの戦闘せんとう頻発ひんぱつかならずしもエガル大統領だいとうりょう指導しどうりょくいことを意味いみするものではなく、むしろ氏族しぞくとの小規模しょうきぼ戦闘せんとうつうじて政府せいふ権力けんりょくつよめていったとする研究けんきゅうしゃもいる[60]:77

1995ねん10がつエチオピアアディスアベバでも講和こうわ会議かいぎおこなわれ、「ソマリランド和平わへい委員いいんかい」が設立せつりつされて、政府せいふはん政府せいふ橋渡はしわたしをつとめた[40]:145。ソマリランドない氏族しぞく対立たいりつはなかなかくならなかったが、1996ねん9がつベール英語えいごばんでソマリランドの代表だいひょう氏族しぞくであるハバル・ユーニスとハバル・ジェロの紛争ふんそう終結しゅうけつかんする合意ごうい成立せいりつした[40]:151

一方いっぽうで、エガル大統領だいとうりょう長老ちょうろういんはたらきかけて、1996ねん10がつ首都しゅとハルゲイサで和平わへい会議かいぎ開催かいさいした[59]:449。この会議かいぎにハバル・ジェロ氏族しぞくぶことは失敗しっぱいしたが、ハバル・ユーニス氏族しぞく参加さんかさせることに成功せいこうした[40]:151。この会議かいぎ成功せいこうし、以後いご氏族しぞくのコントロールは長老ちょうろう会議かいぎよりも政府せいふうこととなった[59]:449。また、これまで国際こくさい機関きかんのいくつかがボラマにあったが、エガル大統領だいとうりょう首都しゅとハルゲイサに移転いてんさせた。これにより、ボラマの経済けいざいりょく減退げんたいした[59]:450

1997ねん、ソマリランドで暫定ざんてい憲法けんぽう制定せいていされ、長老ちょうろういん任期にんきを6ねんにすることなどがさだめられた。(ただし長老ちょうろういん改選かいせん期限きげんるたびに延長えんちょうされ、2024ねん時点じてんにおいて1かいおこなわれていない。)

1998ねん7がつ、ソマリランドのひがしとなりプントランド設立せつりつ宣言せんげんされた。プントランドはソマリランドが領有りょうゆう宣言せんげんしているワルサンガリ氏族しぞくやデュルバハンテ氏族しぞく居住きょじゅう地域ちいき領域りょういきふくまれると宣言せんげんしたため、ソマリランドとは潜在せんざいてき紛争ふんそう状態じょうたいとなった。

1999ねん、ソマリランド政府せいふ東部とうぶサナーグ地域ちいきスール地域ちいき行政ぎょうせい警察けいさつ拠点きょてんつくろうとして、ひがしとなりのプントランド紛争ふんそう危機ききとなったが、このときはエガル大統領だいとうりょう、プントランド大統領だいとうりょうどもあらそいの発生はっせいのぞまず、はないで決着けっちゃくさせてこれらの地域ちいき帰属きぞくについては曖昧あいまいなままのこされた[43]:167

1999ねん11月、エガル大統領だいとうりょうがボラマを訪問ほうもんしたさいもとソマリランド大統領だいとうりょう候補こうほだった人物じんぶつ地元じもと住民じゅうみん集団しゅうだんひきいてソマリランド独立どくりつ反対はんたい表明ひょうめいした。これはここすうねんでソマリランド独立どくりつ反対はんたい公式こうしき表明ひょうめいされた事件じけんだった[43]:167

2000ねん1がつ、ソマリランドのベルベラみなとがエチオピアと海外かいがいとの交易こうえき使つかわれることになり、ベルベラからエチオピアにつづみち整備せいびはじまった[61]。2000ねんごろからエチオピアに飢饉ききん発生はっせいし、10まんトンの食糧しょくりょうがソマリランドのベルベラこう経由けいゆでエチオピアにおくられた。これによりエチオピアによるソマリランド承認しょうにん期待きたいされたが、実際じっさいには実現じつげんしなかった。これは、エチオピア政府せいふがソマリランド独立どくりつがソマリアの不安定ふあんていさを助長じょちょうすると懸念けねんしたからとする分析ぶんせきもある[43]:170

2000ねん以降いこう、ソマリランド政府せいふ地方ちほう政府せいふ直接ちょくせつ税金ぜいきんることに制限せいげんをかけた。これにより地方ちほう政府せいふ中央ちゅうおう政府せいふへの依存いぞんたかめた[59]:450

1999ねん3がつから、ソマリアの和平わへい目指めざした会議かいぎが、ジブチ大統領だいとうりょう斡旋あっせんもと政府せいふあいだ開発かいはつ機構きこう(IGAD)の主催しゅさいでジブチでおこなわれていた。2000ねん4がつ、この一環いっかんでジブチの代表だいひょうだんがソマリランドを訪問ほうもんしたが、ソマリランド政府せいふ入国にゅうこく拒否きょひ。その報復ほうふくとして、ジブチ政府せいふざいジブチのソマリランド代表だいひょう国外こくがい追放ついほう処分しょぶんにした[62]。2000ねん8がつ、ジブチで再度さいどソマリア和平わへい会議かいぎ開催かいさいされ、アブディカシム・サラ・ハッサン暫定ざんてい大統領だいとうりょうとした「ソマリア暫定ざんてい国民こくみん政府せいふ」が設立せつりつされたが、ソマリランドは参加さんかしなかった。アブディカシムはきゅうイギリスりょうソマリランド出身しゅっしんデュルバハンテ氏族しぞくアリ・カリフ・ガライド首相しゅしょうに、イサック氏族しぞくイスマイル・マフムド・フレ英語えいごばん外相がいしょう任命にんめいした[43]:168。このときはソマリランド以外いがいでも、ソマリアの首都しゅとモガディシュを拠点きょてん主要しゅよう軍閥ぐんばつのいくつかが暫定ざんてい国民こくみん政府せいふには参加さんかしなかった。

2001ねん、イギリス政府せいふはソマリランド憲法けんぽう国民こくみん投票とうひょうかんして、EUがこれを歓迎かんげいすべきだとする声明せいめいすべきだと提案ていあんした。しかし、とくにイタリアがつよ反対はんたいし、実現じつげんしなかった[43]:171

2001ねん5がつ、ソマリランド政府せいふは、エチオピアがソマリランドのパスポートをれ、定期ていきてき航空こうくう便びん運行うんこうしていると発表はっぴょうした[61]

2001ねん5がつ31にち、ソマリランドで、ソマリランド独立どくりつ明示めいじしたソマリランド憲法けんぽう採択さいたく国民こくみん投票とうひょうおこなわれた。ソマリランド政府せいふは6がつ5にちに97%の信任しんにん可決かけつされたと発表はっぴょうした。エガル大統領だいとうりょうは「ソマリランド国民こくみんの85%はソマリランドからの分離ぶんり独立どくりつ支持しじした」と主張しゅちょうした。ただしソマリランド独立どくりつ反対はんたいする人々ひとびとはこの国民こくみん投票とうひょうをボイコットしており、実際じっさい独立どくりつ賛成さんせいは70%程度ていどだったとする分析ぶんせきもある[43]:165。また、形式けいしきてきには政府せいふ氏族しぞくとは関係かんけいない個人こじん投票とうひょう運営うんえいされることとなったが、実質じっしつてきには投票とうひょう依然いぜんとして氏族しぞく意向いこうつよ反映はんえいしていた[63]:10一方いっぽうで、憲法けんぽう採択さいたく(と2002ねん普通ふつう選挙せんきょ実施じっし)により、ソマリランドの政治せいじ長老ちょうろう政治せいじから民主みんしゅ政治せいじ移行いこうしたとする分析ぶんせきもある[56]

2001ねん7がつ、ソマリランド衆議院しゅうぎいん議員ぎいん36めいがエガル大統領だいとうりょう汚職おしょく告発こくはつし、大統領だいとうりょう解任かいにん要求ようきゅうしたが、成功せいこうしなかった[43]:166

2002ねんはじめての直接ちょくせつ選挙せんきょとなる地方ちほう議会ぎかい選挙せんきょおこなわれた[45]

だい3だい大統領だいとうりょうカヒン

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2002ねんエドナ・アダン・イスマイル設立せつりつした産科さんか病院びょういん

エガル大統領だいとうりょう在任ざいにんちゅうの2002ねん5がつ死去しきょし、ふく大統領だいとうりょうダヒル・リヤレ・カヒン大統領だいとうりょう代行だいこうとなった。カヒンは2003ねん大統領だいとうりょうせんいどんで当選とうせんした。これは、ソマリランドではじめての直接ちょくせつ選挙せんきょによる大統領だいとうりょう選挙せんきょとなった[45]。この大統領だいとうりょう選挙せんきょ外国がいこくからも自由じゆう公正こうせい選挙せんきょだったとして評価ひょうかされている[59]:452就任しゅうにん当初とうしょはカヒンがソマリランドの主体しゅたい氏族しぞくイサックの出身しゅっしんではないことから、不安定ふあんてい要因よういんになるとの懸念けねんもあった[43]:175。しかし後年こうねんではイサック氏族しぞく以外いがいものでもソマリランドの大統領だいとうりょうになれることを証明しょうめいしたとしてむしろプラスに評価ひょうかされている。ただし、カヒンはソマリア独裁どくさい大統領だいとうりょうだったバーレのもと国家こっか安全あんぜん保障ほしょうきょく高官こうかんつとめており、もと同僚どうりょう顧問こもん部下ぶかとして登用とうようしたため、非難ひなんあつまった。また、大統領だいとうりょう夫妻ふさい批判ひはんする記事きじ掲載けいさいした新聞しんぶん記者きしゃを「政府せいふたいする虚偽きょぎ報道ほうどう」を理由りゆう逮捕たいほするなど、強硬きょうこう政策せいさくった[59]:453

2002ねん時点じてんで、ソマリランドの国家こっか予算よさんの70%はぐん警察けいさつ人件じんけんてられているとわれている。ただしこれはソマリランド独立どくりつさい民兵みんぺいさい雇用こようといういちめんもあり、これをらすと深刻しんこく治安ちあん悪化あっか原因げんいんになっていたとする分析ぶんせきもある[43]:162

2003ねん12月、デュルバハンテ氏族しぞく支族しぞく同士どうし戦闘せんとう状態じょうたいとなり、プントランド政府せいふ仲介ちゅうかい口実こうじつにソマリランド南東なんとうにあるデュルバハンテ氏族しぞく都市としラス・アノド軍事ぐんじ占領せんりょうした。

2005ねん下院かいん議員ぎいん選挙せんきょおこなわれた。下院かいん議員ぎいん選挙せんきょとしてははじめての直接ちょくせつ選挙せんきょとなった[45]主要しゅよう氏族しぞくであるイサック氏族しぞく議員ぎいん割合わりあい増加ぞうかし、相対そうたいてき東部とうぶのデュルバハンテ氏族しぞくやワルサンガリ氏族しぞく割合わりあい減少げんしょうした。この選挙せんきょ一般いっぱんには自由じゆう公平こうへいであると評価ひょうかされているが、一部いちぶ買収ばいしゅう不正ふせい行為こういもあったとわれている[63]:10

2007ねん9がつ、プントランド政府せいふない権力けんりょくあらそいがあり、デュルバハンテ氏族しぞく閣僚かくりょう支持しじする軍閥ぐんばつがソマリランドぐん名乗なのってラス・アノド軍事ぐんじ占領せんりょうし、よく10がつにソマリランドほんぐん進駐しんちゅうした。これにより、2023ねんまでラス・アノドはソマリランドの支配しはいとなった。

2008ねん、カヒン大統領だいとうりょう大統領だいとうりょう選挙せんきょ延期えんきした[63]:11。これはカヒン大統領だいとうりょう権力けんりょく固執こしつした結果けっかだとするせつもある[45]

2008ねん12月、ソマリアおき海賊かいぞくたいして、ソマリランドは沿岸えんがん警備けいびたい使つかった対策たいさくすすんでいるのにたいし、ひがしプントランドはむしろ海賊かいぞく拠点きょてんになっているとほうじられている[64]

2009ねん10がつ、ソマリランド南東なんとうむデュルバハンテ氏族しぞく軍閥ぐんばつ「SSC」を結成けっせいしてソマリランドに反乱はんらんした。しかし氏族しぞく内部ないぶでの対立たいりつなどもあり、2011ねんにSSCは崩壊ほうかいした。

だい4だい大統領だいとうりょうシランヨ

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2014ねん首都しゅとハルゲイサの両替りょうがえしょう。インフレのため大量たいりょう紙幣しへい準備じゅんびされている。

2010ねん6がつ直接ちょくせつ選挙せんきょによる2かい大統領だいとうりょうせんおこなわれ、アフメッド・シランヨ当選とうせんした[45]。このとき有権者ゆうけんしゃ登録とうろくは107まんにんぶんおこなわれたが、より信頼しんらいせいたかいとされる2016ねん登録とうろくでは87まんにんにとどまっており、かなりのかず不正ふせい登録とうろくおこなわれた可能かのうせい指摘してきされている[45]

2012ねん1がつ、デュルバハンテ氏族しぞくあらたな軍閥ぐんばつチャツモこく設立せつりつした。当初とうしょは2012ねん設立せつりつ確実かくじつとなったソマリア連邦れんぽうへの加盟かめい目指めざしていたが、チャツモこく首都しゅととされたラス・アノドの占領せんりょうもできず、軍事ぐんじ部門ぶもんのみが各地かくち放浪ほうろうしたうえで2017ねん10がつにソマリランドへのさい統合とうごう宣言せんげんされた。

2012ねん3がつ、ソマリランド政府せいふ平和へいわてきなデモたい解散かいさんさせるためにテロ対策たいさく警察けいさつ部隊ぶたい使用しようした[63]:10

2012ねん時点じてん世界銀行せかいぎんこう推定すいていでは、ソマリランドの一人ひとりたりのGDPは348ドルであり、世界せかいで4番目ばんめまずしいくにであった。(2021ねんには775ドルまでがっている[65]。)また、労働ろうどうやく70パーセントが牧畜ぼくちくとその流通りゅうつう関係かんけいしていた。海外かいがいらすソマリランドディアスポラ100まんにんから年間ねんかん5おくドルが送金そうきんされていた[42]

2015ねん、シランヨ大統領だいとうりょう当初とうしょ任期にんきむかえたが、有権者ゆうけんしゃ登録とうろく時間じかんがかかっていることを理由りゆうに9かげつ延長えんちょうされることとなり、最終さいしゅうてきには2年間ねんかん延長えんちょうされた[45]

2016ねん5がつアラブ首長しゅちょうこく連邦れんぽう港湾こうわん運営うんえい会社かいしゃDPワールドが、ソマリランドのベルベラみなと巨大きょだい投資とうしをすると表明ひょうめいした。これはソマリランドの利益りえきにとどまらず、うみたない隣国りんごくエチオピアジブチ以外いがい経路けいろ輸出ゆしゅつができるようになるという意味いみもある。ソマリア政府せいふは、ソマリア政府せいふ許可きょかなくはなしすすめているとして反対はんたい表明ひょうめいした[66]

2017ねん9がつえいBBCは、ソマリランドではインフレがすすみ、現金げんきん決済けっさい少額しょうがくふくめて電子でんし決済けっさい一般いっぱんてきになったとほうじた。ある商店しょうてんでは電子でんし決済けっさいが2ねんまえの5%から40%以上いじょう急増きゅうぞうした[67]

だい5だい大統領だいとうりょうムセ・ビヒ・アブディ

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2017ねん12月、ムセ・ビヒ・アブディだい5だいソマリランド大統領だいとうりょう選出せんしゅつされた[45]。この選挙せんきょ不正ふせい防止ぼうしするためサハラ以南いなんでははつとなる虹彩こうさい認識にんしき採用さいようされ、かなりたか割合わりあい有権者ゆうけんしゃたいして実施じっしされた[45]

2018ねん1がつ、ソマリランドぐんラス・アノドひがしでプントランドぐん基地きちがあるトゥカラク戦闘せんとううえ占領せんりょうした[68]

2018ねん1がつ、ソマリランド議会ぎかい女性じょせい人権じんけんかかわる法律ほうりつ可決かけつした。この法律ほうりつで、女性じょせいせい被害ひがいあたえた男性だんせい厳罰げんばつすことなどがさだめられた[69]

2020ねん中華民国ちゅうかみんこく台湾たいわん総統そうとう英文えいぶん会談かいだんするソマリランド外務がいむ大臣だいじん

2020ねん9がつ、ソマリランド政府せいふ中華民国ちゅうかみんこく(台湾たいわん)に駐在ちゅうざいいん事務所じむしょ開設かいせつして国交こっこうむすんだ。台湾たいわん国連こくれん加盟かめいこくではないものの、国連こくれん加盟かめいこくすうこくから国家こっか承認しょうにんされている。これにより、ソマリランドは他国たこくからはじめて正式せいしき承認しょうにんされたことになった[70]。ただし2024ねん時点じてん台湾たいわん以外いがいにソマリランドを承認しょうにんしているくにい。

2021ねん衆議院しゅうぎいん選挙せんきょ投票とうひょうする女性じょせい

2021ねん5がつ、ソマリランドで2かいとなる衆議院しゅうぎいん選挙せんきょ実施じっしされた。

2021ねん10がつ、ソマリランド政府せいふは、エリガボんでいた2400にんなど、ソマリランド国籍こくせきたない7000にん以上いじょう住民じゅうみん国外こくがい追放ついほう処分しょぶんとした[71]

2022ねん8がつ、ソマリランドぐんスール地域ちいきでプントランドぐん最大さいだい基地きちがあるボアメ占領せんりょう。プントランドぐん反撃はんげきせずに撤退てったいした。これにより、スール地域ちいきのほとんどのまちはソマリランドの支配しはいとなった[72]

2023ねん2がつ、ソマリランド南東なんとうのスール地域ちいき都市としラス・アノドでデュルバハンテ氏族しぞくだい規模きぼ反乱はんらん発生はっせい。ソマリランド国内外こくないがいに28まんにん避難ひなんした[73]反乱はんらん勢力せいりょくSSCチャツモこく自称じしょうしており、2023ねん10がつにソマリア連邦れんぽう政府せいふはSSCチャツモこく承認しょうにんしたとほうじられている[74]

2024ねん1がつ、ソマリランドとエチオピアのあいだ覚書おぼえがきわされた。この内容ないよう非公開ひこうかいだが、両国りょうこく首脳しゅのうから、ソマリランド海岸かいがんのエチオピア海軍かいぐんへの貸与たいよ、エチオピアによるソマリランドの国家こっか承認しょうにんなどがふくまれている可能かのうせい示唆しさされている。米国べいこく、トルコ、エジプトなどはあらためて、ここがソマリア連邦れんぽう政府せいふ主権しゅけん地域ちいきだと表明ひょうめいした[75]

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参考さんこう文献ぶんけん

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