この記事 きじ ではソマリランドの歴史 れきし について解説 かいせつ する。
ソマリランド は1991年 ねん にソマリア から一方 いっぽう 的 てき な独立 どくりつ 宣言 せんげん を主張 しゅちょう した国 くに である。ソマリランド政府 せいふ の見解 けんかい では、ソマリランドは1960年 ねん に独立 どくりつ し、その後 ご にソマリアと連合 れんごう 国家 こっか を形成 けいせい していたが、1991年 ねん に連合 れんごう を解消 かいしょう したとされている。ソマリランド政府 せいふ が主張 しゅちょう する領土 りょうど は旧 きゅう イギリス領 りょう ソマリランド そのものであるが、東部 とうぶ 地域 ちいき はプントランド などと係争 けいそう 状態 じょうたい にある。
ダイムール (英語 えいご 版 ばん ) の洞窟 どうくつ に描 えが かれている野生 やせい 動物 どうぶつ 。
今日 きょう のソマリランドの地域 ちいき には、約 やく 1万 まん 年 ねん 前 まえ の新 しん 石器 せっき 時代 じだい に人 ひと が住 す んでいた[ 1] [ 2] 。一方 いっぽう 、言語 げんご 学者 がくしゃ は、現在 げんざい のソマリ人 じん が属 ぞく するアフロ・アジア語族 ごぞく の最初 さいしょ の集団 しゅうだん は、 新 しん 石器 せっき 時代 じだい に、ナイル渓谷 けいこく [ 3] あるいは近東 きんとう [ 4] から今日 きょう のソマリランドに到達 とうたつ したと考 かんが えている。古代 こだい の羊 ひつじ 飼 か いたちが牛 うし やその他 た の家畜 かちく を飼育 しいく し、鮮 あざ やかな岩 いわ 絵具 えのぐ で絵 え を描 えが いた。これをドイアン文化 ぶんか (Doian)、ハルゲイサン文化 ぶんか (Hargeisan)と呼 よ ぶ人 ひと もいる[ 5] 。また、ソマリランドの遺跡 いせき には、紀元前 きげんぜん 4千年紀 せんねんき のアフリカの角 かく における最初 さいしょ の墓地 ぼち と思 おも われるものも発見 はっけん されている[ 6] 。北部 ほくぶ のジャレロ遺跡 いせき から出土 しゅつど した石器 せっき もまた、1909年 ねん に、旧石器時代 きゅうせっきじだい における東洋 とうよう と西洋 せいよう の考古学 こうこがく 的 てき 普遍 ふへん 性 せい を示 しめ す重要 じゅうよう な遺物 いぶつ として特徴 とくちょう づけられた[ 7] 。
ソマリランドの首都 しゅと ハルゲイサ 郊外 こうがい にあるラース・ゲール 遺跡 いせき 群 ぐん の歴史 れきし は約 やく 5,000 年 ねん 前 まえ に遡 さかのぼ り、野生 やせい 動物 どうぶつ と装飾 そうしょく された牛 うし の両方 りょうほう を描 えが いた岩 いわ 絵 え がある[ 8] 。ダンバリン 北部 ほくぶ 地域 ちいき では他 た の洞窟 どうくつ 壁画 へきが も発見 はっけん されており、これには馬 うま に乗 の った狩人 かりゅうど を描 えが いた最 もっと も初期 しょき の知 し られているもののひとつが描 えが かれている。この岩 いわ 絵 え は独特 どくとく のエチオピア・アラビア様式 ようしき で、紀元前 きげんぜん 1,000 年 ねん から 3,000 年 ねん のものとされている.[ 9] [ 10] 。
さらに、ソマリランド東部 とうぶ のラス・コレー とエル・アヨ の町 まち の間 あいだ には、実在 じつざい の動物 どうぶつ や神話 しんわ 上 じょう の動物 どうぶつ を描 えが いた洞窟 どうくつ 壁画 へきが が多数 たすう あるカリンヘガネ (英語 えいご 版 ばん ) がある。各 かく 絵画 かいが の下 した には碑文 ひぶん があり、それらを合 あ わせると約 やく 2,500 年 ねん 前 まえ のものと推定 すいてい されている[ 11] [ 12] 。
紀元前 きげんぜん 26世紀 せいき にプント国 こく からエジプト に黄金 おうごん などが送 おく られた。その後 ご も紀元前 きげんぜん 15世紀 せいき 頃 ごろ までにわたってエジプトとの乳香 にゅうこう や没薬 もつやく などの交易 こうえき が行 おこな われている。このプント国 こく の有力 ゆうりょく 比定 ひてい 地 ち の一 ひと つがソマリランドである(諸説 しょせつ ある)。
サナーグ地域 ちいき のメイト にある、イサック 氏族 しぞく の始祖 しそ とされるシェイク・イサーク (英語 えいご 版 ばん ) の墓 はか
2世紀 せいき にロ ろ ーマ帝国 まていこく がナバテア王国 おうこく (現 げん ヨルダン 西部 せいぶ )を征服 せいふく し、海賊 かいぞく 行為 こうい を抑制 よくせい するためにローマ海軍 かいぐん がアデン (現 げん イエメン )に駐留 ちゅうりゅう するようになると、アラブ商人 しょうにん とソマリ商人 しょうにん はロ ろ ーマ帝国 まていこく と協力 きょうりょく し、紅海 こうかい と地中海 ちちゅうかい を結 むす ぶ有利 ゆうり な通商 つうしょう におけるソマリ商人 しょうにん とアラブ商人 しょうにん の利益 りえき を守 まも るために、アラビア半島 はんとう の自由 じゆう 港湾 こうわん 都市 とし [ 13] でのインド船 せん の取引 とりひき を禁止 きんし した[ 14] 。しかし、インド商人 しょうにん たちは、ロ ろ ーマ帝国 まていこく の干渉 かんしょう を受 う けなかったソマリア半島 はんとう の港湾 こうわん 都市 とし で貿易 ぼうえき を続 つづ けた[ 15] 。
7世紀 せいき にアラビア半島 はんとう でイスラーム教 きょう が誕生 たんじょう した。ソマリランドには非 ひ アラブの地域 ちいき としては比較的 ひかくてき 早期 そうき にイスラーム教 きょう が伝 つた わった。ゼイラ にある「2つのキブラ のモスク 」(ゼイラのマスジトカ・ラバダ・キブラ (英語 えいご 版 ばん ) ))は7世紀 せいき に建設 けんせつ されたと考 かんが えられている[ 16] :7 。
何 なに 世紀 せいき もの間 あいだ 、インド商人 しょうにん はセイロン やモルッカ諸島 しょとう からソマリやアラビアに大量 たいりょう のシナモンを運 はこ んだ。スパイスの産地 さんち は、アラブ商人 しょうにん とソマリ商人 しょうにん がローマやギリシア世界 せかい との交易 こうえき において最 もっと も秘密 ひみつ にしていたと言 い われており、ローマ人 じん やギリシア人 じん はその産地 さんち がソマリア半島 はんとう であると信 しん じていた。[ 17] ソマリ商人 しょうにん とアラブ商人 しょうにん の協力 きょうりょく により、北 きた アフリカ、近東 きんとう 、ヨーロッパにおけるインドや中国 ちゅうごく のシナモンの価格 かかく が高騰 こうとう し、スパイス貿易 ぼうえき が利益 りえき を生 う むようになり、特 とく にソマリ商人 しょうにん の手 て によって大量 たいりょう のシナモンが海路 かいろ や陸路 りくろ で輸送 ゆそう されるようになった[ 14] 。
中世 ちゅうせい /イスラーム王国 おうこく とエチオピアとの関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
ソマリランド北西 ほくせい 部 ぶ の港町 みなとちょう ゼイラ にあるアダル・スルタン国 こく 時代 じだい のものとみられる遺跡 いせき
中世 ちゅうせい になると、様々 さまざま なイスラーム王国 おうこく がこの地 ち に作 つく られた[ 18] 。
13世紀 せいき の文献 ぶんけん に記録 きろく があるイファト・スルタン国 こく は、イスラーム教徒 きょうと の国 くに であり、元 もと は今日 きょう のエチオピアにあたる場所 ばしょ に首都 しゅと があったが、エチオピアに追 お われる形 かたち で首都 しゅと を今日 きょう のソマリランド北西 ほくせい 部 ぶ にあるゼイラ に移動 いどう した。
14世紀 せいき にゼイラを拠点 きょてん とするアダル・スルタン国 こく ができた。アダル・スルタン国 こく はエチオピア皇帝 こうてい アムダ・セヨン1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) (在位 ざいい 1314–1344)の時代 じだい にエチオピアと大 だい 規模 きぼ な戦闘 せんとう をした[ 19] 。その後 ご もたびたびエチオピアから攻撃 こうげき を受 う けていたが、1528年 ねん に退 しりぞ け、翌 よく 1529年 ねん から逆 ぎゃく にアダルの将軍 しょうぐん アフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガジー が率 ひき いる軍 ぐん がエチオピアに侵攻 しんこう した。1543年 ねん にポルトガルの援軍 えんぐん を受 う けたエチオピア軍 ぐん との戦 たたか いでアル=ガジーが戦死 せんし するまで、エチオピア北部 ほくぶ を蹂躙 じゅうりん した。アル=ガジーの死後 しご はエチオピアの領土 りょうど を失 うしな った。アダル・スルタン国 こく は国力 こくりょく を大 おお きく落 お としながらも1577年 ねん まで続 つづ いた。
一方 いっぽう 、1538年 ねん 、オスマン帝国 ていこく の皇帝 こうてい スレイマン1世 せい は、インド洋 いんどよう に海軍 かいぐん を派遣 はけん した。遠征 えんせい は約 やく 30年間 ねんかん 続 つづ いた。皇帝 こうてい がセリム2世 せい に変 か わった後 のち の1567年 ねん 、副官 ふっかん であったエズデミル・パシャ (英語 えいご 版 ばん ) は、紅海 こうかい 西岸 せいがん で今日 きょう のスーダンとエリトリア沿岸 えんがん に当 あ たる地域 ちいき を征服 せいふく した[ 20] [ 21] 。以後 いご は形式 けいしき 的 てき にオスマン帝国 ていこく の一部 いちぶ となったが、実質 じっしつ 的 てき には氏族 しぞく ごとによる自治 じち の状態 じょうたい だった。
ソマリランド東部 とうぶ のエル・アフウェイン の近 ちか くに廃墟 はいきょ となったイスラム都市 とし マドゥナ (英語 えいご 版 ばん ) がある[ 22] [ 23] 。この遺跡 いせき にはミフラーブ を持 も つ大 おお きな長方形 ちょうほうけい のモスク の跡 あと があり、3メートルの壁 かべ が現存 げんそん する。スウェーデン 系 けい ソマリ考古 こうこ 学者 がくしゃ のサダ・ミレ (英語 えいご 版 ばん ) は、この遺跡 いせき を15~17世紀 せいき のものと推定 すいてい している[ 24] 。
18世紀 せいき になると、氏族 しぞく のまとまりがある程度 ていど 確立 かくりつ した。このためこの時期 じき の氏族 しぞく 集団 しゅうだん が、イサックスルタン国 こく (英語 えいご 版 ばん ) 、ハバル・ユーニススルタン国 こく (英語 えいご 版 ばん ) 、ワルサンガリ・スルタン国 こく (英語 えいご 版 ばん ) などと呼 よ ばれることもある。ただしこれらの族長 ぞくちょう が中東 ちゅうとう で言 い うスルターン のような権力 けんりょく 者 しゃ であったか、その組織 そしき がスルターン国 こく と呼 よ ばれるほど確立 かくりつ されたものであったかどうかは不明 ふめい である。また、ソマリ人 じん の多 おお くは遊牧民 ゆうぼくみん であり、移動 いどう 生活 せいかつ をする者 もの が多 おお かったため、氏族 しぞく である程度 ていど の居住 きょじゅう 範囲 はんい が決 き まっていたものの、今日 きょう 的 てき な意味 いみ での領土 りょうど や国境 こっきょう があったわけではなく、氏族 しぞく を超 こ えた婚姻 こんいん も行 おこな われていた。
1821年 ねん から1841年 ねん にかけてオスマン帝国 ていこく 領 りょう エジプト のパシャ であるムハンマド・アリー がこの地域 ちいき に足場 あしば を築 きず いた[ 25] 。
一方 いっぽう 、19世紀 せいき になると、イギリス が国力 こくりょく を増 ま して、世界 せかい 各地 かくち に進出 しんしゅつ した。1825年 ねん にベルベラの港 みなと に入 にゅう ろうとしたイギリスの船 ふね がソマリ人 じん に襲 おそ われて複数 ふくすう の乗組 のりくみ 員 いん が殺 ころ された[ 26] 。1827年 ねん にイギリスは数 すう 隻 せき の軍艦 ぐんかん をベルベラに派遣 はけん し、ソマリ人 じん の部隊 ぶたい を降伏 ごうぶく させ、イギリス国旗 こっき を掲 かか げた船 ふね を安全 あんぜん に通行 つうこう させることを約束 やくそく させた。(イギリスによるベルベラ攻撃 こうげき (1827) (英語 えいご 版 ばん ) )[ 27] [ 28]
1839年 ねん にイギリスはベルベラやゼイラの対岸 たいがん にあたるアデン を占領 せんりょう した。1840年 ねん 、インド海軍 かいぐん のロバート・モレスビー大佐 たいさ が「在 ざい インドイギリス政府 せいふ 代表 だいひょう 」としてゼイラ総督 そうとく とイギリスに貿易 ぼうえき 特権 とっけん を与 あた える条約 じょうやく を結 むす んだ[ 29] 。
1869年 ねん にスエズ運河 うんが が開通 かいつう し、紅海 こうかい 沿岸 えんがん の重要 じゅうよう 性 せい が増 ま した。
1875年 ねん にエジプトがベルベラを占領 せんりょう 。しかしイギリス人 じん やイタリア人 じん によるソマリランドの探検 たんけん は続 つづ けられた[ 29] 。一方 いっぽう 、エジプトでは1879年 ねん からウラービー革命 かくめい と呼 よ ばれる騒動 そうどう が発生 はっせい し、途中 とちゅう から介入 かいにゅう したイギリスが1883年 ねん からエジプトの統治 とうち をおこなった。
イギリスは1884年 ねん からソマリランドに住 す むソマリ人 じん の各 かく 氏族 しぞく と、各 かく 氏族 しぞく を保護 ほご する条約 じょうやく を結 むす んでいった。具体 ぐたい 的 てき にはガダブルシ (英語 えいご 版 ばん ) (1884)[ 30] 、ハバル・アワル (英語 えいご 版 ばん ) (1884と1886)[ 30] 、イッサ (1885)[ 31] 、ワルサンガリ (英語 えいご 版 ばん ) (1886) [ 32] :568 などの氏族 しぞく が相手 あいて だった(年代 ねんだい は文献 ぶんけん で多少 たしょう 異 こと なる)。
イギリス領 りょう ソマリランドの領域 りょういき 。今日 きょう のエチオピア領 りょう の一部 いちぶ も「予定 よてい 地域 ちいき 」とされている。細字 さいじ で書 か かれているのが氏族 しぞく 。ESA, GADABURSI, OGADENI, DOLBAHANTA, WARSANGERLIを除 のぞ く氏族 しぞく はイサック氏族 しぞく の支族 しぞく 。
イギリスは1887年 ねん 7月 がつ 20日 はつか 、ベルリン会議 かいぎ の調印 ちょういん 国 こく に対 たい し、 イギリス領 りょう ソマリランド が保護 ほご 領 りょう として成立 せいりつ したことを公式 こうしき に通告 つうこく した[ 33] 。
1888年 ねん には西 にし のフランス領 りょう との境界 きょうかい が明確 めいかく 化 か された。東 ひがし のイタリア領 りょう との境界 きょうかい は1894年 ねん に、南 みなみ のエチオピアとの境界 きょうかい は1897年 ねん に協定 きょうてい を結 むす んで明確 めいかく 化 か された[ 29] 。なお、イギリス領 りょう ソマリランド東部 とうぶ に住 す む デュルバハンテ 氏族 しぞく は、イギリスとの協定 きょうてい を行 おこな っていなかったが、イギリスとイタリアとの協定 きょうてい でイギリス領 りょう ソマリランドに属 ぞく するものとされた[ 34] 。
1896年 ねん 、ソマリランドで野生 やせい 動物 どうぶつ の調査 ちょうさ にベルベラから向 む かおうとする調査 ちょうさ 団 だん
1901年 ねん 頃 ごろ からソマリ人 じん のオガデン氏族 しぞく (英語 えいご 版 ばん ) に属 ぞく しデュルバハンテ氏族 しぞく の母 はは を持 も つサイイド・ムハンマド・アブドゥラー・ハッサン がイギリス軍 ぐん と対立 たいりつ を始 はじ め、ソマリランド東部 とうぶ のタレー を拠点 きょてん として一時期 いちじき ソマリランド東部 とうぶ を占領 せんりょう した[ 35] [ 36] 。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が終 お わるとイギリスは反乱 はんらん 勢力 せいりょく を空爆 くうばく するなどして1920年 ねん に鎮圧 ちんあつ した[ 37] 。
1920年 ねん 、イギリス政府 せいふ は、ワルサンガリ (英語 えいご 版 ばん ) 氏族 しぞく の族長 ぞくちょう がサイイド・ムハンマドの反乱 はんらん に加担 かたん したとして、この族長 ぞくちょう をセーシェル に流刑 りゅうけい にした。1928年 ねん に許 ゆる され、最終 さいしゅう 的 てき に族長 ぞくちょう に復帰 ふっき した。
1920年 ねん 、資金 しきん 難 なん となったイギリスの植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ は、民間 みんかん 投資 とうし を誘致 ゆうち するための公社 こうしゃ を設立 せつりつ した。さらに1922年 ねん 、ソマリ人 じん に新 あら たな税 ぜい を課 か した。しかしブラオ で新税 しんぜい に反対 はんたい する武装 ぶそう 蜂起 ほうき が発生 はっせい し、鎮圧 ちんあつ のため集 あつ めたソマリ人 じん 部隊 ぶたい が命令 めいれい を拒否 きょひ したため、植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ の知事 ちじ が交替 こうたい した。新 あら たな知事 ちじ は徴税 ちょうぜい を諦 あきら めて民間 みんかん 投資 とうし を誘致 ゆうち しようとしたが、失敗 しっぱい して1926年 ねん には公社 こうしゃ が解散 かいさん した。1920年代 ねんだい 末 まつ にはブラオで油田 ゆでん 調査 ちょうさ が行 おこな われたが、見 み つからなかった。農業 のうぎょう や畜産 ちくさん 業 ぎょう の振興 しんこう にも失敗 しっぱい した。学校 がっこう の設立 せつりつ も進 すす められたが、ソマリ語 ご での教育 きょういく を目指 めざ したイギリス植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ とアラビア語 ご での教育 きょういく を主張 しゅちょう した地元民 じもとみん とが折 お り合 あ わずに進 すす まなかった[ 38] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん がはじまると、イタリアは1940年 ねん 8月 がつ にソマリランドを一時 いちじ 的 てき に占領 せんりょう したが、6か月 げつ 後 ご にイギリスに奪還 だっかん された(ソマリランドの戦 たたか い )[ 39] 。
学校 がっこう 教育 きょういく が進 すす まなかったこともあり、英 えい 領 りょう ソマリランドでは現地 げんち 人 じん の政治 せいじ 家 か が育 そだ たなかった。1947年 ねん に英 えい 領 りょう ソマリランド内 ない で選 えら ばれた氏族 しぞく 間 あいだ のバランスを考慮 こうりょ した48人 にん の評議 ひょうぎ 員 いん から成 な る評議 ひょうぎ 会 かい ができた。この評議 ひょうぎ 会 かい は実質 じっしつ 的 てき な権限 けんげん を持 も たなかったが、イギリス人 じん 行政 ぎょうせい 官 かん と現地 げんち 人 じん との橋渡 はしわた し役 やく になった[ 40] 。
1949年 ねん 11月、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご のイタリア植民 しょくみん 地 ち の処遇 しょぐう がきめられ、イタリア領 りょう ソマリアは「国連 こくれん 総会 そうかい による信託 しんたく 統治 とうち 協定 きょうてい の採択 さいたく から10年 ねん 以内 いない に独立 どくりつ 国家 こっか として承認 しょうにん されなければならない」と定 さだ められた。イタリアのソマリア信託 しんたく 統治 とうち は1950年 ねん 4月 がつ 1日 にち に正式 せいしき に開始 かいし され、信託 しんたく 統治 とうち 協定 きょうてい は1951年 ねん 12月7日 にち に公布 こうふ された[ 41] 。
1955年 ねん 、ニューヨークでエチオピアのソマリ人 じん 居住 きょじゅう 区 く ハウドの処遇 しょぐう について訴 うった えるマイケル・マリアーノ (英語 えいご 版 ばん )
1955年 ねん 、ロンドンでハウドの処遇 しょぐう について訴 うった えるイサック氏族 しぞく の族長 ぞくちょう (右 みぎ )と有力 ゆうりょく 氏族 しぞく ハバル・アワルの族長 ぞくちょう (左 ひだり )
今日 きょう のエチオピアソマリ州 しゅう 北部 ほくぶ に当 あ たる地域 ちいき ハウド (英語 えいご 版 ばん ) は、1935年 ねん にイタリア領 りょう となり、さらに1941年 ねん にイギリスの軍政 ぐんせい 下 した となった。この地域 ちいき は将来 しょうらい 的 てき にソマリアが独立 どくりつ した際 さい にソマリアの一部 いちぶ とする案 あん もあったが、実際 じっさい には1954年 ねん の条約 じょうやく でエチオピア領 りょう となった。[ 41] これはソマリ人 じん の同意 どうい を得 え ずに進 すす められたため、ソマリ人 じん からロンドンのイギリス政府 せいふ とニューヨーク の国連 こくれん 本部 ほんぶ に正式 せいしき な陳情 ちんじょう 書 しょ が提出 ていしゅつ された。特 とく にハバル・ジェロ氏族 しぞく のカトリック教徒 きょうと マイケル・マリアーノ (英語 えいご 版 ばん ) の抗議 こうぎ 活動 かつどう が知 し られる[ 40] 。
エチオピアへの領土 りょうど の割譲 かつじょう が、ソマリランド独立 どくりつ 運動 うんどう のきっかけとなった。1956年 ねん イギリス政府 せいふ は、将来 しょうらい 的 てき にイタリア信託 しんたく 統治 とうち 領 りょう ソマリアとの統合 とうごう の要望 ようぼう が出 で た場合 ばあい には反対 はんたい しない、という声明 せいめい を発表 はっぴょう した[ 40] 。
行政 ぎょうせい にソマリ人 じん を登用 とうよう する動 うご きが加速 かそく され、1957年 ねん には政党 せいとう 制 せい の導入 どうにゅう が模索 もさく されたが、結局 けっきょく は氏族 しぞく の代表 だいひょう 者 しゃ からなる24人 にん の立法 りっぽう 評議 ひょうぎ 会 かい となった[ 40] 。
1959年 ねん 1月 がつ 、イギリス政府 せいふ は「ソマリランド評議 ひょうぎ 会 かい が望 のぞ むなら、イタリア信託 しんたく 統治 とうち 領 りょう ソマリアとのより緊密 きんみつ な関係 かんけい を支援 しえん する」と発表 はっぴょう した。2月、評議 ひょうぎ 会 かい ではイギリス政府 せいふ が指名 しめい した17名 めい に加 くわ えて、都市 とし 部 ぶ ではラクダか家 いえ を所有 しょゆう している成年 せいねん 男子 だんし による選挙 せんきょ 、地方 ちほう は氏族 しぞく の会合 かいごう で選 えら ばれた計 けい 12名 めい が増員 ぞういん された。主 おも にイサック氏族 しぞく ハバル・ジェロ支族 しぞく が支持 しじ するNUFが7議席 ぎせき 、主 おも にハバル・ジェロ以外 いがい のイサック氏族 しぞく が支持 しじ するSNLが1議席 ぎせき 、無所属 むしょぞく が4議席 ぎせき を獲得 かくとく した。ただしSNLは評議 ひょうぎ 会 かい の選挙 せんきょ 枠 わく が狭 せま すぎるとして選挙 せんきょ のボイコットを発表 はっぴょう していた。また、都市 とし 部 ぶ の選挙 せんきょ も事実 じじつ 上 じょう は氏族 しぞく からの選出 せんしゅつ だった[ 40] 。
1959年 ねん 11月、評議 ひょうぎ 会議 かいぎ 員 いん 37名 めい 中 ちゅう の33名 めい が選挙 せんきょ で選 えら ばれることになった。また、閣僚 かくりょう の3名 めい はイギリス政府 せいふ の指名 しめい 、4名 めい は選挙 せんきょ された議員 ぎいん から選 えら ばれることになった。選挙 せんきょ の結果 けっか 、主 おも にハバル・ジェロ以外 いがい のイサック氏族 しぞく が支持 しじ するSNLが20議席 ぎせき 、主 おも に非 ひ イサック氏族 しぞく (東部 とうぶ のデュルバハンテ、ワルサンガリ、西部 せいぶ のイッセ、ガタブルシ)が支持 しじ するUSPが12議席 ぎせき 、主 おも にイサック氏族 しぞく ハバル・ジェロ支族 しぞく が支持 しじ するNUFが1議席 ぎせき を獲得 かくとく した。この他 ほか 、非 ひ 氏族 しぞく の政党 せいとう ソマリ青年 せいねん 同盟 どうめい (SYL)からも立候補 りっこうほ があり、NUFと連合 れんごう を組 く んでいた。SYLとNUFの連合 れんごう は総 そう 得票 とくひょう 率 りつ が31%に上 のぼ っていたにもかかわらず、小 しょう 選挙 せんきょ 区 く 制 せい の選挙 せんきょ ではこの連合 れんごう の得票 とくひょう が分散 ぶんさん したため、結果 けっか は前記 ぜんき の通 とお りNUFの1議席 ぎせき にとどまった。閣僚 かくりょう の議員 ぎいん 枠 わく もSNLとUSPから任命 にんめい された[ 40] 。
1959年 ねん 12月、国連 こくれん 総会 そうかい でイタリア信託 しんたく 統治 とうち 領 りょう ソマリアの独立 どくりつ の時期 じき が発表 はっぴょう されたため、イギリス領 りょう ソマリランドでも南部 なんぶ との統合 とうごう を速 すみ やかに実施 じっし したいという世論 せろん が高 たか まった。イギリス領 りょう ソマリランド評議 ひょうぎ 会 かい は1960年 ねん 4月 がつ 、「我々 われわれ の独立 どくりつ とソマリアの統一 とういつ の日 ひ は1960年 ねん 7月 がつ 1日 にち とする」という決議 けつぎ を採択 さいたく した。イギリス政府 せいふ もソマリランドとの良好 りょうこう な関係 かんけい を維持 いじ するため、これに賛成 さんせい した。ただし全 すべ てのソマリランド人 じん が統合 とうごう を望 のぞ んだわけではなく、連邦 れんぽう 制 せい のような緩 ゆる やかな連合 れんごう を望 のぞ む意見 いけん もあった[ 40] 。イギリス領 りょう ソマリランドとイタリア信託 しんたく 統治 とうち 領 りょう ソマリアの会合 かいごう が、イタリア信託 しんたく 統治 とうち 領 りょう ソマリアの首都 しゅと モガディシュ で行 おこな われ、連邦 れんぽう 制 せい ではなく統一 とういつ 国家 こっか 、つまり内閣 ないかく も議会 ぎかい も統合 とうごう することがきめられた。イギリス政府 せいふ は5月、BBC の放送 ほうそう をベルベラ から続 つづ けることを条件 じょうけん に、ソマリア統合 とうごう 案 あん を了承 りょうしょう した[ 40] 。ただし、12月に行 おこな われるはずの独立 どくりつ が7月 がつ に早 はや まったことによって、法 ほう 制度 せいど などの準備 じゅんび の時間 じかん が十分 じゅうぶん 取 と れなかった[ 40] 。
1960年 ねん 6月 がつ 26日 にち の独立 どくりつ 式典 しきてん でソマリア国旗 こっき に敬礼 けいれい するソマリランド国 こく の首相 しゅしょう イブラヒム・エガル
イギリス領 りょう ソマリランドは1960 年 ねん 6 月 がつ 26 日 にち に独立 どくりつ し、7月 がつ 1日 にち にイタリア信託 しんたく 統治 とうち 領 りょう ソマリア と統合 とうごう するまでの5日間 にちかん 、国際 こくさい 的 てき に承認 しょうにん された独立 どくりつ 国 こく として存在 そんざい した。ソマリランド国 こく はアメリカを含 ふく む35か国 こく から承認 しょうにん された[ 42] 。
たった5日間 にちかん の独立 どくりつ ではあるが、今日 きょう のソマリランド政府 せいふ はソマリランド独立 どくりつ の法的 ほうてき 根拠 こんきょ として、このソマリランド国 こく の存在 そんざい をしばしば述 の べている[ 43] :168 。例 たと えば2022年 ねん 、ソマリランド大統領 だいとうりょう のムセ・ビヒ・アブディ はヘリテージ財団 ざいだん での講演 こうえん の中 なか で、1960年 ねん 7月 がつ 1日 にち のソマリア成立 せいりつ はあくまでもソマリランド国 こく と旧 きゅう イタリア信託 しんたく 統治 とうち 領 りょう ソマリアとの連合 れんごう であり、現在 げんざい は旧 きゅう イタリア領 りょう 側 がわ の不誠実 ふせいじつ のため連合 れんごう から脱退 だったい した状態 じょうたい である(つまり昔 むかし に戻 もど っただけだ)と述 の べている[ 44] 。
これ以外 いがい にも、「アフリカの国境 こっきょう は旧 きゅう 植民 しょくみん 地 ち の国境 こっきょう を元 もと にしなければならない」という理論 りろん でソマリランド独立 どくりつ の正当 せいとう 性 せい が主張 しゅちょう される場合 ばあい もある[ 45] 。
なお、ソマリランドは英語 えいご 、ソマリアはイタリア語 ご で共 とも に「ソマリ人 じん の地 ち 」を意味 いみ する。つまり、イタリア領 りょう はイギリスではItalian Somalilandと呼 よ ばれ、逆 ぎゃく にイギリス領 りょう はイタリアでSomalia britannicaと呼 よ ばれた。
イタリア信託 しんたく 統治 とうち 領 りょう との合併 がっぺい [ 編集 へんしゅう ]
1960年 ねん 7月 がつ 1日 にち 、ソマリランド国 こく とイタリア信託 しんたく 統治 とうち 領 りょう ソマリア は計画 けいかく 通 どお りに統合 とうごう してソマリア共和 きょうわ 国 こく となった[ 46] [ 47] 。初代 しょだい 大統領 だいとうりょう はソマリ青年 せいねん 同盟 どうめい (SYL)所属 しょぞく でハウィエ 氏族 しぞく のアデン・アブドラ・ウスマン 、初代 しょだい 首相 しゅしょう はマジェルテーン 氏族 しぞく の アブディラシッド・アリー・シェルマルケ となった。旧 きゅう イギリス領 りょう ソマリランド出身 しゅっしん 者 しゃ としては、イサック 氏族 しぞく のイブラヒム・エガル が務 つと めた国防 こくぼう 大臣 だいじん が最高 さいこう 位 い だった[ 40] :113 。
1961年 ねん 7月 がつ 、ソマリア憲法 けんぽう の信任 しんにん が問 と われた国民 こくみん 投票 とうひょう が行 おこな われた。しかし、新 しん 憲法 けんぽう はイタリア政府 せいふ の案 あん を元 もと にしていたため、北部 ほくぶ 出身 しゅっしん 者 しゃ は不満 ふまん を持 も ち、旧 きゅう イギリス領 りょう ソマリランド評議 ひょうぎ 会 かい の与党 よとう だったSNLはボイコットを呼 よ びかけた。その結果 けっか 、北部 ほくぶ では推定 すいてい 有権者 ゆうけんしゃ 数 すう 60万 まん 人 にん の内 うち の10万 まん 人 にん しか投票 とうひょう せず、投票 とうひょう 者 しゃ の過半数 かはんすう は反対 はんたい 票 ひょう を投 とう じた。しかしソマリア全体 ぜんたい では150万 まん 票 ひょう が投 とう じられ、反対 はんたい はわずか10万 まん 票 ひょう という圧倒的 あっとうてき 多数 たすう で採択 さいたく された[ 40] :113 。
1961年 ねん 12月、旧 きゅう イギリス領 りょう ソマリランドでクーデターが発生 はっせい し、北部 ほくぶ の主要 しゅよう 都市 とし を一時 いちじ 的 てき に制圧 せいあつ したが、間 ま もなく鎮圧 ちんあつ された[ 40] :113 。
1964年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ でソマリ青年 せいねん 同盟 どうめい (SYL)が勝利 しょうり した。野党 やとう 当選 とうせん 者 しゃ から21人 にん が与党 よとう SYLに所属 しょぞく を変 か えた[ 40] :115 。大統領 だいとうりょう には継続 けいぞく してハウィエ氏族 しぞく のアデン・アブドラ・ウスマンが指名 しめい された。首相 しゅしょう はアブディリザク・ハジ・フセイン に変 か わったが、前任 ぜんにん 者 しゃ と同 おな じマジェルテーン氏族 しぞく だった。アブディリザク首相 しゅしょう は国政 こくせい 改革 かいかく に意欲 いよく 的 てき で、閣僚 かくりょう に旧 きゅう イギリス領 りょう ソマリランド出身 しゅっしん 者 しゃ を増 ふ やした[ 40] :115 。
一方 いっぽう 、旧 きゅう イギリス領 りょう ソマリランド出身 しゅっしん で前 ぜん 内閣 ないかく に入 はい っていたイサック 氏族 しぞく のイブラヒム・エガル は、閣僚 かくりょう に入 はい らなかったが、前 ぜん 首相 しゅしょう のアブディラシッド・アリー・シェルマルケと懇意 こんい になって1966年 ねん 10月 がつ に旧 きゅう イギリス領 りょう ソマリランド与党 よとう だったSNLを脱退 だったい してSYL党員 とういん となった[ 40] :115 。
1967年 ねん 6月 がつ 、アブディラシッドが大統領 だいとうりょう となり、旧 きゅう イギリス領 りょう ソマリランド出身 しゅっしん でイサック 氏族 しぞく のイブラヒム・エガル が首相 しゅしょう に指名 しめい された。SYLは1969年 ねん の選挙 せんきょ でも勝利 しょうり を納 おさ め、大統領 だいとうりょう と首相 しゅしょう が継続 けいぞく して就任 しゅうにん した。
独裁 どくさい 大統領 だいとうりょう によるイサック氏族 しぞく 弾圧 だんあつ と、再 さい 独立 どくりつ の動 うご き[ 編集 へんしゅう ]
1969年 ねん 10月 がつ 、アブディラシッド大統領 だいとうりょう が護衛 ごえい に殺 ころ され、直後 ちょくご に陸軍 りくぐん 将校 しょうこう だったモハメド・シアド・バーレ がクーデター を起 お こして政権 せいけん を掌握 しょうあく した[ 49] 。首相 しゅしょう のイブラヒム・エガルらは検挙 けんきょ され、幽閉 ゆうへい された[ 40] :118 。
バーレ大統領 だいとうりょう は1974年 ねん にエチオピア で政変 せいへん が起 お きると、エチオピアのソマリ人 じん 居住 きょじゅう 地域 ちいき の反 はん 政府 せいふ 組織 そしき をひそかに支援 しえん し、非公式 ひこうしき に軍隊 ぐんたい も派遣 はけん した。1977年 ねん になるとソマリア国軍 こくぐん の大 だい 部隊 ぶたい をエチオピアに派遣 はけん した(オガデン戦争 せんそう )。エチオピア、ソマリア両国 りょうこく 共 ども に軍備 ぐんび が不足 ふそく していたが、当初 とうしょ はソマリア側 がわ の勝利 しょうり が続 つづ いた。しかしエチオピアはソビエト連邦 れんぽう の支援 しえん を得 え ることに成功 せいこう し、1978年 ねん にハラール で勝利 しょうり して以後 いご はソマリアに連勝 れんしょう した[ 40] :122 。
バーレ大統領 だいとうりょう はオガデン戦争 せんそう の一環 いっかん として、エチオピアに住 す むソマリ人 じん のオガデン氏族 しぞく を軍事 ぐんじ 支援 しえん した。しかしオガデン氏族 しぞく は旧 きゅう イギリス領 りょう ソマリランドに住 す むイサック氏族 しぞく にも戦闘 せんとう をしかけたため、イサック氏族 しぞく はバーレ大統領 だいとうりょう の政策 せいさく を批判 ひはん した。これに対 たい してすでに独裁 どくさい 者 しゃ となっていたバーレ大統領 だいとうりょう は、イサック氏族 しぞく を露骨 ろこつ に弾圧 だんあつ した[ 40] :122 。
1981年 ねん 4月 がつ 、イギリスとサウジアラビアに住 す むイサック氏族 しぞく がロンドンで会合 かいごう を開 ひら き、反 はん 政府 せいふ 組織 そしき ソマリ国民 こくみん 運動 うんどう (SNM)を設立 せつりつ した。SNMはやがてソマリランド独立 どくりつ の母体 ぼたい となる。ただし、当時 とうじ のSNMは「ソマリランドの独立 どくりつ 」を標榜 ひょうぼう しておらず、あくまでも反 はん 独裁 どくさい 大統領 だいとうりょう の組織 そしき だった[ 40] :124 。
一方 いっぽう 、旧 きゅう イギリス領 りょう ソマリランドの首都 しゅと ハルゲイサでは、医療 いりょう 設備 せつび 改善 かいぜん を目的 もくてき に帰国 きこく したディアスポラ グループが政府 せいふ の腐敗 ふはい と人権 じんけん 侵害 しんがい に批判 ひはん 的 てき だったため、1981年 ねん からメンバーが次々 つぎつぎ に検挙 けんきょ されて拷問 ごうもん などが行 おこな われた。それに反対 はんたい した学生 がくせい などによる暴動 ぼうどう が発生 はっせい し、それに兵士 へいし が発砲 はっぽう して5人 にん が死亡 しぼう 、200人 にん 以上 いじょう が逮捕 たいほ され、14人 にん が20年 ねん 以上 いじょう の刑 けい を受 う けた。ただし国際 こくさい NGOなどの抗議 こうぎ を受 う けて8年 ねん 後 ご に釈放 しゃくほう された[ 40] :125 。
1980年代 ねんだい のSNMの戦闘 せんとう 員 いん
ソマリア政府 せいふ はこの頃 ころ からタベレ(tabeleh)と呼 よ ばれる責任 せきにん 制度 せいど を導入 どうにゅう し、ソマリア北部 ほくぶ の約 やく 20世帯 せたい ごとに政府 せいふ 寄 よ りの人物 じんぶつ をリーダーに指名 しめい して、メンバーの反 はん 政府 せいふ 活動 かつどう や旅行 りょこう などを政府 せいふ に報告 ほうこく させた[ 40] :125 。また、イサック氏族 しぞく の近隣 きんりん に住 す むデュルバハンテ 氏族 しぞく やガダブルシ氏族 しぞく に武装 ぶそう をさせてイサック氏族 しぞく との対立 たいりつ をけしかけた。さらに閣僚 かくりょう だったイサック氏族 しぞく のウマル・アルテ・ガリブ などを虚偽 きょぎ の理由 りゆう で逮捕 たいほ した。1982年 ねん 、旧 きゅう イギリス領 りょう ソマリランドの反 はん 政府 せいふ 組織 そしき SNMはエチオピアに拠点 きょてん を移 うつ した。また、イエメンはSNM寄 よ りの民兵 みんぺい を軍事 ぐんじ 支援 しえん して、SNMは1983年 ねん に政治 せいじ 犯 はん を収容 しゅうよう していたマンデラ刑務所 けいむしょ (英語 えいご 版 ばん ) の囚人 しゅうじん を解放 かいほう させた。それに対 たい してバーレ大統領 だいとうりょう はマンデラから半径 はんけい 50キロメートルの範囲 はんい を無差別 むさべつ 爆撃 ばくげき した。政府 せいふ による家畜 かちく の没収 ぼっしゅう や交易 こうえき への妨害 ぼうがい なども行 おこな われた[ 40] :127 。
1988年 ねん のソマリアによるブラオ爆 ばく 撃 げき を防 ふせ いだ記念 きねん として、爆 ばく 撃 げき に使 つか われたMiG-17 を模 も して作 つく られた記念 きねん 碑 ひ
1988年 ねん になると、エチオピア、ソマリア両国 りょうこく で、政権 せいけん を揺 ゆ るがすほどの反 はん 政府 せいふ 運動 うんどう が行 おこな われた。そこでエチオピアとソマリア両国 りょうこく 政府 せいふ は、互 たが いの反 はん 政府 せいふ 組織 そしき 支援 しえん を止 と める協定 きょうてい を結 むす んだ。そのためSNMはエチオピアの拠点 きょてん を追 お われ解散 かいさん の危機 きき に追 お い込 こ まれた。1988年 ねん 5月 がつ 、起死回生 きしかいせい を狙 ねら ったSNMは旧 きゅう イギリス領 りょう ソマリランドの領域 りょういき に侵入 しんにゅう してブラオとハルゲイサを短期間 たんきかん 制圧 せいあつ した[ 40] :127 [ 50] [ 51] 。ソマリア政府 せいふ はSNM支配 しはい 地域 ちいき を無差別 むさべつ 爆撃 ばくげき し、犠牲 ぎせい 者 しゃ の数 かず は5千 せん ~6万 まん 人 にん (諸説 しょせつ あり)に上 のぼ った。これは現在 げんざい のソマリランドではイサック虐殺 ぎゃくさつ (英語 えいご 版 ばん ) と呼 よ ばれている。40万 まん 人 にん の住民 じゅうみん がエチオピアのハートシェイク (英語 えいご 版 ばん ) に[ 52] [ 53] 、さらに40万 まん 人 にん が国内 こくない に避難 ひなん した[ 54] [ 55] 。このため、イサック氏族 しぞく の多 おお くが反 はん 政府 せいふ 的 てき になり、SNMの支持 しじ 率 りつ が上 あ がった[ 40] :128 。
1990年 ねん 、東部 とうぶ に住 す む非 ひ イサックであるデュルバハンテ 氏族 しぞく の最 さい 有力 ゆうりょく の長老 ちょうろう である ガラド・アブディカニ・ガラド・ジャマ が、デュルバハンテ氏族 しぞく もSNMに参加 さんか させて欲 ほ しいと申 もう し入 い れたが、それまでデュルバハンテ氏族 しぞく はバーレ大統領 だいとうりょう に近 ちか い氏族 しぞく としてむしろイサック氏族 しぞく の攻撃 こうげき に積極 せっきょく 的 てき だったこともあり、SNM側 がわ に断 ことわ られた[ 40] :131 。ただし停戦 ていせん には合意 ごうい した[ 40] :132 。一方 いっぽう 、SNMは西部 せいぶ に住 す むガダブルシ氏族 しぞく とも、1991年 ねん 2月 がつ に会合 かいごう して停戦 ていせん で合意 ごうい した[ 40] :132 。
ソマリランド独立 どくりつ 宣言 せんげん の文書 ぶんしょ と各氏 かくし 族 ぞく 代表 だいひょう 者 しゃ の署名 しょめい 。1991年 ねん 5月 がつ 5日 にち 付 づけ 。
1991年 ねん 4月 がつ 、ボラマ で、SNM (イサック 氏族 しぞく )、デュルバハンテ 氏族 しぞく 、ガダブルシ氏族 しぞく 、ワルサンゲリ氏族 しぞく 、イッセ 氏族 しぞく が会合 かいごう し、ソマリアとは無関係 むかんけい な独立 どくりつ 行政 ぎょうせい を確立 かくりつ する決議 けつぎ をした[ 40] :133 。各 かく 氏族 しぞく 長老 ちょうろう の署名 しょめい は5月5日 にち 、宣言 せんげん は5月18日 にち であり、これがソマリランド独立 どくりつ 宣言 せんげん とされる。この会議 かいぎ で、今後 こんご 2年間 ねんかん はSNMがソマリランドを暫定 ざんてい 統治 とうち することになり、SNM議長 ぎちょう のアブドゥラフマン・アフメド・アリ・トゥール が大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した[ 40] :134 。
ただしデュルバハンテ氏族 しぞく は、ソマリランド独立 どくりつ 問題 もんだい で議論 ぎろん が2分 ふん しており、ボラマの会合 かいごう には独立 どくりつ 賛成 さんせい 派 は のみが参加 さんか していた[ 40] :134 。また、ソマリランドの再 さい 独立 どくりつ 時点 じてん で、SNMが圧倒的 あっとうてき に軍事 ぐんじ 的 てき 優位 ゆうい を持 も っていたため、非 ひ イサック氏族 しぞく はそれに従 したが わざるを得 え なかった、とする分析 ぶんせき もある[ 56] 。
なお、現在 げんざい のソマリランド政府 せいふ は5月18日 にち を「独立記念日 どくりつきねんび 」ではなく「主権 しゅけん 回復 かいふく の日 ひ 」としており、独立記念日 どくりつきねんび はかつてソマリランド国 こく が独立 どくりつ した(1960年 ねん )6月 がつ 26日 にち とされている[ 57] 。
この時 とき のSNMには大 おお きく2つの派閥 はばつ があり、1つは大統領 だいとうりょう 派 は で主 おも に事務 じむ 部門 ぶもん 、もう一 ひと つは「赤 あか い旗 はた 」(ソマリ語 ご でCalan Cas)と呼 よ ばれた軍事 ぐんじ 部門 ぶもん だった。なお「赤 あか い旗 はた 」は彼 かれ らの反対 はんたい 派 は からの呼称 こしょう であったとする資料 しりょう もある[ 58] 。「赤 あか い旗 はた 」のリーダー格 かく は大佐 たいさ のイブラヒム・アブディラヒ・デガウェインだった。デガウェインは「赤 あか い旗 はた 」の管理 かんり 下 か にあったベルベラ港 みなと の利権 りけん を維持 いじ しようとした[ 56] 。
1992年 ねん 2月 がつ 、ソマリランド政府 せいふ は民兵 みんぺい の武装 ぶそう 解除 かいじょ を進 すす めた。これに反発 はんぱつ する民兵 みんぺい がブラオ で反乱 はんらん し、1週間 しゅうかん で300人 にん が死亡 しぼう する戦闘 せんとう となった[ 40] :134 。その数 すう 週間 しゅうかん 後 ご 、政府 せいふ はソマリランド内 ない の重要 じゅうよう な貿易 ぼうえき 港 みなと である ベルベラ 港 みなと を国営 こくえい 化 か しようとした。それに対 たい してベルベラを拠点 きょてん とするイサック氏族 しぞく の支族 しぞく ハバル・アワル (英語 えいご 版 ばん ) の支族 しぞく イッサ・ムサ (英語 えいご 版 ばん ) は反対 はんたい した。ソマリランド大統領 だいとうりょう は政府 せいふ 軍 ぐん として同 おな じハバル・アワルの支族 しぞく サード・ムサ (英語 えいご 版 ばん ) を中心 ちゅうしん とする部隊 ぶたい を派遣 はけん しようとしたが、サード・ムサは拒絶 きょぜつ した。そこでトゥール大統領 だいとうりょう は自分 じぶん の出身 しゅっしん であるハバル・ヨーニス (英語 えいご 版 ばん ) 氏族 しぞく を中心 ちゅうしん とする部隊 ぶたい を派遣 はけん して、戦闘 せんとう が断続 だんぞく 的 てき に半年 はんとし 間 あいだ 継続 けいぞく した。最終 さいしゅう 的 てき には反 はん 大統領 だいとうりょう のイッサ・ムサ氏族 しぞく が勝利 しょうり し、大統領 だいとうりょう 側 がわ は重要 じゅうよう な収入 しゅうにゅう 源 げん を失 うしな った[ 40] :135 。
これを受 う けて首都 しゅと でソマリランド与党 よとう と野党 やとう の話 はな し合 あ いが行 おこな われ、その場 ば ではベルベラ港 みなと を政府 せいふ の管理 かんり 下 か に置 お くことで合意 ごうい が得 え られたが、イッサ・ムサ氏族 しぞく の長老 ちょうろう は自分 じぶん たちの氏族 しぞく だけが不利 ふり な扱 あつか いを受 う けているとして拒絶 きょぜつ した。1992年 ねん 9月 がつ 、ベルベラで非 ひ イサックのガダブルシ氏族 しぞく が調停 ちょうてい 役 やく となって、ハルゲイサ 空港 くうこう 、ゼイラ 港 みなと などの施設 しせつ も公平 こうへい に政府 せいふ 管轄 かんかつ するとの条件 じょうけん で和平 わへい が成立 せいりつ した[ 40] :136 。この時 とき は捕虜 ほりょ や保障 ほしょう の問題 もんだい などが解決 かいけつ していなかったが、1992年 ねん 11月にシェイク (英語 えいご 版 ばん ) の和平 わへい 会議 かいぎ で解決 かいけつ した。ただし一連 いちれん の騒動 そうどう で政府 せいふ の権威 けんい は大 おお きく失墜 しっつい した[ 40] :136 。
国民 こくみん 和解 わかい の大 だい 会議 かいぎ と2代目 だいめ エガル大統領 だいとうりょう 、氏族 しぞく 統治 とうち から政府 せいふ 統治 とうち へ[ 編集 へんしゅう ]
2代目 だいめ 大統領 だいとうりょう に選出 せんしゅつ されたエガル(花輪 はなわ をした男 おとこ )と前 ぜん 大統領 だいとうりょう トゥール(中央 ちゅうおう 右 みぎ )
1992年 ねん 末 まつ 、権力 けんりょく の掌握 しょうあく を諦 あきら めたトゥール大統領 だいとうりょう は、ソマリランドの長老 ちょうろう 会議 かいぎ (グルティ)に調停 ちょうてい を依頼 いらい した。その結果 けっか 、長老 ちょうろう 会議 かいぎ が主体 しゅたい でボラマ の町 まち で、後 のち に国民 こくみん 和解 わかい のための大 だい 会議 かいぎ と呼 よ ばれる会議 かいぎ が開催 かいさい された。会議 かいぎ には代表 だいひょう 団 だん 150人 にん 、関係 かんけい 者 しゃ 700~1000人 にん が集 あつ まった[ 40] :138 。結果 けっか 、氏族 しぞく の長老 ちょうろう で構成 こうせい された長老 ちょうろう 院 いん (通称 つうしょう は引 ひ き続 つづ きグルティ)が設立 せつりつ されることとなった。また、選挙 せんきょ で議員 ぎいん を選 えら ぶ衆議院 しゅうぎいん も設 もう けられることになった(実際 じっさい の衆議院 しゅうぎいん の設立 せつりつ は2005年 ねん )。グルティの委員 いいん は氏族 しぞく 単位 たんい で割 わ り振 ふ られることとなり、イサック氏族 しぞく が90議席 ぎせき 、ダロッド氏族 しぞく が30議席 ぎせき 、ガダブルシとイッセ氏族 しぞく が合 あ わせて30議席 ぎせき を得 え ることとなった。なお、このグルティは投票 とうひょう よりも話 はな し合 あ いを重視 じゅうし したものであり、会議 かいぎ は4カ月 かげつ も続 つづ き、有力 ゆうりょく 参加 さんか 者 しゃ の一人 ひとり は「投票 とうひょう は争 あらそ いを生 う む。話 はな し合 あ いを選 えら ぼう」と呼 よ び掛 か けたという。時 とき には「議長 ぎちょう が体調 たいちょう を崩 くず した」として投票 とうひょう を取 と りやめ、話 はな し合 あ いの時間 じかん を延長 えんちょう したこともあった[ 40] :139 。
選 えら ばれたグルティは1993年 ねん 5月 がつ にイブラヒム・エガル を任期 にんき 2年 ねん で大統領 だいとうりょう に指名 しめい した。エガルが選 えら ばれたのは、エガルがSNMなどの組織 そしき と無関係 むかんけい で中立 ちゅうりつ 的 てき な立場 たちば だったからだと言 い われている[ 59] :446 。一方 いっぽう で、SNM軍事 ぐんじ 部門 ぶもん の「赤 あか い旗 はた 」が強 つよ く推 お したからとする分析 ぶんせき もある[ 56] 。
この後 のち しばらく、ソマリランドの長老 ちょうろう 院 いん (グルティ)は首都 しゅと ハルゲイサではなく、ボラマで行 おこな われた。まだ衆議院 しゅうぎいん が設立 せつりつ されていなかったため、行政 ぎょうせい の中心 ちゅうしん はハルゲイサ、立法 りっぽう の中心 ちゅうしん はボラマという体制 たいせい が続 つづ いた。また、グルティはだんだんと政府 せいふ 寄 よ りの組織 そしき と見 み られるようになった[ 59] :448
「国民 こくみん 和解 わかい のための大 だい 会議 かいぎ 」で直 ただ ちにソマリランドが平和 へいわ になったわけではなかった。前 ぜん 大統領 だいとうりょう が属 ぞく する有力 ゆうりょく 氏族 しぞく の一 ひと つハバル・ヨーニス (英語 えいご 版 ばん ) は、大統領 だいとうりょう 職 しょく を得 え られなかったため、他 た の役職 やくしょく も辞退 じたい した。イサック氏族 しぞく にはいくつか有力 ゆうりょく な支族 しぞく があったが、歴史 れきし 的 てき に栄 さか えた氏族 しぞく と、現時点 げんじてん で栄 さか えている氏族 しぞく が一致 いっち しておらず、さらに当時 とうじ は氏族 しぞく の所属 しょぞく 人口 じんこう を示 しめ す統計 とうけい もなかったため、最大 さいだい 派閥 はばつ を自任 じにん していたハバル・ヨーニスは自分 じぶん たちの権利 けんり が不当 ふとう に削 けず られているとして不満 ふまん を持 も った。ハバル・ヨーニス氏族 しぞく に属 ぞく する前 ぜん 大統領 だいとうりょう は、ソマリアの首都 しゅと モガディシュを訪 おとず れて統一 とういつ ソマリアへの参加 さんか を表明 ひょうめい しすらした[ 40] :140 。
1993年 ねん 、エガル大統領 だいとうりょう はベルベラ港湾 こうわん 管理 かんり 局 きょく を設立 せつりつ し、大統領 だいとうりょう 府 ふ の直轄 ちょっかつ とした。これにより、SNM軍事 ぐんじ 部門 ぶもん などに資金 しきん が流 なが れることを防 ふせ いだ[ 56] 。一方 いっぽう 、エガル大統領 だいとうりょう は自分 じぶん が属 ぞく するハバル・アワル氏族 しぞく が支配 しはい するベルベラ港 こう の関税 かんぜい を引 ひ き下 さ げ、その見返 みかえ りとしてハバル・アワルの実業 じつぎょう 家 か から多額 たがく の融資 ゆうし を受 う けた。エガル大統領 だいとうりょう はこの資金 しきん を使 つか ってSNMの武装 ぶそう 解除 かいじょ を進 すす めると共 とも に、政府 せいふ の運用 うんよう 資金 しきん とした[ 59] :448 。さらに1994年 ねん 後半 こうはん 、前 ぜん 大統領 だいとうりょう が発注 はっちゅう していたソマリランド・シリング 紙幣 しへい が入荷 にゅうか し、それを現 げん 大統領 だいとうりょう のエガルが政府 せいふ に有利 ゆうり な条件 じょうけん で流通 りゅうつう させたため、国民 こくみん は政権 せいけん への不信 ふしん を募 つの らせた。特 とく にハバル・ヨーニス氏族 しぞく から反発 はんぱつ された[ 59] :448 。ハバル・ヨーニス氏族 しぞく の多数 たすう の族長 ぞくちょう は、ソマリアとの再 さい 連合 れんごう を望 のぞ むと表明 ひょうめい した[ 56] 。
ソマリランドの首都 しゅと ハルゲイサの空港 くうこう を地盤 じばん としていたハバル・ヨーニス氏族 しぞく は、乗客 じょうきゃく から勝手 かって に利用 りよう 料 りょう を徴収 ちょうしゅう した。1994年 ねん 10月 がつ には兵力 へいりょく を使 つか ってハルゲイサ空港 くうこう を占拠 せんきょ した。政府 せいふ はハバル・ヨーニス氏族 しぞく の地盤 じばん であるブラオの交易 こうえき 所 しょ を押 お さえようとしたため、こちらでも戦闘 せんとう となった。これらの争 あらそ いで、ブラオからは8万 まん 5千 せん 人 にん 、ハルゲイサからは20万 まん 人 にん が避難 ひなん したともいわれる(これほどではなかったという説 せつ もある)。さらに、アウダル地域 ちいき のゼイラ港 こう とジブチとの交易 こうえき 所 しょ についても地元 じもと 氏族 しぞく の民兵 みんぺい と政府 せいふ との間 あいだ で戦闘 せんとう が発生 はっせい した。これらの地域 ちいき では民兵 みんぺい 同士 どうし の争 あらそ いも頻発 ひんぱつ した。しかしエガル大統領 だいとうりょう は氏族 しぞく の力 ちから を借 か りずに政府 せいふ による問題 もんだい 解決 かいけつ にこだわったため、講和 こうわ は難航 なんこう した[ 40] :143 。
1994年 ねん 11月、ソマリランド政府 せいふ がハルゲイサ空港 くうこう を武力 ぶりょく で占領 せんりょう したため、戦闘 せんとう が発生 はっせい した。この戦闘 せんとう には非難 ひなん が集 あつ まり、まずスウェーデン のイェーテボリ で、1995年 ねん 4月 がつ にはイギリスのロンドンで講和 こうわ 会議 かいぎ が開催 かいさい された。会議 かいぎ の資金 しきん はソマリランドディアスポラ が提供 ていきょう した[ 40] :144 。
1995年 ねん 、エガル大統領 だいとうりょう は任期 にんき 満了 まんりょう を迎 むか えたが、戦闘 せんとう が続 つづ く国内 こくない は選挙 せんきょ を行 おこな える状態 じょうたい ではなかったため、議会 ぎかい は18カ月 かげつ の任期 にんき 延長 えんちょう を決 き めた。野党 やとう はこれを批判 ひはん した[ 40] :146 。もっとも、国内 こくない での戦闘 せんとう の頻発 ひんぱつ は必 かなら ずしもエガル大統領 だいとうりょう に指導 しどう 力 りょく が無 な いことを意味 いみ するものではなく、むしろ氏族 しぞく との小規模 しょうきぼ な戦闘 せんとう を通 つう じて政府 せいふ 権力 けんりょく を強 つよ めていったとする研究 けんきゅう 者 しゃ もいる[ 60] :77 。
1995年 ねん 10月 がつ 、エチオピア のアディスアベバ でも講和 こうわ 会議 かいぎ が行 おこな われ、「ソマリランド和平 わへい 委員 いいん 会 かい 」が設立 せつりつ されて、政府 せいふ と反 はん 政府 せいふ の橋渡 はしわた しを務 つと めた[ 40] :145 。ソマリランド内 ない の氏族 しぞく の対立 たいりつ はなかなか無 な くならなかったが、1996年 ねん 9月 がつ にベール (英語 えいご 版 ばん ) でソマリランドの代表 だいひょう 氏族 しぞく であるハバル・ユーニスとハバル・ジェロの紛争 ふんそう 終結 しゅうけつ に関 かん する合意 ごうい が成立 せいりつ した[ 40] :151 。
一方 いっぽう で、エガル大統領 だいとうりょう も 長老 ちょうろう 院 いん に働 はたら きかけて、1996年 ねん 10月 がつ に首都 しゅと ハルゲイサで和平 わへい 会議 かいぎ を開催 かいさい した[ 59] :449 。この会議 かいぎ にハバル・ジェロ氏族 しぞく を呼 よ ぶことは失敗 しっぱい したが、ハバル・ユーニス氏族 しぞく を参加 さんか させることに成功 せいこう した[ 40] :151 。この会議 かいぎ は成功 せいこう し、以後 いご は氏族 しぞく のコントロールは長老 ちょうろう 会議 かいぎ よりも政府 せいふ が請 う け負 お うこととなった[ 59] :449 。また、これまで国際 こくさい 機関 きかん のいくつかがボラマにあったが、エガル大統領 だいとうりょう は首都 しゅと ハルゲイサに移転 いてん させた。これにより、ボラマの経済 けいざい 力 りょく は減退 げんたい した[ 59] :450 。
1997年 ねん 、ソマリランドで暫定 ざんてい 憲法 けんぽう が制定 せいてい され、長老 ちょうろう 院 いん の任期 にんき を6年 ねん にすることなどが定 さだ められた。(ただし長老 ちょうろう 院 いん 改選 かいせん は期限 きげん が来 く るたびに延長 えんちょう され、2024年 ねん 時点 じてん において1回 かい も行 おこな われていない。)
1998年 ねん 7月 がつ 、ソマリランドの東 ひがし 隣 となり でプントランド の設立 せつりつ が宣言 せんげん された。プントランドはソマリランドが領有 りょうゆう を宣言 せんげん しているワルサンガリ氏族 しぞく やデュルバハンテ氏族 しぞく の居住 きょじゅう 地域 ちいき も領域 りょういき に含 ふく まれると宣言 せんげん したため、ソマリランドとは潜在 せんざい 的 てき な紛争 ふんそう 状態 じょうたい となった。
1999年 ねん 、ソマリランド政府 せいふ は東部 とうぶ のサナーグ地域 ちいき とスール地域 ちいき に行政 ぎょうせい と警察 けいさつ の拠点 きょてん を作 つく ろうとして、東 ひがし 隣 とな りのプントランド と紛争 ふんそう の危機 きき となったが、この時 とき はエガル大統領 だいとうりょう 、プントランド大統領 だいとうりょう 共 ども に争 あらそ いの発生 はっせい を望 のぞ まず、話 はな し合 あ いで決着 けっちゃく させてこれらの地域 ちいき の帰属 きぞく については曖昧 あいまい なまま残 のこ された[ 43] :167 。
1999年 ねん 11月、エガル大統領 だいとうりょう がボラマを訪問 ほうもん した際 さい 、元 もと ソマリランド大統領 だいとうりょう 候補 こうほ だった人物 じんぶつ が地元 じもと 住民 じゅうみん の集団 しゅうだん を率 ひき いてソマリランド独立 どくりつ 反対 はんたい を表明 ひょうめい した。これはここ数 すう 年 ねん でソマリランド独立 どくりつ 反対 はんたい が公式 こうしき に表明 ひょうめい された事件 じけん だった[ 43] :167 。
2000年 ねん 1月 がつ 、ソマリランドのベルベラ 港 みなと がエチオピアと海外 かいがい との交易 こうえき に使 つか われることになり、ベルベラからエチオピアに続 つづ く道 みち の整備 せいび が始 はじ まった[ 61] 。2000年 ねん 頃 ごろ からエチオピアに飢饉 ききん が発生 はっせい し、10万 まん トンの食糧 しょくりょう がソマリランドのベルベラ港 こう 経由 けいゆ でエチオピアに送 おく られた。これによりエチオピアによるソマリランド承認 しょうにん が期待 きたい されたが、実際 じっさい には実現 じつげん しなかった。これは、エチオピア政府 せいふ がソマリランド独立 どくりつ がソマリアの不安定 ふあんてい さを助長 じょちょう すると懸念 けねん したからとする分析 ぶんせき もある[ 43] :170 。
2000年 ねん 以降 いこう 、ソマリランド政府 せいふ は地方 ちほう 政府 せいふ が直接 ちょくせつ 税金 ぜいきん を取 と ることに制限 せいげん をかけた。これにより地方 ちほう 政府 せいふ は中央 ちゅうおう 政府 せいふ への依存 いぞん を高 たか めた[ 59] :450 。
1999年 ねん 3月 がつ から、ソマリアの和平 わへい を目指 めざ した会議 かいぎ が、ジブチ の大統領 だいとうりょう の斡旋 あっせん を元 もと に政府 せいふ 間 あいだ 開発 かいはつ 機構 きこう (IGAD)の主催 しゅさい でジブチで行 おこな われていた。2000年 ねん 4月 がつ 、この一環 いっかん でジブチの代表 だいひょう 団 だん がソマリランドを訪問 ほうもん したが、ソマリランド政府 せいふ は入国 にゅうこく を拒否 きょひ 。その報復 ほうふく として、ジブチ政府 せいふ は在 ざい ジブチのソマリランド代表 だいひょう を国外 こくがい 追放 ついほう 処分 しょぶん にした[ 62] 。2000年 ねん 8月 がつ 、ジブチで再度 さいど ソマリア和平 わへい 会議 かいぎ が開催 かいさい され、アブディカシム・サラ・ハッサン を暫定 ざんてい 大統領 だいとうりょう とした「ソマリア暫定 ざんてい 国民 こくみん 政府 せいふ 」が設立 せつりつ されたが、ソマリランドは参加 さんか しなかった。アブディカシムは旧 きゅう イギリス領 りょう ソマリランド出身 しゅっしん でデュルバハンテ 氏族 しぞく の アリ・カリフ・ガライド を首相 しゅしょう に、イサック氏族 しぞく のイスマイル・マフムド・フレ (英語 えいご 版 ばん ) を外相 がいしょう に任命 にんめい した[ 43] :168 。この時 とき はソマリランド以外 いがい でも、ソマリアの首都 しゅと モガディシュを拠点 きょてん に持 も つ主要 しゅよう な軍閥 ぐんばつ のいくつかが暫定 ざんてい 国民 こくみん 政府 せいふ には参加 さんか しなかった。
2001年 ねん 、イギリス政府 せいふ はソマリランド憲法 けんぽう の国民 こくみん 投票 とうひょう に関 かん して、EUがこれを歓迎 かんげい すべきだとする声明 せいめい を出 だ すべきだと提案 ていあん した。しかし、特 とく にイタリアが強 つよ く反対 はんたい し、実現 じつげん しなかった[ 43] :171 。
2001年 ねん 5月 がつ 、ソマリランド政府 せいふ は、エチオピアがソマリランドのパスポートを受 う け入 い れ、定期 ていき 的 てき な航空 こうくう 便 びん も運行 うんこう していると発表 はっぴょう した[ 61] 。
2001年 ねん 5月 がつ 31日 にち 、ソマリランドで、ソマリランド独立 どくりつ を明示 めいじ したソマリランド憲法 けんぽう 採択 さいたく の国民 こくみん 投票 とうひょう が行 おこな われた。ソマリランド政府 せいふ は6月 がつ 5日 にち に97%の信任 しんにん で可決 かけつ されたと発表 はっぴょう した。エガル大統領 だいとうりょう は「ソマリランド国民 こくみん の85%はソマリランドからの分離 ぶんり 独立 どくりつ を支持 しじ した」と主張 しゅちょう した。ただしソマリランド独立 どくりつ に反対 はんたい する人々 ひとびと はこの国民 こくみん 投票 とうひょう をボイコットしており、実際 じっさい の独立 どくりつ 賛成 さんせい 派 は は70%程度 ていど だったとする分析 ぶんせき もある[ 43] :165 。また、形式 けいしき 的 てき には政府 せいふ は氏族 しぞく とは関係 かんけい ない個人 こじん の投票 とうひょう で運営 うんえい されることとなったが、実質 じっしつ 的 てき には投票 とうひょう は依然 いぜん として氏族 しぞく の意向 いこう を強 つよ く反映 はんえい していた[ 63] :10 。一方 いっぽう で、憲法 けんぽう 採択 さいたく (と2002年 ねん の普通 ふつう 選挙 せんきょ の実施 じっし )により、ソマリランドの政治 せいじ が長老 ちょうろう 政治 せいじ から民主 みんしゅ 政治 せいじ に移行 いこう したとする分析 ぶんせき もある[ 56] 。
2001年 ねん 7月 がつ 、ソマリランド衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 36名 めい がエガル大統領 だいとうりょう の汚職 おしょく を告発 こくはつ し、大統領 だいとうりょう の解任 かいにん を要求 ようきゅう したが、成功 せいこう しなかった[ 43] :166 。
2002年 ねん 、初 はじ めての直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ となる地方 ちほう 議会 ぎかい 選挙 せんきょ が行 おこな われた[ 45] 。
2002年 ねん にエドナ・アダン・イスマイル が設立 せつりつ した産科 さんか 病院 びょういん
エガル大統領 だいとうりょう は在任 ざいにん 中 ちゅう の2002年 ねん 5月 がつ に死去 しきょ し、副 ふく 大統領 だいとうりょう のダヒル・リヤレ・カヒン が大統領 だいとうりょう 代行 だいこう となった。カヒンは2003年 ねん の大統領 だいとうりょう 選 せん に挑 いど んで当選 とうせん した。これは、ソマリランドで初 はじ めての直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ による大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ となった[ 45] 。この大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ は外国 がいこく からも自由 じゆう で公正 こうせい な選挙 せんきょ だったとして評価 ひょうか されている[ 59] :452 。就任 しゅうにん 当初 とうしょ はカヒンがソマリランドの主体 しゅたい 氏族 しぞく イサックの出身 しゅっしん ではないことから、不安定 ふあんてい 化 か の要因 よういん になるとの懸念 けねん もあった[ 43] :175 。しかし後年 こうねん ではイサック氏族 しぞく 以外 いがい の者 もの でもソマリランドの大統領 だいとうりょう になれることを証明 しょうめい したとしてむしろプラスに評価 ひょうか されている。ただし、カヒンはソマリア独裁 どくさい 大統領 だいとうりょう だったバーレの元 もと で国家 こっか 安全 あんぜん 保障 ほしょう 局 きょく の高官 こうかん を務 つと めており、元 もと 同僚 どうりょう を顧問 こもん や部下 ぶか として登用 とうよう したため、非難 ひなん が集 あつ まった。また、大統領 だいとうりょう 夫妻 ふさい を批判 ひはん する記事 きじ を掲載 けいさい した新聞 しんぶん 記者 きしゃ を「政府 せいふ に対 たい する虚偽 きょぎ 報道 ほうどう 」を理由 りゆう に逮捕 たいほ するなど、強硬 きょうこう な政策 せいさく を取 と った[ 59] :453 。
2002年 ねん の時点 じてん で、ソマリランドの国家 こっか 予算 よさん の70%は軍 ぐん と警察 けいさつ の人件 じんけん 費 ひ に当 あ てられていると言 い われている。ただしこれはソマリランド独立 どくりつ の際 さい の民兵 みんぺい の再 さい 雇用 こよう という一 いち 面 めん もあり、これを減 へ らすと深刻 しんこく な治安 ちあん 悪化 あっか の原因 げんいん になっていたとする分析 ぶんせき もある[ 43] :162 。
2003年 ねん 12月、デュルバハンテ氏族 しぞく の支族 しぞく 同士 どうし が戦闘 せんとう 状態 じょうたい となり、プントランド政府 せいふ は仲介 ちゅうかい を口実 こうじつ にソマリランド南東 なんとう 部 ぶ にあるデュルバハンテ氏族 しぞく の都市 とし ラス・アノド を軍事 ぐんじ 占領 せんりょう した。
2005年 ねん に下院 かいん 議員 ぎいん 選挙 せんきょ が行 おこな われた。下院 かいん 議員 ぎいん 選挙 せんきょ としては初 はじ めての直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ となった[ 45] 。主要 しゅよう 氏族 しぞく であるイサック氏族 しぞく の議員 ぎいん の割合 わりあい が増加 ぞうか し、相対 そうたい 的 てき に東部 とうぶ のデュルバハンテ氏族 しぞく やワルサンガリ氏族 しぞく の割合 わりあい が減少 げんしょう した。この選挙 せんきょ は一般 いっぱん には自由 じゆう で公平 こうへい であると評価 ひょうか されているが、一部 いちぶ で買収 ばいしゅう や不正 ふせい 行為 こうい もあったと言 い われている[ 63] :10 。
2007年 ねん 9月 がつ 、プントランド政府 せいふ 内 ない の権力 けんりょく 争 あらそ いがあり、デュルバハンテ氏族 しぞく の閣僚 かくりょう を支持 しじ する軍閥 ぐんばつ がソマリランド軍 ぐん を名乗 なの ってラス・アノド を軍事 ぐんじ 占領 せんりょう し、翌 よく 10月 がつ にソマリランド本 ほん 軍 ぐん が進駐 しんちゅう した。これにより、2023年 ねん までラス・アノドはソマリランドの支配 しはい 下 か となった。
2008年 ねん 、カヒン大統領 だいとうりょう は大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ を延期 えんき した[ 63] :11 。これはカヒン大統領 だいとうりょう が権力 けんりょく に固執 こしつ した結果 けっか だとする説 せつ もある[ 45] 。
2008年 ねん 12月、ソマリア沖 おき の海賊 かいぞく に対 たい して、ソマリランドは沿岸 えんがん 警備 けいび 隊 たい を使 つか った対策 たいさく が進 すす んでいるのに対 たい し、東 ひがし のプントランド はむしろ海賊 かいぞく の拠点 きょてん になっていると報 ほう じられている[ 64] 。
2009年 ねん 10月 がつ 、ソマリランド南東 なんとう 部 ぶ に住 す むデュルバハンテ氏族 しぞく が軍閥 ぐんばつ 「SSC」を結成 けっせい してソマリランドに反乱 はんらん した。しかし氏族 しぞく 内部 ないぶ での対立 たいりつ などもあり、2011年 ねん にSSCは崩壊 ほうかい した。
2014年 ねん 、首都 しゅと ハルゲイサの両替 りょうがえ 商 しょう 。インフレのため大量 たいりょう の紙幣 しへい が準備 じゅんび されている。
2010年 ねん 6月 がつ 、直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ による2回 かい 目 め の大統領 だいとうりょう 選 せん が行 おこな われ、アフメッド・シランヨ が当選 とうせん した[ 45] 。この時 とき の有権者 ゆうけんしゃ 登録 とうろく は107万 まん 人 にん 分 ぶん 行 おこな われたが、より信頼 しんらい 性 せい が高 たか いとされる2016年 ねん の登録 とうろく では87万 まん 人 にん にとどまっており、かなりの数 かず の不正 ふせい 登録 とうろく が行 おこな われた可能 かのう 性 せい が指摘 してき されている[ 45] 。
2012年 ねん 1月 がつ 、デュルバハンテ氏族 しぞく は新 あら たな軍閥 ぐんばつ チャツモ国 こく を設立 せつりつ した。当初 とうしょ は2012年 ねん の設立 せつりつ が確実 かくじつ となったソマリア連邦 れんぽう への加盟 かめい を目指 めざ していたが、チャツモ国 こく の首都 しゅと とされたラス・アノドの占領 せんりょう もできず、軍事 ぐんじ 部門 ぶもん のみが各地 かくち を放浪 ほうろう した上 うえ で2017年 ねん 10月 がつ にソマリランドへの再 さい 統合 とうごう が宣言 せんげん された。
2012年 ねん 3月 がつ 、ソマリランド政府 せいふ は平和 へいわ 的 てき なデモ隊 たい を解散 かいさん させるためにテロ対策 たいさく 警察 けいさつ 部隊 ぶたい を使用 しよう した[ 63] :10 。
2012年 ねん 時点 じてん の世界銀行 せかいぎんこう の推定 すいてい では、ソマリランドの一人 ひとり 当 あ たりのGDPは348ドルであり、世界 せかい で4番目 ばんめ に貧 まず しい国 くに であった。(2021年 ねん には775ドルまで上 あ がっている[ 65] 。)また、労働 ろうどう の約 やく 70パーセントが牧畜 ぼくちく とその流通 りゅうつう に関係 かんけい していた。海外 かいがい に暮 く らすソマリランドディアスポラ100万 まん 人 にん から年間 ねんかん 5億 おく ドルが送金 そうきん されていた[ 42] 。
2015年 ねん 、シランヨ大統領 だいとうりょう は当初 とうしょ の任期 にんき を迎 むか えたが、有権者 ゆうけんしゃ 登録 とうろく に時間 じかん がかかっていることを理由 りゆう に9か月 げつ 延長 えんちょう されることとなり、最終 さいしゅう 的 てき には2年間 ねんかん 延長 えんちょう された[ 45] 。
2016年 ねん 5月 がつ 、アラブ首長 しゅちょう 国 こく 連邦 れんぽう の港湾 こうわん 運営 うんえい 会社 かいしゃ DPワールド が、ソマリランドのベルベラ 港 みなと に巨大 きょだい な投資 とうし をすると表明 ひょうめい した。これはソマリランドの利益 りえき にとどまらず、海 うみ を持 も たない隣国 りんごく エチオピア がジブチ 以外 いがい の経路 けいろ で輸出 ゆしゅつ ができるようになるという意味 いみ もある。ソマリア政府 せいふ は、ソマリア政府 せいふ の許可 きょか なく話 はなし を進 すす めているとして反対 はんたい を表明 ひょうめい した[ 66] 。
2017年 ねん 9月 がつ 、英 えい BBCは、ソマリランドではインフレが進 すす み、現金 げんきん 決済 けっさい は少額 しょうがく を含 ふく めて電子 でんし 決済 けっさい が一般 いっぱん 的 てき になったと報 ほう じた。ある商店 しょうてん では電子 でんし 決済 けっさい が2年 ねん 前 まえ の5%から40%以上 いじょう に急増 きゅうぞう した[ 67] 。
第 だい 5代 だい 大統領 だいとうりょう ムセ・ビヒ・アブディ[ 編集 へんしゅう ]
2017年 ねん 12月、ムセ・ビヒ・アブディ が第 だい 5代 だい ソマリランド大統領 だいとうりょう に選出 せんしゅつ された[ 45] 。この選挙 せんきょ は不正 ふせい を防止 ぼうし するためサハラ以南 いなん では初 はつ となる虹彩 こうさい 認識 にんしき が採用 さいよう され、かなり高 たか い割合 わりあい の有権者 ゆうけんしゃ に対 たい して実施 じっし された[ 45] 。
2018年 ねん 1月 がつ 、ソマリランド軍 ぐん はラス・アノド の東 ひがし でプントランド軍 ぐん の基地 きち があるトゥカラク を戦闘 せんとう の上 うえ 、占領 せんりょう した[ 68] 。
2018年 ねん 1月 がつ 、ソマリランド議会 ぎかい は女性 じょせい の人権 じんけん に関 かか わる法律 ほうりつ を可決 かけつ した。この法律 ほうりつ で、女性 じょせい に性 せい 被害 ひがい を与 あた えた男性 だんせい に厳罰 げんばつ を科 か すことなどが定 さだ められた[ 69] 。
2020年 ねん 、中華民国 ちゅうかみんこく (台湾 たいわん )総統 そうとう の蔡英文 えいぶん と会談 かいだん するソマリランド外務 がいむ 大臣 だいじん
2020年 ねん 9月 がつ 、ソマリランド政府 せいふ は中華民国 ちゅうかみんこく (台湾 たいわん )に駐在 ちゅうざい 員 いん 事務所 じむしょ を開設 かいせつ して国交 こっこう を結 むす んだ。台湾 たいわん は国連 こくれん 加盟 かめい 国 こく ではないものの、国連 こくれん 加盟 かめい 国 こく の数 すう か国 こく から国家 こっか 承認 しょうにん されている。これにより、ソマリランドは他国 たこく から初 はじ めて正式 せいしき に承認 しょうにん されたことになった[ 70] 。ただし2024年 ねん 時点 じてん で台湾 たいわん 以外 いがい にソマリランドを承認 しょうにん している国 くに は無 な い。
2021年 ねん 、衆議院 しゅうぎいん 選挙 せんきょ に投票 とうひょう する女性 じょせい
2021年 ねん 5月 がつ 、ソマリランドで2回 かい 目 め となる衆議院 しゅうぎいん 選挙 せんきょ が実施 じっし された。
2021年 ねん 10月 がつ 、ソマリランド政府 せいふ は、エリガボ に住 す んでいた2400人 にん など、ソマリランド国籍 こくせき を持 も たない7000人 にん 以上 いじょう の住民 じゅうみん を国外 こくがい 追放 ついほう 処分 しょぶん とした[ 71] 。
2022年 ねん 8月 がつ 、ソマリランド軍 ぐん はスール地域 ちいき でプントランド軍 ぐん 最大 さいだい の基地 きち があるボアメ を占領 せんりょう 。プントランド軍 ぐん は反撃 はんげき せずに撤退 てったい した。これにより、スール地域 ちいき のほとんどの町 まち はソマリランドの支配 しはい 下 か となった[ 72] 。
2023年 ねん 2月 がつ 、ソマリランド南東 なんとう 部 ぶ のスール地域 ちいき の都市 とし ラス・アノド でデュルバハンテ氏族 しぞく の大 だい 規模 きぼ な反乱 はんらん が発生 はっせい 。ソマリランド国内外 こくないがい に28万 まん 人 にん が避難 ひなん した[ 73] 。反乱 はんらん 勢力 せいりょく はSSCチャツモ国 こく を自称 じしょう しており、2023年 ねん 10月 がつ にソマリア連邦 れんぽう 政府 せいふ はSSCチャツモ国 こく を承認 しょうにん したと報 ほう じられている[ 74] 。
2024年 ねん 1月 がつ 、ソマリランドとエチオピアの間 あいだ で覚書 おぼえがき が取 と り交 か わされた。この内容 ないよう は非公開 ひこうかい だが、両国 りょうこく 首脳 しゅのう から、ソマリランド海岸 かいがん のエチオピア海軍 かいぐん への貸与 たいよ 、エチオピアによるソマリランドの国家 こっか 承認 しょうにん などが含 ふく まれている可能 かのう 性 せい が示唆 しさ されている。米国 べいこく 、トルコ、エジプトなどは改 あらた めて、ここがソマリア連邦 れんぽう 政府 せいふ の主権 しゅけん 地域 ちいき だと表明 ひょうめい した[ 75] 。
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