デーブ・ヒルトン (野球やきゅう)

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デーブ・ヒルトン
Dave Hilton
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
出身しゅっしん テキサスしゅうユバルデぐんユバルデ英語えいごばん
生年月日せいねんがっぴ (1950-09-15) 1950ねん9月15にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2017-09-17) 2017ねん9月17にち(67さいぼつ
身長しんちょう
体重たいじゅう
6' 1" =やく185.4 cm
190 lb =やく86.2 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 二塁手にるいしゅ遊撃手ゆうげきしゅ三塁手さんるいしゅ
プロ 1971ねん 1がつMLBドラフト1じゅん(全体ぜんたい1)でサンディエゴ・パドレスから指名しめい
はつ出場しゅつじょう MLB / 1972ねん9がつ10日とおか
NPB / 1978ねん4がつ1にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう MLB / 1975ねん4がつ27にち
NPB / 1980ねん5がつ7にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
監督かんとく・コーチれき

ジョン・デビッド・ヒルトンJohn David Hilton, 1950ねん9月15にち - 2017ねん9月17にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくテキサスしゅうユバルデぐんユバルデ英語えいごばん出身しゅっしんプロ野球やきゅう選手せんしゅ内野ないやしゅ)。みぎとうみぎ

経歴けいれき[編集へんしゅう]

1971ねん1がつMLBドラフト1じゅん全体ぜんたい1)でサンディエゴ・パドレスにで指名しめいされ契約けいやく

1972ねん9がつ10日とおかたいアトランタ・ブレーブスたたかえサンディエゴ・スタジアム)で、7ばん三塁手さんるいしゅとして先発せんぱつ出場しゅつじょうメジャーデビューをたし、5かいうらロン・リード英語えいごばんからセンターまえにメジャーはつ安打あんだはなった。

1976ねんオフに金銭きんせんトレードで、ジョン・スコットらとともしん球団きゅうだんトロント・ブルージェイズ移籍いせきした。そのクリーブランド・インディアンス移籍いせき[1]したが、メジャー昇格しょうかくたせなかった。

1978ねん春季しゅんきキャンプヤクルトスワローズのテストをけて合格ごうかくし、入団にゅうだんおもに1ばんち、開幕かいまくから首位しゅい打者だしゃあらそうほどたか打率だりつのこし、ヤクルトの球団きゅうだん創設そうせつはつ優勝ゆうしょう、そして日本一にっぽんいち貢献こうけん初回しょかい先頭せんとう打者だしゃ本塁打ほんるいだシーズン8ほんは2007ねん高橋たかはしゆかりしんが9ほん記録きろくするまで史上しじょう最多さいた記録きろくだった(みぎ打者だしゃとしては1986ねん石毛いしげ宏典ひろのり・1999ねん緒方おがたたかしなら最多さいたタイ記録たいきろく)。

背中せなかかがめた極端きょくたんなクラウチングスタイルの打撃だげきフォームが特徴とくちょう選手せんしゅだった[2]つね全力ぜんりょく疾走しっそうするなど気迫きはくあふれるプレーをせた。守備しゅびめんではスローイングになんがあり、当初とうしょのポジションは遊撃手ゆうげきしゅだったがシーズン途中とちゅう二塁手にるいしゅコンバートされている。

1978ねん阪急はんきゅうブレーブスとの日本にっぽんシリーズだい4せん、4-5とリードされた9かいひょう2アウト一塁いちるい場面ばめんで、今井いまい雄太郎ゆうたろうから逆転ぎゃくてん2ランをはなった。これは、シリーズのながれをえた本塁打ほんるいだ絶賛ぜっさんされ、同年どうねん日本にっぽんシリーズのハイライトのひとつにげられる。

1979ねん成績せいせき低迷ていめいしてオフに自由じゆう契約けいやくとなるが、阪神はんしんタイガース監督かんとくドン・ブレイザー獲得かくとく希望きぼう入団にゅうだんする。しかし、阪神はんしんには1979ねんのドラフト会議かいぎ大阪おおさか出身しゅっしん早稲田大学わせだだいがく岡田おかだ彰布あきのぶ指名しめいけて入団にゅうだんしており、ファンは岡田おかだ起用きようつよのぞんでいた。

1980ねんのシーズン開幕かいまくから、ブレイザーはヒルトンを起用きようするが、ブレイザーは岡田おかだ起用きようのぞむファンやマスコミからそう攻撃こうげきけ、ヒルトンもそのあおりをけて打席だせきつたびに岡田おかだコールやヤジをびせられることとなる。結局けっきょく、ヒルトンは打撃だげき不振ふしんでシーズン途中とちゅうの5がつ10日とおか解雇かいこされ、ブレイザーも5月15にち解任かいにんされた[3][4][5][6]

帰国きこくは1980ねんシーズン途中とちゅうから1982ねんまでピッツバーグ・パイレーツ傘下さんか当時とうじ)のAAAきゅうポートランド・ビーバーズげん:ソルトレイク・ビーズ)でプレーした。

引退いんたいミルウォーキー・ブルワーズのコーチ(1987ねん - 1988ねん )、ボルチモア・オリオールズ傘下さんかのA+きゅうフレデリック・キーズ英語えいごばん1997ねん )の監督かんとく[よう出典しゅってん]台湾たいわん球界きゅうかい指導しどうしゃとなる。

1999ねんこうへい雷公らいこう打撃だげきコーチをつとめ、シーズン終盤しゅうばんには休養きゅうようした監督かんとく山根やまね俊英としひで代行だいこうとして12試合しあい指揮しきった。2000ねん2002ねんよしみみなみ勇士ゆうし監督かんとくつとめた。

2017ねん9月17にち自宅じたくのあるアリゾナしゅうくなったことが地元じもと新聞しんぶんしゃによって報道ほうどうされた[7][8]。67さいぼつ

エピソード[編集へんしゅう]

作家さっか村上むらかみ春樹はるきは、1978ねん4がつ1にち神宮球場じんぐうきゅうじょうプロ野球やきゅう開幕かいまくせん、ヤクルトたい広島ひろしません観戦かんせんちゅう突然とつぜん小説しょうせつくことをおもったという。それはヒルトンが先頭せんとう打者だしゃとして二塁打にるいだはなった瞬間しゅんかんのことであった[9][10]

ヒルトンが宿泊しゅくはくしていることから遠征えんせいさきが「ヒルトンホテル」とよばれたことがあった。やがて話題わだいおおきくなり、実際じっさいヒルトンホテルが参加さんか。1978ねん5がつ14にち横浜よこはま大洋たいようホエールズたたかえ明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅうじょう)にて「ヒルトンデー」として10くみ限定げんていでカップルにヒルトンホテルのディナーけんがプレゼントされ、ヒルトン本人ほんにんにもけんわたされた[11]

当時とうじジャズ喫茶きっさ経営けいえいしていた村上むらかみは、できあがった小説しょうせつふううた』を「いきおいのようなもので」文芸ぶんげい新人しんじんしょう応募おうぼ翌年よくねん1979ねんどう作品さくひん受賞じゅしょうしたことにより、作家さっかとしてデビューすることとなった[12]。また村上むらかみは、1978ねん日本にっぽんシリーズ直前ちょくぜん渋谷しぶや広尾ひろおのスーパーマーケットのちかくでヒルトンにったときのおもを、「デイヴ・ヒルトンのシーズン」というエッセイのなかかたっている[13]

ヤクルト時代じだい同僚どうりょう八重樫やえがし幸雄ゆきおは、ヒルトンについて「ボロボロのグラブを大切たいせつにしながら、つねにガッツで頑張がんばった。ハートのつよさとハングリー精神せいしんあふれた選手せんしゅだった」とかえっている[14]

詳細しょうさい情報じょうほう[編集へんしゅう]

年度ねんどべつ打撃だげき成績せいせき[編集へんしゅう]

とし

たま

だん
ためし

ごう


せき


かず
とく

てん
やす


るい
さん
るい
ほん
るい
るい



てん
ぬすめ

るい
ぬすめ
るい




よん

たま
けい

とお


たま
さん


ころせ


りつ

るい
りつ
なが

りつ
O
P
S
1972 SD 13 51 47 2 10 2 1 0 14 5 1 0 1 0 3 0 0 6 0 .213 .260 .298 .558
1973 70 258 234 21 46 9 0 5 70 16 2 1 4 0 19 6 1 35 4 .197 .260 .299 .559
1974 74 234 217 17 52 8 2 1 67 12 3 5 3 1 13 1 0 28 5 .240 .281 .309 .590
1975 4 8 8 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 .000 .000 .000 .000
1978 ヤクルト 128 568 501 76 159 37 1 19 255 76 6 6 6 6 48 2 7 75 9 .317 .381 .509 .890
1979 105 432 399 59 103 14 3 19 180 48 1 1 5 2 25 0 1 65 7 .258 .302 .451 .753
1980 阪神はんしん 18 75 71 8 14 1 1 0 17 4 0 0 0 0 3 0 1 12 1 .197 .240 .239 .479
MLB:4ねん 161 551 506 40 108 19 3 6 151 33 6 6 8 1 35 7 1 69 10 .213 .265 .298 .564
NPB:3ねん 251 1075 971 143 276 52 5 38 452 128 7 7 11 8 76 2 9 152 17 .284 .347 .465 .812
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう

表彰ひょうしょう[編集へんしゅう]

NPB

記録きろく[編集へんしゅう]

NPBはつ記録きろく
NPBその記録きろく

背番号せばんごう[編集へんしゅう]

  • 18 (1972ねん - 1973ねん
  • 8 (1974ねん
  • 10 (1975ねん、1987ねん - 1988ねん
  • 3 (1978ねん - 1979ねん
  • 42 (1980ねん
  • 30 (1999ねん - 2000ねん、2002ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Dave Hilton Minor, Japanese & Mexican Leagues Statistics & History” (英語えいご). Baseball Reference.com. 2017ねん9がつ22にち閲覧えつらん
  2. ^ デーブ・ヒルトン内野ないやしゅ ▽出身しゅっしん米国べいこくテキサスしゅう ▽在籍ざいせき…:「すけWBC」特集とくしゅう時事じじドットコム
  3. ^ [1]
  4. ^ 天国てんごく地獄じごくおとこ、ヒルトン
  5. ^ 阪神はんしん外国がいこくじん選手せんしゅ列伝れつでん 1980ねん、ヒルトンわずか18試合しあい退団たいだん ブレイザー監督かんとく解任かいにん
  6. ^ 【1980ねん新人しんじん岡田おかだ彰布あきのぶ起用きようをめぐりだい混乱こんらん阪神はんしん・ブレイザー監督かんとく途中とちゅう退団たいだん/プロ野球やきゅう回顧かいころく - 野球やきゅう週刊しゅうかんベースボールONLINE
  7. ^ “Well-respected youth baseball coach Dave Hilton dies”. azcentral (The Arizona Republic). (2017ねん9がつ18にち). http://www.azcentral.com/story/sports/high-school/2017/09/18/well-respected-youth-baseball-coach-dave-hilton-dies/679369001/ 2017ねん9がつ19にち閲覧えつらん 
  8. ^ “デーブ・ヒルトン死去しきょ 67さい ヤクルトはつ日本一にっぽんいち貢献こうけん. Sponichi ANNEX (スポすぽツニッポン新聞社つにっぽんしんぶんしゃ). (2017ねん9がつ19にち). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/09/19/kiji/20170919s00001173156000c.html 2017ねん9がつ19にち閲覧えつらん 
  9. ^ 村上むらかみ春樹はるきやがてかなしき外国がいこく講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ、219ぺーじ
  10. ^ “よみうり寸評すんぴょう. 読売新聞よみうりしんぶん (読売新聞社よみうりしんぶんしゃ): p. 2. (2017ねん9がつ21にち). オリジナルの2017ねん9がつ21にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://archive.fo/y9276 2017ねん9がつ21にち閲覧えつらん 
  11. ^ 週刊しゅうかんベースボール別冊べっさつ よみがえる1970年代ねんだいのプロ野球やきゅう [Part.5] 1978ねんへん ヤクルト29ねんはつ優勝ゆうしょう スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ.2022ねん.P48
  12. ^ 村上むらかみ春樹はるきはしることについてかたるときにぼくかたること文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2007ねん10がつ、45-46ぺーじ
  13. ^ 村上むらかみ春樹はるき村上むらかみ春樹はるき 雑文ざつぶんしゅう新潮社しんちょうしゃ、2011ねん1がつ所収しょしゅう
  14. ^ 八重樫やえがし幸雄ゆきおかえる、個性こせいきょうすぎなヤクルトの「すけ外国がいこくじん」たち

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]