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トハラじん

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トカラじんから転送てんそう
紀元前きげんぜん1世紀せいきころのトハラじん(トカロイ)の位置いち

トハラじん(トカラじん古代こだいギリシア: Τόχαροι英語えいご: Tocharians)は、古代こだいギリシア・ローマの史料しりょう[1]グレコ・バクトリア王国おうこくほろぼした遊牧民ゆうぼくみんトカロイΤόχαροι, Tokharoi)としてしるされている民族みんぞく

または、バクトリアがトハラじん土地とちという意味いみトハーリスターン(トハリスタン)とばれるようになった地域ちいきんだ人々ひとびとし、中国ちゅうごく日本にっぽん史書ししょでは吐火ひと表記ひょうきされる。

または、かつてタリム盆地ぼんちはなされていたトカラ話者わしゃ[2]最近さいきん研究けんきゅうではトカロイとトカラ話者わしゃおなじともされる[3]

歴史れきし

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古代こだいローマストラボンはその著書ちょしょ地理ちり[4]において、ギリシアじんからバクトリアネ地方ちほうバクトリア)をうばったスキタイけいしょぞくとして、アシオイ,パシアノイ,トカロイ,サカラウロイ[5]げており、これがトハラじん初出しょしゅつおもわれる。「ギリシアじんからバクトリアネ地方ちほううばった」とはグレコ・バクトリア王国おうこくほろぼしたことをしているが、それがなんねんきたのかは不明ふめいで、ただ紀元前きげんぜん130年代ねんだいのいずれかにきたことはたしかである。トハラじんはそのもバクトリアに居座いすわったとおもわれ、中国ちゅうごく史書ししょがこのを吐火[6],覩貨邏[7]んだり、西方せいほう史料しりょうがトハーリスターン(トハリスタン)とんだりしたのも、そのためだとおもわれる。

紀元前きげんぜん129ねんころ前漢ぜんかんちょうがこのおとずれ、当時とうじだいなつこく様子ようす見聞けんぶんしている。このだいなつこくであるが、このときすでに大月おおつき侵攻しんこうって大月おおつき占領せんりょうとなっており、城郭じょうかくだいなつじんせんおそれていたという[8]。ここで、紀元前きげんぜん130年代ねんだいにトハラじんによって占領せんりょうされたバクトリアはトハリスタン(だいなつこく)となったものの、まもなくあらたに大月おおつき侵攻しんこうけ、トハラじんともども支配しはいされたと推測すいそくされるが、詳細しょうさいからない[9]

一方いっぽうパルティア王国おうこくアルタバノス1せい在位ざいいぜん128ねんごろ - ぜん123ねんころ)は遊牧民ゆうぼくみんであるトカロイぞくなやまされ、ついに戦争せんそう仕掛しかけたが、うでったきずがもとでんだ、ということがポンペイウス・トログスの『ピリッポス[10]しるされている。[11]

これ以後いごのトハーリスターンにおける遊牧民ゆうぼくみんトカロイの事績じせき不明ふめいだが[12]、トハラの(トハリスタン、吐火こく)と名付なづけられたこの地域ちいきクシャーナあさエフタル突厥と、さまざまな支配しはいしゃ支配しはいされながらも、シルクロード交易こうえき中心ちゅうしんとして繁栄はんえいすることとなる。

7世紀せいき以降いこう、トハーリスターンはイスラム王朝おうちょう支配しはいはいってイスラームするとともに、ホラーサーン一部いちぶとなったため、次第しだいにトハーリスターンのかたり使つかわれなくなっていった。

居住きょじゅう

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ストラボンによると、「アシオイ,パシアノイ,トカロイ,サカラウロイの出撃しゅつげきイアクサルテス(ヤクサルテス)かわ対岸たいがんにあたり、サカイソグディアノイりょうぞく地方ちほうめんして、かつてサカイが占有せんゆうしていた地方ちほう」としるしている。

だいなつとトハラじん

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バクトリアにあたるだいなつこくとはべつ漢字かんじ文献ぶんけん(『山海さんかいけい』、『史記しき』、『漢書かんしょ』など)では、ふるくから且末于闐にかけての地域ちいきだいなつばれており、一帯いったいではトカラB方言ほうげん使用しようされていた[13]中国ちゅうごく史書ししょがこのだいなつ[14]んでいたことの仮説かせつとして、タリム盆地ぼんちにいただいなつじん一部いちぶつき西進せいしんよりさきにバクトリアへ侵入しんにゅうしてだいなつこくて、その大月おおつき征服せいふくされたためとするせつ西方せいほう史籍しせき記述きじゅつとも比較的ひかくてき合致がっちする)があり、中国人ちゅうごくじん研究けんきゅうしゃ支持しじしゃおおい。ほかにもがつにもともと服属ふくぞくしていただいなつじん一部いちぶつきしたがって西進せいしんしたためとするせつや、つきおな時期じき匈奴きょうど攻撃こうげきども西進せいしんしたためとするせつなどがある。[3]

吐火じん言語げんご

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ストラボンなどがしるす、トカロイはスキタイけい[15]とされているが、言語げんご系統けいとうについては不明ふめいである[16]。また、クシャーナあさ時代じだい碑文ひぶん[17]により、クシャーナあさ使つかわれていた言語げんごひがしイランぐんぞくするバクトリアであることがわかっているが、最近さいきん研究けんきゅうでウイグルやくの『だい慈恩寺じおんじ三蔵さんぞうほう師伝しでん』に焉耆かめ大月おおつき遺留いりゅう部族ぶぞくしるした箇所かしょつかったため、『西にしてん』で焉耆がつきしるされるてんわせ、クシャーナあさまえ大月おおつきではトカラ使用しようしていたとするせつ有力ゆうりょくされている[3]

トカラ話者わしゃとしてのトカラじん

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タリム盆地ぼんち北辺ほくへん地帯ちたい天山あまやまみなみ西域せいいき北道ほくどう)の国々くにぐに疏勒かめ焉耆こうあきら)ではなされていた言語げんごトカラといい、その話者わしゃをトカラじんぶ。これは20世紀せいき学者がくしゃによって命名めいめいされたため、トカロイと直接ちょくせつ関係かんけいるかどうかは結論けつろんていない。トカラしるしおうけいケントゥムぞくし、しるしおうけいサテムぞくひがしイランぐんすなわち、クシャーナあさ支配しはいそう使用しようしたとされるバクトリア(イランけい)とはべつ系統けいとうであるが、その前代ぜんだいたるだいなつこく大月おおつきこく使用しようされていた可能かのうせいたかいともかんがえられている。また、タリム盆地ぼんちみなみ辺地へんちたい西域せいいき南道みなみどう)には覩貨邏(トカラ)のきゅうばれる場所ばしょ存在そんざいしたので[18]、ある時期じきには北道ほくどう南道みなみどうともにトカラじんばれる住人じゅうにんがいたとおもわれる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ストラボン『ギリシア・ローマ世界せかい地誌ちし』、ユニアヌス・ユスティヌス抄録しょうろく地中海ちちゅうかい世界せかい
  2. ^ 資料しりょうによってはtoxri(かい鶻語)、twxry(突厥)、tusara(梵語ぼんご)、tuxara(パフラヴィー)、thod-kar(チベット)、tochari(ラテン語らてんご)、吐火漢語かんご)と表記ひょうきされる。
  3. ^ a b c じょぶんこらえ『吐火じん起源きげん研究けんきゅう
  4. ^ 日本語にほんごやく『ギリシア・ローマ世界せかい地誌ちし
  5. ^ ポンペイウス・トログスの『地中海ちちゅうかい世界せかい』では、「サラウカェぞくとアシアニぞくがバクトリアとソグディアナを占領せんりょうした」としている。
  6. ^ ずいしょ』、『きた』、『きゅうとうしょ』、『しんとうしょ
  7. ^ だいから西域せいいき
  8. ^ 史記しきだいあて列伝れつでん
  9. ^ これについてふるくから議論ぎろんされており、「だいなつはグレコ・バクトリア王国おうこくす」(現在げんざい支持しじされていない)であるとか、「アシオイ,パシアノイ,トカロイ,サカラウロイのよん種族しゅぞく全体ぜんたい大月おおつきす」とするせつ、「匈奴きょうど敦煌とんこう以西いせい征服せいふくつき共々ともどもトカラじん一部いちぶ西進せいしんしてバクトリアへ侵攻しんこうした」とするせつなどがある。
  10. ^ 地中海ちちゅうかい世界せかい』のこと。
  11. ^ ごうばん 1998,p439
  12. ^ 出土しゅつどぶつから大月おおつきやクシャーナあさ統治とうちでトカラ話者わしゃ支配しはいそう一角いっかくにいたことが推定すいていされている。じょぶんこらえ『吐火じん起源きげん研究けんきゅう
  13. ^ それ以前いぜん文字もじ記録きろく確実かくじつ証明しょうめい可能かのうなのは3世紀せいき以降いこう
  14. ^ 史記しき』、『漢書かんしょ』、『こう漢書かんしょ』、『三国志さんごくし
  15. ^ 遊牧民ゆうぼくみんぞく代名詞だいめいしとしての意味いみなのか、スキタイはなしていたという意味いみなのかは不明ふめい
  16. ^ スキタイけい言語げんご話者わしゃだとすればひがしイランぐんぞくす。一方いっぽうでトカラであったとするせつもある。
  17. ^ スルフ・コタル碑文ひぶんラバータク碑文ひぶん
  18. ^ げんだいから西域せいいき

参考さんこう資料しりょう

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関連かんれん項目こうもく

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