ベルリン・フィルハーモニー 、1957-1963年 ねん
ベルンハルト・ハンス・ヘンリー・シャロウン (ドイツ語 ご : Bernhard Hans Henry Scharoun 、1893年 ねん 9月 がつ 20日 はつか – 1972年 ねん 11月25日 にち )は、ドイツ の建築 けんちく 家 か 。ベルリン・フィルハーモニー(コンサートホール) 、シュミンケ邸 てい (Haus Schminke )などの作品 さくひん で知 し られる。「シャロウン」は「シャーロン」とも表記 ひょうき される[1] 。
「家庭 かてい と仕事場 しごとば 展 てん 」のための寮 りょう 、ブレスラウ 、1929年 ねん
ブレスラウ の家 いえ 、1929年 ねん
シュミンケ邸 てい 、1933年 ねん
ハンス・シャロウンは1893年 ねん 、ブレーメン で生 う まれる。16歳 さい で最初 さいしょ の設計 せっけい を行 おこな い、18歳 さい でブレーマーハーフェン にある、教会 きょうかい の改築 かいちく コンペに参加 さんか 。1912年 ねん 、ブレーマーハーフェンでアビトゥア資格 しかく を取得 しゅとく し、ベルリン工科 こうか 大学 だいがく (当時 とうじ の名称 めいしょう は、Konigliche Technische Hochschule, the Royal Technical University of Berlin)で1914年 ねん まで建築 けんちく 学 がく を学 まな ぶが、卒業 そつぎょう はしていない。
1914年 ねん 、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に志願 しがん 兵 へい として従軍 じゅうぐん 。ベルリン で、よき助言 じょげん 者 しゃ であったパウル・クルーヒェンから、ロシア軍 ぐん との戦場 せんじょう になった東 ひがし プロイセン の復興 ふっこう 計画 けいかく への助力 じょりょく を請 こ われる。終戦 しゅうせん 後 ご の1919年 ねん 、フリーランスの建築 けんちく 家 か として、ブレスラウ にある復興 ふっこう 計画 けいかく の事務所 じむしょ の責任 せきにん 者 しゃ となる。ブレスラウとインステルブルク (現在 げんざい のチェルニャホフスク)で多 おお くの計画 けいかく を実現 じつげん するとともに、ドイツ表現 ひょうげん 主義 しゅぎ 芸術 げいじゅつ 家 か のグループ「ブリュッケ 」をはじめ、数々 かずかず の展覧 てんらん 会 かい を開催 かいさい した。
1925年 ねん 、ブレスラウ工芸 こうげい 専門 せんもん 学校 がっこう (Staatliche Akademie fur Kunst und Kunstgewerbe Breslau)の教授 きょうじゅ となり、閉校 へいこう する1932年 ねん までその職 しょく を務 つと める。1919年 ねん 、ブルーノ・タウト らの表現 ひょうげん 主義 しゅぎ 建築 けんちく 家 か グループの往復 おうふく 書簡 しょかん 、「ガラスの鎖 くさり (Glaserne Kette)」に参加 さんか 。1926年 ねん 、「デル・リンク(Der Ring)」と呼 よ ばれる建築 けんちく 家 か の団体 だんたい に加 くわ わる。1927年 ねん 、シュトゥットガルト に建 た てられた集合 しゅうごう 住宅 じゅうたく 、ヴァイセンホーフ・ジードルンク の設計 せっけい に、(後 のち に近代 きんだい 建築 けんちく の巨匠 きょしょう と呼 よ ばれる)ル・コルビュジェ 、ミース・ファン・デル・ローエ 、グロピウス らとともに参加 さんか 。1920年代 ねんだい の終 お わりには、ベルリンのジーメンスシュタットに建 た てられた広大 こうだい な集合 しゅうごう 住宅 じゅうたく の設計 せっけい を行 おこな っている。有機 ゆうき 的 てき 建築 けんちく を主唱 しゅしょう したことで知 し られるフーコー・ヘーリング (Hugo Häring) の著書 ちょしょ はシャロウンに大 おお きな影響 えいきょう を与 あた え、合理 ごうり 主義 しゅぎ というあらかじめ定式 ていしき 化 か されたスキームから離 はな れて、個々 ここ のケースにおける独自 どくじ の機能 きのう 的 てき 特徴 とくちょう から建築 けんちく 設計 せっけい を発展 はってん させていく方法 ほうほう へと傾斜 けいしゃ していく。
ナチス・ドイツ の時代 じだい になり、多 おお くの友人 ゆうじん ・同僚 どうりょう が「ガラスの鎖 くさり 」や「デル・リンク」を抜 ぬ けて国外 こくがい に脱出 だっしゅつ しても、シャロウンはドイツにとどまった。この時代 じだい 、シャロウンは少数 しょうすう の個人 こじん 住宅 じゅうたく しか手 て がけていないが、ザクセン州 しゅう レーバウに建 た てられたシュミンケ邸 てい はこの時代 じだい (1933年 ねん )のものである。その後 ご の住宅 じゅうたく は、外装 がいそう においては政治 せいじ 的 てき に定 さだ められた仕様 しよう を守 まも らなければならなかったが、内部 ないぶ においてはシャロウン独特 どくとく の空間 くうかん が展開 てんかい された。戦時 せんじ 中 ちゅう は、爆破 ばくは による被害 ひがい の復旧 ふっきゅう 作業 さぎょう に奔走 ほんそう する日々 ひび であったが、その間 あいだ も建築 けんちく 的 てき なアイディアや展望 てんぼう は、ひそかに多数 たすう の水彩 すいさい 画 が として残 のこ し、ナチの時代 じだい が終 お わるのを待 ま ち続 つづ けていたのである。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が終 お わると、連合 れんごう 国 こく から都市 とし 建設 けんせつ 会議 かいぎ のメンバーに選 えら ばれ、建設 けんせつ と住宅 じゅうたく を司 つかさど る地方 ちほう 官庁 かんちょう (Abteilung Bau- und Wohnungswesen des Magistrats)の長官 ちょうかん の職 しょく に指名 しめい される。戦災 せんさい に遭 あ ったベルリン市 し 宮殿 きゅうでん 跡 あと で行 おこな われた展覧 てんらん 会 かい は、「ベルリン都市 とし 計画 けいかく 第一報 だいいっぽう 」(Berlin plant - Erster Bericht) と題 だい され、シャロウンは自身 じしん の都市 とし 再建 さいけん に対 たい する考 かんが えを発表 はっぴょう した。しかし、ベルリンの東西 とうざい 分割 ぶんかつ が明 あき らかになると、シャロウンは、政治 せいじ 的 てき に宙 ちゅう に浮 う いた存在 そんざい となってしまった。
1946年 ねん 、ベルリン工科 こうか 大学 だいがく の建築 けんちく 学科 がっか 教授 きょうじゅ に就任 しゅうにん 。都市 とし 計画 けいかく 学会 がっかい (Lehrstuhl und Institut fur Stadtebau)における教職 きょうしょく も兼任 けんにん した。
戦後 せんご 、シャロウンは戦中 せんちゅう のアイディアを実現 じつげん する機会 きかい に恵 めぐ まれる。シュトゥットガルトの高層 こうそう 集合 しゅうごう 住宅 じゅうたく 、ロミオとジュリエット(1954-59年 ねん )、リューネンのゲシュヴィスター・スコール・ギムナジウム(1956年 ねん - 1962年 ねん )、そして有名 ゆうめい なベルリン・フィルハーモニー などがそれである。
これらの作品 さくひん に共通 きょうつう するのは、緻密 ちみつ で想像 そうぞう 力 りょく 豊 ゆた かな空間 くうかん 構成 こうせい である。学校 がっこう の計画 けいかく においては、子 こ どものスケールにあわせた小 ちい さな空間 くうかん が、まるで町 まち を形成 けいせい しているかのようにつながれており、集合 しゅうごう 住宅 じゅうたく においては、機能 きのう と空間 くうかん がフレキシブルに割 わ り当 あ てられるように工夫 くふう されている。また、ベルリンフィル・コンサートホールは、音楽 おんがく ホールとして最 もっと も優 すぐ れた作品 さくひん であると国際 こくさい 的 てき に認 みと められている。指揮 しき 台 だい を中心 ちゅうしん に、観客 かんきゃく 席 せき が演奏 えんそう 者 しゃ を取 と り囲 かこ むように配置 はいち されるという変則 へんそく 的 てき な形 かたち をとり、天井 てんじょう はテントの幕 まく のような形状 けいじょう で層 そう を成 な し、建物 たてもの の外観 がいかん にもそれがあらわれている。
在 ざい ブラジル ドイツ大使館 たいしかん (1963年 ねん - 1969年 ねん )は、ドイツ国外 こくがい に残 のこ されている唯一 ゆいいつ の作品 さくひん である。
ベルリン州立 しゅうりつ 図書館 としょかん
シャロウンの作品 さくひん の中 なか には、彼 かれ の死後 しご に完成 かんせい したものも少 すく なくない。ドイツ海洋 かいよう 博物館 はくぶつかん (Deutsches Schiffahrtsmuseum)、ヴォルフスブルク の劇場 げきじょう 、ベルリン州立 しゅうりつ 図書館 としょかん (Staatsbibliothek zu Berlin)などがそれである。ベルリンフィルコンサートホールに音楽 おんがく 研究 けんきゅう 施設 しせつ や楽器 がっき 博物館 はくぶつかん 、プロイセン文化 ぶんか 遺跡 いせき 基金 ききん などを増築 ぞうちく する際 さい には、シャロウンの死後 しご 、一人 ひとり で事務所 じむしょ を運営 うんえい したかつてのパートナー、エドガー・ヴィズニーヴスキが監理 かんり を行 おこな った。ベルリンフィルコンサートホールのファサード を、金色 きんいろ に陽極 ようきょく 酸化 さんか 処理 しょり したアルミプレートで被覆 ひふく したのは1980年代 ねんだい のことであるが、竣工 しゅんこう 時 じ はコンクリート打 だ 放 ひ の上 うえ 、黄土 おうど 色 しょく の塗装 とそう 仕上 しあ げであった。シャロウンの原 げん 設計 せっけい では、現在 げんざい とよく似 に た被覆 ひふく を行 おこな うものであったが、当時 とうじ の予算 よさん ではこれが実現 じつげん できなかった。ドイツ再 さい 統一 とういつ 後 ご 、ポツダム広場 ひろば の再建 さいけん が行 おこな われたが、これによってこの地域 ちいき の都市 とし 再 さい 開発 かいはつ に関 かん するシャロウンの設計 せっけい は、最終 さいしゅう 的 てき に完全 かんぜん な状態 じょうたい で実現 じつげん されることになったのである。
受賞 じゅしょう ・受章 じゅしょう 歴 れき [ 編集 へんしゅう ]
1954年 ねん ベルリン工科 こうか 大学 だいがく 名誉 めいよ 博士 はかせ 号 ごう
1954年 ねん フリッツ・シューマッハ賞 しょう (ハンブルク)
1955年 ねん ベルリン芸術 げいじゅつ 賞 しょう
1958年 ねん ハンブルク芸術 げいじゅつ 学会 がっかい 青銅 せいどう 楯 だて
1959年 ねん 連邦 れんぽう 功労 こうろう 大 だい 十 じゅう 字 じ 章 あきら (Grosses Bundesverdienstkreuz)
1962年 ねん ベルリン工科 こうか 大学 だいがく 名誉 めいよ 評議 ひょうぎ 員 いん
1964年 ねん ドイツ建築 けんちく 家 か 協会 きょうかい 大賞 たいしょう
1965年 ねん ローマ大学 だいがく 名誉 めいよ 博士 はかせ 号 ごう
1965年 ねん オーギュスト・ペレ 賞 しょう
1969年 ねん ベルリン名誉 めいよ 市民 しみん
1970年 ねん エラスムス賞 しょう
1955年 ねん から1968年 ねん まで、(西 にし )ベルリン芸術 げいじゅつ 学会 がっかい 会長 かいちょう 、1968年 ねん 以降 いこう 名誉 めいよ 会長 かいちょう 。パウル・ヒンデミット の主要 しゅよう な社交 しゃこう メンバーの一人 ひとり でもあった。
ヴァイセンホーフ・ジードルングの住宅 じゅうたく 、1927年 ねん 、シュトゥットガルト
ジーメンスシュタットの住宅 じゅうたく 、1929年 ねん - 1931年 ねん 、ベルリン
ヴァイセンホーフ・ジードルング の住宅 じゅうたく 「Die Wohnung」 (1927年 ねん シュトゥットガルト )
「家庭 かてい と仕事場 しごとば 展 てん 」のための寮 りょう (1929年 ねん ブレスラウ )
カイゼルダムの集合 しゅうごう 住宅 じゅうたく (1928年 ねん - 1929年 ねん ベルリン 、シャルロッテンブルク)
ホーヘンツォルラーンダムの集合 しゅうごう 住宅 じゅうたく (1929年 ねん - 1930年 ねん ベルリン、ヴィルマースドルフ)
ベルリン ジーメンスシュタットの街 まち 区 く 計画 けいかく および住宅 じゅうたく 設計 せっけい (1929年 ねん - 1931年 ねん )
シュミンケ邸 てい (1933年 ねん ザクセン州 しゅう レーバウ)
バエンシュ邸 てい (1935年 ねん ベルリン、シュパンダウ)
ホフマイヤー邸 てい (1935年 ねん ブレーマーハーフェン )
モール邸 てい (1936年 ねん ベルリン、グルーネヴァルド)
モーマン邸 てい (1939年 ねん ベルリン、リヒテンラーデ)
ロミオとジュリエット(高層 こうそう 集合 しゅうごう 住宅 じゅうたく )(1954年 ねん - 1959年 ねん シュトゥットガルト、ツーフェンハウゼン)
シャルロッテンブルク北部 ほくぶ 宅地 たくち 開発 かいはつ (1955年 ねん - 1960年 ねん ベルリン、シャルロッテンブルク)
女学校 じょがっこう 「ゲシュヴィスター・スコール・シューレ」(現在 げんざい は共学 きょうがく )(1956年 ねん - 1962年 ねん リューネン)
ベルリン・フィルハーモニー コンサートホール (1957年 ねん - 1963年 ねん ベルリン、ティアーガルテン)
ザルーテ(高層 こうそう 集合 しゅうごう 住宅 じゅうたく )(1961年 ねん - 1963年 ねん シュトゥットガルト、ファサネンホフ)
マールの小中学校 しょうちゅうがっこう (1961年 ねん - 1966年 ねん )
ベルリン工科 こうか 大学 だいがく 建築 けんちく 学科 がっか 棟 とう (1962年 ねん - 1970年 ねん )
ラウアー・カープ(住宅 じゅうたく 地域 ちいき )(1965年 ねん ベーブリンゲン )
オープリッド(高層 こうそう 集合 しゅうごう 住宅 じゅうたく )(1971年 ねん ベーブリンゲン)
在 ざい ブラジルドイツ大使館 たいしかん (1964年 ねん - 1971年 ねん ブラジリア )
ヴォルフスブルク の劇場 げきじょう (1965年 ねん - 1973年 ねん )
ドイツ海洋 かいよう 博物館 はくぶつかん (1970年 ねん - 1975年 ねん ブレーマーハーフェン )
ベルリン州立 しゅうりつ 図書館 としょかん (1964年 ねん - 1978年 ねん ベルリン、ティアーガルテン)
コンペ出品 しゅっぴん プレンツラウ宮殿 きゅうでん 広場 ひろば 一等 いっとう (1919年 ねん )
コンペ出品 しゅっぴん ドイツ衛生 えいせい 博物館 はくぶつかん (1920年 ねん ドレスデン )
コンペ出品 しゅっぴん フリードリッヒ通 どお り駅 えき の高層 こうそう 建築 けんちく (1922年 ねん ベルリン)
コンペ出品 しゅっぴん ミュンスター広場 ひろば (1925年 ねん ウルム )
コンペ出品 しゅっぴん ブレーメン市役所 しやくしょ と展示 てんじ 会場 かいじょう (1928年 ねん )
コンペ出品 しゅっぴん リーダーホール 一等 いっとう (1949年 ねん シュトゥットガルト)
コンペ出品 しゅっぴん アメリカ記念 きねん 図書館 としょかん (1951年 ねん ベルリン)
ダルムシュタット の小学校 しょうがっこう (1951年 ねん )
コンペ出品 しゅっぴん ヘルゴラント島 とう 開発 かいはつ 計画 けいかく (1952年 ねん )
コンペ出品 しゅっぴん カッセル の劇場 げきじょう 一等 いっとう (1952年 ねん )
コンペ出品 しゅっぴん マンハイム の国立 こくりつ 劇場 げきじょう 三 さん 等 とう (1953年 ねん )
ブレスラウ工芸 こうげい 専門 せんもん 学校 がっこう における卒業 そつぎょう 講義 こうぎ (1925年 ねん )
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 芸術 げいじゅつ 家 か 人物 じんぶつ その他 た