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ヒゼキヤ

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ヒゼキヤ
חזקיהו
ユダおう
在位ざいい 紀元前きげんぜん716/15ねん - 紀元前きげんぜん687ねん

出生しゅっしょう 紀元前きげんぜん740ねんころ
死去しきょ 紀元前きげんぜん687ねん
子女しじょ マナセ
王朝おうちょう ダビデあさ
父親ちちおや アハズ
母親ははおや アビイ(アビヤ)
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ヒゼキヤ紀元前きげんぜん740ねんごろ - 紀元前きげんぜん687ねん)は、紀元前きげんぜん700ねんころユダ王国おうこくおうヘブライで「ヤハウェつよめる」を意味いみする。

生涯しょうがい

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在位ざいい紀元前きげんぜん715ねん、または716ねんから687ねん。25さいおうとなったとき、ユダ王国おうこくアッシリア属国ぞっこく状態じょうたいにあった。しかしヒゼキヤは、アッシリアの顔色かおいろをうかがいつつ、国力こくりょく増強ぞうきょうさせた[1]

宗教しゅうきょう回復かいふく

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まず宗教しゅうきょうにおいて、大国たいこく宗教しゅうきょう事大じだい当時とうじのオリエントでは、世俗せぞくてき従属じゅうぞくともなって他国たこくかみ崇拝すうはいさせられることがおおかった)せず民族みんぞくしんヤハウェ信仰しんこう重視じゅうしした。アハズおう時代じだいさかんであった偶像ぐうぞう崇拝すうはい払拭ふっしょくつとめ、土着どちゃくしん神殿しんでんのぞき、くに宗教しゅうきょう純粋じゅんすいせい回復かいふくさせた。そのため、歴代れきだいのユダ王国おうこく、イスラエル王国おうこくおうなかでも、敬虔けいけんおうとしてたたえられる数少かずすくないおう一人ひとりわれている[1]旧約きゅうやく聖書せいしょ歴代れきだいした」には「かみ言葉ことば従順じゅうじゅんで、かみかな事柄ことがらおこなった」としるされている。

国力こくりょく増強ぞうきょう

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シロアム・トンネル

つぎに、王国おうこく行政ぎょうせいまちぜい制度せいど簡素かんそし、穀物こくもつたくわえ、畜産ちくさんめんでもおおきくした。さらに国境こっきょう防備ぼうび強化きょうか城壁じょうへき修理しゅうり[2]、またみず確保かくほのために、トンネルを貯水池ちょすいちつくるなどで確保かくほした[3][4]

アッシリアとのあらそいとその

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アッシリアおうセンナケリブ時代じだい、バビロニア、エジプトがアッシリアにたいして反乱はんらん気運きうんつくたたかいがはじまると、ヒゼキヤもそれにされるかたち反乱はんらんこくがわについた。しかし、バビロンぐん、エジプトぐん鎮圧ちんあつされ、701ねんにはユダ王国おうこくの46のまち占領せんりょうされ、おおくのみんがアッシリアに連行れんこうされている。

ヒゼキヤはセンナケリブにげてくれるようにとたのみ、せられたぎんさんひゃくタラントとかねさんじゅうタラントを支払しはらうがかえって裏切うらぎられ、センナケリブは大軍たいぐんひきいてエルサレムにのぼってきた[5]。このときのセンケナブの記録きろくによると、ヒゼキヤをかごとりのようにエルサレムにめたとされている[1]

ヒゼキヤはエルサレムのわたしを要求ようきゅうされるが、これをことわると、センナケリブはエルサレムに入城にゅうじょうすることなく、ぐん撤退てったいさせた。(en:Assyrian Siege of Jerusalem)。このとき、ユダ王国おうこく預言よげんしゃイザヤは、てきがこのまちはいこといと預言よげんしている[6]実際じっさい撤退てったい理由りゆう不明ふめいであるが、旧約きゅうやく聖書せいしょちゅうではヤハウェ使者ししゃがアッシリアの陣営じんえいの18まん5000にん殺害さつがいしたとされている[7]。この逸話いつわ信仰しんこうふかかったヒゼキヤの人物じんぶつぞうかさなり、旧約きゅうやく聖書せいしょでは最高さいこう名君めいくんであったとしるされている。最後さいごの14ねん治世ちせいことぎ、にあたってはすべてのユダとイスラエルの住民じゅうみん敬意けいいあらわしたとされている[8]

総評そうひょう

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ヒゼキヤは、ソロモンおうやアハブおうしめしたような(バアルしんなどの)他国たこく民族みんぞく宗教しゅうきょうへの寛容かんようせいコスモポリタンせいではつよおとっていたが、必要ひつようおう宗教しゅうきょうちがうエジプトともむすんで、アッシリアに対抗たいこうし、ユダ王国おうこく独立どくりつまもった。世俗せぞくてき独立どくりつと、精神せいしんてき独立どくりつ双方そうほう追求ついきゅうし、一定いってい程度ていど成功せいこうをおさめたといえる。[よう出典しゅってん]

シロアム碑文ひぶん

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ヒゼキヤの治世ちせいにおいて特筆とくひつすべきなのは、地下水ちかすい開発かいはつである。ユダ王国おうこく四方しほうやまかこまれており、防御ぼうぎょ非常ひじょうかたかったが、兵糧ひょうろうめや断水だんすいといった手段しゅだんをとられるとよわかった。このため、ヒゼキヤは広大こうだい地下水ちかすい開削かいさくさせ、恒常こうじょうてき飲料いんりょうすい確保かくほ成功せいこうする。この水路すいろ現在げんざいのこっており、「ヒゼキヤのいずみ」とばれる。いずみには当時とうじ碑文ひぶんのこされており、これが古代こだいアラム英語えいごばん解読かいどく貢献こうけんした「シロアム碑文ひぶん」である。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 旧約きゅうやく聖書せいしょ人名じんめい事典じてん』ジョアン・コメイちょ東洋とうよう書林しょりん、1996ねん、318-21ぺーじより引用いんよう
  2. ^ 歴代れきだい32:5-6
  3. ^ 歴代れきだい32:30
  4. ^ れつおう20:20
  5. ^ れつおうおさむ(口語こうごやく)#18:13-17
  6. ^ れつおう19:31-34
  7. ^ イザヤしょ(口語こうごやく)#37:36
  8. ^ 歴代れきだい32:33

関連かんれん項目こうもく

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