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この項目 こうもく では、政治 せいじ 家 か について説明 せつめい しています。音楽家 おんがくか については「フランツ・シュトラウス 」をご覧 らん ください。
フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス (Franz Josef Strauß , または Strauss, 1915年 ねん 9月6日 にち - 1988年 ねん 10月3日 にち )は、ドイツ の政治 せいじ 家 か 。キリスト教 きりすときょう 社会 しゃかい 同盟 どうめい (CSU) 党首 とうしゅ 、バイエルン州 しゅう 首相 しゅしょう を長 なが く務 つと め、西 にし ドイツ保守 ほしゅ 政治 せいじ 家 か の雄 ゆう として君臨 くんりん した。「ヨーロッパのストロング・マン」(Strong Man of Europe) とあだ名 な された。
同 おな じく CSU の政治 せいじ 家 か で欧州 おうしゅう 議会 ぎかい 議員 ぎいん のモニカ・ホールマイアー (ドイツ語 ご 版 ばん ) は実 じつ 娘 むすめ である。
1915年 ねん 9月 がつ 6日 にち 、ミュンヘン の肉屋 にくや の二男 じなん として生 う まれる[1] 。出生 しゅっしょう 時 じ の名前 なまえ はフランツ・シュトラウス。教師 きょうし の薦 すす めもあり小学 しょうがく 4年生 ねんせい を終 お えギムナジウム に進 すす む。ギムナジウム では優秀 ゆうしゅう でクラスで一番 いちばん の成績 せいせき を修 おさ めた。大学 だいがく 入学 にゅうがく 資格 しかく 試験 しけん も体育 たいいく を除 のぞ き全部 ぜんぶ 優 ゆう の成績 せいせき であった。1935年 ねん にミュンヘン大学 だいがく に入学 にゅうがく し、ギリシャ語 ご 、ラテン語 らてんご 、歴史 れきし 学 がく 、ドイツ文学 ぶんがく 、経済 けいざい 学 がく などを学 まな ぶ。大学 だいがく 在学 ざいがく 中 ちゅう には国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ ドイツ学生 がくせい 同盟 どうめい (ドイツ語 ご 版 ばん ) (NSDStB) に義務 ぎむ として入団 にゅうだん を余儀 よぎ なくされた。1939年 ねん に第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ すると、入営 にゅうえい しトリーア に出征 しゅっせい する。最初 さいしょ 西部 せいぶ 戦線 せんせん で砲兵 ほうへい 陣地 じんち の守備 しゅび に当 あ たり、その後 ご 、5年間 ねんかん で東部 とうぶ 戦線 せんせん 、デンマーク 、ルール地方 ちほう を転戦 てんせん する。また、戦争 せんそう 中 ちゅう 、休暇 きゅうか で教員 きょういん 資格 しかく 試験 しけん を受験 じゅけん し合格 ごうかく している。1942年 ねん に東部 とうぶ 戦線 せんせん でひどい凍傷 とうしょう に罹 かか り前線 ぜんせん を離 はな れる。その後 ご 、バイエルン州 しゅう ショーンガウ 近郊 きんこう のアルテンシュタット で高射 こうしゃ 砲 ほう 部隊 ぶたい に政治 せいじ 将校 しょうこう (少尉 しょうい )として配属 はいぞく された。終戦 しゅうせん 時 じ の最終 さいしゅう 階級 かいきゅう は国防 こくぼう 軍 ぐん 中尉 ちゅうい (Oberleutnant )。終戦 しゅうせん 直後 ちょくご にフランツ・ヨーゼフ・シュトラウスに改名 かいめい する。1957年 ねん にマリアンネ・ツヴィックナーグル (ドイツ語 ご 版 ばん ) (1930年 ねん - 1984年 ねん )と結婚 けっこん し、二人 ふたり の間 あいだ にはマックス・ヨーゼフ (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、フランツ・ゲオルク (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、および後年 こうねん バイエルン州 しゅう 議会 ぎかい 議員 ぎいん や同 どう 州 しゅう 閣僚 かくりょう を務 つと めたモニカ (ドイツ語 ご 版 ばん ) が生 う まれた。
戦後 せんご 、アメリカ軍 ぐん 占領 せんりょう 下 か のミュンヘン で政治 せいじ 活動 かつどう を開始 かいし する。ショーンガウ郡 ぐん の副 ふく 郡 ぐん 長 ちょう (stellvertretender Landrat)となり、バイエルン州 しゅう における保守 ほしゅ 政党 せいとう の設立 せつりつ に奔走 ほんそう し、キリスト教 きりすときょう 社会 しゃかい 同盟 どうめい を結成 けっせい する。1949年 ねん ドイツ連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく (西 にし ドイツ)が発足 ほっそく し、第 だい 1回 かい 連邦 れんぽう 議会 ぎかい 選挙 せんきょ に立候補 りっこうほ し当選 とうせん する。以後 いご 、当選 とうせん 回数 かいすう 11回 かい 。当選 とうせん 後 ご は、CSU の幹事 かんじ 長 ちょう となり、姉妹 しまい 政党 せいとう であるキリスト教 きりすときょう 民主 みんしゅ 同盟 どうめい (CDU)、CSU の共同 きょうどう 議員 ぎいん 団 だん で団長 だんちょう 代理 だいり に就任 しゅうにん した。1952年 ねん 2月 がつ に76歳 さい のコンラート・アデナウアー 首相 しゅしょう が連邦 れんぽう 議会 ぎかい で答弁 とうべん 中 ちゅう に倒 たお れた際 さい 、シュトラウスは演壇 えんだん に突進 とっしん し、アデナウアーを抱 いだ きかかえ横 よこ っ面 つら を3、4回 かい 強 つよ く引 ひ っぱたいた。これでアデナウアーは意識 いしき を取 と り戻 もど し、守衛 しゅえい によって担架 たんか に乗 の せられ病院 びょういん に向 む かい、大事 だいじ に至 いた ることはなかった。この際 さい のシュトラウスの毅然 きぜん とした態度 たいど と行動 こうどう 力 りょく にアデナウアーをはじめとする全 ぜん 議員 ぎいん が強烈 きょうれつ な印象 いんしょう を抱 だ いた。1953年 ねん の第 だい 2次 じ アデナウアー内 ない 閣 かく (ドイツ語 ご 版 ばん ) で無任所 むにんしょ 大臣 だいじん として入閣 にゅうかく する。1955年 ねん に原子力 げんしりょく 担当 たんとう 相 しょう (ドイツ語 ご 版 ばん ) 。1956年 ねん に国防 こくぼう 相 しょう に就任 しゅうにん し、新設 しんせつ されたドイツ連邦 れんぽう 軍 ぐん の増強 ぞうきょう に当 あ たる。1961年 ねん には CSU 議長 ぎちょう に選出 せんしゅつ される。
順風 じゅんぷう 満 まん 帆 ほ な政治 せいじ 生活 せいかつ を送 おく っていたシュトラウスに蹉跌 さてつ となったのは、シュピーゲル事件 じけん (英語 えいご 版 ばん ) とよばれるスキャンダルであった。ドイツの週刊 しゅうかん 誌 し 『デア・シュピーゲル 』がドイツ連邦 れんぽう 軍 ぐん の秋季 しゅうき 陸軍 りくぐん 演習 えんしゅう を批判 ひはん したことに対 たい して、シュトラウスは立腹 りっぷく し記事 きじ を執筆 しっぴつ したコンラート・アーラース (ドイツ語 ご 版 ばん ) 記者 きしゃ とルドルフ・アウクシュタイン (英語 えいご 版 ばん ) 社長 しゃちょう を拘束 こうそく させた。この暴挙 ぼうきょ に対 たい してすぐに世論 せろん の轟々 ごうごう たる非難 ひなん が巻 ま き起 お こった。シュトラウスは、連邦 れんぽう 議会 ぎかい で虚偽 きょぎ 報告 ほうこく を非難 ひなん された後 のち 、「ナチス党 とう 大会 たいかい に出演 しゅつえん する勇気 ゆうき があったユダヤ人 じん のように扱 あつか われた」と不平 ふへい を口 くち にしたが、1962年 ねん 10月には国防 こくぼう 相 しょう 辞任 じにん を余儀 よぎ なくされた。このときアデナウアー内 ない 閣 かく の連立 れんりつ 与党 よとう であった自由民主党 じゆうみんしゅとう (FDP) に所属 しょぞく する5人 にん の閣僚 かくりょう がシュトラウスに抗議 こうぎ して辞任 じにん している。
ヘルムート・コールとの関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
党 とう 大会 たいかい でのシュトラウス(右 みぎ )とコール (1988年 ねん 6月 がつ )
国防 こくぼう 相 しょう 辞任 じにん 後 ご 、2年間 ねんかん インスブルック大学 だいがく で財政 ざいせい 学 がく を学 まな ぶ。1966年 ねん 、クルト・ゲオルク・キージンガー が、CDU とドイツ社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう (SPD) の大 だい 連立 れんりつ 政権 せいけん の樹立 じゅりつ に成功 せいこう すると、シュトラウスは財務 ざいむ 大臣 だいじん として入閣 にゅうかく した。シュトラウスは、SPD のカール・シラー (ドイツ語 ご 版 ばん ) 経済 けいざい 相 しょう とともに景気 けいき 対策 たいさく に辣腕 らつわん を振 ふ るった。シュトラウスとシラーは風刺 ふうし 漫画 まんが のモデルにもなり、19世紀 せいき ドイツの風刺 ふうし 漫画 まんが 家 か ヴィルヘルム・ブッシュ の作品 さくひん Plisch und Plum をもじった作品 さくひん は有名 ゆうめい になった。
キージンガー内 ない 閣 かく は SPD の離反 りはん によって3年 ねん で終 お わり、1969年 ねん にヴィリー・ブラント を首班 しゅはん とする SPD・FDP の連立 れんりつ 政権 せいけん が成立 せいりつ すると、シュトラウスはこの連立 れんりつ 政権 せいけん およびブラントの東方 とうほう 外交 がいこう に対 たい する最 もっと も声望 せいぼう のある批判 ひはん 者 しゃ の一人 ひとり となった。1975年 ねん 、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく を訪問 ほうもん し毛沢東 もうたくとう と会談 かいだん するが、これは一大 いちだい センセーションを巻 ま き起 お こした。1976年 ねん にヘルムート・コール が CDU 党首 とうしゅ として CDU・CSU の首相 しゅしょう 候補 こうほ となり連邦 れんぽう 議会 ぎかい で敗北 はいぼく すると、シュトラウスは CDU との連携 れんけい を一時 いちじ 的 てき に解消 かいしょう する。その後 ご 、コールとの協議 きょうぎ で両 りょう 党 とう の協力 きょうりょく 関係 かんけい を復活 ふっかつ させ、1980年 ねん 総 そう 選挙 せんきょ では強力 きょうりょく な自薦 じせん でコールの承認 しょうにん を取 と り付 つ けた上 うえ で CDU・CSU の統一 とういつ 首相 しゅしょう 候補 こうほ として立候補 りっこうほ するが、SPD のヘルムート・シュミット 首相 しゅしょう に敗 やぶ れた。
シュトラウスはコールに対 たい しては、そのリーダーシップを批判 ひはん し続 つづ けた。個人 こじん 的 てき に悪感情 あくかんじょう を抱 だ いていたわけではなかったが、シュトラウスの言動 げんどう はコールにとっては耳 みみ の痛 いた いものでもあった。
ヨーロッパ合衆国 がっしゅうこく [ 編集 へんしゅう ]
シュトラウスは、その著書 ちょしょ 『グランド・デザイン』で将来 しょうらい の欧州統合 おうしゅうとうごう について述 の べている。
1988年 ねん 10月 がつ 1日 にち 、レーゲンスブルク 東部 とうぶ にあるトゥルン・ウント・タクシス (英語 えいご 版 ばん ) 公爵 こうしゃく 家 か の狩場 かりば に誘 さそ われ、自家用 じかよう 飛行機 ひこうき で出 で かけたその機 き 中 ちゅう で心臓 しんぞう 発作 ほっさ を起 お こした。シュトラウスはこの数日 すうじつ 前 まえ にユーゴスラビア に自家用 じかよう 機 き で出 で かけていたが、この帰途 きと 心臓 しんぞう を悪 わる くしたと見 み られていた。10月3日 にち レーゲンスブルクの病院 びょういん で意識 いしき を回復 かいふく することなく死去 しきょ した[1] 。
Franz Josef Strauss. The Grand Design: A European solution to German reunification . English translation: London: Weidenfeld & Nicolson, 1965
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