ブラッド・レイガンズ

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ブラッド・レイガンズ
ブラッド・レイガンズの画像
プロフィール
リングネーム ブラッド・レイガンズ
本名ほんみょう ブラッド・レイガンズ
ニックネーム 鬼神きじん
身長しんちょう 182cm
体重たいじゅう 112kg(ぜん盛時せいじ
誕生たんじょう (1953-12-13) 1953ねん12月13にち(70さい
出身しゅっしん アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
ミネソタ州の旗 ミネソタしゅう
スウィフトぐんアップルトン
スポーツれき レスリング
トレーナー バーン・ガニア
デビュー 1981ねん
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ブラッド・レイガンズBrad Rheingans1953ねん12月13にち - )は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくプロレスラーミネソタしゅうアップルトン出身しゅっしん

来歴らいれき[編集へんしゅう]

1972ねんレスリングのワールドカップにてフリースタイル92kgきゅう優勝ゆうしょう[1]1975ねんにはNCAAのチャンピオンとなり[2]1976ねんモントリオールオリンピックではグレコローマン100kgきゅうで4入賞にゅうしょうした[1]1979ねん世界せかい選手権せんしゅけんでは3、パンナム大会たいかいでは2連覇れんぱし、1980ねんモスクワオリンピックではきんメダル確実かくじつとされたが、アメリカをはじめとする当時とうじ西側にしがわ諸国しょこく集団しゅうだんボイコット出場しゅつじょうはならず、バーン・ガニアのスカウトでプロに転向てんこう[1]1981ねん12月、AWAでプロデビューをたす[1]

デビューアスリートけい技巧ぎこうベビーフェイスとして活動かつどうし、ジャック・グレイジェリー・ブラックウェルシーク・アドナン・アル=ケイシーボビー・ヒーナンレイ・スティーブンスケン・パテラボビー・ダンカンアドリアン・アドニスジョン・トロスクリス・マルコフミスター・サイトーデビッド・シュルツビル・ロビンソンなどと対戦たいせん[3][4]1983ねん8がつには全日本ぜんにほんプロレスはつ来日らいにち[1]。8月30にち新潟にいがた体育館たいいくかん大会たいかいではジャンボ鶴田つるたとのシングルマッチがおこなわれた[5]

AWAではリック・マーテルグレッグ・ガニアジム・ブランゼルカート・ヘニングらととも次期じき世界せかい王者おうじゃ候補こうほされ、1984ねん1がつにはニック・ボックウィンクルAWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざ連続れんぞく挑戦ちょうせんした[6]1985ねん4がつ21にちセントポール開催かいさいされた "Starcage '85" には、ノースダコタ大学だいがく先輩せんぱいにあたるボブ・バックランドとのコンビで出場しゅつじょうブッチ・リード&ラリー・ズビスコやぶっている[2]よく1986ねん4がつ20日はつかミネアポリスメトロドームおこなわれた "WrestleRock '86" では、過去かこモスクワオリンピック・ボイコット問題もんだい下敷したじきとしたアングルのもと、オープニング・マッチでソビエトじんギミックボリス・ズーコフ対戦たいせんした[7]

1987ねんWWF移籍いせき、1がつ19にちニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにてフレンチ・マーチン相手あいてにデビューせんかざ[8]以降いこうジミー・ジャック・ファンクアイアン・シークニコライ・ボルコフディノ・ブラボーマイク・シャープロン・バスタイガー・チャン・リーシカ・アノアイテリー・ギッブスホセ・エストラーダなどのヒールいきおい対戦たいせんするも前座ぜんざ試合しあいのポジションからだっすることはできず、短期間たんきかん離脱りだつ[9]

AWAに復帰ふっきは、おなじくオリンピック選手せんしゅだったケン・パテラとオリンピアンズThe Olympians)なるタッグチーム結成けっせい1989ねん3月25にちにバッド・カンパニー(ポール・ダイヤモンド&パット・タナカ)からAWA世界せかいタッグ王座おうざ奪取だっしゅした[10]末期まっきのAWAではウェイン・ブルームマイク・イーノスタリー・ブランチャードとも対戦たいせんしている[11]

1989ねん4がつからはしん日本にっぽんプロレス常連じょうれん外国がいこくじん選手せんしゅとなり[12]1990ねんにかけてはスティーブ・ウィリアムス参謀さんぼうかくとして、サルマン・ハシミコフひきいるレッドブル軍団ぐんだんとの「べいソのレスリングこうそう」を展開てんかいした[2]しん日本にっぽんプロレスでは若手わかて選手せんしゅのコーチやアメリカじんレスラーのブッキング業務ぎょうむ兼任けんにんし、スコット・ノートンをはじめ自身じしんがトレーニングした選手せんしゅしん日本にっぽんマットに来日らいにちさせた。

セミリタイアミネアポリスにて、日本にっぽんでは「レイガンズ道場どうじょう」とばれるレスリング・スクール主宰しゅさい選手せんしゅ育成いくせい専念せんねんしている。1990年代ねんだい初頭しょとうには、アメリカの女子じょしプロレス団体だんたいLPWAのトレーナーもつとめていた[13]

獲得かくとくタイトル[編集へんしゅう]

アメリカン・レスリング・アソシエーション
プロ・レスリング・アメリカ

育成いくせい選手せんしゅ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e 『THE WRESTLER BEST 1000』P244(1996ねん日本にっぽんスポーツ出版しゅっぱんしゃ
  2. ^ a b c Wrestler Profiles: Brad Rheingans”. Online World of Wrestling. 2011ねん1がつ19にち閲覧えつらん
  3. ^ The AWA matches fought by Brad Rheingans in 1982”. Wrestlingdata.com. 2021ねん5がつ9にち閲覧えつらん
  4. ^ The AWA matches fought by Brad Rheingans in 1983”. Wrestlingdata.com. 2021ねん5がつ9にち閲覧えつらん
  5. ^ The AJPW matches fought by Brad Rheingans in 1983”. Wrestlingdata.com. 2015ねん10がつ28にち閲覧えつらん
  6. ^ The Records of AWA World Heavyweight Championship Matches 1984”. Wrestling-Titles.com. 2011ねん1がつ19にち閲覧えつらん
  7. ^ The Best of Times 2.14.08: April 1986”. 411mania. 2011ねん1がつ19にち閲覧えつらん
  8. ^ The WWE matches fought by Brad Rheingans in 1987”. Wrestlingdata.com. 2015ねん10がつ28にち閲覧えつらん
  9. ^ WWE Yearly Results 1987”. The History of WWE. 2011ねん1がつ19にち閲覧えつらん
  10. ^ a b AWA World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2011ねん1がつ19にち閲覧えつらん
  11. ^ The AWA matches fought by Brad Rheingans in 1990”. Wrestlingdata.com. 2021ねん5がつ9にち閲覧えつらん
  12. ^ The NJPW matches fought by Brad Rheingans in 1989”. Wrestlingdata.com. 2015ねん10がつ28にち閲覧えつらん
  13. ^ Wrestling Eye: Meet the LPWA”. Wrestling Eye. 2011ねん1がつ19にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]