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ヘルマン・プライ

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ヘルマン・プライ
基本きほん情報じょうほう
生誕せいたん (1929-07-11) 1929ねん7がつ11にち
出身しゅっしん ドイツの旗 ドイツこくベルリン
死没しぼつ (1998-07-22) 1998ねん7がつ22にち(69さいぼつ
学歴がくれき ベルリン音楽おんがく大学だいがく
ジャンル クラシック音楽おんがく
職業しょくぎょう バリトン歌手かしゅ

ヘルマン・プライ(Hermann Prey、1929ねん7がつ11にち - 1998ねん7がつ22にち)は、ドイツバリトン歌手かしゅである。

経歴けいれき

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プライはベルリンまれ、ナチス・ドイツ時代じだいのドイツでそだち、徴兵ちょうへいされる直前ちょくぜんだい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつした。ベルリン音楽おんがく大学だいがくギュンター・バウムハリー・ゴットシャルクについて声楽せいがくまなび、1952ねんフランクフルト・アム・マインおこなわれたヘッセン放送ほうそう協会きょうかい音楽おんがくコンクールで優勝ゆうしょうする。

かれ歌曲かきょくリサイタルでうたはじめ、翌年よくねんヴィースバーデンオペラ初舞台はつぶたいむ。そのハンブルク州立しゅうりつ歌劇かげきじょうくわわり、1960ねんまでそこでうたった。ハンブルク時代じだい最後さいごすうねんにはザルツブルク音楽おんがくさいはじ各地かくちでしばしば客演きゃくえんした。

1960ねんに『タンホイザー』のヴォルフラムをうたってメトロポリタン歌劇かげきじょうにデビューしたあと1970ねんころまで頻繁ひんぱん出演しゅつえんし、1965ねんにはおなやくバイロイト音楽おんがくさいにもデビューした。初期しょきにはヴェルディうたうことがあったが、のちモーツァルトR.シュトラウス作品さくひん中心ちゅうしんうたうようになった。また、プライはオペレッタもよくうたい、テレビ放送ほうそう出演しゅつえんしたためテレビ聴者ちょうしゃから非常ひじょう人気にんきはくした。ドイツの民謡みんよう学生がくせいこのんでうた録音ろくおんのこしており、そのてんでもやはりあかるいキャラクターでしたしまれつづけたエーリッヒ・クンツの後継こうけいしゃてき側面そくめんつ。

1982ねんからはハンブルク音楽おんがく大学だいがく後進こうしん指導しどうおこない、自伝じでん出版しゅっぱんした。また、1976ねんオーストリアホーエネムスシューベルティアーデ音楽おんがくさい主催しゅさいし、みずかうたうとともに、すぐれた演奏えんそうまねいて毎年まいとしおおくの演奏えんそうかい企画きかくした。1988ねんにはザルツブルク音楽おんがくさいで『フィガロの結婚けっこん』の演出えんしゅつおこなった。

1998ねんバイエルンしゅうクライリングで心臓しんぞう発作ほっさのため死去しきょした。

レパートリー

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得意とくいなレパートリーはモーツァルトの『フィガロの結婚けっこん』(フィガロと伯爵はくしゃく両方りょうほううたう)、『ふえ』(パパゲーノ)、『コジ・ファン・トゥッテ』(グリエルモ)、『セビリアの理髪りはつ』(フィガロ)、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(ベックメッサー)、『こうもり』(アイゼンシュタイン)などブッフォけいやく天衣無縫てんいむほう歌唱かしょうかれる。とくにロッシーニはドイツじん歌手かしゅにはめずらしく、ふたつのフィガロで成果せいかおさめた数少かずすくない歌手かしゅとなった。

プライのレパートリーのもっと核心かくしんをなしていたものは、自身じしんで「わたし人生じんせい中心ちゅうしん」とかたっていたように、シューベルトであり、シューベルトをはじめとするドイツ歌曲かきょくきわめてたか評価ひょうかされた。ときおり音程おんてい不安定ふあんていになることもあるが、ゆたかな感情かんじょう表現ひょうげんでそれをおぎなっていた。1970年代ねんだいから80年代ねんだいけて、フィリップスレコードにミンネゼンガー歌曲かきょくから20世紀せいきいた歌曲かきょく歴史れきし辿たどった『ドイツ歌曲かきょくだい全集ぜんしゅう』のレコード録音ろくおんおこなうなど、5さい年上としうえ同郷どうきょうディートリヒ・フィッシャー=ディースカウつねくらべられながらも、この歴史れきしてきだい歌手かしゅ体系たいけいてき録音ろくおんのこした。ほかにもかれ多数たすうのオペラや歌曲かきょくのレコード録音ろくおんおこなった。

そのほか声楽せいがくふく演奏えんそうかい、とりわけJ.S.バッハ受難じゅなんきょくブラームスの『ドイツ・レクイエム』にもしばしば出演しゅつえんした。 アメリカでのはつのリサイタルは1956ねんで、また日本にっぽんでは1961ねんはじめて演奏えんそうかいひらいた。

晩年ばんねん日本にっぽん公演こうえんでの逸話いつわ

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シューベルト生誕せいたん200周年しゅうねんにあたる1997ねんサントリー・ホールにおいて1がつ24にちからシューベルトの誕生たんじょうである1がつ31にちはさんで2がつ5にちまでの12日間にちかん伴奏ばんそうピアニストのミヒャエル・エンドレスとともに『シラー歌曲かきょくしゅう』・『うつくしき水車みずぐるま小屋こやむすめ』・『ゲーテ歌曲かきょくしゅう』・『ふゆたび』・『さまざまな詩人しじんによる歌曲かきょく』・『白鳥はくちょううた』の、「シューベルティアーデ」としょうする一連いちれん連続れんぞくコンサート(ぜん6かい)をおこない、シューベルト・イヤーの目玉めだまとなった。そのさい最終さいしゅう最後さいごきょくばと使つか』にいたりついにうたうことができず、いったん舞台ぶたいそでがり、そのうたなおしたというエピソードがのこっている(数日すうじつにおこなわれた音楽おんがく雑誌ざっしのインタビューのなかかれは、「ハイネの世界せかいとザイドルのそれとのあいだへだたりがあり、だい13きょくまでの心持こころもちのままではうたうことができなかった」とかたっている。歌曲かきょくしゅう白鳥はくちょううた」のもとになった連作れんさく歌曲かきょくしゅうにおいて、シューベルトは、ハイネとレルシュタープがいたによって意図いとをもっていたところそのうちの1きょく完成かんせいのままでくなっている。その、その未完みかんきょくべつ完成かんせいしていたザイドルのによる「ばと使つかい」とをえのうえ出版しゅっぱんしょうにより「白鳥はくちょううた」として発表はっぴょうされたという経緯けいいがある)。

外部がいぶリンク

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