ヘルマン・ロエスレル

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カール・フリードリヒ・
ヘルマン・ロエスレル
Karl Friedrich Hermann Roesler
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1834-12-18) 1834ねん12月18にち
バイエルン王国の旗 バイエルン王国おうこくラウフ・アン・デア・ペーグニッツドイツばん
死没しぼつ (1894-12-02) 1894ねん12月2にち(59さいぼつ
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ていこくボーツェン
国籍こくせき ドイツの旗 ドイツ帝国ていこくバイエルン王国おうこく
配偶はいぐうしゃ アグネス・ロエスレル
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 法学ほうがく
研究けんきゅう機関きかん 独逸どいつがく協会きょうかい学校がっこう
主要しゅよう作品さくひん日本国にっぽんこく憲法けんぽう草案そうあん』、『ふつこく革命かくめいろん
学会がっかい 独逸どいつがく協会きょうかい
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カール・フリードリヒ・
ヘルマン・ロエスレル
Karl Friedrich Hermann Roesler

ドイツの旗 外務省がいむしょうやとい外国がいこくじん教授きょうじゅ
在任ざいにん期間きかん 1878ねん10がつ5にち - 1893ねん
天皇てんのう 明治天皇めいじてんのう
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カール・フリードリヒ・ヘルマン・ロエスレル(Karl Friedrich Hermann Roesler、1834ねん12月18にち - 1894ねん12月2にち)は、ドイツ法学ほうがくしゃ経済けいざい学者がくしゃ明治めいじ日本にっぽんやと外国がいこくじん一人ひとりとして活動かつどうしたドイツじんである。日本にっぽん独逸どいつがく協会きょうかい会員かいいん

名称めいしょう[編集へんしゅう]

もっともよくられるロエスレルのほか、ロェスラーレースラー、ロヰスレル、ロイスレル、リョースレル、レースレル、レスレル、ルスレル、レスラーなどと表記ひょうきされる。あまりの混乱こんらんりに、「ロエスレルとはおれれのことかとレースラーい」というおどけられている。原語げんごちかいのはレースレルもしくはレースラ[1]

1887ねん明治めいじ20ねん)の箕作みつくり麟祥りんしょう英学えいがく仏法ぶっぽう)は「ロヱスレル[2]」、1938ねん昭和しょうわ13ねん)の仁井田にいだ益太郎ますたろうどくほう)は「レースレル[3]」と発音はつおんしている。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

明治めいじ時代じだいざいドイツ全権ぜんけん公使こうし日本にっぽんおくむドイツじん斡旋あっせん手掛てがけていたが、ロエスレルは青木あおき周蔵しゅうぞう推薦すいせんされ、1878ねん10月にきゅう幕臣ばくしん寺島てらしまはじめのり外務がいむきょうした外務省がいむしょう年俸ねんぽう7200しょうぎんやとい外国がいこくじん契約けいやくをして妻子さいしともなって来日らいにちした。契約けいやくだい1じょうつぎのようなものだったという[4]

教授きょうじゅヘルマン・ロェスラー博士はかせ法律ほうりつ顧問こもんとして東京とうきょう外務省がいむしょう勤務きんむする。この地位ちいにより、同氏どうし外務省がいむしょう職員しょくいん(ただし公用こうよう旅行りょこう権利けんりをもたない)として外務省がいむしょう事務じむきょく配属はいぞくされ、事務じむきょくから指示しじける。同氏どうし職務しょくむは、国際こくさい公法こうほうないし国内こくないほうじょう諮問しもん答申とうしんすること、同氏どうしたいして外務省がいむしょうちょうより提示ていじされた関連かんれん法案ほうあん作成さくせいすること、およびその同種どうしゅ事務じむ従事じゅうじすることにある。同氏どうし勤務きんむ時間じかん外務省がいむしょうのそれと同様どうようである。同氏どうしはその地位ちい公務員こうむいん公法こうほううえ職権しょっけんゆうするものではない。同氏どうし政府せいふたいして私人しじんとしての権利けんり、すなわち、この契約けいやくめおよび私法しほう一般いっぱん原則げんそくからしょうじる権利けんりのみをゆうする。しかしながら同氏どうし職務しょくむかんして公務員こうむいん同様どうよう職務しょくむじょう秘密ひみつまもらなければならない。 — 1878ねん10がつ5にち

1881ねん国策こくさく機関きかん独逸どいつがく協会きょうかい(Verein für deutsche Wissenschaften)の創立そうりつ独逸どいつがく協会きょうかい学校がっこう(Vereinschule für Deutsche Wissenschaften)の運営うんえい貢献こうけんし、明治めいじ政府せいふプロイセンながれ立憲りっけん主義しゅぎ転換てんかんした(明治めいじじゅうよんねん政変せいへん)。ロエスレルはそのもドイツ法学ほうがく普及ふきゅうのため、論者ろんしゃ文献ぶんけん紹介しょうかいつとめ、また独逸どいつがく協会きょうかいでもしばしば演説えんぜつおこなった。

1885ねんには独逸どいつがく協会きょうかいにより日本にっぽんはつのドイツほう学校がっこうとして独逸どいつがく協会きょうかい学校がっこう専修せんしゅう設置せっちされ、ゲオルク・ミヒャエリスもドイツ法学ほうがく普及ふきゅうくわわる[5]

1886ねんには大審院だいしんいんなが玉乃たまの世履せいり在職ざいしょくちゅう自殺じさつ事件じけんきたが、ロエスレルは法律ほうりつ顧問こもん(juristischer Berater)からのちには内閣ないかく顧問こもんとなり、伊藤いとう博文ひろぶみ信任しんにんて、アルベルト・モッセらととも大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう作成さくせい商法しょうほう草案そうあん作成さくせい中心ちゅうしんメンバーとして活動かつどうする。憲法けんぽう草案そうあん作成さくせいしたのは井上いのうえあつしであったが、おおくロエスレルの討議とうぎ指導しどうによるものだったとされる。かれ提出ていしゅつした「日本にっぽん帝国ていこく憲法けんぽう草案そうあん」のほとんどがおなじく独逸どいつがく協会きょうかい会員かいいんである司法しほう大臣だいじん山田やまだあらわよししたれられ、大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうとなった。伊藤いとう博文ひろぶみはのちにつぎのように回顧かいこした。

この憲法けんぽう草案そうあんこしらえるについて非常ひじょうちからあたえたは井上いのうえあつしで、その伊東いとう巳代治みよじ、それに金子かねこ堅太郎けんたろうくらい人数にんずうでやった。ドイツのロエスレルとひと博学はくがくひとで、ドイツえいふつのことにあきらかで、経済けいざいにも法律ほうりつにもあきらかで、立派りっぱ博士はかせで、これと争論そうろんして日本にっぽんぶんいたものを英文えいぶんなおし、また英文えいぶんになったものを日本にっぽんぶんあらためて、両方りょうほうらしわせて法理ほうりてきうところを見合みあわせねばならぬ。そして大概たいがい調しらわせて草稿そうこうこしたが、17ねんからはむなしなく政治せいじのことをやっているかたわらに、憲法けんぽうのことを調しらべつつやって、そのかたわらに皇室こうしつ典範てんぱんもやらねばならず、それに付帯ふたいする選挙せんきょほうから議院ぎいんほうみなやらねばならぬ。 — 『明治めいじじゅうすぐる』、1909ねん[6]

かれ思想しそう保守ほしゅてき国家こっか権限けんげん強化きょうかする方向ほうこうにある一方いっぽうで、法治ほうち国家こっか立憲りっけん主義しゅぎ原則げんそくおもんじるものであった(これは、かれからふか薫陶くんとうけた井上いのうえあつし思想しそうにも影響えいきょうする)。かれ訪日ほうにち承諾しょうだくした背景はいけいには、ときドイツ帝国ていこく宰相さいしょうであるビスマルク政治せいじ手法しゅほうあまりにも立憲りっけんてきであること批判ひはんしたことでドイツ政府せいふからにらまれたからだともわれている(そのオーストリア余生よせいごしたのもこうした背景はいけいによるものであるという)[7]

経済けいざい学者がくしゃとしてはアダム・スミス批判ひはんられている。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

おも著述ちょじゅつ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 堅田かただつよし 2014, p. 107.
  2. ^ 大槻おおつき文彦ふみひこ箕作みつくり麟祥りんしょうくんでん丸善まるぜん、1907ねん、105ぺーじ
  3. ^ 仁井田にいだ益太郎ますたろう穂積ほづみ重遠しげとお平野ひらの義太郎よしたろう仁井田にいだ博士はかせ民法みんぽうてん編纂へんさん事情じじょう座談ざだんかい」『法律ほうりつ時報じほう』10かん7ごう日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1938ねん、25ぺーじ
  4. ^ #堅田かただ、pp.233。
  5. ^ この専修せんしゅうは、その帝国ていこく大学だいがくにドイツ法学ほうがく基盤きばんととのったことから1995ねん廃止はいしされた。
  6. ^ #堅田かただ、『明治めいじじゅうすぐる』39ぺーじ
  7. ^ 堅田かただつよし 2014, p. 9-24.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]