ペター・ソルベルグ (諾 だく : Petter Solberg 1974年 ねん 11月18日 にち [1] -)はノルウェー ・アスキム (英語 えいご 版 ばん ) 出身 しゅっしん のラリー ・ドライバー[1] 。2003年 ねん の世界 せかい ラリー選手権 せんしゅけん (WRC) と2014年 ねん 、2015年 ねん の世界 せかい ラリークロス選手権 せんしゅけん (World RX、WRX)のチャンピオン。WRC参戦 さんせん 時 じ はスバル ・ラリーチームのエースとして活躍 かつやく した。兄 あに のヘニング・ソルベルグ 、息子 むすこ のオリバー・ソルベルグ 、甥 おい のオスカー・ソルベルグ (スペイン語 ご 版 ばん ) もラリードライバーとして活躍 かつやく している。
ラリーデビューからWRC参戦 さんせん へ [ 編集 へんしゅう ]
両親 りょうしん は共 とも にラリークロス のドライバーで、ペターは8歳 さい の頃 ころ には両親 りょうしん の農場 のうじょう で車 くるま を運転 うんてん していた[1] 。免許 めんきょ 取得 しゅとく 前 まえ には、13歳 さい でラジコンカーレースの国内 こくない チャンピオンになる[1] 。タミヤニュースのインタビュー記事 きじ に当時 とうじ RCバギーカー「ビッグウィッグ 」でレースに挑 いど み、そこでモータースポーツ競技 きょうぎ の基本 きほん を学 まな んだと述懐 じゅっかい している。競技 きょうぎ デビューは1992年 ねん で、ノルウェー・オートクロス選手権 せんしゅけん にて2戦 せん 目 め で優勝 ゆうしょう [1] 。その後 ご 兄 あに ヘニングのおさがりの車 くるま に乗 の りながら、1995年 ねん ・1996年 ねん にラリークロス、ヒルクライムのノルウェーチャンピオンとなる[1] 。1996年 ねん 、トヨタ・セリカST165 に乗 の りラリーに初 はつ 出場 しゅつじょう する[1] 。
1998年 ねん にはノルウェー・ラリー選手権 せんしゅけん で総合 そうごう 優勝 ゆうしょう を果 は たし、この年 とし のラリー・スウェーデン でセリカST205 に乗 の りWRCデビューを果 は たす[1] 。1999年 ねん からフォード ・ラリーチームで参戦 さんせん [1] 。コ・ドライバーもこの年 とし からフィル・ミルズ になった[1] (それまでペターのコ・ドライバーを務 つと めていた人 ひと は、その年 とし から兄 あに ヘニングのコ・ドライバーになった)。スウェーデンにてフォード・エスコート でワークス・デビューを飾 かざ ると、トーマス・ラドストローム の負傷 ふしょう 欠場 けつじょう のためにサファリラリー でフォード・フォーカス WRC に乗 の ることになり、WRカー 初 はつ 体験 たいけん にもかかわらず5位 い でフィニッシュを果 は たす[1] 。
2000年 ねん も中盤 ちゅうばん 戦 せん までフォードでドライブし、サファリで5位 い 、アルゼンチン で6位 い と確実 かくじつ に成長 せいちょう を見 み せるようになる。しかし、フル参戦 さんせん の機会 きかい をなかなか与 あた えられないことに不満 ふまん を抱 いだ き、フォードから飛 と び出 だ す形 かたち で2000年 ねん 8月 がつ にスバル・ワールド・ラリーチーム(SWRT)に移籍 いせき する。
2001年 ねん ラリー・フィンランド
ソルベルグのドライビングは荒々 あらあら しく、それゆえ車 しゃ を壊 こわ すことも多 おお かった。その面 めん はスバルに初 はつ のWRCタイトルをもたらしたコリン・マクレー と似 に ている。しかしスバルに加入 かにゅう して経験 けいけん をつむうちに安定 あんてい 性 せい が増 ま し、確実 かくじつ に成績 せいせき を残 のこ すようになっていく。2001年 ねん は、アクロポリス で初 はつ の2位 い 表彰台 ひょうしょうだい を獲得 かくとく 。2002年 ねん の最終 さいしゅう 戦 せん グレートブリテン にてマルコ・マルティン との激戦 げきせん の末 すえ 、自身 じしん 初 はつ 優勝 ゆうしょう をあげ、シリーズランキングも2位 い になる。
2002年 ねん からの2年間 ねんかん は、4度 ど のWRCドライバーズチャンピオンに輝 かがや いたトミ・マキネン をチームメイトに迎 むか え、様々 さまざま なことを教 おそ わった。2003年 ねん シーズンはそのマキネンを圧倒 あっとう するようになり、マキネンはこのシーズンをもって引退 いんたい を表明 ひょうめい する。スバルのソルベルグとフォードのマルコ・マルティン 、シトロエン のセバスチャン・ローブ らはWRCの世代 せだい 交代 こうたい を象徴 しょうちょう する存在 そんざい となっていく。
2003年 ねん はシーズン序盤 じょばん は不振 ふしん だったものの、中盤 ちゅうばん 戦 せん から勝利 しょうり を重 かさ ねるようになり、カルロス・サインツ 、セバスチャン・ローブ、リチャード・バーンズ との4つ巴 ともえ のチャンピオン争 あらそ いを展開 てんかい する。最終 さいしゅう 戦 せん グレートブリテンを迎 むか える時点 じてん で獲得 かくとく ポイントはローブとサインツが63点 てん (勝利 しょうり 数 すう の差 さ でローブが首位 しゅい )、ソルベルグが62点 てん 、バーンズが58点 てん だったが[3] 、バーンズはラリー直前 ちょくぜん に脳腫瘍 のうしゅよう の病 やまい に倒 たお れ欠場 けつじょう となった。ラリー本番 ほんばん ではサインツが初日 しょにち にリタイアし、ソルベルグとローブの一 いち 騎 き 討 う ち の様相 ようそう となる。ソルベルグが持 も ち前 まえ の豪快 ごうかい な攻 せ めでSSベストタイムを連発 れんぱつ する一方 いっぽう 、ローブはシトロエン のマニファクチャラーズタイトルがかかっていたこともあり、終盤 しゅうばん は堅実 けんじつ な走 はし りに徹 てっ するようになった。最終 さいしゅう 結果 けっか はソルベルグがシーズン4勝 しょう 目 め を果 は たしローブは2位 い 。獲得 かくとく ポイントは72点 てん 対 たい 71点 てん と1点 てん 差 さ でソルベルグが逆転 ぎゃくてん し、自身 じしん 初 はつ のワールドチャンピオンを獲得 かくとく した[4] 。
スバルでの苦闘 くとう 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
2006年 ねん キプロス・ラリー
2004年 ねん 、王者 おうじゃ ソルベルグは序盤 じょばん 堅実 けんじつ な走 はし りを見 み せるが、アルゼンチン、フィンランド 、ドイツ と中盤 ちゅうばん 3戦 せん で連続 れんぞく リタイアを喫 きっ してしまう。一方 いっぽう で初 はつ 開催 かいさい のラリー・ジャパン 、グレートブリテン、サルディニア では3連勝 れんしょう をあげる。シーズン5勝 しょう と最多 さいた のステージベスト95回 かい を記録 きろく したが、6勝 しょう して確実 かくじつ に高 こう ポイントを積 つ み重 かさ ねたローブが初 はつ チャンピオンを獲得 かくとく し、ソルベルグのタイトル防衛 ぼうえい はならなかった。
2005年 ねん は、スウェーデン、メキシコ で2勝 しょう をあげたが、その後 ご はミシュラン 製 せい グラベルタイヤを武器 ぶき にローブの快 かい 進撃 しんげき が続 つづ く。ソルベルグは日本 にっぽん では勝利 しょうり を目前 もくぜん にしながら不運 ふうん なリタイアを喫 きっ し[5] 、オーストラリア でも首位 しゅい 走行 そうこう 中 ちゅう にカンガルー に激突 げきとつ 。同 おな じ1974年 ねん 生 う まれのライバルだったふたりは「勝 か ち続 つづ けるローブと勝利 しょうり に見放 みはな されるソルベルグ」という対照 たいしょう 的 てき な関係 かんけい になっていく。
2006年 ねん も、インプレッサWRC の戦闘 せんとう 力 りょく 向上 こうじょう が進 すす まず、成績 せいせき も得点 とくてん 圏内 けんない に入賞 にゅうしょう するのがやっとという散々 さんざん な展開 てんかい となった。ドライビング的 てき な問題 もんだい よりも、マシンの不具合 ふぐあい や突然 とつぜん のトラブルといったものが足 あし を引 ひ っ張 ぱ り、ソルベルグ自身 じしん 「呪 のろ われている」と頭 あたま を抱 かか える始末 しまつ であった。
2007年 ねん も同様 どうよう にポディウム争 あらそ いからは遠 とお のく。同年 どうねん フルモデルチェンジしたインプレッサがハッチバックスタイルになったのも、「ライバルがハッチバックだからインプレッサもハッチバックが良 よ い」というペターの一言 ひとこと で決 き まったとも言 い われている。[要 よう 出典 しゅってん ]
2008年 ねん は、インプレッサの新型 しんがた WRカーがデビューし、ソルベルグが一時 いちじ SSでトップタイムを叩 たた き出 だ すなど、明 あか るい兆 きざ しが見 み えてきたシーズンでもあった。しかし世界 せかい 金融 きんゆう 危機 きき の影響 えいきょう で業績 ぎょうせき が悪化 あっか したスバルは、12月16日 にち に突如 とつじょ WRCからの撤退 てったい を表明 ひょうめい した。これについてソルベルグは"I don't know what will happen now.(現状 げんじょう では、どうなるか分 わ からない。)"とコメントした[6] 。
自 じ チームからの参戦 さんせん [ 編集 へんしゅう ]
2010年 ねん ラリー・カタルーニャ
スバル撤退 てったい 後 ご の2009年 ねん は、他 た メーカーのワークスシートを獲得 かくとく できず、ノルウェーでラリーチーム「ペター・ソルベルグ・ワールド・ラリー・チーム」(PSWRT)を立 た ち上 あ げ、シトロエン・クサラ WRC 05に乗 の り出場 しゅつじょう した[7] 。旧式 きゅうしき のマシンに乗 の るプライベーターながら、ときおりワークスチームと同等 どうとう のタイムを叩 たた き出 だ すなど健闘 けんとう が光 ひか る。終盤 しゅうばん 2戦 せん のカタルニア とグレートブリテンには2008年 ねん スペックのシトロエン・C4 WRCでエントリーし[8] 、2戦 せん 連続 れんぞく 4位 い に入賞 にゅうしょう した。また、耐久 たいきゅう レース にも興味 きょうみ を示 しめ し、ル・マン24時 じ 間 あいだ レース に出場 しゅつじょう するクラージュ・オレカ LC70Eのテスト走行 そうこう も行 おこな った[9] 。
2010年 ねん も自 みずか らのチームでの参戦 さんせん となり、2009年 ねん スペックのシトロエン・C4を購入 こうにゅう して全 ぜん 戦 せん に参戦 さんせん 。長 なが くコンビを組 く んできたコ・ドライバーのフィル・ミルズ が引退 いんたい したため、クリス・パターソン と新 しん コンビを組 く んだ。この年 とし も未 み 勝利 しょうり に終 お わったが13戦中 せんちゅう 8戦 せん で表彰台 ひょうしょうだい に入 はい り、2勝 しょう を遂 と げたセバスチャン・オジェ を上回 うわまわ りランキング3位 い に入 はい った。
2011年 ねん も自 じ チームから参戦 さんせん 。前年 ぜんねん まではプライベーターとしての扱 あつか いだったが、ワークスが出来 でき ない地元 じもと でのテストが出来 でき るとMスポーツ から異議 いぎ があったため、マニュファクチャラーチーム に登録 とうろく された。2011年 ねん 規定 きてい に合 あ わせたシトロエン・DS3 WRC で全 ぜん 戦 せん に参戦 さんせん したが、2010年 ねん まで居 い たチームマネージャーが離脱 りだつ し、シトロエンからスタッフが送 おく り込 こ まれている。
2012年 ねん ラリー・ド・フランス
2011年 ねん シーズン終了 しゅうりょう 後 ご 、ミッコ・ヒルボネン がシトロエンに移籍 いせき したのを受 う け、フォードはソルベルグの起用 きよう を発表 はっぴょう 。2000年 ねん 以来 いらい 久々 ひさびさ にフォードワークスへ復帰 ふっき し、4シーズンぶりにワークスマシンで走 はし ることになった。契約 けいやく は1年 ねん で、ヤリ=マティ・ラトバラ のNo.2扱 あつか いとなる[10] 。
2012年 ねん は、開幕 かいまく 戦 せん モンテカルロで3位 い 表彰台 ひょうしょうだい を獲得 かくとく 。その後 ご もコンスタントに成績 せいせき を残 のこ し、前半 ぜんはん 戦 せん はランキング3位 い に付 つ けて9年 ねん 振 ふ りのタイトル獲得 かくとく が期待 きたい された。後半 こうはん 戦 せん は3戦 せん 連続 れんぞく リタイアが響 ひび き、同郷 どうきょう の若手 わかて マッズ・オストベルグ に抜 ぬ かれランキング5位 い に終 お わった。
ラリークロスへの転向 てんこう [ 編集 へんしゅう ]
2014年 ねん 、初代 しょだい World RX王者 おうじゃ となったソルベルグ
2013年 ねん はフォードとの契約 けいやく 延長 えんちょう 交渉 こうしょう がまとまらず、WRC参戦 さんせん を断念 だんねん 。代 か わりに自 みずか らのラリー活動 かつどう の原点 げんてん となったラリークロスへの回帰 かいき を発表 はっぴょう した[11] 。スウェーデン のトルスビーでラリークロスチーム「ペター・ソルベルグ・ラリー・クロス」(PSRX)を立 た ち上 あ げ、ヨーロッパ・ラリークロス選手権 せんしゅけん (英語 えいご 版 ばん ) (Euro RX、 ERX) に参戦 さんせん し、最終 さいしゅう ランキングは8位 い 。ソルベルグ自身 じしん は2014年 ねん にWRCへ復帰 ふっき することを希望 きぼう し[12] 、新規 しんき 参戦 さんせん するヒュンダイ のドライバー候補 こうほ にも挙 あ げられた。しかし、国際 こくさい 自動車 じどうしゃ 連盟 れんめい (FIA)がラリークロス選手権 せんしゅけん の規模 きぼ を拡大 かくだい し、2014年 ねん から世界 せかい ラリークロス選手権 せんしゅけん (World RX) が開催 かいさい されることから、引 ひ き続 つづ きラリークロスに参戦 さんせん することを決 き めた[13] 。
2014年 ねん はPSRXのシトロエン・DS3 に乗 の りWorld RXへ参戦 さんせん 。シーズンを通 とお して安定 あんてい して上位 じょうい の成績 せいせき を挙 あ げ、残 のこ り2戦 せん を残 のこ して第 だい 10戦 せん イタリアにおいて初代 しょだい チャンピオンを獲得 かくとく 。史上 しじょう 初 はじ めて、2つのFIA 世界 せかい 選手権 せんしゅけん シリーズでチャンピオンを獲得 かくとく したドライバーとなった[14] 。2015年 ねん はリアム・ドランとの共同 きょうどう チームである「ソルベルグ・ドラン・ラリー・クロス」(SDRX)から参戦 さんせん 。プジョーワークスの新鋭 しんえい ティミー・ハンセン (Timmy Hansen ) とタイトルを争 あらそ い、最終 さいしゅう 戦 せん で選手権 せんしゅけん 連覇 れんぱ を決 き めた。
2016年 ねん は開幕 かいまく 戦 せん ポルトガルで勝利 しょうり を上 あ げるも、後 ご のレースではなかなかポイントが得 え られず、ランキング4位 い に終 お わった。2017年 ねん はWRCに復帰 ふっき するトヨタからオファーを受 う けたものの、引 ひ き続 つづ きラリークロス選手権 せんしゅけん にフォルクスワーゲン の技術 ぎじゅつ 支援 しえん を受 う け、ポロGTi RX で参戦 さんせん [15] 。2017年 ねん ・2018年 ねん にPSRXフォルクスワーゲン・スウェーデンがチームタイトルを連覇 れんぱ し、チームメイトのヨハン・クリストファーソン (Johan Kristoffersson ) がドライバーズタイトルを連覇 れんぱ するという成功 せいこう を収 おさ めた。ソルベルグ自身 じしん はカスタマー向 む けのラリーカー、フォルクスワーゲン・ポロGTI R5の開発 かいはつ に携 たずさ わり、2018年 ねん のWRCカタルーニャにて6年 ねん ぶりにWRCにスポット参戦 さんせん し、WRC2クラスで3位 い 入賞 にゅうしょう を果 は たした。
2019年 ねん はフォルクスワーゲンのWorld RXプログラムが終了 しゅうりょう したため活動 かつどう 休止 きゅうし となり、ソルベルグは同年 どうねん 限 かぎ りで世界 せかい 選手権 せんしゅけん レベルのトップカテゴリから引退 いんたい することを表明 ひょうめい した[16] 。WRC初 はつ 優勝 ゆうしょう とチャンピオンを決 き めた思 おも い出 で のラリーGBにてWRCキャリアにピリオドを打 う ち[17] 、一方 いっぽう で息子 むすこ のオリバーがWRCデビューを果 は たした。
極 きわ めて陽気 ようき で開放 かいほう 的 てき な性格 せいかく と、前向 まえむ きな思考 しこう の持 も ち主 ぬし であり、派手 はで 好 す きでもある事 こと が知 し られている。ファンの存在 そんざい を大事 だいじ に考 かんが え、応援 おうえん に対 たい する感謝 かんしゃ とサービスとして派手 はで なパフォーマンスを見 み せる。あだ名 な はハリウッド 、また日本 にっぽん では、その飛 と ばすさまから全開 ぜんかい とも呼 よ ばれる。
性別 せいべつ を問 と わずファンの層 そう は厚 あつ く、ラリードライバーの間 あいだ でもソルベルグの存在 そんざい は好意 こうい の対象 たいしょう となっており、(派手 はで すぎるパフォーマンスに苦言 くげん を呈 てい することはあっても)彼 かれ を悪 わる く言 い う人間 にんげん はほとんどいない。特 とく にマーカス・グロンホルム との仲 なか の良 よ さは有名 ゆうめい であり、イベント前 まえ や競技 きょうぎ の合間 あいま に二人 ふたり がよく喋 しゃべ り、時 とき にじゃれあっている姿 すがた はおなじみの風景 ふうけい になっている。例外 れいがい としては、チーム離脱 りだつ までの経緯 けいい (起用 きよう に対 たい して不満 ふまん が募 つの った果 は てに離脱 りだつ )をめぐりフォード・ワークスのリーダー、マルコム・ウィルソン との関係 かんけい が険悪 けんあく になったことがあったが、ソルベルグがチャンピオンになった時 とき にウィルソンが祝福 しゅくふく したことを契機 けいき に和解 わかい が進 すす み、現在 げんざい では何 なに の問題 もんだい もなく会話 かいわ できるほど2人 ふたり の関係 かんけい は修復 しゅうふく されている。
楽観 らっかん 主義 しゅぎ 者 しゃ にも見 み られがちだが、困難 こんなん な問題 もんだい に直面 ちょくめん した時 とき には、解決 かいけつ の為 ため ならば自分 じぶん 自身 じしん やスタッフに対 たい する容赦 ようしゃ ない批判 ひはん も口 くち にし、マシンの改良 かいりょう 点 てん についてアイディアを思 おも いついたら即座 そくざ に携帯 けいたい 電話 でんわ で担当 たんとう 者 しゃ に連絡 れんらく をとるなど、なりふり構 かま わぬ行動 こうどう をとる。2007年 ねん 型 がた のラリーカーについて他 ほか のドライバーが好意 こうい 的 てき な感想 かんそう を述 の べたのに対 たい し、ソルベルグだけは率直 そっちょく に問題 もんだい 点 てん を指摘 してき し批判 ひはん した。
観客 かんきゃく に「ハコ乗 の り」を披露 ひろう するソルベルグ(2008年 ねん グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード にて)
走行 そうこう 時 じ は口 くち をぽかんと開 あ けた状態 じょうたい で運転 うんてん するという独特 どくとく のスタイルを持 も っている。優勝 ゆうしょう する際 さい 、ラリーカーの中 なか で雄叫 おたけ びのような大 おお きな声 こえ をあげてはしゃぐ姿 すがた は有名 ゆうめい である。この面 めん がライバルのセバスチャン・ローブ の冷静 れいせい 沈着 ちんちゃく ぶりとは対照 たいしょう 的 てき である。
パフォーマンスとして、ドアやドアを開 あ けた状態 じょうたい でロールケージに乗 の りながら運転 うんてん する「ハコ乗 の り」やその状態 じょうたい でドーナツターンを行 おこな う「ハコ乗 の りドーナツ」のほか、2004年 ねん のGBラリーではロールケージとドアの上 うえ に立 た つ「立 た ち乗 の り」を披露 ひろう した。その際 さい には助手 じょしゅ 席 せき のミルズがステアリングを握 にぎ っている。なお、同 おな じくパフォーマーとして知 し られるジジ・ガリ が披露 ひろう した「低速 ていそく 走行 そうこう 中 ちゅう に車 くるま から降 ふ り、追 お いかけて再 ふたた び乗 の る」パフォーマンスに半 なか ば本気 ほんき で嫉妬 しっと した様子 ようす 。そんなソルベルグも2008年 ねん に「立 た ち乗 の り」を行 おこな っている最中 さいちゅう に車 くるま のドアが閉 し まってしまい、それに気付 きづ かず転落 てんらく し、すぐさま起 お きあがって車 くるま を追 お いかけて再 ふたた び乗 の り込 こ むという珍事 ちんじ を起 お こしている。
最初 さいしょ のスポンサーがラジコン で知 し られるニッコー だったことに始 はじ まり、イベントなどで来日 らいにち することが多 おお く、また日本 にっぽん のファンの熱心 ねっしん さもあって日本 にっぽん が気 き に入 い っている。ある雑誌 ざっし の取材 しゅざい [要 よう 出典 しゅってん ] で最 もっと も好 す きなラリーイベントは?との質問 しつもん に、祖国 そこく ノルウェーに近 ちか い北欧 ほくおう のイベントではなく「ラリー・ジャパン 」と断言 だんげん していた。近年 きんねん では来日 らいにち のたびに馴染 なじ みの店 みせ で神戸 こうべ 牛 うし のステーキを注文 ちゅうもん したり、機会 きかい があれば寿司 すし を食 た べに行 い くなど日本 にっぽん の食 た べ物 もの に夢中 むちゅう になり、妻 つま パニエラに寿司 すし とカツ丼 かつどん の作 つく り方 かた を覚 おぼ えさせたほど。さらに、ソルベルグの公式 こうしき ホームページには、かつては祖国 そこく のノルウェー語 ご 版 ばん 、世界 せかい 共通 きょうつう 語 ご の英語 えいご 版 ばん と共 とも に、日本語 にほんご 版 ばん のサイトがあった。(2019年 ねん 現在 げんざい は英語 えいご 版 ばん のみ)
非常 ひじょう に負 ま けず嫌 ぎら いな性格 せいかく であり、ミッコ・ヒルボネンとグランツーリスモ で対戦 たいせん した時 とき もソルベルグが勝 か つまでやめなかった。
ソルベルグ家 か はラリーと非常 ひじょう に所縁 しょえん の深 ふか い一族 いちぞく である。両親 りょうしん ともラリークロスの経験 けいけん 者 しゃ で、兄 あに ヘニング・ソルベルグ も現役 げんえき ラリードライバーとして長 なが くWRCに参戦 さんせん している。
夫人 ふじん のパニエラはラリー・ドライバーを多数 たすう 輩出 はいしゅつ したワルフリッドソン家 か の一員 いちいん で、自身 じしん もグループN 車両 しゃりょう でのラリー参戦 さんせん 経験 けいけん があり、2000年 ねん にはノルウェーチャンピオンになっている。2人 ふたり のなれそめも、ラリー会場 かいじょう で知 し り合 あ ったことがきっかけである。
長男 ちょうなん のオリバー・ソルベルグ は父 ちち と同 おな じくオートクロス を出発 しゅっぱつ 点 てん として、15歳 さい からプロラリー競技 きょうぎ に参加 さんか している[18] 。2019年 ねん はアメリカン・ラリー・アソシエーション(ARA)でスバルUSAと契約 けいやく し、父 ちち の往年 おうねん の愛 あい 機 き と同 おな じブルー×ゴールドのカラーリングのスバル・WRX STI をドライブした[19] 。
また、甥 おい のオスカー・ソルベルグとその義兄 ぎけい であるポンタス・ティデマンド (ヘニングの後妻 ごさい の連 つ れ子 こ )もまたラリー選手 せんしゅ である。
2003年 ねん のツール・ド・コルス では木曜日 もくようび のシェイクダウン 中 なか にマシンを大破 たいは させてしまい、翌日 よくじつ の競技 きょうぎ 出走 しゅっそう は不可能 ふかのう かと思 おも われた。しかし、スバルチームの懸命 けんめい の修復 しゅうふく 作業 さぎょう のおかげでスタートに間 ま に合 あ い、不安定 ふあんてい な天候 てんこう 下 か でのタイヤ選択 せんたく にも成功 せいこう して[20] 奇跡 きせき 的 てき な勝利 しょうり を収 おさ めた。結果 けっか 的 てき に、この勝利 しょうり が最終 さいしゅう 戦 せん での逆転 ぎゃくてん チャンピオン獲得 かくとく につながることになる。
2005年 ねん のラリーGBでは最終 さいしゅう 日 び 、マルコ・マルティン のコースアウトに伴 ともな うアクシデントによりコドライバーのマイケル・パーク が死亡 しぼう 。これを受 う け、残 のこ り2ステージがキャンセルされた。この時点 じてん でローブ1位 い 、ソルベルグ2位 い という結果 けっか であったため、ローブのタイトル防衛 ぼうえい が決 き まったかに思 おも えたが、「人 ひと の死 し によるタイトル防衛 ぼうえい 」を嫌 きら ったローブが故意 こい にペナルティを受 う けて順位 じゅんい を下 さ げたため、結果 けっか としてソルベルグの優勝 ゆうしょう となった。優勝 ゆうしょう を譲 ゆず られた形 かたち となったソルベルグはローブの行為 こうい に悲 かな しみと憤 いきどお りを覚 おぼ え、セレモニー会場 かいじょう にインプレッサで入場 にゅうじょう した際 さい にエンジンを空 そら ぶかしし抗議 こうぎ の意 い を示 しめ した。
2011年 ねん のラリー・スウェーデンでは、ラリー初日 しょにち のリエゾン(SSとSSの間 あいだ の移動 いどう )区間 くかん でスピード違反 いはん を犯 おか し、現地 げんち の警察 けいさつ から免許 めんきょ 停止 ていし 処分 しょぶん を受 う けてしまう。免 めん 停 とま 処分 しょぶん には発効 はっこう まで48時 じ 間 あいだ の猶予 ゆうよ 期間 きかん があったため、ラリー2日 にち 目 め までは問題 もんだい なく競技 きょうぎ に参加 さんか できたものの、3日 にち 目 め の最終 さいしゅう SSを目前 もくぜん にして免 まぬかれ 停 とま が発効 はっこう したため同 どう ステージではナビゲーター のクリス・パターソン がソルベルグに代 か わりマシンをドライブするという、WRCでは非常 ひじょう に珍 めずら しい場面 ばめん が見 み られた[21] 。
2012年 ねん のラリー・ド・フランスではコースサイドに転落 てんらく して葡萄 ぶどう 畑 はたけ の中 なか を突 つ っ切 き り、電柱 でんちゅう に激突 げきとつ してなぎ倒 たお すという派手 はで なクラッシュを演 えん じた[22] 。その畑 はたけ で収穫 しゅうかく されたブドウから作 つく ったワインが「ペター・ソルベルグ」の名 な で限定 げんてい 発売 はつばい された[23] 。
『タミヤニュース』第 だい 428巻 かん 、タミヤ 、2004年 ねん 12月。
(再 さい 録 ろく ) 「タミヤの功績 こうせき レーシングマインドを持 も った世界 せかい の匠 たくみ タミヤニュースを飾 かざ った17人 にん 」『Racing on 』第 だい 23巻 かん 第 だい 4号 ごう 、三栄書房 さんえいしょぼう 、2008年 ねん 3月 がつ 、50-55頁 ぺーじ 。
WRC
1970年代 ねんだい 1980年代 ねんだい 1990年代 ねんだい 2000年代 ねんだい 2010年代 ねんだい 2020年代 ねんだい
WRC2
WRC3
2013 セバスチャン・シャードネット
2014 ステファン・ルフェーブル
2015 クエンティン・ギルバード
2016 シモーネ・テンペスティーニ
2017 ニル・ソランス
2018 エンリコ・ブラゾッリ
2020 ヤリ・フットゥネン
2021 ヨアン・ロッセル
2022 ラウリ・ヨーナ
JWRC
2000年代 ねんだい
2001 セバスチャン・ローブ
2002 ダニエル・ソラ
2003 ブライス・ティラバッシ
2004 パー・ガンナー・アンダーソン
2005 ダニ・ソルド
2006 パトリック・サンデル
2007 パー・ガンナー・アンダーソン
2008 セバスチャン・オジェ
2009 マルティン・プロコップ
2010年代 ねんだい
2010アーロン・ブルカルト
2011 クレイグ・ブリーン
2012 エルフィン・エバンス
2013 ポンタス・ティデマンド
2014 ステファン・ルフェーブル
2015 クエンティン・ギルバード
2016 シモーネ・テンペスティーニ
2017 ニル・ソランス
2018 エミール・ベルクヴィスト
2019 ジャン・ソランス
2020年代 ねんだい
2020 フランシス・レナルス
2021 サミ・パヤリ
2022 ロバート・ヴィヴレス
PWRC
2000年代 ねんだい 2010年代 ねんだい
2010 アーミンド・アラウージョ
2011 ヘイデン・パッドン
2012 ベニート・ゲラ