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ホレス・グリーリー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ホレス・グリーリー
Horace Greeley
生年月日せいねんがっぴ 1811ねん2がつ3にち
出生しゅっしょう ニューハンプシャーしゅうアマースト
ぼつ年月日ねんがっぴ 1872ねん11月29にち
死没しぼつ ニューヨークしゅうプレザントビル
所属しょぞく政党せいとう ホイッグとう民主党みんしゅとう共和党きょうわとう
配偶はいぐうしゃ メアリー・チェイニー・グリーリー

選挙せんきょ ニューヨークしゅう
当選とうせん回数かいすう 1
在任ざいにん期間きかん 1848ねん12月4にち - 1849ねん3月3にち

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ホレス・グリーリー(Horace Greeley、1811ねん2がつ3にち-1872ねん11月29にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくでも有数ゆうすう新聞しんぶんしゃ編集へんしゅうしゃであり、自由じゆう共和党きょうわとう創設そうせつしゃ社会しゃかい改革かいかくしゃ政治せいじである。その「ニューヨーク・トリビューンは1840年代ねんだいから1870年代ねんだいにアメリカでもっと影響えいきょうりょくある新聞しんぶんであり、「当時とうじもっと偉大いだい編集へんしゅうしゃとしてのグリーリーの評判ひょうばん確立かくりつした。[1]」グリーリーはその名声めいせい使つかってホイッグとう共和党きょうわとう助成じょせいし、また奴隷どれいせい廃止はいし運動うんどうおおくの改革かいかく運動うんどう提唱ていしょうした。ユリシーズ・グラント共和党きょうわとう政権せいけん腐敗ふはいしたときはその反対はんたい運動うんどうおこない、1872ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう選挙せんきょではあたらしい自由じゆう共和党きょうわとう大統領だいとうりょう候補こうほになった。このとき民主党みんしゅとう支持しじたにもかかわらず、大敗たいはいきっした。グリーリーはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく主要しゅよう政党せいとう大統領だいとうりょう候補者こうほしゃなか選挙せんきょ戦中せんちゅう死亡しぼうした唯一ゆいいつものである。ニューヨーク州立しゅうりつ大学だいがくストーニブルックこうりょうはグリーリーにちなんで名付なづけられている。

初期しょき経歴けいれき

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グリーリーは1811ねん2がつ3にち[2]ニューハンプシャーしゅうアマーストで、まずしい農夫のうふのザキアスとメアリー・グリーリー夫妻ふさい息子むすことしてまれた。フィリップス・エクセター・アカデミー寄宿きしゅくせい中等ちゅうとう教育きょういく学校がっこう)への奨学しょうがくきんことわり、14さい学校がっこうはなれた。バーモントしゅうブルトニーのザ・ノーザン・スターで印刷いんさつこう徒弟とてい修業しゅうぎょうおこない、1831ねんニューヨーク移転いてんした。1834ねん雑誌ざっしからのきでほとんどが構成こうせいされる週刊しゅうかんの「ニューヨーカー」創刊そうかんした。

1836ねん、グリーリーは断続だんぞくてき女性じょせい参政さんせいけんろんしゃだったメアリー・チェイニー・グリーリーと結婚けっこんした。つまごす時間じかんはできるだけすくなくし、ニューヨークにいるときはつまとよりも宿泊しゅくはく施設しせつねむることをえらんだ。夫妻ふさい子供こどもたち7にんのうちわずか2人ふたりだけが成人せいじんになった。

「ニューヨーク・トリビューン」

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「ニューヨーク・トリビューン」の編集へんしゅうスタッフ。グリーリーは前列ぜんれつひだりから3番目ばんめ

ホイッグとう

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1838ねんホイッグとう指導しどうてき政治せいじたちがグリーリーをえらんでおおきな全国ぜんこくてき運動うんどうよう新聞しんぶん「ジェファーソニアン」を編集へんしゅうさせ、その発行はっこう部数ぶすうは15,000たっした。ホイッグとう指導しどうしゃウィリアム・スワードがグリーリーを「その政治せいじてき見解けんかい理論りろんにおいて、社会しゃかいてき慣習かんしゅうにどちらかとえば無頓着むとんじゃくで、非常ひじょう明晰めいせきであり、独創どくそうてきで、また決然けつぜんとしている」と見出みいだした。1840ねん、グリーリーはおおきな全国ぜんこくてき運動うんどうよう新聞しんぶん「ログ・キャビン」を編集へんしゅうし、その発行はっこう部数ぶすう全国ぜんこくで90,000になり、ホイッグとう公認こうにんウィリアム・ハリソン大統領だいとうりょう当選とうせんさせることになった。1841ねん、グリーリーはその新聞しんぶんを「ニューヨーク・トリビューン」に合流ごうりゅうさせた。これは大都市だいとしでホイッグとう新聞しんぶんとして成功せいこうした。その週刊しゅうかんばん国中くになか購読こうどくすうなんまんにもたっした。グリーリーは終生しゅうせい「トリビューン」の編集へんしゅうしゃであり、それを自分じぶんかんがえのすべてを主張しゅちょうするだいとして使つかった。歴史れきしのアラン・ネビンスはつぎのように説明せつめいしている。

トリビューンは、ニューズの活力かつりょく良識りょうしきたか道徳どうとく水準すいじゅんおよび知的ちてき興味きょうみわせることでアメリカのジャーナリズムにあたらしい標準ひょうじゅんつくった。警察けいさつ調書ちょうしょ、スキャンダル、あやしげな医療いりょう広告こうこくおよび軽薄けいはく人々ひとびとはその紙面しめんからはずされた。論説ろんせつ活発かっぱつだったが、通常つうじょう節度せつどがあった。政治せいじてきニューズはまちなかでももっと正確せいかくだった。書評しょひょうほん抜粋ばっすいおおかった。また慢性まんせいてき講師こうしとしてのグリーリーが講義こうぎにスペースをおおいた。この新聞しんぶん相当そうとうすう思慮しりょふか人々ひとびとうったえた。[3]

グリーリーはあらゆる種類しゅるい社会しゃかい問題もんだい急進きゅうしんてき姿勢しせいることにほこりをかんじていた。その提案ていあんしたが読者どくしゃすくなかった。ユートピアかれ魅了みりょうした。アルバート・ブリスベーンに影響えいきょうされ、シャルル・フーリエ空想くうそうてき社会しゃかい主義しゅぎ標榜ひょうぼうした。1850年代ねんだい初期しょきには雑誌ざっしのヨーロッパ特派とくはいんとしてカール・マルクス(およびフリードリヒ・エンゲルス)を採用さいようした。[4]グリーリーはホームステッドほうふく農業のうぎょう改革かいかく提唱ていしょうした。1848ねんには、デイビッド・S・ジャクソン議員ぎいん追放ついほうともな空席くうせきめるためにホイッグ党員とういんとしてだい30アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく議会ぎかい議員ぎいんえらばれ、1848ねん12月4にちから1849ねん3月3にちまでつとめた。

グリーリーは開拓かいたくしゃたちたいしてリベラルな政策せいさく支持しじした。1865ねん7がつ13にち論説ろんせつで、「西部せいぶ若者わかもの西部せいぶってこのくにとも成長せいちょうせよ」と有名ゆうめいうったえをおこなった。この文句もんく元々もともと、ジョン・スーレによって1851ねんに「テレホート・イクスプレス」にかれたと主張しゅちょうするものがいるが[5]、グリーリーのものだとするもののほうおおい。歴史れきしのウォルター・A・マクドーガルはアイオワしゅうのグリネル・カレッジの創設そうせつしゃジョサイア・グリネルの言葉ことば、「わたしがグリーリーのはじめてった若者わかものであり、わたしおこなった」を引用いんようしている。これは1925ねん映画えいが「ゴー・ウェスト」でもげられた。

グリーリーははたらもの擁護ようごしゃとして、あらゆる種類しゅるい独占どくせん企業きぎょう攻撃こうげきし、鉄道てつどう会社かいしゃへの土地とち特許とっきょ否定ひていした。産業さんぎょうはあらゆるもの裕福ゆうふくにするかもしれないとしたが、たか関税かんぜい推奨すいしょうした。菜食さいしょく主義しゅぎしゃ支持しじし、飲酒いんしゅ反対はんたいし、だれかのとなえるどの「主義しゅぎ」にも真剣しんけん注意ちゅういはらった。「トリビューン」がこのように成功せいこうしたのは、素晴すばらしい記者きしゃによって大変たいへんうまくかれた広範こうはんなニューズの解説かいせつとともに、洗練せんれんされた著者ちょしゃによる特集とくしゅう記事きじがあった。グリーリーはニューズの価値かち報告ほうこくしつについてすぐれた判断はんだんしゃだった。

ホイッグとう政策せいさく候補者こうほしゃ説明せつめいするグリーリーの論説ろんせつやニューズ報告ほうこく増刷ぞうさつされこくちゅう議論ぎろんされた。おおくのちいさな新聞しんぶんは「トリビューン」の報告ほうこく論説ろんせつつよたよっていた。グリーリーは議員ぎいんを3ヶ月かげつつとめたが、選挙せんきょえらばれるほか職務しょくむではおお落選らくせんした。

ホレス・グリーリー

共和党きょうわとう

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1854ねん共和党きょうわとうあたらしく結成けっせいされたとき、グリーリーは「トリビューン」を非公式ひこうしき全国ぜんこく機関きかんとし、おおくのページをいて奴隷どれいせい拡大かくだい奴隷どれい権力けんりょくたたかった。南北戦争なんぼくせんそう前夜ぜんや全国ぜんこく購読こうどくすうは30まんたっした。1860ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう選挙せんきょでは、共和党きょうわとう大統領だいとうりょう候補こうほ指名しめいあらそいでミズーリしゅうもとホイッグ党員とういんエドワード・ベイツ支持しじし、このことでふる理解りかいしゃでありもう一人ひとり候補者こうほしゃスワードとのむすきがよわまった。[6]

グリーリーは、「トリビューン」を奴隷どれい権力けんりょく、すなわち奴隷どれい所有しょゆうしゃたちによって連邦れんぽう政府せいふ支配しはい自由じゆう推進すいしん阻害そがいする陰謀いんぼうかんがえられるものに反対はんたいする指導しどうてき新聞しんぶんにした。1861ねん脱退だったい危機ききのとき、アメリカ連合れんごうこくたいして強硬きょうこう路線ろせんった。理論りろんてきには南部なんぶ独立どくりつ宣言せんげんできると同意どういしたが、実際じっさいには「権力けんりょくつかもうとする陰謀いんぼういた暴力ぼうりょくてきで、恥知はじしらずでやけくその少数しょうすうしゃ」がおり、脱退だったい連邦れんぽう権力けんりょくつぶさなければならない違法いほう陰謀いんぼうであるとった。グリーリーは、戦争せんそうあいだ急進きゅうしんてき共和党きょうわとう立場たちばち、リンカーン中庸ちゅうようには反対はんたいした。1862ねんなつ、「2せんまんにんいのり」とだいする論説ろんせつき、みなみぐんたいするより積極せっきょくてき攻撃こうげき迅速じんそく奴隷どれい解放かいほう要求ようきゅうした。1ヵ月かげつのリンカーンによる奴隷どれい解放かいほう宣言せんげんには歓呼かんここたえた。

1860ねん以後いご、グリーリーは次第しだいに「トリビューン」の運営うんえいにおける支配しはいりょくうしない、論説ろんせつ回数かいすうっていたが、1864ねんにリンカーンの再選さいせん可能かのうせいいて敗北はいぼく主義しゅぎ表明ひょうめいし、その論説ろんせつ増刷ぞうさつされたときはくにちゅう反響はんきょうこった。奇妙きみょうなことに1863ねんから1864ねん休戦きゅうせん政策せいさく追求ついきゅうしており、コパーヘッド(北部ほくぶ休戦きゅうせんろんしゃ)との論争ろんそうまれ、アメリカ連合れんごうこくとの妥協だきょう可能かのうせいひらいた。リンカーンは愕然がくぜんとしたが、みなみぐん拒否きょひするだろうことをしりながら、グリーリーを休戦きゅうせん調停ちょうていいん指名しめいしていた。

レコンストラクション

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レコンストラクション時代じだい、グリーリーは一貫いっかんせいみちあゆみ、ほとんど急進きゅうしん共和党きょうわとう支持しじし、1865ねんから1866ねんにはアンドリュー・ジョンソン大統領だいとうりょう反対はんたいした。1867ねんジェファーソン・デイヴィス保釈ほしゃくについてみずか保証人ほしょうにんったことはむかしからの読者どくしゃおおくをおどろかせ、その半数はんすう購読こうどく中止ちゅうしした。

1872ねん選挙せんきょ

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1868ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょではユリシーズ・グラントを支持しじしたが、そのグラントおよび急進きゅうしん共和党きょうわとう訣別けつべつした。グラントの再選さいせん反対はんたいし、1872ねんには自由じゆう共和党きょうわとう参加さんかした。すべてのひとおどろかせたのは、このあたらしい政党せいとうがグリーリーを大統領だいとうりょう候補こうほ指名しめいしたことであり、さらにおどろかせたことに、グリーリーがなんじゅうねん非難ひなんつづけた民主党みんしゅとうからも公認こうにん候補こうほになった。

候補者こうほしゃとしてのグリーリーは、戦争せんそうわった、みなみぐん破壊はかいされた、奴隷どれいせいんだと主張しゅちょうし、さらにレコンストラクションは成功せいこうであり、連邦れんぽうぐん南部なんぶからげて南部なんぶ人々ひとびと自分じぶんたちのことは自分じぶんめさせるときたと主張しゅちょうした。グリーリーの選挙せんきょ運動うんどうよわく、共和党きょうわとういんからはおろもの過激かげき主義しゅぎしゃ変節へんせつしゃ信用しんようできない狂人きょうじんなさ容赦ようしゃ冷笑れいしょうされた。もっと悪意あくいのある攻撃こうげきは「ハーパーズウィークリー」にったトマス・ナストの風刺ふうしだった。グリーリーは結局けっきょくグラントの後塵こうじんはいし、一般いっぱん投票とうひょうでの得票とくひょうりつ43%にとどまった。

この惨敗ざんぱいは1872ねんにグリーリーがけた不運ふうんひとつにぎなかった。グリーリーは、フィリップ・アーノルドによる有名ゆうめいなダイアモンドと宝石ほうせき詐欺さぎだまされた知名度ちめいどたかいくにんかの投資とうしなかにそのがあった。一方いっぽう、グリーリーがそのせいれき追求ついきゅうするなかで、「ニューヨーク・ヘラルド」のオーナー、ホワイトロー・リードが「トリビューン」をった。

一般いっぱん選挙せんきょわってあいだもなく、グリーリーのつまんだ。グリーリーも狂気きょうきおちいり、選挙せんきょじん投票とうひょうおこなわれるまえんだ。そのぎわで、リードのことをして「えい、畜生ちくしょう、おまえわたし新聞しんぶんぬすんだ」とさけんだとわれている。グリーリーは1872ねん11月29にち金曜日きんようび午後ごご650ふんに、ニューヨークしゅうプレザントビルのジョージ・C・S・チョート医師いし私設しせつ病院びょういんんだ。グリーリーは選挙せんきょじんひょうることはなく、グリーリーに投票とうひょうするはずだったひょうもの分散ぶんさんされた。しかし、ジョージアしゅう選挙せんきょじんひょうはグリーリーに敬意けいいあらわして白票はくひょうだった(資料しりょうによるとグリーリーは死後しごひょうとして3ひょうけたが、それらは連邦れんぽう議会ぎかいによって無効むこうとされた)。

グリーリーは質素しっそ葬儀そうぎ要求ようきゅうしていたが、そのむすめたちがそれを無視むしし、盛大せいだい葬儀そうぎ手配てはいした。グリーリーはニューヨークのグリーンウッド墓地ぼち埋葬まいそうされている。

遺産いさん文化ぶんかてき引用いんよう

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1906ねんの「ニューヨーク・トリビューン」ビル
  • ニューヨークしゅうチャッパクァにあるグリーリーのいえ現在げんざいニューキャッスル歴史れきし協会きょうかい本部ほんぶとされている。地元じもと高校こうこうはグリーリーの名前なまえかんしており、この高校こうこう新聞しんぶんひとつはグリーリーが所有しょゆうした19世紀せいき新聞しんぶん敬意けいいあらわしてその名前なまえけている。
  • 「ニューヨーク・トリビューン」ビルはペイス大学だいがく最初さいしょ本部ほんぶだった。今日きょう、そのビルがっていたところはペイス大学だいがくニューヨークキャンパスのワン・ペイス・プラザふくあいビルとなっている。ホレス・グリーリーがんだチョート医師いし住居じゅうきょ私設しせつ病院びょういんはプレザントビルにあるペイス大学だいがくのキャンパスの一部いちぶとなっている。
  • ニューヨークにあるコロンビア・ジャーナリズム学校がっこうのロビーにはグリーリーのあさりがかざられている。
  • ナチス経済けいざい学者がくしゃヒャルマル・シャハトのフルネームはヒャルマル・ホレス・グリーリー・シャハトである。シャハトはアドルフ・ヒトラーの「財政ざいせい魔術まじゅつ」で、ワイマール共和きょうわこくだいさん帝国ていこく時代じだいのドイツ国立こくりつ銀行ぎんこう総裁そうさいであり、のちニュルンベルクでの国際こくさい戦犯せんぱん裁判さいばん被告ひこく無罪むざい)となった。
  • いくつかの場所ばしょがグリーリーにちなんで名付なづけられた。たとえば、ペンシルベニアしゅうグリーリーまちコロラドしゅうグリーリーテキサスしゅうグリーリー、カンザスしゅうグリーリーぐん(ホレスというまちがあり、ぐんちょう所在地しょざいちはトリビューン)およびネブラスカしゅうグリーリーぐん(やはりホレスというまちがある)などである。
グリーリーの坐像ざぞう
  • マンハッタンのヘラルド・スクェアには、ホレス・グリーリー広場ひろばというちいさな公園こうえんがあり、グリーリーの坐像ざぞうかれている。この公園こうえんもと「ニューヨーク・ヘラルド」ビルがあった場所ばしょ隣接りんせつしている。
  • シティホール公園こうえんにもグリーリーの坐像ざぞうかれている。
  • ニューヨークしゅうウェストチェスターのホレス・グリーリー高校こうこうはグリーリーにちなんで名付なづけられた。
  • ニューハンプシャーしゅうナシュアのグリーリー公園こうえんはグリーリーにちなんで名付なづけられた。
  • スタテンアイランドのグラントシティにあるグリーリー・アベニューはグリーリーにちなんで名付なづけられた。
  • ホレス・グリーリーさんミシガンしゅうキュウイーノー半島はんとうにある最高峰さいこうほうのひとつである。
  • ホレス・グリーリーは2002ねん映画えいがニューヨークのギャング」で「トリビューン」の発行はっこうじんとして登場とうじょうする。
  • ホレス・グリーリーは、アンドリュー・ジャクソン大統領だいとうりょうを、「ウースターたいジョージアしゅう事件じけん」の合衆国がっしゅうこく最高裁判所さいこうさいばんしょ判決はんけつのち、「ジョン・マーシャルが『さあかれにそれを執行しっこうさせよう』という判決はんけつをくだした」とったもの引用いんようしたが、これはあやまりだった。
  • グリーリーは「ニューズ」という言葉ことば複数ふくすうがたにしたものかんがえられており、そのスタッフに「なにかニューズはいかい?」といてただすのがつねだったとわれている。かって、トリビューンの記者きしゃに「「そちらにニューズはるかい?」“ARE THERE ANY NEWS?”と電報でんぽうつと、記者きしゃ電報でんぽうで「あたらしいものはい」"NOT A NEW."とかえした。
  • オルタナティブ・ミュージックのバンド「グリーリー・エステート」には「西部せいぶけ、若者わかものよ」とだいするうたがある。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Michael Emery and Edwin Emery, The Press and America (1988) 124-6.
  2. ^ Nelson, Randy F. The Almanac of American Letters. Los Altos, California: William Kaufmann, Inc., 1981: 39. ISBN 086576008X
  3. ^ Nevins in Dictionary of American Biography (1931)
  4. ^ [1]
  5. ^ Skagit River Journal: "Go West , young man" Who wrote it? Greeley or Soule?
  6. ^ Van Dusen 241-44

参考さんこう文献ぶんけん

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いち史料しりょう

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史料しりょう

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  • Cross, Coy F., II. Go West Young Man! Horace Greeley's Vision for America. U. of Mexico Press, 1995. 165 pp. online edition
  • Downey, Matthew T. "Horace Greeley and the Politicians: The Liberal Republican Convention in 1872," The Journal of American History, Vol. 53, No. 4. (Mar., 1967), pp. 727-750. in JSTOR
  • Durante, Dianne, Outdoor Monuments of Manhattan: A Historical Guide (New York University Press, 2007): discussion of Greeley and the 2 memorials to him in New York.
  • Lunde, Erik S. Horace Greeley (Twayne's United States Authors Series, no. 413.) Twayne, 1981. 138 pp.
  • Lunde, Erik S. "The Ambiguity of the National Idea: the Presidential Campaign of 1872" Canadian Review of Studies in Nationalism 1978 5(1): 1-23. ISSN 0317-7904
  • McDougall, Walter A. Throes of Democracy: The American Civil War Era, 1829-1877 (Harper Collins, 2008)
  • Nevins, Allan. "Horace Greeley" in Dictionary of American Biography (1931).
  • Parrington, Vernon L. Main Currents in American Thought (1927), II, pp. 247-57. online edition
  • Robbins, Roy M., "Horace Greeley: Land Reform and Unemployment, 1837-1862," Agricultural History, VII, 18 (January, 1933).
  • Rourke, Constance Mayfield ; Trumpets of Jubilee: Henry Ward Beecher, Harriet Beecher Stowe, Lyman Beecher, Horace Greeley, P.T. Barnum (1927). online edition
  • Schulze, Suzanne. Horace Greeley: A Bio-Bibliography. Greenwood, 1992. 240 pp.
  • Seitz, Don C. Horace Greeley: Founder of the New York Tribune (1926) online edition
  • Van Deusen, Glyndon G. Horace Greeley, Nineteenth-Century Crusader (1953), standard biography online edition
  • Weisberger, Bernard A. "Horace Greeley: Reformer as Republican" . Civil War History 1977 23(1): 5-25. ISSN 0009-8078
  • Robert C. Williams. Horace Greeley: Champion of American Freedom (2006)
  • Lauren Keach Lessing (2006). Presiding Divinities: Ideal Sculpture in Nineteenth-Century American Domestic Interiors. Ph.D. dissertation: Indiana University 

外部がいぶリンク

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アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく下院かいん
先代せんだい
デイビッド・S・ジャクソン
ニューヨークしゅう選出せんしゅつアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく下院かいん議員ぎいん
1848ねん12月4にち – 1849ねん3がつ3にち
次代じだい
ジェイムズ・ブルックス
とうしょく
先代せんだい
ホレイショ・シーモア
民主党みんしゅとう推薦すいせんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう候補こうほ
1872ねん
次代じだい
サミュエル・ティルデン
先代せんだい
新設しんせつ
自由じゆう共和党きょうわとう推薦すいせんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう候補こうほ
1872ねん
次代じだい
解党かいとう