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ムハンマド・バーキル・ハキーム

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アーヤトゥッラー・アッ=サイイド・ムハンマド・バーキル・アル=ハキームاية الله السيد محمد باقر الحكيم Ayatullah al-Sayyid Muhammad Baqir al-Hakim, 1939ねん - 2003ねん8がつ29にち)は、イラクシーア12イマーム指導しどうしゃで、はんサッダーム・フセイン組織そしきのひとつイラク・イスラム革命かくめい最高さいこう評議ひょうぎかい(SCIRI)の指導しどうしゃ

1939ねんアーヤトゥッラー・サイイド・ムフシン・アル=ハキームのとして、ナジャフまれた。ちちムフシンは、1955ねんから1970ねんぬまで、12イマーム・シーア最高さいこう法学ほうがくしゃマルジャエ・タクリード」をつとめたイスラム法学ほうがくしゃであった。ハキーム預言よげんしゃムハンマド子孫しそんしょうするサイイド家系かけいで、イラクのシーア信徒しんと尊敬そんけいあつめる法学ほうがくしゃ家系かけいである。ハキームは、イラクのシーア聖地せいちナジャフそだち、ここで法学ほうがくおさめた。

かれ1950年代ねんだいわりごろからイスラム主義しゅぎ政治せいじ運動うんどうたずさわり、その指導しどうしゃムハンマド・バーキル・サドル英語えいごばんしたがった。1970年代ねんだいはいるとかれらシーア法学ほうがくしゃ政治せいじグループはバアスとう政権せいけんによって弾圧だんあつけはじめ、1977ねん逮捕たいほされて終身しゅうしんけい判決はんけつけた。1979ねんには釈放しゃくほうされたものの、サドルがよく1980ねん処刑しょけいさたのをけ、前年ぜんねんシーア法学ほうがくしゃ実権じっけんにぎっていたイラン亡命ぼうめいした。

ハキームは、イランでイラク・イスラム革命かくめい最高さいこう評議ひょうぎかいをつくり、国外こくがいにおけるシーアはん政府せいふ運動うんどう指導しどうしゃとなった。どう評議ひょうぎ会派かいははその関係かんけいじょうイラン政府せいふとのとの関係かんけいふかいとされるが、近年きんねんアメリカ接近せっきんしていたともわれる。

2003ねんイラク戦争せんそうにより、サッダーム・フセイン政権せいけんがアメリカに打倒うちたおされたのをけ、5月イラクに帰国きこく。ナジャフにはいり、アメリカ主導しゅどう暫定ざんてい統治とうち政権せいけん協力きょうりょくてき姿勢しせいせた。

8がつ29にちモスクでの金曜きんよう礼拝れいはい説教せっきょうえたところでばくだんテロをけ、死亡しぼうした。

イラク・イスラム革命かくめい最高さいこう評議ひょうぎかい指導しどうしゃとしての役割やくわりは、おとうとアブドゥルアズィーズ・ハキーム継承けいしょうした。