この項目 こうもく では、フランスのコミューンについて説明 せつめい しています。日本 にっぽん のイラストレーターについては「Rurudo 」をご覧 らん ください。
ルルド (Lourdes )は、フランス 、オクシタニー地域 ちいき 圏 けん 、オート=ピレネー県 けん のコミューン 。
1858年 ねん にルルドの聖母 せいぼ の出現 しゅつげん 以来 いらい 、カトリックの巡礼 じゅんれい 地 ち となり、聖域 せいいき の事務 じむ 局 きょく によれば、約 やく 6万 まん 人 にん の患者 かんじゃ や病人 びょうにん を含 ふく む毎年 まいとし 600万 まん 人 にん の巡礼 じゅんれい 者 しゃ や観光 かんこう 客 きゃく を迎 むか え入 い れている[1] 。
ルルドのホテルは12,000室 しつ 以上 いじょう の客室 きゃくしつ があり、パリ に次 つ ぐ国内 こくない 第 だい 2位 い のホテルの町 まち だが、ホテル数 すう ではニース に次 つ いで国内 こくない 第 だい 3位 い である[2] 。
ルルドの位置 いち
コミューンとしてのルルドは、およそ標高 ひょうこう 300mのところで隣接 りんせつ するコミューン、プエイフェレによって切 き り離 はな され、2つの地区 ちく に分 わ かれている。北部 ほくぶ はムルルの森 もり からなる飛 と び地 ち 、南部 なんぶ はルルドの町 まち の中心 ちゅうしん 部 ぶ がある。飛 と び地 ち である北部 ほくぶ が、ピレネー=アトランティック県 けん と接 せっ している。
ルルドはピレネー山脈 さんみゃく のふもとにあり、歴史 れきし 的 てき な地方 ちほう 区分 くぶん ではビゴール地方 ちほう に含 ふく まれ、タルブ の南西 なんせい 方向 ほうこう にあり、ポ ぽ ー川 がわ が流 なが れる。聖域 せいいき は町 まち の西側 にしがわ 、ポ ぽ ー川 がわ に沿 そ って町 まち から出 で ていく地点 ちてん にある。
町 まち は、城 しろ が建 た っていた岩 いわ の頂上 ちょうじょう 周囲 しゅうい に建設 けんせつ された。アルジュレスまたはガヴ・ド・ポーと呼 よ ばれた氷河 ひょうが が掘削 くっさく した結果 けっか 、氷河 ひょうが 盆地 ぼんち が生 う まれた。それは最終 さいしゅう 氷 ごおり 期 き であるヴュルム氷河期 ひょうがき (5万 まん 年 ねん 前 まえ から1万 まん 2千 せん 年 ねん 前 まえ にかけて)の最後 さいご の段階 だんかい に、その後 ご は氷河 ひょうが が溶 と けた後 のち にポ ぽ ー川 がわ そのものによってつくられた。盆地 ぼんち の南 みなみ は、ジェール峰 ほう とベウト峰 ほう から始 はじ まるドリーネ と洞穴 どうけつ を備 そな えたカルスト 石灰岩 せっかいがん の山地 さんち が大勢 おおぜい を占 し め、ポ ぽ ー川 がわ が山地 さんち を分断 ぶんだん する。要塞 ようさい 城 じょう の石灰岩 せっかいがん の盛 も り上 あ がりが占 し める町 まち の中心 ちゅうしん は、古 ふる い採石 さいせき 場 じょう がいくつか残 のこ る。標高 ひょうこう 800mのサラザン洞窟 どうくつ とルー洞窟 どうくつ は聖域 せいいき を見下 みお ろす山地 さんち の中 なか にあり、氷河 ひょうが の影響 えいきょう を受 う けたカルストの形状 けいじょう が見 み られる[3] 。
ルルドの初期 しょき の知 し られている言及 げんきゅう の1つは983年 ねん 、サン・ペ大 だい 修道院 しゅうどういん 建設 けんせつ のさなかに始 はじ まる。そこはアストラック伯 はく アルノーが、ルルド住民 じゅうみん の市場 いちば の第 だい 3の部分 ぶぶん として授 さづ けた場所 ばしょ だった(tertiam partem mercati Lurdensis)[4] 。その後 ご 1114年 ねん から1130年 ねん までlo senhor de Lorda[5] 、1163年 ねん から1185年 ねん までPetro comiti Bigorrensi in castro de Lorda[6] 、1216年 ねん にcastel de Lourda[7] 、1250年 ねん 頃 ごろ al castet de Lorda[8] 、1682年 ねん la ville de Lorde[9] 、1757年 ねん Lourde[10] 、18世紀 せいき 末 まつ からのみLourdesが現 あらわ れ、1800年代 ねんだい 以降 いこう 続 つづ いている[11] 。
ルルドの馬 うま
ルルドはフランス国内 こくない においても国際 こくさい 的 てき にも、なにより聖母 せいぼ マリアの町 まち である。1858年 ねん 2月 がつ に歴史 れきし が始 はじ まるカトリック の巡礼 じゅんれい 地 ち である。『しかし1858年 ねん 以前 いぜん には、別 べつ のルルドがあった。[12] 』ルルドの地 ち は、いくつかの谷 たに の交差点 こうさてん にあり、ラヴダン地方 ちほう のかんぬきと呼 よ ばれている。旧石器時代 きゅうせっきじだい から現代 げんだい までを網羅 もうら する、確 たし かに広範囲 こうはんい に文書 ぶんしょ で記 しる された歴史 れきし を持 も ち、その知識 ちしき はピレネーにおける分野 ぶんや で不可欠 ふかけつ なものとなっている。
新 あら たなルルドは巡礼 じゅんれい とともに生 う まれた。宗教 しゅうきょう 的 てき にも社会 しゃかい 的 てき にも経済 けいざい 的 てき にも、主題 しゅだい は大 おお きい。
いくつかの谷間 たにま にあるルルドの地 ち には、先史 せんし 時代 じだい から定住 ていじゅう 地 ち があった。エスペリュグ洞窟 どうくつ では、居住 きょじゅう の痕跡 こんせき (工具 こうぐ 、宝飾 ほうしょく 品 ひん 、陶器 とうき 、埋葬 まいそう 物 ぶつ など)が発見 はっけん された[13] 。国立 こくりつ 考古学 こうこがく 博物館 はくぶつかん (fr )には、『ルルドの馬 うま 』と呼 よ ばれる、マンモス の牙 きば から切 き り出 だ された7.3cmの彫像 ちょうぞう (紀元前 きげんぜん 13000年 ねん 頃 ごろ 、マグダレニア期 き から旧石器時代 きゅうせっきじだい までの間 あいだ のもの)がある[14] 。アルルーザ洞窟 どうくつ では、新 しん 石器 せっき 時代 じだい と青銅器 せいどうき 時代 じだい の痕跡 こんせき が残 のこ る[15] 。より大 だい 規模 きぼ な発掘 はっくつ 作業 さぎょう で、おそらくルルドの領域 りょういき 内 ない で先史 せんし 時代 じだい の重要 じゅうよう な定住 ていじゅう 地 ち の痕跡 こんせき が明 あき らかになるだろう[16] 。
中世 ちゅうせい には、ルルドとルルドの要塞 ようさい 城 じょう はビゴール伯 はく の本拠地 ほんきょち だった[17] 。アルビジョア十字軍 じゅうじぐん において、城 しろ は州 しゅう のかんぬきの一 ひと つとみなされ、異 こと なる派閥 はばつ 間 あいだ の係争 けいそう 地 ち となった。その後 ご 城 じょう はシャンパーニュ伯 はく およびナバーラ王 おう の支配 しはい 下 か に置 お かれ、フィリップ端麗 たんれい 王 おう 時代 じだい にフランス王 おう の手 て に渡 わた り、百 ひゃく 年 ねん 戦争 せんそう 中 なか の1360年 ねん から15世紀 せいき 初 はじ めまでイングランド が支配 しはい した。支配 しはい 者 しゃ たちは、都市 とし と市場 いちば の戦略 せんりゃく 的 てき 状況 じょうきょう をいかに活用 かつよう するかを知 し っていた[18] 。
南西 なんせい 側 がわ から見 み た城 しろ
町 まち は、16世紀 せいき と17世紀 せいき に危機 きき を経験 けいけん した。教区 きょうく 教会 きょうかい は、近 ちか くのサン・ペ大 だい 修道院 しゅうどういん のように、ユグノー戦争 せんそう で破壊 はかい された[19] [20] 。しかしながら、ルルドは地理 ちり 的 てき 条件 じょうけん をどのように利用 りよう するか知 し っていた。町 まち はとりわけ、バレージュにある『温泉 おんせん の道 みち 』に通 つう じていた。バレージュの源泉 げんせん は負傷 ふしょう 者 しゃ の治療 ちりょう に用 もち いられていた[21] 。城 しろ は『ラヴダン地方 ちほう のかんぬき』として、戦略 せんりゃく 的 てき に重要 じゅうよう な場所 ばしょ のままだった[22] 。人口 じんこう は、飢饉 ききん と疫病 えきびょう の流行 りゅうこう にもかかわらず、18世紀 せいき に増加 ぞうか した[23] 。1696年 ねん には2315人 にん を数 かぞ え、1730年 ねん から1772年 ねん までの間 あいだ にさらに1189人 にん 増 ふ えた[23] 。しかし、フランス革命 かくめい 前夜 ぜんや におよそ2300人 にん いた住民 じゅうみん たちに危機 きき がもたらされた[24] 。
1755年 ねん 頃 ごろ 、人口 じんこう の約 やく 40%が農民 のうみん 、約 やく 40%が職人 しょくにん (繊維 せんい 業 ぎょう が主体 しゅたい )、8.5%が採石 さいせき 業者 ぎょうしゃ (スレートや石 いし の石工 せっこう )と建設 けんせつ 業者 ぎょうしゃ 、約 やく 13%が商人 しょうにん であった[25] 。以後 いご の年月 としつき 、労働 ろうどう 力 りょく が増加 ぞうか して製造 せいぞう 業 ぎょう に特 とく に有益 ゆうえき となる『都市 とし 機能 きのう 』に直面 ちょくめん し、農業 のうぎょう がその重要 じゅうよう 性 せい を失 うしな っていった[26] 。スペインとの和平 わへい 締結 ていけつ は、城 しろ の戦略 せんりゃく 的 てき 利益 りえき を失 うしな うことにつながり、城 しろ は刑務所 けいむしょ に転用 てんよう された。それはすなわち、傷病 しょうびょう 者 しゃ で構成 こうせい されていた城 しろ の守備 しゅび 隊 たい を圧迫 あっぱく する問題 もんだい となり、彼 かれ らはルイ16世 せい に送 おく られた請願 せいがん 書 しょ によって守 まも られていた[22] 。
フランス革命 かくめい の間 あいだ 、その戦略 せんりゃく 的 てき な位置 いち から、町 まち は革命 かくめい 軍 ぐん に装備 そうび や食糧 しょくりょう を提供 ていきょう することが義務付 ぎむづ けられていた。2741人 にん の人口 じんこう があった。1790年 ねん にオート=ピレネー県 けん が新設 しんせつ されると、ルルドは県 けん に5つ創設 そうせつ された郡 ぐん の1つとなった。その後 ご 、町 まち は革命 かくめい 戦争 せんそう 中 ちゅう に多 おお くの義勇 ぎゆう 兵 へい を革命 かくめい 軍 ぐん に派遣 はけん した[27] 。1795年 ねん にスペインと和平 わへい が結 むす ばれ、城 しろ の非 ひ 武装 ぶそう 化 か につながった。城 しろ は1797年 ねん から再 ふたた び傷病 しょうびょう 兵 へい で構成 こうせい される守備 しゅび 隊 たい が置 お かれた[28] 。
1858年 ねん 、ベルナデット・スビルー は、生地 きじ でもある町 まち の西側 にしがわ にあるポ ぽ ー川 がわ のほとり、マサビエルの小 ちい さな洞窟 どうくつ で、『白 しろ い貴婦人 きふじん 』が数 すう 回 かい 自分 じぶん の前 まえ に現 あらわ れたと発言 はつげん した[29] 。熱狂 ねっきょう した近隣 きんりん 住民 じゅうみん たちが集 あつ まり洞窟 どうくつ の前 まえ で祈 いの るようになり、礼拝 れいはい 堂 どう のかたちをとるようになるが、ベルナデットにしか『聖母 せいぼ 』は見 み えなかった[30] 。信仰 しんこう 篤 あつ く好奇心 こうきしん が強 つよ い信者 しんじゃ たちが流入 りゅうにゅう するにつれ、市長 しちょう アンゼルム・ラカデは、木製 もくせい のフェンスで一時 いちじ 的 てき に洞窟 どうくつ の往来 おうらい を禁止 きんし した。1858年 ねん 10月 がつ 初旬 しょじゅん 、一般 いっぱん 庶民 しょみん たちの圧力 あつりょく と、熱心 ねっしん なカトリック教徒 きょうと である皇后 こうごう ウジェニー の仲介 ちゅうかい によってフェンスは取 と り除 のぞ かれた。1862年 ねん 、聖母 せいぼ の出現 しゅつげん はタルブ司教 しきょう ロランスによって公式 こうしき に認定 にんてい された[31] 。聖域 せいいき 内 ない の事実 じじつ 認定 にんてい 局 きょく は記録 きろく をとる責任 せきにん があり、1858年 ねん 以降 いこう 7000件 けん 以上 いじょう の治癒 ちゆ が報告 ほうこく されているが、そのうち69件 けん が教会 きょうかい によって公式 こうしき に奇跡 きせき と認定 にんてい された[32] 。
1900年代 ねんだい のマルカデル広場 ひろば 。市場 いちば と路面 ろめん 電車 でんしゃ がある
聖域 せいいき の事業 じぎょう は、出現 しゅつげん と同 おな じ年 ねん に始 はじ まった。最初 さいしょ につくられた礼拝 れいはい 堂 どう は、イマキュレ・コンセプション大 だい 聖堂 せいどう にとってかわり、その下部 かぶ にはより多 おお くの巡礼 じゅんれい 者 しゃ たちを収容 しゅうよう するためノートル・ダム・デュ・ロゼール大 だい 聖堂 せいどう が建設 けんせつ された[33] 。この2つのバシリカはいずれも洞窟 どうくつ の上 うえ にある。町 まち の一部 いちぶ は教会 きょうかい によって、洞窟 どうくつ 、聖域 せいいき 、城 しろ に囲 かこ まれた部分 ぶぶん が『聖母 せいぼ マリアの市街 しがい 』(cité mariale)であると宣言 せんげん された[34] 。ルルドの自治体 じちたい 当局 とうきょく は、宗教 しゅうきょう 当局 とうきょく から圧力 あつりょく を受 う けながら、地元 じもと の反対 はんたい にもかかわらず、中世 ちゅうせい 以来 いらい の町 まち の通 とお りを拡張 かくちょう し、北 きた から城 しろ を迂回 うかい して聖域 せいいき につながるグロット大通 おおどお りをたどれるようにした。土地 とち はその後 ご 分譲 ぶんじょう され、巡礼 じゅんれい 者 しゃ を迎 むか える商店 しょうてん やホテルの建設 けんせつ が行 おこな われた[35] 。1899年 ねん にルルドの路面 ろめん 電車 でんしゃ がサービスを開始 かいし し、ルルド駅 えき から洞窟 どうくつ へ、またジェール峰 ほう のロープウェイへのアクセスが容易 ようい になった。19世紀 せいき 末 まつ 、ルルドは新 あら たな教区 きょうく 教会 きょうかい としてサクレ・クール教会 きょうかい を建 た てた。聖 せい ペテロに捧 ささ げられた古 ふる い教区 きょうく 教会 きょうかい は、1904年 ねん には荒 あ れ果 は てていた。古 ふる い教区 きょうく 教会 きょうかい の家具 かぐ は城 しろ に移 うつ された[36] 。最後 さいご に、1950年代 ねんだい には、ローマ教皇 きょうこう ピウス10世 せい に捧 ささ げられた巨大 きょだい な地下 ちか 聖堂 せいどう が建設 けんせつ された。現在 げんざい のルルドは、ファティマ 、ローマ、チェンストホヴァ 、グアダルーペと同様 どうよう に、世界 せかい 有数 ゆうすう のカトリック巡礼 じゅんれい 地 ち の1つである。ヨハネ・パウロ2世 せい は1983年 ねん と2004年 ねん の2度 ど 、巡礼 じゅんれい に訪 おとず れている。2007年 ねん 12月8日 にち から2008年 ねん 12月8日 にち の間 あいだ 、聖母 せいぼ の出現 しゅつげん 150周年 しゅうねん の年 とし を祝 いわ うために、900万 まん 人 にん 以上 いじょう の巡礼 じゅんれい 者 しゃ たちがルルドを訪 おとず れた。記念 きねん 年 ねん にあたる2008年 ねん 9月 がつ 、教皇 きょうこう ベネディクト16世 せい は聖域 せいいき を訪問 ほうもん している。
1962年 ねん
1968年 ねん
1975年 ねん
1982年 ねん
1990年 ねん
1999年 ねん
2006年 ねん
2015年 ねん
16023
17939
17870
17425
16300
15203
15265
13946
参照 さんしょう 元 もと :1962年 ねん から1999年 ねん までは複数 ふくすう コミューンに住所 じゅうしょ 登録 とうろく をする者 もの の重複 じゅうふく 分 ぶん を除 のぞ いたもの。それ以降 いこう は当該 とうがい コミューンの人口 じんこう 統計 とうけい によるもの。1999年 ねん までEHESS/Cassini[37] 、2006年 ねん 以降 いこう INSEE [38] [39] 。
経済 けいざい は2つの主要 しゅよう 部門 ぶもん に分 わ かれている。1つは観光 かんこう と巡礼 じゅんれい 、もう1つはこの規模 きぼ の平均 へいきん 的 てき な都市 とし で見 み られる商業 しょうぎょう と産業 さんぎょう 活動 かつどう に専念 せんねん している。
オテル・ド・ヴィル、南側 みなみがわ ファサード
オテル・ド・ヴィル、北側 きたがわ ファサード
ヴィッラ・ガザニュ
ヴィッラ・ラシェル
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