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ヴァルダス・アダムクス

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ヴァルダス・アダムクス
Valdas Adamkus


任期にんき 2004ねん7がつ12にち2009ねん7がつ12にち

任期にんき 1998ねん2がつ26にち2003ねん2がつ26にち

出生しゅっしょう (1926-11-03) 1926ねん11月3にち(97さい
リトアニアの旗 リトアニア共和きょうわこくカウナス
政党せいとう 無所属むしょぞく
配偶はいぐうしゃ アルマ・アダムキエネ

ヴァルダス・アダムクスValdas Adamkus1926ねん11月3にち - )は、リトアニア政治せいじ。リトアニア大統領だいとうりょう在任ざいにん1998ねんから2003ねん再任さいにん2004ねんから2009ねん)。1955ねんまでの氏名しめいヴォルデマラス・アダムカヴィチュスVoldemaras Adamkavičius)。

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アメリカ移住いじゅうまで

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1926ねん11月3にち、リトアニア・カウナスカトリック一家いっかまれる。ちちイグナスリトアニアばん軍人ぐんじんで、だいいち世界せかい大戦たいせんでの従軍じゅうぐん経験けいけんゆうし、リトアニア独立どくりつ戦争せんそうリトアニアばん志願しがんへいとして参加さんか[1]1918ねんから19ねんまでリトアニア空軍くうぐん学校がっこうリトアニアばん初代しょだい校長こうちょうつとめた[1]戦後せんごカウナスえきリトアニアばん警察けいさつ署長しょちょうつとめた[1]

ヴォルデマラスが2さいのときに両親りょうしん離婚りこん[2]ははゲノヴァイテ・アダムカヴィチエネはすぐにスタシース・カラリスと再婚さいこんし、カラリエネに改姓かいせいした[2]。ヴォルデマラスは義父ぎふはは、そしてにんのあいだにまれたおとうとチェスロヴァスとともにカウナスジャレカルニスリトアニアばん地区ちくにあるちいさないえらすこととなった[2]。なお、二人ふたりのあいだには、じゅうすうねんむすめまれている[2]義父ぎふのスタシースはカウナス市役所しやくしょ勤務きんむはは運輸うんゆ通信つうしんしょうリトアニアばんつとめていた[2]

ジャレカルニス地区ちくにあるヨナス・ヤブロンスキス初等しょとう学校がっこうげんカウナス・ヨナス・ヤブロンスキス・ギムナジウムリトアニアばん)にとおったのち、カウナス・アウシュラ・ギムナジウムリトアニアばんかよ[3]。アウシュラ・ギムナジウムでは級長きゅうちょうつとめた[4]どう時期じきにアウシュラ・ギムナジウムに在学ざいがくしていたガブリエリュス・ジェムカルニス=ランズベルギスリトアニアばん(のちに最高さいこう会議かいぎ議長ぎちょうつとめるヴィータウタス・ランズベルギスあに)は、「アドマス」とばれていたアダムカヴィチュスがまわりから信頼しんらいされており、「大統領だいとうりょう」さえばれていたとかたっている[4]

1940ねんにリトアニアがソ連それん併合へいごうされ、41ねんナチ・ドイツ占領せんりょうされると、同年どうねんあきにジェムカルニス=ランズベルギスのさそいをけて地下ちか抵抗ていこう組織そしきリトアニア自由じゆう戦士せんし連合れんごうリトアニアばん (LLKS) にくわわり、ジェムカルニス=ランズベルギスやリュータス・グリニュスリトアニアばんカジース・グリニュスもと大統領だいとうりょう息子むすこ)、ベネディクタス・ヴィーテニス・マチュイカリトアニアばん(のちのコネティカット大学だいがく教授きょうじゅ)とともに青年せいねん対象たいしょうとした新聞しんぶんJaunime budėk!』を出版しゅっぱんするなどした[5]。1944ねんにジェムカルニス=ランズベルギスがゲシュタポに逮捕たいほされると、アダムカヴィチュスも逮捕たいほされるおそれがあったことから、カウナスから鉄道てつどうラバリトアニアばんまでのがれ、そこで1週間しゅうかんかくした[6]

そのソ連それんがリトアニアをふたた統治とうちするようになると、アダムカヴィチュスは1944ねんドイツ避難ひなんし、ドイツのミュンヘン大学だいがくまなんだ。終戦しゅうせん1949ねん一家いっかアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく移住いじゅうした。リトアニアポーランド英語えいごロシアドイツ堪能かんのうであり、1950年代ねんだい、アメリカぐんだい5ぐん予備よびぐん軍事ぐんじ情報じょうほう部門ぶもん上級じょうきゅう下士官かしかんつとめた。

アメリカでの生活せいかつ

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シカゴうつったのち、自動車じどうしゃ工場こうじょう製図せいずこうとしてはたらきながらイリノイ工科こうか大学だいがく水力すいりょく工学こうがくまなび、1960ねん卒業そつぎょう学業がくぎょうのかたわら、のアメリカのリトアニアじんとともに40,000にん署名しょめいあつめ、ソ連それんによってシベリア連行れんこうされたリトアニアじん問題もんだいかんしてアメリカ政府せいふむよう政府せいふもとめた[7]。この嘆願たんがんは、当時とうじふく大統領だいとうりょうリチャード・ニクソンもうてられた。リトアニアにおけるソ連それん政府せいふ活動かつどうたいしても、1958ねんダグ・ハマーショルド国連こくれん事務じむ総長そうちょうが、1962ねんジョン・F・ケネディ大統領だいとうりょうしめしたのと同様どうように、アダムクスもまた懸念けねんしめした[7]。こうした活動かつどうつうじアダムクスはリトアニアじん団体だんたいなか次第しだいおもきをすようになり、1967ねんざいべいリトアニアじん政治せいじ団体だんたい「サンタラ=シュヴィエサ連盟れんめい」(サンタラは「協調きょうちょう」、シュヴィエサは「ひかり」の)の会長かいちょう就任しゅうにん

アメリカ環境かんきょう保護ほごちょうでの勤務きんむ

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その1970ねんはじめ、環境かんきょう問題もんだい専門せんもんとしてアメリカ環境かんきょう保護ほごちょう勤務きんむはじめ、同局どうきょく五大ごだいみずうみ地域ちいきふく長官ちょうかん歴任れきにんしたのち、1981ねんには、ロナルド・レーガン大統領だいとうりょうから五大ごだいみずうみ地域ちいき長官ちょうかん任命にんめいされる。任命にんめいされる以前いぜんにはオハイオしゅうシンシナティ勤務きんむしたこともあった。かれは、長官ちょうかんとしてイリノイしゅうインディアナしゅうミシガンしゅうミネソタしゅう、オハイオしゅうウィスコンシンしゅうにおける公害こうがい問題もんだいんだ。1985ねんにはレーガン大統領だいとうりょうから、連邦れんぽう公務員こうむいんあたえられるもののなかでは最高さいこうにあたるDistinguished Executive Presidential Rank Award授与じゅよされた。

1972ねんモスクワひらかれた環境かんきょう会議かいぎ米国べいこく代表だいひょうとして派遣はけんされ、そのさい、およそ30ねんぶりにリトアニアへの帰国きこくたしている。また、ソ連それんペレストロイカ実施じっししては、より頻繁ひんぱん母国ぼこくおとずれることができるようになった。リトアニア独立どくりつ回復かいふく1993ねん独立どくりつ回復かいふくはじめておこなわれた大統領だいとうりょう選挙せんきょで、スタシース・ロゾライティス候補こうほ選挙せんきょ本部ほんぶちょう就任しゅうにんするも、ロゾライティス候補こうほアルギルダス・ブラザウスカス候補こうほ相手あいて落選らくせん

かれは16年間ねんかんアメリカ環境かんきょう保護ほごちょう地域ちいき長官ちょうかんつとめ、1997ねん、29年間ねんかんつとめた公務員こうむいん退職たいしょくした。退職たいしょくさいし、ビル・クリントン大統領だいとうりょうからいわいの手紙てがみおくられている。またこのほかにも、退職たいしょくにさまざまなしょう授与じゅよされた。かれ共和党きょうわとういんであったが、かれ誠実せいじつさは民主党みんしゅとういんからも尊敬そんけい評価ひょうかされていた。

リトアニア帰国きこく

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環境かんきょう保護ほごちょう退職たいしょくすぐ、アダムクスはリトアニアへ帰国きこく。そして1998ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょへの立候補りっこうほ決意けつい海外かいがい生活せいかつながかったことなどから、そのすぐにリトアニアの法廷ほうていかれ立候補りっこうほがふさわしいものかどうかあらそわれることとなった。結果けっか、アメリカの市民しみんけんゆうしていることをのぞけば大統領だいとうりょうせん立候補りっこうほすることに支障ししょうはない、という判決はんけつくだされ、かれヴィリニュスのアメリカ大使館たいしかん市民しみんけん放棄ほうきする手続てつづきをとった。そのかれのアメリカでの経歴けいれきやアメリカ政府せいふとのつながりなどが世間せけんから評価ひょうかされ、大統領だいとうりょうせん決選けっせん投票とうひょうすえアルトゥーラス・パウラウスカスやぶ当選とうせん在任ざいにんちゅうは、リトアニアのNATOおよEU加盟かめい奔走ほんそうした。

2002ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょ再選さいせんねらったが、よく2003ねん1がつ決選けっせん投票とうひょう自由民主党じゆうみんしゅとうロランダス・パクサス敗北はいぼく。しかし、同年どうねん10がつ、ロシアの国際こくさい犯罪はんざい組織そしきとパクサス大統領だいとうりょうとの癒着ゆちゃく指摘してきするスキャンダルが発生はっせい2004ねん3がつに、憲法けんぽう法廷ほうてい国家こっか機密きみつ保持ほじなどについて大統領だいとうりょう行為こうい違憲いけん判断はんだん同年どうねん4がつに、リトアニア議会ぎかい大統領だいとうりょう弾劾だんがい可決かけつ成立せいりつさせ、パクサス大統領だいとうりょう辞任じにん

辞任じにんともなおこなわれた2004ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょでは、6月13にちだい1かい投票とうひょうでは得票とくひょうりつ 30 % でトップにち、6月27にちおこなわれた決選けっせん投票とうひょうでも、カジミラ・プルンスキエネやぶり、さい当選とうせんたした。その結果けっか7がつ12にち大統領だいとうりょうしょく復帰ふっき。なおこの選挙せんきょかんしてリトアニア憲法けんぽう裁判所さいばんしょはパクサスぜん大統領だいとうりょう立候補りっこうほみとめていなかった。

松浦まつうら晃一郎こういちろうユネスコ事務じむ局長きょくちょうはアダムクスの人柄ひとがら評価ひょうかし、2003ねんかれユネスコ親善しんぜん大使たいし就任しゅうにんした。

2009ねん7がつ任期にんき満了まんりょうともな大統領だいとうりょうしょくした。

趣味しゅみ

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水泳すいえいジョギングテニススポーツ観戦かんせんクラシック音楽おんがく鑑賞かんしょう読書どくしょ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c Aleksandravičius 2021, p. 29.
  2. ^ a b c d e Aleksandravičius 2021, p. 30.
  3. ^ Aleksandravičius 2021, p. 33.
  4. ^ a b Aleksandravičius 2021, p. 34.
  5. ^ Aleksandravičius 2021, pp. 45, 47–48.
  6. ^ Aleksandravičius 2021, p. 50.
  7. ^ a b Simas Sužiedėlis, ed. (1970–1978). "Valdas Adamkus". Encyclopedia Lituanica. Vol. I. Boston, Massachusetts: Juozas Kapočius. p. 16.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Aleksandravičius, Egidijus (2021). Adamkus. Vilnius: Tyto alba. ISBN 9786094666070 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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