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三遊亭圓馬 - Wikipedia コンテンツにスキップ

さんゆうていえん

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さんゆうてい えん(さんゆうてい えんば)は、落語らくご名跡みょうせき当代とうだい代目だいめ

さんゆうていえん定紋じょうもん高崎たかさきおうぎ

花枝はなえぼうえん

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花枝はなえぼうえんなま没年ぼつねんしょう本名ほんみょうしょう

はじめ初代しょだい林屋はやしや正蔵しょうぞう門下もんかはるこのみ(またはしんこう)から初代しょだいさんゆうていえんせい門下もんか花枝はなえぼうえん名乗なのる。のちしろしゃさる名乗なのる。坊主ぼうずあたまであったためはなし坊主ぼうずをもじって花枝はなえぼうはなしぼう)のちんごうとなったと推測すいそくされる。大道具おおどうぐりのはなし怪談かいだんよしこのせつトッチリトンぶし新作しんさく音曲おんぎょくなど幅広はばひろくこなし、1833ねんには名古屋なごや以降いこう京都きょうと大坂おおさかでも口演こうえんした。晩年ばんねんさくらぼうえんだまとき改名かいめいしている。

没年ぼつねんしょうひろしからよしみひさしわるころに死亡しぼう

初代しょだい

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初代しょだい さんゆうていさんゆうてい えんえんうま
本名ほんみょう 野末のずえ 亀吉かめきち
別名べつめい 駒止こまどめえん
生年月日せいねんがっぴ 1828ねん
ぼつ年月日ねんがっぴ 1880ねん10月11にち
出身しゅっしん 日本の旗 日本にっぽん
師匠ししょう 2代目だいめさんゆうていえんせい
初代しょだい三遊亭圓朝さんゆうていえんちょう
活動かつどう期間きかん ? - 1880ねん
所属しょぞく さんゆう

初代しょだい さんゆうてい えん文政ぶんせい11ねん逆算ぎゃくさん) - 1880ねん明治めいじ13ねん10月11にち)は、落語らくご本名ほんみょう野末のずえ亀吉かめきち

初代しょだい三遊亭圓朝さんゆうていえんちょう門下もんかにおける「圓朝えんちょう四天王してんのう」の一人ひとりとされるが、圓朝えんちょう門人もんじんになる以前いぜん経歴けいれきはほとんどかっていない。一説いっせつには、3代目だいめおうさん4代目だいめさんわらいていらく)の門人もんじんおきならんという落語らくごがおり、その人物じんぶつ門下もんか天狗てんぐれん狂言きょうげんてい名乗なのっていた人物じんぶつがこのえんであるという。狂言きょうげんていはその月亭つきていはなせい改名かいめいし、芝居しばいばなし得意とくいとしていたという。

玄人くろうととしては2代目だいめさんゆうていえんせい門下もんかえん最初さいしょから名乗なのった。三遊亭圓朝さんゆうていえんちょう真打しんうち昇進しょうしんともなえんあさちち橘屋たちばなやまどか太郎たろう依頼いらいなどで、圓朝えんちょう一門いちもん補強ほきょうするため12さい年下としした圓朝えんちょう門下もんかくわわったされる。圓朝えんちょう門下もんかになってからはおももとばなしえんじた。

晩年ばんねん西にし両国りょうこく駒止こまどめんでいたことから「駒止こまどめえん」とばれていた。1880ねんぼつ享年きょうねん53。

門下もんか

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2代目だいめ

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2代目だいめ さんゆうていさんゆうてい えんえんうま
本名ほんみょう 竹沢たけざわ がま太郎たろう
別名べつめい 空堀からぼり(の師匠ししょう
さんゆうていえんおう
生年月日せいねんがっぴ 1854ねん
ぼつ年月日ねんがっぴ 1918ねん12月18にち
出身しゅっしん 日本の旗 日本にっぽん
師匠ししょう 初代しょだいやなぎていひだりりゅう
三遊亭圓朝さんゆうていえんちょう
弟子でし さんゆうていしょうえん
5代目だいめたちばなまどか太郎たろう
さんゆうてい
さんゆうていはなゆう
さんゆうていしょうえん
さんゆうていゆう
名跡みょうせき 1. やなぎていひだり傳次でんじ
2. さんゆうてい圓治えんじ
3. さんゆうていまどかわたる
4. さんゆうていえんすずめ( - 1884ねん
5. 2代目だいめさんゆうていえん
(1884ねん - 1918ねん
6. さんゆうていえんおう
(1918ねん
活動かつどう期間きかん ? - 1918ねん
活動かつどう内容ないよう 江戸えど落語らくご
自作じさく落語らくご
配偶はいぐうしゃ おさん
家族かぞく ふじ(あね
2代目だいめたちばなまどか三郎さぶろう初代しょだいたちばなえん)(おとうと
所属しょぞく さんゆう
かつら
えんいただき

2代目だいめ さんゆうてい えん安政あんせい元年がんねん1854ねん) - 大正たいしょう7ねん1918ねん12月18にち)は、落語らくご本名ほんみょう竹沢たけざわがま太郎たろう

ちち水戸みとはん竹沢たけざわみなもと兵衛ひょうえといい、のち武士ぶし身分みぶん町人ちょうにんとなり、水戸みと下屋敷しもやしき御門みかどまえ御用ごよう蕎麦そばいとなんでいた。がま太郎たろうは11さいとき日本橋にほんばしあきらくだまち袋物ふくろもの丁稚でっち奉公ほうこうしているときに、主人しゅじんのおとも寄席よせったのがみつきになった。

初代しょだいやなぎていひだりりゅう弟子でしになりひだり伝次でんじ名乗なのる。

そのえんあさ門下もんか圓治えんじまどかわたるえんすずめ1884ねん2代目だいめえん襲名しゅうめい

圓朝えんちょう引退いんたい1891ねん意向いこう同調どうちょうするかたち大阪おおさか上方かみがた)へうつり、以降いこう実弟じってい2代目だいめたちばなまどか三郎さぶろう初代しょだいたちばなえん)ととも上方かみがた本拠ほんきょとして活躍かつやくかつらぞくし、居住きょじゅうから「空堀からぼり(の師匠ししょう)」とばれた。なお、大阪おおさかでも東京とうきょう落語らくごえんつづけた。えんあさ年忌ねんきときには上京じょうきょうしたものの寄席よせ出演しゅつえんすることはほとんどなかったが、実弟じってい初代しょだいたちばなえんひきいる旅回たびまわせんもん諸派しょはえんいただき東京とうきょう出向でむいたさいには同行どうこうして高座こうざがった。

1918ねん5月に橋本はしもと川柳せんりゅう(3代目だいめえん)に名跡みょうせきゆずり、さんゆうていえんおう改名かいめいするが、同年どうねん12がつ逝去せいきょ享年きょうねん65。辞世じせいは「なみなみらになっておとなしおうぎ」。墓地ぼち大阪おおさか四天王寺してんのうじことぶきほうてら)にある。戒名かいみょうは「三遊亭方水圓翁居士」。

得意とくいネタは『にんまわし』『まつ曳』『は鎹』『ひさ』『安中あんなかくさ三郎さぶろう』などで、『迷子まいごさつ』『人面じんめんそう』など自作じさく落語らくごもいくつかつくっている。

つまのおさんはわらいぶくていづるはちむすめ2代目だいめかつら文三ぶんぞうつまであったが2代目だいめぶんさん死後しごつまとなる、囃子方はやしかた名人めいじんであった。

あねのふじは初代しょだいさんゆうていえんひだりつま

門下もんか

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3代目だいめ

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さん代目だいめ さんゆうていさんゆうてい えんえんば
本名ほんみょう 橋本はしもと 卯三郎うさぶろう
生年月日せいねんがっぴ 1882ねん11月3にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1945-01-13) 1945ねん1がつ13にち(62さいぼつ
出身しゅっしん 日本の旗 日本にっぽん大阪おおさかきた
師匠ししょう 月亭つきていみやこいさむ
二代目笑福亭木鶴
立花たちばな家橘かきつこれすけ
初代しょだいさんゆうていえんひだり
名跡みょうせき 1. 月亭つきてい小勇しょうゆう
(1888ねん - ?)
2. わらいぶくてい小鶴こづる
時期じき不明ふめい
3. わらいぶくてい都木ときまつ
(? - 1893ねん
4. 立花たちばな家橘かきつまつ
(1893ねん - 1908ねん
5. 立花りっか左近さこん
(1908ねん - 1909ねん
6. 7代目だいめ朝寝坊あさねぼうむらく
(1909ねん - 1916ねん
7. 初代しょだい橋本はしもと川柳せんりゅう
(1916ねん - 1928ねん
8. 3代目だいめさんゆうていえん
(1928ねん - 1945ねん
活動かつどう期間きかん 1888ねん - 1945ねん
家族かぞく 月亭つきていみやこいさむちち
所属しょぞく さんゆう
三友さんゆう

さん代目だいめ さんゆうてい えん1882ねん11月3にち - 1945ねん1がつ13にち)は、大阪おおさかきた大工だいくまち出身しゅっしん落語らくご本名ほんみょう橋本はしもと 卯三郎うさぶろう囃子ばやしは『えん囃子ばやし』。

経歴けいれき

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ちち上方かみがた落語らくご代目だいめ月亭つきていあや門下もんか月亭つきていみやこいさむ

1888ねん7がつの7さいとき月亭つきてい小勇しょうゆう京都きょうと新京極しんきょうごくわらいぶくてい高座こうざがる。のち二代目笑福亭木鶴門下もんかてんじ、小鶴こづる都木ときまつ名乗なのるが、1893ねん12月おりから巡業じゅんぎょうちゅうであった東京とうきょう初代しょだい立花たちばな家橘かきつこれすけ女流じょりゅう浮世うきよぶし)の門下もんかてんじ、立花たちばな家橘かきつまつ名乗なのる。

1904ねん9月には機関きかんへいにち戦争せんそうへの従軍じゅうぐん地方ちほう巡業じゅんぎょうなどによってしばらく東京とうきょうはなれるが、1908ねんすえごろ上京じょうきょうして初代しょだいさんゆうていえんひだり師事しじし、立花りっか左近さこん改名かいめいだい1落語らくご研究けんきゅうかいじゅん幹部かんぶ抜擢ばってきされ、東京とうきょうのネタをえんじるほか上方かみがたのネタを東京とうきょうきにえんじたり、新作しんさくいどんだりと幅広はばひろ活躍かつやくした。

1909ねん12月、真打しんうち昇進しょうしんなな代目だいめ朝寝坊あさねぼうむらく襲名しゅうめいたちばなすけよん代目だいめたちばな圓蔵えんぞうてもあって順調じゅんちょう活躍かつやくつづけていた。しかし、次第しだい圓蔵えんぞう不和ふわになり、1913ねん圓蔵えんぞう殴打おうだしてしまう事件じけんこす。このいちけんたちばなすけから破門はもんされたむらくは東京とうきょうはなれ、1916ねん6がつ大阪おおさか復帰ふっき浪速なにわ三友さんゆう所属しょぞくし、初代しょだい橋本はしもと川柳せんりゅう名乗なのる。大正たいしょう時代じだいには神田かんだで「橋本はしもとてい」という寄席よせ経営けいえいしていた。

1928ねん紅梅こうばいてい席亭せきていや2代目だいめえん推薦すいせんにより名跡みょうせきゆずけ、3代目だいめえん襲名しゅうめい同年どうねん5がつ東京とうきょうゆう楽座らくざでも披露ひろう口演こうえんおこなった[よう検証けんしょう]

生粋きっすい上方かみがた噺家はなしかでありながら、一流いちりゅう江戸えど噺家はなしかでもあった希有けうひと大阪おおさかべん京都きょうとべん江戸えどべんたくみに使つかけることができる、唯一ゆいいつって落語らくごであった。また、上方かみがた落語らくごおおくを東京とうきょう落語らくご移植いしょくした功績こうせきつ。

立花りっか左近さこん時代じだいには、前座ぜんざ時代じだいはち代目だいめかつら文楽ぶんらくあずかって、もう特訓とっくんうえきたげた。文楽ぶんらくえん傾倒けいとうし、「めろとわれれば、師匠ししょうのゲロでもめたでしょう」とまでっている。また、文楽ぶんらく大阪おおさか仕事しごとがあったさいにはかなら天下茶屋てんがちゃやったえんたくり、かいで稽古けいこけてもらっていたという。

得意とくいネタは『鹿しか政談せいだん』『愛宕山あたごやま』『けいきよし』『られ与三よぞう』『ざんぎりおたき』『よどみろう』『鰍沢かじかざわ』『ひめかたり』『九州きゅうしゅう吹戻し』『ぶんなな元結もとゆい』『中村なかむら仲蔵なかぞう』『富久ふく』『素人しろうとうなぎ』など。晩年ばんねん吉本興業よしもとこうぎょう所属しょぞくし、看板かんばん落語らくごとして活躍かつやく演目えんもく東京とうきょう落語らくごおおかったとされる。ほかにも三味線しゃみせん素養そようがあり自身じしんだし囃子ばやし天神祭てんじんまつりのお囃子はやし参考さんこうみずか作曲さっきょくをした。晩年ばんねん上方かみがた落語らくご衰退すいたいにより高座こうざり、中風ちゅうぶわずらうなど不遇ふぐうであった。1945ねんぼつ享年きょうねん65。先代せんだい同様どうよう墓地ぼち大阪おおさか四天王寺してんのうじことぶきほうてら)にある。

SPレコードはむらく時代じだいふくめてじゅうすうまいのこされている。

門下もんか

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4代目だいめ

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よん代目だいめ さんゆうていさんゆうてい えんえんば
四代目 三遊亭(さんゆうてい) 圓馬(えんば)
本名ほんみょう 森田もりたもりた 彦太郎ひこたろうひこたろう
生年月日せいねんがっぴ 1899ねん1がつ18にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1984-11-16) 1984ねん11月16にち(85さいぼつ
出身しゅっしん 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう
師匠ししょう つきいえ満月まんげつ
代目だいめさんゆうていえん
さん代目だいめかつら文三ぶんぞう
さん代目だいめさんゆうていえん
弟子でし さん代目だいめさんゆうていゆうさん
さん代目だいめさんゆうていえん
さんゆうていひだりえん
名跡みょうせき 1. さんゆうていえんわらわ
(1906ねん - ?)
2 .かつら小三しょうさん
(? - 1917ねん
3. さんゆうていとんうま
(1917ねん - 1923ねん
4. さん代目だいめさんゆうていしょうえん
(1923ねん - 1947ねん
5. よん代目だいめさんゆうていえん
(1947ねん - 1984ねん
囃子ばやし えんばやし
活動かつどう期間きかん 1906ねん - 1984ねん
家族かぞく つきいえ満月まんげつちち
もりみゆきおとうと
所属しょぞく 日本にっぽん芸術げいじゅつ協会きょうかい落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい
受賞じゅしょうれき
くんとうそうこう旭日きょくじつあきら

よん代目だいめ さんゆうてい えん1899ねん1がつ18にち - 1984ねん11月16にち)は。東京とうきょう東京とうきょう小石川こいしかわ出身しゅっしん落語らくご生前せいぜん落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい所属しょぞく晩年ばんねんどう協会きょうかい相談役そうだんやく本名ほんみょう森田もりた 彦太郎ひこたろうだし囃子ばやしは『えんばやし』。

経歴けいれき

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ちち落語らくごあがりで奇術きじゅつおどりなどをえんじたつきいえ満月まんげつであり、おとうと大阪おおさか曲芸きょくげいもりみゆきせいもりみゆき1906ねん - 1985ねん?)。7さいときちちとも大阪おおさかうつむ。

1906ねん1がつちちさんゆうていひだりまどかふとし門下もんか入門にゅうもんさんゆうていえんわらわ名乗なのはつ舞台ぶたいむ。そのちち3代目だいめかつら文三ぶんぞう門下もんかになって三太郎さんたろう名乗なのったので自身じしんぶんさんもとで「小三しょうさん」となった。

1917ねん昇進しょうしん代目だいめさんゆうていえん門下もんかさんゆうていとんうま改名かいめい1923ねん代目だいめさんゆうていえんえん名跡みょうせきさん代目だいめさんゆうていえんゆずったさいさん代目だいめさんゆうていえんあずかりで移籍いせきし、4がつ真打しんうちかく昇進しょうしんして「3代目だいめさんゆうていしょうえん」を襲名しゅうめい以降いこう吉本興業よしもとこうぎょう若手わかて落語らくごとしてす。このころはよくに女性じょせいにモテてサイン帳さいんちょうとサインペンをった女性じょせいれつつくって自宅じたくしかけていたという。洋服ようふく高座こうざがるなどあたらしいことにも挑戦ちょうせんした。大阪おおさかっても師匠ししょう同様どうよう東京とうきょう落語らくごえんじた。

師匠ししょうえん病気びょうき悪化あっかもあり、1943ねん師匠ししょうすすめで吉本よしもとめて東京とうきょう移籍いせき修行しゅぎょうはじめる。1947ねん4がつ、「よん代目だいめさんゆうていえん」を襲名しゅうめい上野うえの鈴本すずもと演芸えんげいじょう襲名しゅうめい披露ひろうをした。以降いこう芸術げいじゅつ協会きょうかい重鎮じゅうちんとして活躍かつやく落語らくご上方かみがたネタ、東京とうきょうネタなどおおく。父親ちちおや同様どうようげいおどり、ほかににん羽織はおりも得意とくいであった。

1984ねん11月16にち東京とうきょう中野なかの小原おはら病院びょういん老衰ろうすいのため死去しきょ享年きょうねん85さい[1]墓所はかしょ台東たいとうひがしふちてら戒名かいみょうは「三遊亭圓馬廣舌居士」。

芸歴げいれき

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得意とくいネタ

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受賞じゅしょう

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弟子でし

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移籍いせき

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5代目だいめ

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代目だいめ さんゆうていさんゆうてい えんえんば
San'yûtei Emba the 5th
五代目 三遊亭(さんゆうてい) 圓馬(えんば) San'yûtei Emba the 5th
さんゆうていえん定紋じょうもん高崎たかさきおうぎ
本名ほんみょう 中山なかやま さとし
生年月日せいねんがっぴ (1961-11-25) 1961ねん11月25にち(62さい
出身しゅっしん 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょうみなと
師匠ししょう さん代目だいめたちばなえん
弟子でし さんゆうていあい
さんゆうてい吉馬よしま
さんゆうていじん
さんゆうていことうま
さんゆうていげん
さんゆうていうま
名跡みょうせき 1. たちばないちえん
(1988ねん - 1993ねん
2. たちばなこうえん
(1993ねん - 2002ねん
3. 代目だいめさんゆうていえん
(2002ねん - )
囃子ばやし えん囃子ばやし
活動かつどう期間きかん 1988ねん -
配偶はいぐうしゃ 稲葉いなば千秋ちあき落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい囃子方はやしかた
所属しょぞく 落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい
受賞じゅしょうれき
ほくとぴあ若手わかて落語らくご競演きょうえんかい 奨励しょうれいしょう(1997ねん
備考びこう
落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい理事りじ

代目だいめ さんゆうてい えん1961ねん11月25にち - )は、東京とうきょうみなと西麻布にしあざぶ出身しゅっしん落語らくご落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい所属しょぞく本名ほんみょう中山なかやま さとし囃子ばやしは『えんばやし』[2]

経歴けいれき

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八千代やちよ市立しりつ大和田おおわだ中学校ちゅうがっこう千葉ちば県立けんりつ船橋ふなばし西高にしこうとう学校がっこう高山たかやま美容びよう専門せんもん学校がっこう卒業そつぎょう

1988ねん8がつさん代目だいめたちばなえん入門にゅうもん、「いちえん」を名乗なのる。9月に浅草あさくさ演芸えんげいホールはつ舞台ぶたい演目えんもくは「穴子あなごでからぬけ[2]

1993ねん2がつ昇進しょうしん、「こうえん」に改名かいめい1997ねん2がつほくとぴあ若手わかて落語らくご競演きょうえんかい奨励しょうれいしょう受賞じゅしょう[2]

2002ねん5月、かつらべいろうとも真打しんうち昇進しょうしんし、代目だいめさんゆうていえん襲名しゅうめい

2019ねん6月より落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい監事かんじつとめ、のち理事りじ昇格しょうかくした。

芸歴げいれき

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演目えんもく

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弟子でし

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真打しんうち

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前座ぜんざ

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  • さんゆうていことうま
  • さんゆうていげん
  • さんゆうていうま

役職やくしょく

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  • 落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい監事かんじ(2019ねん6がつ - ?)
  • 落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい理事りじ(? - 現職げんしょく

外部がいぶリンク

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そのえん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 朝日新聞あさひしんぶん1984ねん11月17にち朝刊ちょうかん
  2. ^ a b c 大和田おおわだ落語らくごかい出演しゅつえんしゃプロフィール<さんゆうていえん>

参考さんこう文献ぶんけん

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  • しょげい懇話こんわかい大阪おおさか芸能げいのう懇話こんわかい共編きょうへん古今ここん東西とうざい落語らくご事典じてん平凡社へいぼんしゃISBN 458212612X
  • ぞん古今ここん東西とうざい噺家はなしか紳士録しんしろく