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中世ちゅうせいレバノンの歴史れきし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

中世ちゅうせいレバノンの歴史れきしでは、現在げんざいレバノンばれている地域ちいきのアラブ統治とうち時代じだい歴史れきしについての記述きじゅつおこなう。アラブじんによる征服せいふくおこなわれる以前いぜんは、さまざまな王朝おうちょうがレバノンを統治とうちしたが、最終さいしゅうてきには、ひがしマ帝国まていこく統治とうちはいった。しかし、6世紀せいきはいるとひがしマ帝国まていこく弱体じゃくたい、622ねんムハンマドによるイスラーム勃興ぼっこう契機けいきに、アラブじんがレバノンを征服せいふくした。その、レバノンを統治とうちした王朝おうちょう交代こうたい相次あいついだが、マムルークあさ滅亡めつぼうとほぼ同時どうじに、オスマン帝国ていこく統治とうちはいった。

アラブじんによる征服せいふく 634-636

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預言よげんしゃムハンマドの死後しごかれ後継こうけいしゃたちは、アラビア半島はんとうし、ひがし地中海ちちゅうかい地方ちほう進出しんしゅつ開始かいしした。地域ちいき進出しんしゅつした理由りゆうは、経済けいざいてき必要ひつようせいせまられていたこともさることながら、宗教しゅうきょうじょう信念しんねんもとづいていた。

ジハードばれるムスリムとの戦争せんそうにおいて、初代しょだい正統せいとうカリフであるアブー・バクルは、レバノンにイスラームをもたらした。アブー・バクルは、軍隊ぐんたいを3つにけ、1つをパレスチナへ、1つをダマスカスへ、1つをヨルダン川よるだんがわ流域りゅういき進出しんしゅつさせた。636ねんだいだい正統せいとうカリフであるウマルの時代じだい北西ほくせいヨルダンのヤルムークにおいて、ヘラクレイオスひきいるひがしマ帝国まていこくぐんやぶった(ヤルムークのたたか)。これにより、ヨルダンは、アラブ帝国ていこく統治とうちはいることになる。

ウマイヤあさ時代じだい 660-750

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アンジャルのこるウマイヤあさ時代じだい(8世紀せいきごろ)の宮殿きゅうでん遺構いこう

だい2だいカリフ・ウマルは、ムアーウィヤ(660ねんに、ウマイヤあさ創始そうしする)をシリア統治とうちしゃ任命にんめいした。ムアーウィヤが統治とうちゆだねられたシリアには現在げんざいのレバノンもふくまれていた。ムアーウィヤは、レバノン海岸かいがん地方ちほう軍隊ぐんたい駐屯ちゅうとんさせると同時どうじに、ひがしマ帝国まていこく想定そうていされうる攻撃こうげきえることができる海軍かいぐん建設けんせつをレバノンじんゆだねた。

ムアーウィヤは、山岳さんがくレバノンみ、アラブによるひがしマ帝国まていこく侵略しんりゃく阻止そしするためにひがしローマ皇帝こうてい支援しえんけたマラダマロン教徒きょうとのこと)の侵略しんりゃく阻止そしした。ムアーウィヤは、アラビア半島はんとうおよイラクにおいてのみずからの権威けんいかためることに関心かんしんがあったため、667ねんに、コンスタンティノス4せい和議わぎむすんだ。その内容ないようとは、コンスタンティヌス4せい毎年まいとしある程度ていどみつぎおさめおこな見返みかえりに、マラダへの援助えんじょめることであった。

この時代じだいに、アラブじんのレバノンおよびシリアの海岸かいがんへの居住きょじゅうはじまった。

アッバースあさ時代じだい 750-10世紀せいき後半こうはん

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750ねんサッファーフによってアッバースあさ創設そうせつされると、アッバースあさはウマイヤあさわり、レバノンを統治とうちした。アッバースあさは、レバノンとシリアを征服せいふくなしていたためきびしい統治とうちおこない、759ねん山岳さんがくレバノンでの反乱はんらんふくめて、すうかい反乱はんらんきた。10世紀せいきわりまでには、ティルスアミールが、アッバースあさからの独立どくりつ宣言せんげんし、独自どくじ貨幣かへい発行はっこうしたが、エジプト勃興ぼっこうしたファーティマあさにレバノンは、支配しはいされることとなった。

アラブじんによる統治とうち影響えいきょう

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ウマイヤ、アッバースりょう王朝おうちょうによるレバノン統治とうちひがし地中海ちちゅうかい地域ちいきおおきな影響えいきょうあたえ、とりわけ、今日きょうのレバノン情勢じょうせいへとつながっている。まさしくこの時代じだいこそ、レバノンが民族みんぞく宗教しゅうきょう避難ひなんとなったのである。

キリスト教徒きりすときょうと一派いっぱであるマロン教徒きょうと祖先そせんがレバノンにむようになったのもこの時代じだいである。この地域ちいきキリスト教徒きりすときょうとない宗派しゅうは対立たいりつ回避かいひするために、ひじりジョン・マロンの支持しじしゃは、オロント川上かわかみ流域りゅういきからカディーシャ渓谷けいこく居住きょじゅううつしたのである。この渓谷けいこくは、トリポリから北東ほくとうに25キロメートルほどはなれた山岳さんがくレバノンに位置いちしている。

アッバースあさ時代じだい哲学てつがく文学ぶんがく化学かがくがとりわけ、ハールーン・アッ=ラシードとその息子むすこマアムーン時代じだいに、おおきく進歩しんぽげた。レバノンもまた、知的ちてき復興ふっこうめん目立めだった貢献こうけんをしている。医者いしゃラシード・アッディーン法学ほうがくしゃアル=アワズィー哲学てつがくしゃクスタ・イブン・ルーカがその代表だいひょうかくである。レバノンは、また、ティルスやトリポリといったレバノンの港町みなとちょう繁栄はんえいおおいに享受きょうじゅしていた。ティルスやトリポリは、織物おりもの陶磁器とうじき、ガラス産業さんぎょう貿易ぼうえき拠点きょてんとして繁栄はんえいしていたのであった。レバノンで生産せいさんされた製品せいひんは、アラブの国々くにぐにのみならず、地中海ちちゅうかい全域ぜんいきはこばれていった。

一般いっぱんてきには、アラブじん統治とうちしゃは、レバノンにキリスト教徒きりすときょうとユダヤ教徒きょうと寛容かんようだったといえよう。りょう教徒きょうととも特別とくべつ税金ぜいきんせられていたが、軍役ぐんえきまぬかれていた。のオスマン帝国ていこく時代じだいになり、これらの慣習かんしゅうは、ムスリムはミッレトばれ特別とくべつけられた共同きょうどうたいとして統治とうちけ、1980年代ねんだい後半こうはんになってもそのシステムはきている。すなわち、それぞれの宗教しゅうきょう共同きょうどうたいがそれぞれのリーダーおよ離婚りこんほう相続そうぞくほうといったような共同きょうどうたい独自どくじ法律ほうりつした運営うんえいされているのである。

十字軍じゅうじぐん時代じだい 1095-1291

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ファーティマあさのカリフ、ハーキムによるパレスチナ地方ちほうキリスト教徒きりすときょうと聖地せいち占領せんりょう破壊はかいのち、8およ十字軍じゅうじぐん時代じだいおとずれる。だい1かい十字軍じゅうじぐんは、1095ねん開催かいさいされたクレルモンこう会議かいぎにおいて、教皇きょうこうウルバヌス2せいによって提唱ていしょうされた。エルサレム占領せんりょうすると十字軍じゅうじぐんは、レバノン海岸かいがん関心かんしんいた。トリポリは1109ねんに、ベイルートとシドンは、1110ねん十字軍じゅうじぐんちた。ティルスは頑強がんきょう抵抗ていこうつづけたものの1124ねん陥落かんらくした。

とはいえ、十字軍じゅうじぐんはこの地域ちいき恒久こうきゅうてき政権せいけん樹立じゅりつするにはいたらなかった。しかしながら、十字軍じゅうじぐんは、レバノンにおおきな足跡あしあとのこした。1291ねんアッカ陥落かんらくをもって、十字軍じゅうじぐん歴史れきし終焉しゅうえんむかえるが、海岸かいがんせん沿かたちで、おおくのとうのこり、山々やまやま稜線りょうせん沿かたち城砦じょうさい遺跡いせきとしてのこり、すうおおくの教会きょうかいのこされた。

レバノン、シリアにまたがる地域ちいきでのことなる宗教しゅうきょう民族みんぞくあいだ激突げきとつは、13世紀せいきにもこった。十字軍じゅうじぐんだけではなく、中央ちゅうおうアジアからはモンゴルじんフレグ・ウルス)が、エジプトからは、マムルークあさがこの地域ちいき支配しはいするために衝突しょうとつかえした。最終さいしゅうてきには、この地域ちいきは、マムルークあさ統治とうちしたはいる。

マムルークあさ時代じだい 1282-1516

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マムルークとはトルコけい軍人ぐんじん奴隷どれいのことであり、カスピ海かすぴかい沿岸えんがん地域ちいきあるいはコーカサス山脈さんみゃく地方ちほう出自しゅつじ奴隷どれいである。かれらは、アイユーブあさ時代じだいに、エジプトに護衛ごえいへいとして連行れんこうされた経緯けいいつ。1252ねんに、アイユーブあさ最後さいごのスルタンであるアル・アシュラフ・ムーサー殺害さつがいしたアイバクによって、マムルークあさ時代じだいはじまるが、この王朝おうちょう自体じたいは、エジプトとシリアを統治とうちにおき、2世紀せいき以上いじょう命脈めいみゃくたもった。

11世紀せいきから13世紀せいきにかけて、シーア住民じゅうみんシリア、イラク、アラビア半島はんとうから北部ほくぶレバノンに位置いちするビカ渓谷けいこく、ベイルートの北東ほくとう位置いちするカスラワーン地方ちほう移住いじゅうした。かれらをドゥルーズぶこととなるが、かれらは、1291ねんにマムルークあさがフレグ・ウルスや十字軍じゅうじぐん勢力せいりょくたたかっている最中さいちゅう反乱はんらんこす。マムルークあさは、1308ねんにこの反乱はんらん鎮圧ちんあつ成功せいこうすることになるが、ドゥルーズ住民じゅうみんは、カスラワーン地方ちほう放棄ほうきし、南部なんぶレバノンへ移住いじゅうすることとなる。

マムルークあさは、ひがしマ帝国まていこく滅亡めつぼう1453ねんは、ヨーロッパと中東ちゅうとうあいだ関係かんけい間接かんせつてきそだてた。中東ちゅうとう経由けいゆ奢侈しゃしひんしたしんだヨーロッパじん中東ちゅうとうさん物品ぶっぴん渇望かつぼうしていたし、また、中東ちゅうとう人々ひとびと十分じゅうぶん利益りえきげることができるヨーロッパ市場いちば渇望かつぼうしていたからである。地理ちりてきめぐまれていたベイルートは、交易こうえき中心ちゅうしんとなった。レバノンでは、さまざまな共同きょうどうたいあいだ宗教しゅうきょうてき対立たいりつがあったにもかかわらず、オスマン帝国ていこくによるマムルークあさ滅亡めつぼうまで、レバノンは、経済けいざい繁栄はんえい知的ちてき文化ぶんか花開はなひらいた。