九州大学きゅうしゅうだいがく生体せいたい解剖かいぼう事件じけん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
この事件じけんかんするスケッチ(GHQより)

九州大学きゅうしゅうだいがく生体せいたい解剖かいぼう事件じけん(きゅうしゅうだいがくせいたいかいぼうじけん)は、だい世界せかい大戦たいせんなか1945ねん福岡ふくおかけん福岡ふくおか九州きゅうしゅう帝国ていこく大学だいがくげん九州大学きゅうしゅうだいがく医学部いがくぶ解剖かいぼう実習じっしゅうしつで、アメリカぐん捕虜ほりょ8にん生体せいたい解剖かいぼう[よう曖昧あいまい回避かいひ]被験者ひけんしゃ生存せいぞん状態じょうたいでの解剖かいぼう)が施術しじゅつされた事件じけん相川あいかわ事件じけんともいわれる。8にん全員ぜんいん死亡しぼうした[1]

大学だいがく組織そしきとしてかかわったものではないとの主張しゅちょうもあるが、Bきゅう戦犯せんぱん裁判さいばんならびにその関係かんけいしゃ証言しょうげん関係かんけいしゃはん倫理りんりてき行為こういへの意図いとてき隠蔽いんぺい否認ひにんなどから、医学部いがくぶ軍部ぐんぶ両方りょうほうによる計画けいかくてき実行じっこうであったとする見解けんかいもある[2]#九州きゅうしゅう帝国ていこく大学だいがく組織そしきてき関与かんよについて参照さんしょう)。

経緯けいい[編集へんしゅう]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)5がつ5にちアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんだい314爆撃ばくげきだんB-29 55は「作戦さくせん任務にんむだい145ごう」をけ、グアムをはっし、福岡ふくおかはじめとする九州きゅうしゅう方面ほうめん爆撃ばくげきするために飛来ひらいした[3][4]。そのうちだい29爆撃ばくげきぐん英語えいごばんだい6ばくげき飛行ひこうたい英語えいごばん[3][ちゅう 1]B-29 10大刀洗たちあらい陸軍りくぐん飛行場ひこうじょうばくげきえた帰途きと熊本くまもとけん大分おおいたけんさかい大村おおむら飛行場ひこうじょうよりっただいさんよんさん海軍かいぐん航空こうくうたいおしどりふちこう大尉たいいひきいる30戦闘せんとう紫電しでんあらため迎撃げいげきけ、以下いかの2撃墜げきついされた。

「42-65305」ごう[編集へんしゅう]

85ふんだい6ばくげき飛行ひこうたいのB-29 10戦闘せんとう407飛行ひこうたい所属しょぞく市村いちむら吾朗ごろう大尉たいい指揮しきする紫電しでんあらため4交戦こうせん[3][5]。うちB-29-25-MO、機体きたい番号ばんごう「42-65305」ごうは、4ばん粕谷あらや欣三きんぞう飛行ひこう兵長へいちょう死後しごかいきゅう特進とくしん一等いっとう飛行ひこう兵曹へいそう埼玉さいたまけん三ヶ島みかしまむらとくおつ1期生きせい、19さい)が操縦そうじゅうする1によって垂直すいちょく背面はいめん攻撃こうげき撃墜げきついされた[3]紫電しでんあらため負荷ふか空中くうちゅう分解ぶんかいこし、粕谷あらやいち曹は落下傘らっかさんひらいたが頭蓋骨ずがいこつ骨折こっせつのため820ふんごろ死亡しぼう。42-65305号機ごうきちょうのマーヴィン・S・ワトキンス(Marvin S. Watkins)中尉ちゅうい以下いか搭乗とうじょういん11めい阿蘇山あそさんちゅう落下傘らっかさん降下こうかした。

「42-65305」ごう搭乗とうじょういん太字ふとじ生体せいたい解剖かいぼう犠牲ぎせいしゃ[6]
  • ふく操縦そうじゅうウィリアム・R・フレデリックス少尉しょうい(2nd Lt. William R. Fredericks )
  • レーダーしゅデール・E・プランベック少尉しょうい(2nd Lt. Dale E. Plambeck)
  • ばくげきしゅ:ハワード・トーマス・シングルデッカー少尉しょうい(2nd Lt. Howard Thomas Shingledecker)
  • 航法こうほう:チャールズ・M・キーンズ・ジュニア少尉しょうい(2nd Lt. Charles M. Kearns Jr.)
  • 機関きかんテディ・J・ポンスカとう軍曹ぐんそう(S/Sgt. Teddy J. Ponczka)
  • 中央ちゅうおう火器かき管制かんせいジョン・C・コールハウアー伍長ごちょう(Corp. John C. Colehower)
  • 通信つうしんしゅロバート・B・ウィリアムズ伍長ごちょう(Corp. Robert B. Williams)
  • みぎじゅうしゅ:レオ・C・オーニック伍長ごちょう(Corp Leo C Oeinck)
  • ひだりじゅうしゅ:ロバート・C・ジョンソン伍長ごちょう(Corp. Robert C. Johnson)
  • じゅうしゅレオン・E・ザーネッキ伍長ごちょう(Corp. Leon E. Czarnecki)

熊本くまもとけん阿蘇あそぐん南小国みなみおぐにまち産山うぶやまむらに7めい降下こうか、うち1めい機銃きじゅう掃射そうしゃ落下傘らっかさんいと墜落ついらく、ワトキンス中尉ちゅういら3めい大分おおいたけん竹田たけだまち周辺しゅうへん降下こうか阿蘇あそぐんではさんはちしき歩兵ほへいじゅう村田むらたじゅうたけやり、日本にっぽんがたなくさきりがま武装ぶそうした地元じもと住民じゅうみん警防団けいぼうだんいんによって2めい殺害さつがいされ、かこまれた1めい(ジョンソン伍長ごちょう)が自殺じさつした。竹田たけだまち周辺しゅうへん降下こうかしたとみられるシングルデッカー少尉しょういは、住民じゅうみんたれ重傷じゅうしょうったとされるが、その消息しょうそく不明ふめい[7][6]なかには駐在ちゅうざい巡査じゅんさ制止せいしや、地元じもと獣医じゅういにち戦争せんそう従軍じゅうぐんしゃまもったケースもあったが[6]生存せいぞんしゃおおくや遺体いたいには住民じゅうみんによりかえ暴行ぼうこうくわえられた。唯一ゆいいつ終始しゅうし冷静れいせい沈着ちんちゃくだった機長きちょうのワトキンス中尉ちゅういだけはあたまなぐられるだけでんだ[6]

「42−93953」ごう[編集へんしゅう]

のこる9洋上ようじょうけて遁走とんそうしたが、おしどりふちこう大尉たいいひきいる3たい12追撃ついげきだい2たい指揮しき指宿いぶすきなりしん少尉しょういきのえ2)3ばん栗田くりたとおる一等いっとう飛行ひこう兵曹へいそうへい15)が20ミリ機銃きじゅうみぎエンジンを破壊はかい。また、おしどりふち大尉たいいほかすう執拗しつよう反復はんぷく攻撃こうげきおこなった[8]搭乗とうじょういん曳光弾えいこうだん応戦おうせんしていたが、被弾ひだん搭載とうさいぶつ落下らっか没頭ぼっとうして戦意せんい喪失そうしつ右側みぎがわに「シティ・オブ・スプリングフィールド」ごう機長きちょう:アリー・A・サッカー中尉ちゅうい)、左側ひだりがわに「シティ・オブ・オクラホマシティ」ごう機長きちょう:フランク・レッド・クラッセン中尉ちゅうい)がはさんで掩護えんごしたが、そく落下らっかまらず、炎上えんじょう豊後水道ぶんごすいどう墜落ついらくした[9]

「42−93953」搭乗とうじょういん太字ふとじ生体せいたい解剖かいぼう犠牲ぎせいしゃ
  • 操縦そうじゅう:ラルフ・E・ミラー中尉ちゅうい(1st Lt. Ralph E. Miller)
  • ふく操縦そうじゅう:ウィリアム・F・フィンケルスタイン少尉しょうい(2nd Lt. Joseph F. Finkelstein)
  • レーダーしゅジャック・M・ベリー少尉しょうい(2nd Lt. Jack M. Berry)
  • ばくげきしゅ:クライド・M・ルーシュ中尉ちゅうい(1st Lt. Clyde M. Roush)
  • 航法こうほう:チャールズ・C・ウィンダー少尉しょうい(2nd Lt. Charles C. Winder)
  • 機関きかん:ウィリアム・H・チャップマン一等いっとう軍曹ぐんそう(T/Sgt. William H. Chapman)
  • 通信つうしんしゅジャック・V・デングラー軍曹ぐんそう(Sgt. Jack V. Dengler)
  • 中央ちゅうおうじゅうしゅ:アルバート・R・ハワード軍曹ぐんそう(Sgt. Albert R. Howard)
  • みぎじゅうしゅ:クラーク・B・バセット・ジュニア伍長ごちょう(Corp. Clark B. Bassett, Jr.)
  • ひだりじゅうしゅ:マーリン・R・カルヴィン一等いっとうへい(Pvt. Merlin R. Calvin)
  • じゅうしゅ:アーヴィング・A・コーリス伍長ごちょう(Corp. Irving A. Corliss)

機長きちょうのミラー中尉ちゅうい以下いか6めい死亡しぼう。5にん東臼杵ひがしうすきぐん北川きたがわむらげん北川きたがわまち)と延岡のべおか境界きょうかい付近ふきん山林さんりんにパラシュート降下こうかして捕虜ほりょ。うちバセット伍長ごちょうは、北川きたがわむら大字だいじ長井ながい上安うえやす山林さんりん降下こうか北川きたがわ小学校しょうがっこう裏山うらやま付近ふきんっかかったが、重傷じゅうしょうっており、在郷ざいきょう軍人ぐんじん手当てあてをけたのち同日どうじつよる憲兵けんぺいたい連行れんこうされた直後ちょくご死亡しぼう延岡のべおか山下やましたまちかみぼう善正ぜんしょうてら墓地ぼち土葬どそうされた。1946ねん9がつ両親りょうしんとともにべいぐん遺体いたいった[10]

ベリー少尉しょうい、デングラー軍曹ぐんそう、カルヴィン一等いっとうへい、コーリス伍長ごちょうの4めいは、延岡のべおか警察けいさつしょのグラウンドで目隠めかく姿すがた市民しみんまえさらされたのち都農つの憲兵けんぺい分隊ぶんたい西部せいぶぐん司令しれい送致そうちされた[10]

のこったのは「42-65305」ごう7めい、「42−93953」ごう4めいけい11めいであったが、東京とうきょうからの暗号あんごう命令めいれいで「東京とうきょう捕虜ほりょ収容しゅうようしょ満員まんいんで、情報じょうほう価値かちのある機長きちょうだけ東京とうきょうおくれ。かくぐん司令しれい処理しょりしろ」とする命令めいれいにより、ワトキンス機長きちょうのみが東京とうきょう移送いそうされた。のこり10めい捕虜ほりょ処遇しょぐうこまった西部せいぶぐん司令しれいは、裁判さいばんをせずに死刑しけいとすることにした。このことをった九州きゅうしゅう帝国ていこく大学だいがくそつ病院びょういんつめ見習みならい士官しかん小森こもりたく軍医ぐんいは、石山いしやま福二ふくじろう主任しゅにん外科げか部長ぶちょう教授きょうじゅ)とともに、8めい生体せいたい解剖かいぼうきょうすることをぐん提案ていあんした。これをぐんみとめたため、うち8めい九州きゅうしゅう帝国ていこく大学だいがくわたされた。8めい捕虜ほりょ収容しゅうようさき病院びょういんであったため健康けんこう診断しんだんけられるとおもい、「サンキュー」とって医師いし感謝かんしゃしたという。

生体せいたい解剖かいぼうまわされなかったカルヴィン一等いっとうへい、コーリス伍長ごちょうの2めい福岡大ふくおかだい空襲くうしゅう翌日よくじつの6がつ20日はつか前後ぜんご捕虜ほりょとなったB-29搭乗とうじょういん6めいとともに福岡ふくおか高等こうとう女学校じょがっこう校庭こうてい斬首ざんしゅけいしょされた(西部せいぶぐん事件じけん)。

生体せいたい解剖かいぼうは1945ねん5月17にちから6月2にちにかけておこなわれた。指揮しきおよび執刀しっとう石山いしやまおこなったが、ぐんから監視かんし要員よういん派遣はけんされており、医学いがくせいとして解剖かいぼう補助ほじょおこなった東野とうの利夫としお実験じっけん対象たいしょうしゃについて「名古屋なごや差別さべつばくげきかえ銃殺じゅうさつけいになる」との説明せつめいけ、手術しゅじゅつしつくちには2めい歩哨ほしょうっていたという[11]

戦後せんごGHQがこの事件じけんについてくわしく調査ちょうさし、最終さいしゅうてき九州大学きゅうしゅうだいがく関係かんけいしゃ14にん西部せいぶぐん関係かんけいしゃ11にん逮捕たいほされた。なお、企画きかくしゃ一人ひとりとされた石山いしやまは「手術しゅじゅつ実験じっけんてき手術しゅじゅつではないのでその質問しつもんにはこたえられません、わたしおこなった手術しゅじゅつのすべては捕虜ほりょいのちすくためだったと理解りかいしていただきたい」と生体せいたい解剖かいぼうについては否認ひにんつづけ、独房どくぼう遺書いしょきし自殺じさつした。

最終さいしゅうてきなGHQの調査ちょうさで、捕虜ほりょ処理しょりこまった佐藤さとうよしただし大佐たいさ小森こもり相談そうだんし、石山いしやまちかけ実行じっこうされたことが判明はんめいしたが、企画きかくしゃのうち小森こもり空襲くうしゅう死亡しぼう石山いしやま自殺じさつしたため、1948ねん8がつ横浜よこはま軍事ぐんじ法廷ほうてい以下いかの5めい絞首刑こうしゅけいとされ、った医師いし18にん有罪ゆうざいとなった。

その朝鮮ちょうせん戦争せんそう勃発ぼっぱつし、アメリカはたいにち感情かんじょう配慮はいりょしたことから獄中ごくちゅう自殺じさつした1めいのぞき、恩赦おんしゃによって減刑げんけいされそのおおくが釈放しゃくほうされた。ただし、ひと肉食にくしょく事件じけんなど自白じはく一部いちぶ強要きょうようによって捏造ねつぞうされたという見解けんかいもある(後述こうじゅつ)。

自殺じさつした石山いしやま遺書いしょには「一切いっさいぐん命令めいれいなり、すべての責任せきにんにあり」としている。また九大きゅうだい医学部いがくぶそつ外科医げかい山内やまうち昌一郎しょういちろうは、「手術しゅじゅつはすべて石山いしやま専門せんもん分野ぶんやおよんでおり、かれ業績ぎょうせきたいする野心やしんあきらかである」と指摘してきしている。

犠牲ぎせいとなった搭乗とうじょういんたちのっていたB-29が墜落ついらくした現場げんばである大分おおいたけん竹田たけだ大字だいじ平田ひらたには、事件じけんの33回忌かいきにあたる1977ねんの5がつ5にち地元民じもとみんらにより慰霊いれい「殉空のいしぶみ」が建立こんりゅうされた。慰霊いれいには生体せいたい解剖かいぼう犠牲ぎせいしゃ8めいのほか、西部せいぶぐん事件じけん処刑しょけいされた3めいがある。

生体せいたい解剖かいぼう[編集へんしゅう]

石山いしやま福二ふくじろう

概要がいよう[編集へんしゅう]

銃殺じゅうさつけいわりにおこなわれた、生存せいぞん考慮こうりょしない臨床りんしょう実験じっけん手術しゅじゅつだった。医学いがくかい権威けんいだった石山いしやまをはじめ、15にん医学部いがくぶ関係かんけいしゃ西部せいぶぐん参謀さんぼう立会たちあいのもとおこなわれた。この手術しゅじゅつ当時とうじとしては先進せんしんてきなもので、ほぼ目的もくてき達成たっせい手術しゅじゅつ成功せいこうしたとされる[12][よう出典しゅってん]

  • 企画きかくしゃ : 佐藤さとうよしただし大佐たいさ西部せいぶぐん)、小森こもりたく軍医ぐんい西部せいぶぐん)、石山いしやま福二ふくじろう九州大学きゅうしゅうだいがく教授きょうじゅ
  • 実験じっけん場所ばしょ : 九州大学きゅうしゅうだいがく 解剖かいぼう実習じっしゅうしつ
  • 実験じっけん期間きかん : 1945ねん5がつ17にちから6がつ2にち
  • 実験じっけん対象たいしょうしゃ
    • フレデリックス少尉しょうい
    • プランベック少尉しょうい
    • ベリー少尉しょうい
    • ブラウン軍曹ぐんそう
    • デングラー軍曹ぐんそう
    • パーマー軍曹ぐんそう
    • ウィリアムズ軍曹ぐんそう
    • コールハウアー軍曹ぐんそう

実験じっけん目的もくてき方法ほうほう[編集へんしゅう]

実験じっけん手術しゅじゅつ目的もくてきは、おもつぎのようなものであった。

  • 不足ふそくする代用だいよう血液けつえき開発かいはつのための実験じっけん
  • 結核けっかく治療ちりょうほう確立かくりつのための実験じっけん
  • 人間にんげん生存せいぞんかんする探求たんきゅう
  • あたらしい手術しゅじゅつ方法ほうほう確立かくりつのための実験じっけん

手術しゅじゅつ方法ほうほうは、おもつぎのとおりであった。

  • 血管けっかんうすめた海水かいすい注入ちゅうにゅうする実験じっけん
  • はい切除せつじょ実験じっけん
  • 心臓しんぞう停止ていし実験じっけん
  • そののう肝臓かんぞうなどの臓器ぞうきとう切除せつじょ実験じっけん
  • どれだけ出血しゅっけつすれば人間にんげんぬかをるための実験じっけん

関係かんけいしゃ証言しょうげん記録きろく[編集へんしゅう]

取調とりしらべの調書ちょうしょろく[編集へんしゅう]

わたし手術しゅじゅつ目的もくてきについて、捕虜ほりょはいから銃弾じゅうだんのぞくためといていました。ところがはい全体ぜんたいられました。捕虜ほりょみぎはいのぞくと、大量たいりょう出血しゅっけつはじまり捕虜ほりょは10ふん死亡しぼうしました。
GHQ取調とりしらべかん:なぜはい切除せつじょしたのか?

石山いしやま先生せんせい手術しゅじゅつねらいはあたらしい手術しゅじゅつ方法ほうほうためすことだったとおもいます。 — 鳥巣とりす太郎助たろすけ教授きょうじゅ

捕虜ほりょうで海水かいすいが500ccほど注入ちゅうにゅうされました。このとき捕虜ほりょはまだきていましたが10ふんほどして捕虜ほりょにました。
GHQ取調とりしらべかん:その手術しゅじゅつ必要ひつようだったのですか?

この手術しゅじゅつはどれだけ出血しゅっけつすれば人間にんげんぬかをるためのものだったので必要ひつようなかったとおもいます。 — 筒井つついシズ子しずこ看護かんご婦長ふちょう
先生せんせい反対はんたいするなんてことはかんがえられません。わたしたち大学だいがくめたあとも一生いっしょう医者いしゃとして石山いしやま先生せんせいとの関係かんけいつづくのです。また当時とうじぐんがやることにくちはさむことなんて出来できませんでした。 — 平尾ひらお健一けんいち助教授じょきょうじゅ

GHQ取調とりしらべかん手術しゅじゅつぐん命令めいれいおこなったのですか?
その質問しつもんにはこたえられません。
GHQ取調とりしらべかん:あなたが実験じっけん手術しゅじゅつをしようとめたんじゃないですか?
手術しゅじゅつ実験じっけんてき手術しゅじゅつではないのでその質問しつもんにはこたえられません、わたしおこなった手術しゅじゅつのすべては捕虜ほりょいのちすくためだったと理解りかいしていただきたい。
GHQ取調とりしらべかんわたしたち手術しゅじゅつがなぜおこなわれたのかすべてっています。

あなたはわたしからありもしないこたえをききだそうとしている。 — 石山いしやま福二ふくじろう教授きょうじゅ

戦後せんご手記しゅき回想かいそうろく[編集へんしゅう]

日本にっぽん国土こくど無差別むさべつ爆撃ばくげき無辜むこ市民しみん殺害さつがいした敵国てきこく軍人ぐんじんころされるのは当然とうぜんだとおもった。ましてたった一人ひとりせがれレイテ島れいてとううしなったわたしにすれば、それが戦争せんそうであり自然しぜんのなりゆきだとしんじていた。 — 平光ひらみつわれいち教授きょうじゅ当時とうじ解剖かいぼう実習じっしゅうしつ管理かんりしゃ)の手記しゅきより
そのころの日本人にっぽんじん激高げっこうしんをアメリカにたいしてっていた。もちろん医者いしゃ人命じんめいにかかわる人体じんたい実験じっけんをしたことはわるいが、そこを間違まちがわせるのが戦争せんそうであり、いかに戦争せんそうというものが人命じんめいあずかる人間にんげんでもここまでくるったというか、そういうことが二度にどとあってはならないが、戦争せんそう時代じだいにあったという事実じじつぐんいとったからとやったといういいわけはもう今後こんご二度にど出来できない。 — 東野とうの利夫としお医学いがくせいとして解剖かいぼうったと証言しょうげん)の談話だんわ

事件じけん問題もんだいせい[編集へんしゅう]

当時とうじ法理ほうりろんおよび倫理りんりてきほん事件じけん問題もんだいとされたのは

  • 捕獲ほかくしたばくげき搭乗とうじょういんへの戦犯せんぱん[よう曖昧あいまい回避かいひ]規定きてい日本にっぽんがわ軍法ぐんぽう会議かいぎ判決はんけつずにおこなわれたこと。
  • 実験じっけん内容ないよう被験者ひけんしゃたい回復かいふく可能かのうせいへの考慮こうりょきわめてひく水準すいじゅんのものであったこと。
  • 死亡しぼういたった被験者ひけんしゃ埋葬まいそうおこたったこと。

などがげられ、実際じっさい上記じょうき内容ないようについてGHQがわより起訴きそけている。

九州きゅうしゅう帝国ていこく大学だいがく組織そしきてき関与かんよについて[編集へんしゅう]

大学だいがく事件じけん発覚はっかくした直後ちょくごに、組織そしきてき関与かんよ否定ひていしている[13]べいぐんがわにおいても(軍事ぐんじ法廷ほうていでのフォン・バーゲン主任しゅにん検事けんじによる最終さいしゅう論告ろんこくにおいて)九州大学きゅうしゅうだいがく組織そしきてき関与かんよについては明確めいかく否定ひていしている。この事件じけんについてノンフィクション作家さっか上坂かみさか冬子ふゆこは、いわば九州大学きゅうしゅうだいがく現場げんばとしてこった「いちにぎりの個人こじんのアイデアにもとづく行動こうどう」とえる性格せいかくのものとしている[ちゅう 2]。もし組織そしきてき関与かんよがあったならば当時とうじにおいて学部がくぶちょう総長そうちょう[ちゅう 3]責任せきにんわれてしかるべきであるが、GHQから嫌疑けんぎをかけられておらず、起訴きそもされていない。軍人ぐんじん5めい肝臓かんぞう試食ししょくしたとする容疑ようぎについては、GHQ捜査そうさかんによるまったくのでっちで、当時とうじにおいても死刑しけい求刑きゅうけい11にち被疑ひぎしゃ全員ぜんいんがGHQによって無罪むざい放免ほうめんにされていると上坂かみさか著書ちょしょべている[14]

このように、この事件じけん大学だいがく組織そしきとは無関係むかんけい出来事できごとであったとはえない。学内がくないおよびOBによって関心かんしんけられる機会きかいすくなく、近年きんねんまで話題わだいのぼることはあまりなかった。しかしながら今日きょう九州大学きゅうしゅうだいがくはたとえほん事件じけんたい直接的ちょくせつてきかかわりはないとしても、過去かこ歴史れきしじょう事件じけんたいする医療いりょう倫理りんりおよび医学いがくてき関心かんしんから、医療いりょうしゃとして真摯しんし姿勢しせい姿勢しせいしめしている。2008ねん11月29にちには九州大学きゅうしゅうだいがく医学部いがくぶひゃくねん講堂こうどうにおいて日本生命にほんせいめい倫理りんり学会がっかいだい20かい年次ねんじ大会たいかい開催かいさいされ、医学いがくせいとして解剖かいぼうったと証言しょうげんする東野とうの利夫としおにより特別とくべつ講演こうえん「いわゆる『九大きゅうだい生体せいたい解剖かいぼう事件じけん』の真相しんそう歴史れきしてき教訓きょうくん」がおこなわれた[15]

また、2015ねん4がつ4にち開館かいかんした九州大きゅうしゅうだい医学部いがくぶ医学いがく歴史れきしかんでは解剖かいぼう事件じけん解説かいせつする説明せつめいパネルが設置せっちされている[16]。なお、東野とうの利夫としおみずか収集しゅうしゅうした事件じけん関係かんけい資料しりょう展示てんじもとめたが、れられなかったという[17]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ だい313爆撃ばくげきだんだい504爆撃ばくげきぐんだい393中隊ちゅうたい所属しょぞくとも。また境田さかいだ,高木たかぎ 2014, p. 311では「だい19爆撃ばくげきぐん英語えいごばん」とあるが誤植ごしょくおもわれる
  2. ^ 上坂かみさか冬子ふゆこ生体せいたい解剖かいぼう---九州大学きゅうしゅうだいがく医学部いがくぶ事件じけん』(中公ちゅうこう文書ぶんしょ)の230-1ぺーじにおいて上坂かみさか大学だいがく組織そしきてき関与かんよがないと判断はんだんした理由りゆう
    1. 生体せいたい解剖かいぼう組織そしきてきおこなわれたものであるならば、ぐん大学だいがく総長そうちょうとおして命令めいれいしたはずであるが、これにかんする資料しりょう存在そんざいしない。
    2. まんいち大学だいがく総長そうちょうばして命令めいれい伝達でんたつされたとしても、組織そしきじょう総長そうちょう上申じょうしんして大学だいがくとしての判断はんだんくだされているはずであるが、その証拠しょうこ存在そんざいしない。
    3. 死体したい解剖かいぼう許可きょかくだ責任せきにんしゃ大野おおの医学いがく部長ぶちょうであるが、生体せいたい解剖かいぼう関係かんけいしゃがこの許可きょか申請しんせいした証拠しょうこ存在そんざいしない。
    という、3つの理由りゆうげている。
  3. ^ 当時とうじ九州きゅうしゅう帝国ていこく大学だいがく総長そうちょう百武ももたけはじめわれ海軍かいぐん軍人ぐんじん出身しゅっしんであったが、本件ほんけんかんして起訴きそされていない。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 生体せいたい解剖かいぼう事件じけん戦犯せんぱんとなった医師いしい 親類しんるい企画きかく、ドラマ”. 西日本にしにほん新聞しんぶん. 2023ねん3がつ28にち閲覧えつらん
  2. ^ 熊野くまの以素『九州大学きゅうしゅうだいがく生体せいたい解剖かいぼう事件じけんななねん真実しんじつ岩波書店いわなみしょてん、71ページ、2015ねん
  3. ^ a b c d 境田さかいだ,高木たかぎ 2014, p. 311.
  4. ^ 上坂かみさか冬子ふゆこ生体せいたい解剖かいぼう 九州大学きゅうしゅうだいがく医学部いがくぶ事件じけん』1982ねん、34ぺーじ
  5. ^ “「紫電しでんあらため」の悲劇ひげきかた残骸ざんがい B29と交戦こうせん墜落ついらくきゅう日本にっぽん軍機ぐんき ガラスへんなど50てん発見はっけん. 西日本新聞社にしにっぽんしんぶんしゃ. (2018ねん1がつ6にち). https://www.nishinippon.co.jp/item/n/469484/ 2020ねん9がつ8にち閲覧えつらん 
  6. ^ a b c d 藤井ふじい 2012, p. 51.
  7. ^ 境田さかいだ,高木たかぎ 2014, p. 313.
  8. ^ 境田さかいだ,高木たかぎ 2014, p. 315.
  9. ^ 境田さかいだ,高木たかぎ 2014, p. 316.
  10. ^ a b 本土ほんど空襲くうしゅう墜落ついらくまい軍機ぐんき捕虜ほりょ飛行ひこう 西部せいぶぐん管区かんく”. POW研究けんきゅうかい. 2020ねん8がつ25にち閲覧えつらん
  11. ^ 目撃もくげき医師いし狂気きょうきつたえたい」=戦後せんご70ねん資料しりょうてんまい捕虜ほりょ生体せいたい解剖かいぼう事件じけん福岡ふくおか - 時事通信社じじつうしんしゃ
  12. ^ 東野とうの利夫としおだん当時とうじ19さい
  13. ^ 基礎きそ臨床りんしょう委員いいんかい(KRI)」(昭和しょうわ21ねん7がつ16にち)での会合かいごうでの発言はつげん
  14. ^ 上坂かみさか(1982)、147ぺーじ
  15. ^ 日本生命にほんせいめい倫理りんり学会がっかい. “日本生命にほんせいめい倫理りんり学会がっかいだい20かい年次ねんじ大会たいかいトップページ”. 日本生命にほんせいめい倫理りんり学会がっかいだい20かい年次ねんじ大会たいかいホームページ. 九州大学きゅうしゅうだいがく大学院だいがくいん医学いがく研究けんきゅういん臨床りんしょう薬理やくり学内がくない日本生命にほんせいめい倫理りんり学会がっかいだい20かい年次ねんじ大会たいかい事務じむきょく. 2010ねん5がつ11にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2023ねん12月7にち閲覧えつらん
  16. ^ 共同通信社きょうどうつうしんしゃ (2015ねん4がつ4にち). “べい捕虜ほりょ生体せいたい解剖かいぼう言及げんきゅう福岡ふくおか 九大きゅうだい医学部いがくぶ歴史れきしかん”. 47NEWS. 2015ねん7がつ15にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2015ねん7がつ18にち閲覧えつらん
  17. ^ 大村おおむらあゆみ米兵べいへい生体せいたい解剖かいぼう やききつく記憶きおく」『東京とうきょう新聞しんぶん』2018ねん1がつ21にちづけ朝刊ちょうかん、11はん、24めん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]