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交楽りゅうだん

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交楽 りゅうだん(まずら りゅうだん、1935ねん昭和しょうわ10ねん6月5にち - 2007ねん平成へいせい19ねん12月27にち)は、日本にっぽん画家がか書家しょか歌手かしゅ東京とうきょう出身しゅっしん越智おち松平まつへいだい12だい当主とうしゅ美作みさく浜田はまだかい顧問こもん日本にっぽんうらな連盟れんめい総裁そうさい宮崎みやざきインターネットだい学校がっこう名誉めいよ教授きょうじゅ、NPO法人ほうじん日本にっぽん少子化しょうしか対策たいさく協議きょうぎかい総裁そうさい総合そうごう藝術げいじゅつ文化ぶんか財団ざいだん最高さいこう顧問こもんなどの肩書かたがきがあった。交楽 りゅうだんとも表記ひょうきする。本名ほんみょう松平まつだいら たけりゅう(まつだいら ぶりゅう)。別名べつめい松平まつだいら りゅうもん(まつだいら りゅうもん)。

生涯しょうがい

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1935ねん昭和しょうわ10ねん6月5にち画家がか松島まつしま正幸まさゆき松平まつだいら鈴子すずこ越智おち松平まつへいだい9だい当主とうしゅ松平まつだいらたけおさむ(たけなが)[1]長女ちょうじょ)の長男ちょうなんとしてまれる。まれたとき姓名せいめい松島まつしまただしすすむ関西学院大学かんせいがくいんだいがく文学部ぶんがくぶ美学びがく卒業そつぎょう関西学院大学かんせいがくいんだいがく大学院だいがくいん哲学てつがく中退ちゅうたい父母ちちはは離婚りこんにより母方ははかたせきはいり、母方ははかた叔父おじ松平まつだいらよしおさむ(よしなが)の養子ようしはいってだい12だい当主とうしゅとなる。

高円寺こうえんじのアパートで無名むめい画家がかとして貧乏びんぼう生活せいかつおくっていた当時とうじ、1965ねん12月31にち、ふとおもってとき総理そうり大臣だいじん佐藤さとう栄作えいさく電話でんわをすると、おもいがけず佐藤さとうから「どうぞおいでください」と招待しょうたいされ、これをに、3月13にち佐藤さとう誕生たんじょうにはかならまねかれるようになった[2]佐藤さとう列席れっせきひとに「おれにも、こういう友人ゆうじんがいるんだ」と自慢じまんしていたという[2]佐藤さとう曾祖父そうそふ佐藤さとう信寛のぶひろ初代しょだい浜田はまだ県令けんれいつとめており、佐藤さとう浜田はまだ松平まつへい因縁いんねんがあったことはのち判明はんめいする[2]1967ねん昭和しょうわ42ねん)に森田もりた富弥とみや次女じじょ耀子ようこ結婚けっこんし、結婚式けっこんしき佐藤さとう栄作えいさく肝煎きもいりで盛大せいだい挙行きょこうされた。仲人なこうど升田ますだ幸三こうぞう披露宴ひろうえん司会しかいしゃ高島たかしま忠夫ただお列席れっせきしゃ初代しょだい林家はやしや三平さんぺい初代しょだいかつらしょう金治きんじなどであった[2]

1960年代ねんだい後半こうはんからモヒカンサイケデリック前衛ぜんえい画家がかとして話題わだいになり、新宿しんじゅくちゃみず銀座ぎんざ個展こてんひらき、はやしたけしから「交楽くん独立どくりつ会員かいいんである二人ふたり画家がか両親りょうしんとしてせいとおるけた。性格せいかくてきにもかれ両親りょうしんのよいところとおるけた精鋭せいえいである。芸術げいじゅつてきにもかれうちにはすで濃厚のうこうに、才能さいのう用意よういされているとおもわれる」と推薦すいせんされた[2]当時とうじ遠藤えんどう周作しゅうさくエッセイ現代げんだいかい人物じんぶつ狐狸こりあん閑話かんわまき』(桃源とうげんしゃ、1967ねん)に登場とうじょう(「異色いしょく画家がか・交楽りゅうだん」)。1968ねん昭和しょうわ43ねん)、浅草あさくさでハプニング・ショー『子宮しきゅう人間にんげんさい』を演出えんしゅつ。パフォーマーとしてはテレビドラマ『ザ・ガードマン』などにも出演しゅつえんした。

しかし、サイケブームの退潮たいちょうとも過去かこひととなり[2]1975ねん昭和しょうわ50ねんごろ乱脈らんみゃく女性じょせい問題もんだい原因げんいん離婚りこんした。以後いごみずからのファンの歯科しか夫人ふじんやビルオーナー令嬢れいじょう援助えんじょけるとともに、おでん女将おかみなどの愛人あいじんのもとをわたあるいてヒモ生活せいかつおくる。中嶋なかじま繁雄しげおによると、1979ねんごろ、交楽は東村山ひがしむらやま都営とえい住宅じゅうたくの3かい住所じゅうしょさだめていたが、そこにんでいたのはつま2人ふたりむすめだけでみずからは東村山ひがしむらやまえき近辺きんぺんべついえははらしていたという[2]。1970年代ねんだいには前衛ぜんえい志向しこうからだっし、「交楽りゅうだん」のなかで「自分じぶん子供こども時代じだいわすれてしまっている、このカタワモノのぼくをなんとかしてもと人間にんげんにもどしたい」と決意けつい表明ひょうめいする[2]。1978ねんごろには独立どくりつてんに「サムライ日本にっぽん」が入賞にゅうしょうし、湯河原ゆがわら厚生こうせい年金ねんきん会館かいかんに「春夏秋冬しゅんかしゅうとう」とだいする壁画へきが制作せいさくした[2]

1985ねん昭和しょうわ60ねんごろ耀子ようこ復縁ふくえんし、さい入籍にゅうせきする。1999ねん平成へいせい11ねん)にちちくすと、東京とうきょう中野なかの鷺宮わしのみや亡父ぼうふ自宅じたくを1おくえん売却ばいきゃくしたが、その半分はんぶんちち愛人あいじんわたし、のこりの5000まんえん中国ちゅうごく学校がっこう建設けんせつする事業じぎょうのために寄付きふした。

晩年ばんねん千葉ちばけん船橋ふなばしの3DKの公団こうだん住宅じゅうたく居住きょじゅうした。2006ねん平成へいせい18ねん)にふたた離婚りこんし、同年どうねん6がつにはさけんで早朝そうちょう5ちかくの県道けんどうはしくるま自殺じさつ未遂みすいこし、生活せいかつ保護ほごけて独居どっきょ生活せいかつおくっていることをほうじられた[3]

映画えいが出演しゅつえんさくに『ゆき』(1976ねん)。日本にっぽん舞踊ぶようとしては歌舞伎座かぶきざ新橋しんばし演舞えんぶじょう東京とうきょう宝塚劇場たからづかげきじょう出演しゅつえん歌手かしゅとしてはよみうりホール国立こくりつ劇場げきじょう国技こくぎかん青山あおやま劇場げきじょう出演しゅつえんした。

ディスコグラフィ

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  • 「マズラ・リューダンとばこ自主じしゅばん」(サンコウ教育きょういく出版しゅっぱん
  • 「ボケ・ボケ」
  • 鉄格子てつごうし哀歌あいか(オムニバス)」(シーティーエー、1981ねん
  • むねのつりがね
  • 「まんずらぶし
  • 「きっといいが…」(マズラリューダン名義めいぎ、7LPR-252A)

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 徳川とくがわ斉昭なりあきじゅうなん石見いわみ浜田はまだはんあるじ松平まつだいらたけさとし廃藩置県はいはんちけんて、1884ねん明治めいじ17ねん)の華族かぞくれいにより子爵ししゃくとなる。
  2. ^ a b c d e f g h i 中嶋なかじま繁雄しげお日本にっぽん名門めいもん100いえ』p.158-162
  3. ^ 週刊しゅうかん新潮しんちょう2008ねん1がつ3にち1がつ10日とおか新年しんねん特大とくだいごう